仏教伝来と神仏習合 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
仏教伝来と神仏習合 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

朝鮮半島の仏教伝来
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に頼るしかない。
古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどな…

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  • June 2017 編集されました
    高句麗・百済に仏法を初伝した僧

    『三国史記』の記事
     (1)(小獣林王二年=三七二)夏六月、秦王符堅、使を遣わす。及び浮屠(僧侶)順道、仏像・経文を送る。王、使を遣わし、廻謝し、以て方物を貢す。
     (2)(同四年=三七四)僧、阿道来る。
     (3)(同五年=三七五)二月、始めて肖門寺を創め、以て順道を置く。又、伊弗蘭寺を創め、以て阿道を置く。此れ、海東仏法の始め。(高句麗本紀、第六)
     (4)(沈流王元年=三八四)九月、胡僧、摩羅難陀、晋より至る。王、之を迎え、宮内に致し、礼敬す。仏法、此に始まる。
     (5)( 同 二年=三八五)春二月、仏寺を漢山に創め、僧十人を度す。(百済本紀、第二)

     高句麗では順道・阿道、二人の僧を得て、寺院を建立寄進したことを以て、海東仏法の始めとされています。これは公伝のことでしょう。

    『三国遺事』は「我道本碑」を引用し三世紀の朝鮮半島へ、我道による私伝を伝えています。

     按ずるに、『我道本碑』に云う。我道は高麗の人なり。母は高道寧。正始の間(二四〇~二四九年)。曹魏の人。我、姓我なり。崛摩、使を句麗に奉ず。之を私して還る。因りて娠有り。師生れて五歳。其の母、出家せしむ。年十六にして魏に帰し、省して崛摩を覲る。玄彰和尚の講下に投じ、業に就く。年十九。又、母に帰寧す。母謂いて曰く。「此の国、今に仏法を知らず~」・・・。(『三国遺事」巻二、「阿道基羅」)
  • June 2017 編集されました
    中国の史書『隋書』イ妥国伝国外史料
      イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

    「新羅・百済はみな俀(大倭国)を以って大国にして・・・これを敬い仰いだ(『隋書』俀国伝)」

    文字無し。唯、刻木結縄するのみ。仏法を敬す。百済に於て仏経を求得し、始めて文字有り。

    仏教初伝記事というよりも、倭国における文字(漢字)の歴史を記したものですが、その時期と経緯の説朗として百済よりの仏教(この場合、経典)伝来と同時期であることを例証として示されています。

    イ妥国における「冠」の制定の始まりを次のように記しています。

     隋に至り、其の王始めて冠を制す。錦綵を以て之を為り、金銀を以て花を鏤め飾りと為す。

    隋代に至ってようやく倭国が漢字の国内公用を開始したとするには、日本列島の考古学的遺物の状況からしても遅すぎます。『日本書紀』に記された欽明期の伝来よりも遅れることになる。
  • June 2017 編集されました
    文字の使用ーーー大江匡房『筥埼宮記』の証言

    出典:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html

    わが国における「結縄」を記す史料に『朝野群載』所収の「筥埼宮記」があります。大江匡房(1041~)により記された「筥埼宮記」に次の記事が見えます。

    我朝で始めて文字を書き、結縄の政に代えること、即ち此の廟に於て創まる。(「筥埼宮記」・『朝野群載』国史大系所収)

    匡房は「筥埼宮記」において、筥埼宮は八幡大菩薩の別宮であり、その本体は応神天皇と記しています。そしてこの記事へと続くのですが、文字使用がこの廟において創まったという内容は注目されます。


    天皇家の官僚である大江匡房により書きとどめられた点は重要です。筑前当地にそのような伝承が実在したこと、その証拠と言えるからです。

    結縄による政治から文字使用に代わった出発地点とされたこの廟とは誰の廟でしょうか。「筥埼宮記」後段に次の記事が見えます。

    仲哀天皇、即ち是れ大菩薩の考の廟也。

    匡房は筥埼宮を大菩薩(応神)の考(父の意)、仲哀天皇の廟と考えている

    「結縄の政」の語句などは『古事記』や『日本書紀』には見えぬものであり、やはり北部九州の現地仏承と思われます。平安後期の歌人・漢学者であった大江匡房は大宰権帥も務めており、筑前筥埼宮についての知見も得やすかったようです。

    ーーー略

     それでは応神天皇の時代とはいつのことでしょうか。皇暦では三世紀末から四世紀初めとされていますが、『日本書紀』応神天皇十五年に、百済の学者阿直岐が来朝して、時の太子菟道稚郎子に学問を講じ、さらに太子の要請により、その翌年の二月、博士王仁が招かれて来朝した記事が見えます。そして、王仁来朝の歳(応神元年は庚寅なので、同十六年は乙巳に当たります)に、百済の阿辛*王(『日本書紀』は阿花王とする)が死亡したと記されています。『三国史記』は阿辛*王の死亡を四〇五乙巳年としており、『日本書紀』の死亡記事の年と干支が一致しますから、応神朝の実年代は四〇五年前後と考えられるのです。辛*は草冠編に辛。JIS第3水準ユニコード8398
  • June 2017 編集されました
    通念となっていた仏教伝来の年次は、欽明十三年(五五二)壬申。
    『日本書紀』欽明紀に記された、百済聖明王からの釈迦像や経典の伝播を仏教の初伝と見なす。

      冬十月、百済の聖明王[更の名は聖王]西部姫氏達率怒利斯致契等を遣わし、釈迦佛の金銅像一躰、幡蓋若干、経論若十巻を献る。  (『日本書紀』欽明十三年条)
              ※[ ]内は細注。以下同じ。

    近年では『日本書紀』よりも遅れて成立した『元興寺伽藍縁起』や『上宮聖徳法王帝説』に見える欽明七年戊午(五三八)が定説の位置を占めるようになりました。学校などで「仏教伝来して御参拝(五三八)」という語呂合わせで覚えた、現代の「教科書定説」です。

