秦氏

June 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 讃岐国一宮の田村神社
    社家田村家は、秦氏と伝える(『さぬき一宮郷土誌』、P34)。弘福寺領山田郡田に関わ る天平宝字 7 年(763)10 月 29 日山田郡弘福寺田内校出田注文・天平宝字年間山田郡司牒案には、山田郡の郡司に 秦公氏、秦氏が見られる。秦氏の本拠地は、香川郡の南海道沿いの中心部であったと考えられる。
    讃岐国の秦氏については、坂出市下川津遺跡出土木簡のほか平城宮・平城京・長岡京木簡などにも記録されて いる。奈良文化財研究所の木簡データベースを「秦 and 讃岐」で検索すると、次のような木簡が知られる。

    【奈良文化財研究所 木簡データベース】

    讃岐国三木郡池辺秦→ 平城宮2-2590(城3-13 平城宮

    讃岐国香川郡里秦廣嶋米五斗八升‖ 木研7-120頁-(16)(平 平城宮

    讃岐国香川郡原里秦公身 平城宮7-11322(木研24 平城宮内裏西南隅外郭

    讃岐国香川郡 秦 大成六月十五日「五卌二六十七十卅二《》七 長岡京 1-91(木研集報 3 長岡京

    香川郡仲津間郷秦福万呂白米五斗 平城宮7-12665(城19-3 平城宮第一次大極殿院西辺

    讃岐国香川郡細郷秦公 平城宮7-12840(木研9- 平城宮第一次大極殿院西辺

    香川郡尺田秦山道白米五斗 長岡京2-858(木研3-28 長岡京

    讃岐国香川郡成会秦公蓑 木研20-33頁-1(42)(城 平城京左京二条二坊十・十一坪二
  • 平安前期には、西讃からは真言宗の空海(774~835。佐伯氏。多度郡)・実惠(786~847。佐伯氏)・真雅(801~879。空海の弟)・真然(811~891。空海の甥)や、天台宗の円珍(814~891。和気氏、那珂郡)が輩出する。また、 讃岐国内の出身地は不詳だが、真言宗の聖宝(832~909)もいる。

    一方、東讃にも、空海の弟子である香川郡の秦 氏の道昌(798~875)がいる。聖宝の弟子の観賢(853~925)も秦氏なので、香川郡出身の可能性がある。
    高松平野・香東川流域の山田・香川郡には、真言宗以前からの多数の古代寺院がある。次のような寺院跡があ る(丹羽祐一・藤井雄三『古代の高松』、高松市図書館、1988 年。『讃岐の古瓦展』、高松市歴史資料館、1996 年)。
    下司廃寺 山田郡殖田郷。東植田町南下司。弘福寺式瓦・三尊仏塼仏、塔基壇。
    高野廃寺 山田郡三谷郷。川島本町高野。南海道の二町南。礎石。
    前田廃寺 宝寿寺廃寺。山田郡宮所(処))郷。前田東町東畑。塔基壇・礎石。南に前田東・中村遺跡。百済様
    式の瓦。宮所郷には、天平勝宝 4 年、東大寺封戸設定
    山下廃寺 山田郡高松郷。新田町山下。白鳳期末からの瓦。
    拝司廃寺 山田郡拝師郷、林町本村。東100m にヒチクドーの土壇(今ナシ)。
    百相廃寺 香川郡百相郷。仏生山町百相神宮寺、船山神社。田村神社の神宮寺。
    坂田廃寺 香川郡坂田郷。西春日町南山浦。「堂床」周辺の礎石。奈良時代初期以前の金堂製誕生仏。弘福
    寺式瓦。坂田寺瓦窯。綾君氏造營か。
  • 古墳時代が終わった後、瓦を葺いた壮麗な建物が、浄願寺山の東麓に建てられました。そこは、坂田廃寺といわれており、付近からは、金銅誕生釈迦仏立像や、瓦を焼いた窯跡も発見されています。
     

    坂田郷地図
    ところで、石清尾山の南麓は坂田郷といわれていました。その坂田出身の高僧「観賢(853~925)」は秦氏といわれています。

    剃刀塚【弘法大師・観賢ゆかりの史跡】
    観賢は、空海に弘法大師の称号を贈るよう運動を起こした人で、彼によって弘法大師信仰のいしずえが築かれたことは、忘れてはならない事柄でしょう。また、日本霊異記という古い書物には、石清尾山坂田の大富豪綾氏夫婦が、貧者に施しを与えた説話が残されています。秦氏と綾氏はいずれも、讃岐の渡来人としてよく知られており、石清尾山古墳群が造られた山の麓に、数百年後、渡来系の氏族が栄えたと考えられます。
  • 法隆寺につたわる『聖皇曼荼羅図』(1254)には、の中央に太子の母后、その左に膳妃、右に聖徳太子が描かれ、その周囲には聖徳太子に縁のある人物たちで囲まれている。画面の最下部には左に秦河勝、その右に迹見 赤檮(とみ の いちい)、黒駒をひいた調子麻呂の姿が見える。最上段の中央は御廟三尊の真下の左に白鷹が描かれ、それと向き合うように右に守鳥が描かれている。

    『四天王寺の鷹』の著者 谷川健一は、四天王寺に秘められた物部氏と秦氏の謎を鋭い分析を駆使して追求している。本の中で「聖徳太子が白鷹となって守屋の亡霊の啄木鳥を撃退したという伝説は、秦河勝の役割がいつのまにか、聖徳太子に変わっていたと考えられなくもない」と述べている。
  • December 2017 編集されました
    六日市町 三宅神社:波多武日子命・天美明命の二座  
    中潟町  三宅神社:天日桙命  
    妙見町  三宅神社:大彦命

    三宅神社の祭神が記載された最古の記録は、
     
    「神祇宝典」1646年(正保3年)の          
    ◯古志郡  三宅神社二座                 
     三宅氏祖神、天之日鉾命、同妻阿加流姫神 也、
    事見 于但馬国出石社之下

    古事記に三宅ノ連等之祖名多遅摩毛理云々、姓氏録に三宅ノ連ハ新羅ノ国ノ王子天日桙命之後也と見えてることから、三宅氏祖神として六国史等の記録を中心に天之日鉾命、同妻阿加流姫神を比定したのではないだろうか。  現在の出石神社の社伝には上記の内容を伺わせる記述は見当たらない
  • 京都市西郊の葛野に秦氏の首長(秦造)秦河勝が居た。
     『日本書紀』欽明天皇即位前紀に
     「秦人の戸の数、すべて7,053戸、大蔵掾(おおくらのふびと)を以て、秦伴造と為す」とある。
     「大蔵」は、ヤマト王権の官物を収蔵する倉庫及び役所で、令制下の大蔵省の前身である。
     深草秦氏の大津父(おおつち)が記され、巨椋(おぐら)や伏見の秦氏はつまり桂川左岸の京都市伏見区深草の秦氏であったようだ。深草には深草屯倉も置かれてい
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