    大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度り来たるより創まれり。  (『元興寺伽藍縁起』)

    志癸嶋天皇の御世に、戊午の年の十月十二日に、百済国の主明王、始めて佛の像経教并びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興し隆えしむ。  (『上宮聖徳法王帝説』)

    『日本書紀』によれば欽明期(五四〇~五七一)には戊午の年は存在しないのです。この時期の戊午の年は宣化天皇三年(五三八)にあたり、欽明天皇の在位期間ではありません。


    百済側の状況を見ると、王は聖明王でかわりはないが、538年は熊津から更に新しい都の泗沘(現在の扶余)に遷都した同年である。泗沘にはその後、多くの寺院が建立され、百済における仏教興隆の最盛期を迎えようとした時期である。この時期に、百済の聖明王が日本に仏像と経論を贈ったことは、十分考えられる。

    しかし、日本書紀が記載する552年の仏教伝来の年は、百済の大危機の年になる。まず5月に百済、加羅、安羅から使いがきて、高句麗が新羅と結び、任那が攻略の危機を告げて、救援を要請し、この年の10月に百済の聖明王から仏像、経論が贈られてきた。そしてこの年、百済は、漢城と平壌を新羅に占領された。
  • 五世紀初頭の仏教伝来をうかがわせる記事

    『日本書紀』推古紀三十二年四月条に、僧侶の犯罪(祖父殺し)を罰する詔が出され、それに対して百済僧観勒の上表がなされた記事がそれです。その上表文前半に問題の仏教東漸に関する概略が記されています。

    夫れ仏法、西国(インド)より漢に至りて、三百歳を経て、乃ち傳へて百済國に至りて僅かに一百年になりぬ。然るに我が王(百済国王)、日本の天皇の賢哲を聞きて、仏像及び内典を貢上りて、未だ百歳にだも満らず。(『日本書紀』推古三二年条)

     推古天皇はこの観勒の奏請をいれて、非行の僧侶を罰せず、僧尼の統制機関として僧正・僧都の制度を作り、僧尼を検校させることとしました。
    そして、観勒を僧正に、鞍部徳積を僧都に、阿曇連(名を闕もらせり ーー書紀細注)を法頭に任命した記事へと続きます。


    中国への仏教公伝記事の初出は『後漢書』永平十年(六七)に見え、百済への仏教公伝は枕流王元年(三八四)と「三国史記」は伝えています。
    しかし、これに続く「百済國に充りて僅かに一百年になりぬ。」という記事が、推古三十二年(六二四)当時では枕流王元年(三八四)から二百四十年後となり、計算があわない。

    上表文に記された観勒の仏教東漸認識は次の通りです。

     (1) インドから中国へ仏教が伝来して三百年を経て、百済へ伝来。
     (2) 百済に仏教が伝来して僅か百年。
     (3) 日本国に百済から仏像・経典が伝来して百年未満。

     (1) は『後漢書」、『三国史記』の記事に矛盾しない。(2)は推古朝時代の記事としてはまったく対応しません。また、百済に伝来後百年して日本に伝わったと理解しても、『日本書紀』の欽明朝伝来記事と五十年以上あいません。しかし、(3)だけは妥当となります。このように推古三十二年条の記事は大きな矛盾をはらんでおり、現代の学者をも悩ませているようです。
  • June 2017 編集されました
    糸島郡『雷山縁起』の証言

     『筑前双書』に「雷山縁起」という文書が収録されています。同縁起の表題には「雷山高祖縁起」とあり、「高祖」の下に「ナシ」と加筆されているところから、本来は「雷山縁起」と「高祖縁起」の両方が存在していたようです。

    その内容は「雷山縁起」「附録」「雷山千如寺法系霊簿」の三つからなり、「雷山縁起」は雷山にある上宮・中宮・下宮の由来などを記し、「雷山千如寺法系霊簿」には千如寺の歴代の住職の名前が記されており、始祖清賀上人以後、のべ百八十七名にも及んでいます。時代にすれば、始祖清賀上人の「成務天皇四十八年来朝、應神天皇十一年庚子示化」から安永八年(一七七九)まで続いているのです。ちなみに「雷山千如寺法系霊簿」の冒頭頭部分は次のように記されています(旧漢字・異体字を一部改めました)。

       雷山千如寺法系霊簿
       始祖法持聖清賀上人   人王十三代成務天皇四十八年来朝
                       應神天皇十一庚子七月十五日示化
    清辮上人 仁徳天皇御宇       圓賀上人 仁徳天皇御字
    明辮上人 履仲天皇御宇       明遍上人 允恭天皇御宇
    遍照上人 安康天皇御宇       圓明上人 雄畧天皇御宇
    禅賀上人 雄畧帝代          行賀上人 清寧天皇御宇
    覺賀上人 仁賢天皇御宇       圓瑜上人 武烈天皇御宇
    圓融上人 繼躰天皇御宇       圓濟上人 同
    仁済上人 宣化天皇御宇       恵濟上人 欽明天皇御字
    恵観上人 同              恵達上人 敏達天皇御宇
    智達上人 用明天皇御宇       恵到上人 推古天皇御宇
    到岸上人 同              圓盛上人 同
    叡意上人 舒明天皇御宇       叡詮上人 大化年中
    敬天上人 斉明天皇御宇       光天上人 天智天皇御字
    含曦上人 同              恵観上人 白鳳年中
    観淳上人 朱鳥年中常山縁起撰録 行忠上人 文武天皇御字
    行恵上人 大宝年中          圓祐 和銅元年二月三日 一字虫喰
    (以下、略)


    清賀や雷山千如寺伝承は、『太宰管内志』にも少なからず紹介されています。例えば同書に引用されている「雷山詔書」に次の記事が見えます。

    筑前國雷山千如寺僧等解状稱、當山者、水火雷電神之開山、神功皇后宮之御願也。 (略) 法持上人開發 (略) 建長七年三月十九日 参議忠棟源大納言殿。(『太宰管内志』筑前之三〕

    建長七年(一二五五)の事件を記した中に、清賀が神功皇后の勅願により建立したことがふれられており、伝承の存在が鎌倉時代までさかのぼれることがわかる。
  • 仁徳天皇の時代

     わが国に仏法をもたらした清賀は地元福岡市や糸島郡では「油山伝説」とともに有名のようです。また、糸島郡には清賀が建立したとされるお寺があります。『糸島郡誌』によると、雷山千如寺を含め、次の寺院(現存しないものもあります)が清賀建立伝説とされています。
    所在地は『糸島郡誌』(昭和二年発行時)に記された地名表記のままとしました。

    ○雷山千如寺    雷山村雷山 
    ○浮岳久安寺    福吉村吉井
    〇一貴山夷巍寺   一貴山村一貴山
    ○大用山小蔵寺   長糸村小蔵
    ○染井山霊鷲寺   怡土村大門 
    ○鉢伏山金剛寺   今宿村上原
    ○種寶山楠田寺   加布里村東

     これら七ケ寺は「恰土郡七ケ寺」と呼ばれています。雷山干如寺は七ケ寺の筆頭とされ、現在でも大悲王院文書など貴重な文化財が伝わっています。七ケ寺以外にも次の寺院が清賀建立と記されています。

     ○塔原寺        一貴山村唐原
     ○朝日山遍照院     周船寺村
     ○萬歳山光明寺     北崎村小田
     ○不知火山瑠璃光寺   可也村火山   (以上、『糸島郡誌』による)
     ○東油山正覚寺     福岡市東油山  (『日本寺社大観』による)
    出典は
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
  • June 2017 編集されました
    雷神社(いかづちじんじゃ)

    福岡県糸島市、標高955メートルの雷山の中腹にある神社。近代社格では県社。雷神宮とも。
    例祭は9月16日。御朱印の有無は不明。

    御祭神は、水火雷電神(すいからいでんしん・瓊々杵尊)を主祭神とし、高祖大神(彦火火出見尊)、香椎大神(息長足姫尊)、住吉三神、八幡神の五神。

    高祖大神は同市内に高祖神社があり、香椎大神は香椎宮からの勧請と思われる。

    社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国からの襲来が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させたという。

    垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建立、敵国降伏の神として尊崇したと伝える。

    また『雷山千如寺縁起』によれば、神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣・宝鏡を供えて、雷山の主神「水火雷電神」に伏敵祈願を行ったとも伝える。

    古来、女人の参拝を許さず、日照りの年には古くから神面祈祷(雨乞いの祈祷)が行われた。神功皇后が武内宿禰を派遣したのもそのためか。

    境内社として、天満宮があり、菅原道真の他、事解男尊、大己貴命、大山祇神、迦具土神も合祀されている。

    雷山の山頂付近には、雷神社の上宮があり、中殿に瓊々杵尊、左殿に天神七代(神世七代)、右殿に地神五代が祀られている。

    【ご利益】
    平穏安寧、敵国降伏、武運長久・勝運
    雷神社(糸島市) - 垂仁天皇が敵国降伏の神として創建、雨乞いの神としても知られる古社

    社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国からの襲来が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させたとの事で、垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建て、『敵国降伏の神』として尊崇されたと伝えています。
    また「雷山千如寺縁起」には、神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣宝鏡を供えて、雷山の主神「水火雷電神」に伏敵祈願を行ったとも記されているとの事です。
  • June 2017 編集されました
    雷神社
    祭神:瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、応神天皇、神功皇后、久奈戸大神、住吉大神
    由緒:霊峰・雷山は福岡県と佐賀県の境にあり、嘗ては全山に308の僧房が栄えた真言密教の道場であったと言われています。雷山は又の名 を曽増岐山ともいわれ、曽増岐神社には上宮、中宮、下宮があり、雷神社はその中宮でした。因みに上宮は今も山頂付近に鎮座し、下宮は笠折大権現(現千如 寺)といい、江戸時代には女性の参詣はここまでしか出来なかったそうです。古来から雨請いの祈祷が盛んに行なわれたところではあったようですが、江戸時代 には黒田藩も雨乞いのために建立したと言われ、創建年代は不詳のようです。

    瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜っています
  • 芬皇寺の創建

    創建は『三国史記』巻5、新羅本紀第5、善徳王3年春正月条に、
       三年春正月、改元仁平。芬皇寺成。
    とあるように、仁平元年(634)に芬皇寺が完成したことが記されている。

     新羅に仏教を伝えた我道が北魏に留学し、19歳の時に帰国して母に再会したところ、母が述べるには、「この国は今に至るも仏法を知らないが、この後三千余月を経れば鶏林に聖王が出て、大いに仏教を興すだろう」として七処伽藍の場所を列挙するが、その内に「四に龍宮の北という。〔今の芬皇寺なり。〕」とある(『海東高僧伝』巻1、釈阿道伝)。この文は『三国遺事』巻3、興法第3、阿道基羅に引用される『我道本碑』も内容が類似するが、「今の芬皇寺なり。」という分註に続けて「善徳甲午(634)始めて開く〕」とある。この分註が『我道本碑』本来の文ではなく、一然の補と思われるが、ともかく皇龍寺をはじめとした新羅王城(慶州)の七大伽藍の一つに数えられていたことが知られる。

     『続高僧伝』巻第24、慈蔵伝によると、慈蔵が貞観17年(643)に唐より帰国した時に王命(善徳王か)により大国統に任命され、「王芬寺」に住まわせたとある。『続高僧伝』では、「王芬寺」について、「寺は即ち王の造るところなり」としていることから、芬皇寺のことであると思われ、『三国遺事』でも「命じて芬皇寺に住ましむ〔唐伝に「王芬」となす〕」とあり、慈蔵が帰国後の住房は芬皇寺であったという認識にたち、『続高僧伝』(「唐伝」は『続高僧伝』のこと。唐代に道宣によって記されたことからいう。唐代の全般的の僧伝という意味ではない)の「王芬寺」は芬皇寺とみて間違いないようである。
  • June 2017 編集されました
    阿道(あどう、生没年不詳)は、朝鮮半島周辺地域に仏教を伝えた4世紀の僧。我道、阿頭、阿度とも呼ばれる。

    阿道
    法名 阿道
    生地 不詳、寺院 伊弗蘭寺

    前秦の順道が高句麗に初めて仏教を伝えた2年後の374年(高句麗小獣林王4年)、東晋の僧である阿道も高句麗にわたり、仏教の布教を行った。

    375年(高句麗小獣林王5年)、小獣林王は肖門寺(省文寺)を創建してそこに順道をおき、また伊弗蘭寺を創建してそこに阿道をおいた。

    阿道の名は
    372年(高句麗小獣林王2年)に東晋から高句麗に仏教を伝えた僧
    381年(小獣林王11年)に江華島の伝燈寺を創建した僧
    418年(新羅訥祇王2年)に直指寺を創建した僧
    529年(百済聖王7年)に仙岩寺を創建した僧
    544年(新羅真興王5年)に大屯寺(大興寺)を創建した僧
    として伝えられている。

    また、528年(新羅法興王14年)に初めて新羅に仏教を伝えた高句麗の墨胡子は、阿道と同一人物であると『三国遺事』は伝えている。372年に高句麗に仏教を伝えた人物と528年に新羅に仏教を伝えた人物が同一とは考えられず、阿道の伝承は混乱している。

  • 高句麗
     夏六月、秦王符堅(しんおうふけん)、使を遣わす。及び浮屠(ふと~僧侶)順道、仏像・経文を送る。王、使を遣わし、廻謝し、以て方物を貢す。(『三国史記』・高句麗本紀、小獣林王二年〈372年〉)


    これの秦王の国は、始皇帝の秦ではなくて、五胡十六国時代にあった前秦(351~394年)というチベット系の国で、首都は晋陽(山西省太原市)ですね。


    二月、始めて肖門寺を創(はじ)め、以て順道(僧の名)を置く。又、伊弗蘭寺を創(はじ)め、以て阿道(僧の名)を置く。此れ、海東仏法の始め。(『三国史記』・高句麗本紀、小獣林王五年〈375年〉)
    これらが高句麗の仏教公伝記事ですね。これとは別に『三国遺事』にはこのような私伝説話があります。


    ¨正始年間(240~249年)に魏の使が高句麗に来た時、現地の女性と懇意になって子供ができました。その子が五歳の時に母は我が子を出家させ、十六歳になった時に父の国である魏に送って修業させました。その子の名は我道(がどう)といい、十九歳になって僧侶として又、高句麗に戻って来ます。その時に母が言うには「この国は今まで仏法を知らないが、これから三千余月後に聖王が出現し、大いに仏教を興すであろう」と。¨
  • こうした朝鮮三国の仏教受容史を見てみると、高句麗と百済には四世紀の末頃にはすでに仏教がある程度浸透していた。
    百済とほぼ同時期に、倭国(筑紫王朝)も仏教を受容していたということになる。
  • June 2017 編集されました
    中国における仏教の伝来は、主に二説。

    その一つは『魏略』(ぎりゃく~『三国志』などの参考にされた史書)において「前漢の末期、元寿元年(紀元前2年)に景盧(けいろ)が大月氏国(だいがっしこく~イラン北東からインド北部にあった国)の使者、伊存(いぞん)から仏教を口授された」という記述があること以って仏教初伝とする説です。


    もう一つの説は、「後漢の明(めい)帝が永平十年(紀元67年)に、インドの迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)を洛陽に迎え、白馬寺(はくばじ)において経典を訳させた」ことに始まるという説ですね。


    しかし実際に中国の人々に仏教が認識され始めるのは、後漢の桓帝(在位146~167年)が中国の皇帝として初めて仏教の信奉者となった辺りからとされているようです。
    そうすると桓帝を経てからそのおよそ二百有余年をへて、やっと日本にも仏教が浸透し始めたということです。ということは、卑弥呼(西暦240年ごろ)の遣使であった難升米たちなら仏教寺院を目の当たりにし、また中国僧を目撃しているか。
  • June 2017 編集されました
    高麗釈一然『三国遺事』巻三「皇龍寺九層塔」条に、安弘の『東都成立記』を引いて云う

    「新 羅第二十七代 女王を主と為し、道有りと雖も威無く、九韓侵労す。若し龍宮の南 皇龍寺に九層 塔を建つれば、則ち隣国の災鎮む可し。第一層日本、第二層中華、第三層呉越、第四層托羅、第五 層鷹游、第六層靺鞨、第七層丹国、第八層女狄、第九層 貊、である

    皇龍寺九層塔の建立の由来は、『三国遺事』巻三 / 塔像第四に見える。
    新羅第二十七善徳王即位五年、貞観十年(636)丙申。慈藏法師西のかた学ぶ。乃ち五台に於い て文珠に感じ法を授けらる。文殊又た云う、汝の国王是れ天竺剎利種王なり。預め佛記を受く。 故に別に因緣有り。......中国大(太)和池の邊を経由するに、忽ち人の出づる有りて問う。胡為 れぞ此に至ると。藏答えて曰く、菩提を求むるの故なりと。神人礼拜す。又た問う、汝の国何 の留難か有ると。藏曰く、我が国北は靺鞨に連なり、南は倭人に接し、麗済二国迭も封陲を犯 す。隣寇縱橫、是れ民の梗と為ると。神人云う、今汝の国 女を以て王と為す。徳有るも威無 し。故に隣国之を謀る。宜しく速かに本国に帰るべしと。藏問う、帰鄉すれば將に何の利益を 為さんとするかと。神曰く、皇龍寺護法龍、是れ吾長子、梵王の命を受け、來りて是の寺を護 る。本国に帰り、九層塔を寺中に成せば、隣国降伏し、九韓來貢し、王祚永く安んぜんと。
    慈藏法師は 636 年(一説に 638 年)に唐に入り法を求め、神人に新羅が隣国の侵略を被ることを訴 えた。「九韓」は、新羅周辺の九つの隣国を指し、慈藏法師が列挙した「靺鞨」、「倭人(日本)」、「麗 (高句麗)」、「済(百済)」は、みな 7 世紀中葉に実際に存在した諸国であり、当時の歴史状況を充分に
    認知したものであることを示している。
  •  真筆本、「法華義疏」
    わが国最古の文献である。紙に書かれた最古の文書であり、墨で記せられた最古の史料である。
    それは永年、法隆寺に秘蔵せられてあったものが、明治十一(一八七八)年、皇室に献上せられ、爾来、御物として今日に至っている。

    高麗本紀に云う。
 
    小獣林王即位二年(三七二)壬申、乃ち東晋の威安二年、孝武帝即位の年なり。前秦の符堅(建元八年)、使及び僧順道を遣わし、仏像・経文を送る。(時に、堅の都は関中。即ち長安なり。)
又四年(三七四、寧康二年か)甲戌、阿道、晋より来る。
明年(三七五)乙亥二月、肖門寺を創め、以て順道を置く。又伊弗蘭寺を創む。以て阿道を置く。此れ、高麗仏法の始めなり。
 僧伝作るに、二道来るに、「魏より」と云うは、誤まれり。実は前秦よりして来る。(下略傍点、古田)〈「三国遺事」、巻三〉

  右によって、高麗への仏教伝来の淵源の地が、北朝に属する「前秦」の都、関中、すなわち長安にあったこと、それがよくうかがわれよう。

 

    また、有名な、我道説話において、次のようにのべられている。


     阿道基羅(一に我道を作る。又阿頭。)
「我道本碑」を按ずるに、云う。「我道は高麗人なり。母は高道寧。正始の間(二四〇~四九)、曹魏の人、我(姓、我なり)崛摩、使を句麗に奉ず。私して還る。因りて娠有り。師生じて五歳、其の母、出家せしむ。年十六。魏に帰し、崛摩を省観す。玄彰和尚の講下に投じ、業に就く。年十九、又母に帰寧す。母謂いて曰く、「此の国、今に仏法を知らず。」と。〈「三国遺事」、巻三〉
  • June 2017 編集されました
    金人

    金色の人の意。仏陀や仏像のこと。『魏書釈老志』には,霍去病 (かっきょへい) が匈奴を討伐したとき,丈余の金人を手に入れ,それを漢の武帝が拝したことが記され,また漢の明帝が金人が庭を飛ぶのを夢に見て,近臣にたずねたところ,仏陀であるとの答えを得て,西域に使者を派遣したこと,また秦の始皇帝が西域の沙門 18人を捕えたところ,その夜金神 (金人に同じ) が現れて牢を破り,沙門らを助けたので,始皇帝が謝罪したことなど,伝説が多い。仏教の中国への伝来の歴史的事実と連関する伝説と考えられている。

    武帝
    王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている

    かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫を派遣し、大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙った。同盟は失敗に終わったものの、張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。

    武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。更に李広利に命じて、大宛(現/中央アジアのフェルガナ地方)を征服し、汗血馬を獲得した。また南越国に遠征し、郡県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする漢四郡を朝鮮に置いた。

    長い間に皇太子の座は空白だったが、晩年に至り末子の劉弗陵(後の昭帝)を皇太子とし、霍光・金日磾・上官桀の三人に後を託し、直後に死去した。

    金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、字は翁叔で、前漢の匈奴系の政治家である。匈奴の休屠王の太子である。漢の武帝により金姓を授けられた。

    紀元前121年春、驃騎将軍の霍去病は1万騎を率いて、匈奴討伐に出征した。戦いは連戦連勝であった。河西地域にいた休屠王と渾邪王の部族と戦い、休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像を手に入れた。同年秋、休屠王と渾邪王は漢に投降することを画策し漢にその旨を伝えた。そのため漢は霍去病を彼らの迎えに派遣した。しかし休屠王はのちになって投降をためらったので、渾邪王は休屠王を殺した。渾邪王は4万人の匈奴と休屠王の太子を率いて投降した。武帝は渾邪王を列侯に封じた。14歳の休屠王の太子(日磾)とその家族は官奴とされ、太子は馬番をするようになったが、武帝は身長が8尺2寸という、立派な風格と威厳ある容貌を見初め、馬監とした。日磾は大変聡明な人で、次に侍中駙馬都尉、光禄大夫となった。次第に信頼を得て、武帝の近侍臣にまでなった。

    彼は休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像(金人)にちなんで、武帝から金という姓を賜った。

    金日磾の2人の子供は武帝の寵童となったが、成長するに従い、武帝の頭を抱えるような狼藉を働くようになり、長男は宮廷の女官をたぶらかすようになったので、金日磾は彼を殺した。当初武帝はそれを怒ったが、金日磾と話し、誠実で忠義な人柄を改めて知った武帝は、罪に問うことはなく、ますます信頼するようになった。

    金日磾は、自分が漢人ではなく匈奴であったこともあって慎み深く、あくまで慎重だった。紀元前87年に武帝は崩御した。武帝は病床に霍光、金日磾、上官桀の3人を呼び寄せ、昭帝を補佐するよう後事を託した。霍光は当初、金日磾に昭帝補佐の地位を譲ろうとした。
    これに対して金日磾は、「私は外国人です。そんなことをすれば漢は匈奴に軽んじられます。」といって拒否し、霍光の補佐となった。霍光は大司馬大将軍、金日磾は車騎将軍、上官桀は左将軍となった。

    しかし金日磾は、昭帝が即位して1年あまり後の、紀元前86年9月に没した。死ぬ直前の病の床で列侯(秺侯)に封じられた。死後に敬侯と諡され、武帝の墳墓である茂陵の近くに埋葬された。

    列侯は子の金賞が継承した。金賞および弟の金建は昭帝と年が近く、昭帝と寝起きを共にした。また、金日磾の弟金倫は黄門郎となったが早死にし、金倫の子である金安上以降になって栄えた。

    後漢末の金旋・金禕父子は金日磾の末裔である

  • 田村圓澄説

    邪馬台国の女王卑弥呼の時代、魏では仏教が盛んで洛陽では康居から来た康僧鎧が白馬寺で「無量寿経」を翻訳していた「魏志倭人伝」には邪馬台国に仏教を伝えたとは記してはいない

    奈良県広陵町・新山古墳出土の三角縁神獣鏡は三神の替りに三仏があらわされ、三仏はそれぞれに蓮華座に座り、円形の頭光もある.

    仏獣鏡は中国で4世紀に製作されたが、千葉、長野、岡山から舶載鏡、仿製鏡も出土し、この仏獣鏡の流布は、倭への仏教の伝来をものがたる
  • 画紋帯仏獣鏡

    青銅製/一面 南北朝時代・5~6世紀
    径22.1cm 五島美術館蔵
    明治41年(1908)、千葉県木更津市祗園弦巻塚古墳出土。神像ではなく、仏像(坐像と立像の二種類)と龍虎を表した点が珍しい。立像の脇侍一躯が半跏思惟像である同型の鏡がほかに二面(岡山県倉敷市王墓山古墳出土〈東京国立博物館蔵〉・愛知県名古屋市中区大須二子山古墳出土〈名古屋市博物館蔵〉)ある。近年、中国北京の故宮博物院に同型鏡が所蔵されていることが判明し、この四面の鏡が、原鏡(もとになる鏡)は出土していないが、おそらく呉の画紋帯仏獣鏡をもとにして、南北朝時代に製作した踏返(ふみかえし)鏡(もとになる一面の鏡から型取りして鋳型〈いがた〉を作り鋳造した鏡)であると考えられるようになった。
  • 三角縁仏獣鏡は、中国では呉の時代と東晋時代に出土している。

    しかし280年ごろの呉の時代のものが輸入された可能性は小さく、東晋時代のものが輸入されたと考えられる。

    なぜなら、倭王武の上奏文に「道は百済を経て」と記されるように、中国の文物は百済経由で日本に渡来してきたとおもわれるが、朝鮮半島に仏教が伝わったのは、次のように4世紀後半である。

    『三国史記』によると、東晋から百済に仏法が伝わったのは、384年であると記されている。また華北の前秦王の苻堅が高句麗に仏像と経文を伝えたのは372年であるとしている。

    朝鮮半島に仏教が伝わる前に、仏像を鋳出した三角縁仏獣鏡が百済経由で日本に来ることは考えにくいと思われるからである。

    また三角縁仏獣鏡がわが国で製作されたとすると、東晋の工人がわが国に来て製作した可能性が高い。工人はやはり百済経由で来たであろうから、百済に仏教が伝わるはるか前の呉の時代にきたとは考えにくい。年代としては4世紀後半ではないだろうか。
  • 「三国史記」によると、372年(東晋・咸安2)に前秦の三代皇帝・苻堅が高句麗に使を遣わし、僧順道と仏像・経典をおくった。当時は中国の東晋時代であり、貴族仏教が全盛時代を迎えていた。

    高句麗もこれに応えて前秦に入貢し、さらに2年後には、東晋から僧・阿道がきた。
     さらに、4世紀末には関中の曇始が遼東にきたという伝承があり、4世紀末からの高句麗の広開土王の華々しい事跡は、実は仏教受容を含む新しい国家展開が背景にあったと思われる。

     新羅において、「三国史記」によると、5世紀前半の訥祇王の時に、高句麗より沙門墨胡子が一善郡に来て、毛礼(もれ)の家に住したことを仏教の初伝としている。同世紀に僧・阿道がやはり毛礼の家に来た。6世紀になり、法興王の時代に、仏教受容の可否をめぐる問題が持ち上がり、群臣がこれに反対した。そのため国王の近臣の異次頓が殉教して、ようやく受容に踏み切ったといわれる。法興王の15年(528)にはじめて仏法を行なったとされている。

    百済への仏教の伝来は、「三国史記」によると384年、枕流王の元年に南朝の東晋から胡僧・摩羅難陀が来朝して仏教を伝えたといわれる。しかし当時の仏教関係の遺跡が見つかっていないことから、この伝承を疑う向きも多い。

    百済が仏教の興隆に乗り出すのは6世紀であり、501年に即位した武寧王が、中央集権的国家体制の樹立をもくろみ、諸々の政治改革を断行し、南梁に使者を派遣し、中国史上最も熱心な崇仏君主として知られる武帝に上表したことが知られている。

  • June 2017 編集されました
     仏教は、インドから中国へ伝えられた。仏教を伝えたのは、大月氏(アフガニスタン地方)、安息(あんそく=イラン地方)、康居(こうきょ=サマルカンド地方)などの国の人々であった。
     これらの国の人々は西域地方、中国西方のタクラマカン砂漠に栄えた諸オアシス国家を経て中国に渡っていった。特に漢の武帝が西域を経営してからは、中央アジアから西域を通る通路は、東西交通の要路となり、貿易や旅行が頻繁に行われるようになった。インドと中国を往復した仏教者も、この陸路を利用したのである。
     この陸路には、南北二つの道があった。中国本土の西の関門・陽関を出て、敦煌の西北・楼蘭から南へ行き、タクラマカン砂漠の南側(崑崙山脈の北麓)を進んで、干●(門がまえに眞)(うてん=コータン)に達し、更に西北に進んで莎車(さしゃ=ヤルカンド)を経て疏勒(そろく=カシュガル)に至る道を南道と呼ぶ。
     北道は、敦煌から北へ進んで伊吾(ハミ)に至り、これより西に行って高昌(こうしょう=トルファン)に行き、天山山脈の南麓を通って亀茲(きじ=クチャ)、更に疏勒に達する道である。疏勒から西へ行けば大宛(だいえん=フェルガナ)、康居などに通じ、西南へ行けば葱嶺(そうれい=パミール)を越えて●(尸に炎にリ)賓(けいひん=ガンダーラ)に通じた。
     仏教がいつごろ中国に伝えられたかは、多くの伝説があって定かではない。西域との交通路が開けるに従って、次第に伝播してきたと考えられる。
     仏教伝来の伝説に、後漢の明帝(28-75)が、金人(像)を夢にみて西域に使いを出し、仏教を求めさせたという説がある。
     ある夜、明帝は、全身から光を放って宮廷に降りた金人を夢みて、西方に仏教があることを知った。そこで蔡●(りっしんべんに音)(さいいん)、王遵(おうじゅん)など十八人を西域に派遣して、仏教を求める。彼等は、その途中で白鳥に経像を積んできた摩騰迦と竺法蘭二人に出会い、ともに都へと帰る。明帝は大いに喜び、洛陽の門外に白馬寺を建立したという。
     「兵衛志殿女房御書」には「摩騰迦・竺法蘭の経を漢土に渡せしには十羅刹・化して白馬となり給う」(p1094)とあり、中国に仏教を伝えた初期の人々として摩騰迦と竺法蘭を記している。

    道安 中国仏教の基礎築いた訳経僧

    西暦147年、後漢の桓帝の建和元年に、安息国(パルティア)から安世高が洛陽に来た。次いで月氏国から支婁迦讖(しるかせん)が来朝し、この二人の手で大小乗経典が多数訳出された。ここから中国仏教は、実質的な始まりを見せる。
    後漢が滅びて、三国時代から西晋、五胡十六国の時代にいたるまでの間に、多くの訳経僧が渡来し「無量寿経」「阿弥陀経」「維摩経」「大般泥●(さんずいに亘)(はつないおん)経」「正法華経」等、後の中国仏教、更には日本仏教に大きな影響を与えた経典が翻訳された。

    五胡十六国の時代になって、仏教は急速な発展を遂げる。それは、十六国の各国が自国の文化向上のために、積極的に仏教を保護したからであった。
     なかでも、華北の大部分を統一した後趙(こうちょう)では、石勒(せきろく)・石虎(せっこ)の一族が、西域の仏教僧・仏図澄を重用。これの感化を受け、国政にも参画させるほどであった。また、五胡十六国中、その強大なこと第一といわれていた前秦にあって、国主の厚い帰依を受け、後の仏教史上にも大きな功績を残したのが釈道安(312-385)である。
     道安の功績のうち、最も大きいものとしてあげられるのが、経典目録の作成である。仏教経典は、当時、すでに多数が訳出されていたが、訳者や年代、真偽等の不明なものが多かった。道安はこれらの経典を整理して「綜理衆経(しゅうりしゅうきょう)目録」を作成する。この作成によって、初めて仏教が体系的に整理され、以後の仏教発展に大きく寄与することになった。
  • 五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す
    五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つのことである。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族が前涼、西涼、冉魏、北燕をそれぞれ建てた。
  • June 2017 編集されました
    「桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強勢になり、郡や県は制御することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」

     「桓霊の末」は桓帝の末と霊帝の末を合わせた表現

    公孫氏は領土を拡張したわけではなく、楽浪郡を分割して新たに帯方郡を設けただけなので、二郡は近接しています。

    魏、明帝の景初二年(238)六月、卑弥呼の使者、難升米が帯方郡を訪れ、当時の日本のようすが明らかにされました。
    しかし、難升米の日本出発時には、魏が帯方を占拠したことは知られておらず、公孫氏に朝貢するつもりだったのに、魏へ朝貢する形になったわけです。晋が建国された泰始元年に朝貢していますが、この時も出発時には魏の滅亡は知られていなかった。王朝の交代にあわせたすばやい遣使と考える人がいますが、情報が伝わる時間、洛陽まで移動する時間が頭に入っていない。

     中国への仏教伝来の説話のなかで最も有名なのは、後漢(二五~二二〇年)の明帝(在位五七~七五年)の感夢求法説である。これは明帝が夢の中で金 色に輝く「金人」を見て西方に仏がいることを知り、大月氏国(アフガニスタン北部)に使者を派遣して『四十二章経』を写させ、さらに仏寺を建てたとするも のである。この仏寺は洛陽の白馬寺であると言い伝えられてきたが、現在では、この説は史実とはみられていない。

     現在、史実と考えられているのは、後漢の明帝の異母兄であった楚王英(?~七一年)の仏教信仰に関する記録である。そこでは楚王英が「黄老の微言 を誦し、浮屠の仁祀を尚ぶ」と記されている。黄老とは、黄帝(中国古代の伝説上の王)と老子のことで、不老長生を願う信仰であったと考えられる。次の浮屠 とはブッダの音写であり仏教のことである。これは現世利益を求める中国の伝統的な思想と外来の仏教とをともに信仰していたことを意味する。
  • June 2017 編集されました
     後漢の時代には、西域を通じて経典を翻訳する僧侶(訳経僧)が渡来するようになった。最初の訳経者は安世高(二世紀)である。彼はイランを中心と した安息国(パルティア)の出身であり、一四八年頃、桓帝のときに洛陽に来て、『安般守意経』『阿毘曇五法経』など禅観(修行や実践の教え)と「小乗」仏 教の経典を訳した。安世高と同じ頃、支婁迦讖(二世紀)も洛陽に来ている。彼は大月氏国の出身であり『道行般若経』『般舟三昧経』などの大乗経典を訳し た。

     後漢が滅んだ後、中国は分裂し、魏、西晋王朝と続く。王朝の変化にともない中心的な思想も、儒教から老荘思想へと移り変わった。また、魏の時代には西域との交通が盛んになり、訳経僧も数多く渡来した。

     こうしたなか、朱士行(三世紀)は中国人として初めて西域に求法し『般若経』の原本を求めた。『般若経』の思想は、世俗から距離を置く老荘思想を 信奉する中国の知識人層に受け入れられ、とくに「空」の思想の解釈が追求された。これ以降、仏教は中国人のあいだで哲学的に研究されていくことになった。

     続く西晋(二六五~三一六年)時代の仏教界で最も活躍したのは大月氏出身の竺法護(二世紀後半頃)である。彼は『光讃般若経』『正法華経』をはじめ一五〇部を超える多くの経典を翻訳し、大乗仏教を中心として後代の中国仏教に大きな影響を与えた。

    竺法護(じく ほうご、Dharmarakṣa、239年 - 316年)は、西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧である
    尊称 敦煌菩薩
    生地 敦煌 師 竺高座
    別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称された。

    出典 http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/15.html
  • June 2017 編集されました
    日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。

    この時、仏教も漢字も伝来した可能性もある。
    帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

    弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。

    『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王は秦始皇帝十二世孫である。(子の融通王は十三世孫に相当。)

    五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたという説もある。この説に基づくと、弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。

    中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、そこからはるばる日本に渡ってきたという、佐伯好郎説も存在する。

    ウィキペディアより
    ーーー
    『魏志韓伝』には、馬韓に月支国という国があり、辰韓(後の新羅)の王の地位にあるという記述があります。
  • June 2017 編集されました
    飛鳥の法興寺を嚆矢に、日本に伽藍が建ち始める。
    豊前では白鳳時代を中心に、いずれも新羅様式の虚空蔵寺、天台寺、垂水廃寺、椿市村廃寺、豊前国分寺などの建立ラッシュとなる(他に百済様式の寺もある)。この頃、前述の「法医」の系譜につながる豊前僧に法蓮という者がいた(『続日本紀』703年および721年の文武紀条)。法蓮は、辛島・宇佐氏の虚空蔵(こくうぞう)寺の座主、次いで宇佐八幡宮神宮寺・弥勒寺(725年創建)の初代別当となった僧である。
    彼は香春山中で修行したというが、そこには医術で、例えば「龍骨」という薬となる石灰岩があった。文武天皇に名医として褒賞された法蓮には、道教の練丹術につながるような石薬術があった。これが豊前の「巫医」や「法医」たちの秘密の一つであろう。また『宇佐託宣集』は、英彦山の窟で修行した法蓮を弥勒の化身と書いている。弥勒寺は正しくは「弥勒禅寺」と言い、その「禅」とは山中修行を指している。山中の弥勒とは花郎でもある。

    飛鳥の法興寺を嚆矢に、日本に伽藍が建ち始める。豊前では白鳳時代を中心に、いずれも新羅様式の虚空蔵寺、天台寺、垂水廃寺、椿市村廃寺、豊前国分寺などの建立ラッシュとなる(他に百済様式の寺もある)。この頃、前述の「法医」の系譜につながる豊前僧に法蓮という者がいた(『続日本紀』703年および721年の文武紀条)。法蓮は、辛島・宇佐氏の虚空蔵(こくうぞう)寺の座主、次いで宇佐八幡宮神宮寺・弥勒寺(725年創建)の初代別当となった僧である。
    彼は香春山中で修行したというが、そこには医術で、例えば「龍骨」という薬となる石灰岩があった。文武天皇に名医として褒賞された法蓮には、道教の練丹術につながるような石薬術があった。これが豊前の「巫医」や「法医」たちの秘密の一つであろう。また『宇佐託宣集』は、英彦山の窟で修行した法蓮を弥勒の化身と書いている。弥勒寺は正しくは「弥勒禅寺」と言い、その「禅」とは山中修行を指している。山中の弥勒とは花郎でもある。

    英彦山を始め豊前の修験の山々には、必ず白山神が祭られている。これはどうしたことか。白山信仰は元来、満州のツングースのもので、そこには「白山部」という部族もあった。白(パク)信仰である。花郎が聖山として登る、朝鮮の金剛山の頂は「白峯」で、そこは死と再生が行なわれる常世・冥界との出入口だった。神仏習合で「白山権現」と呼ばれる豊前の「白山・小白山」信仰は、古朝鮮の始祖・檀君の降臨神話につながる中国や朝鮮の「太白山・小白山」信仰である。
  • June 2017 編集されました
    苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)

    氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。

    苻堅は大秦天王と称して即位した。幼少時より明敏で博学多才だった苻堅は学問を奨励し、内政を重視して国力の充実と文化の発展に意を図った。また漢族の有力貴族で、さらに名宰相でもあり名将でもあった王猛の補佐を受けて、重商主義から重農主義に転換したが、これは重商主義がかえって豪商の利益を増すばかりになっていたため抑制するためであり、また関中における灌漑施設の復興や長安に移民した匈奴や鮮卑を利用して農業基盤を整備するためであった。また官僚機構を整え、法制を整備して中央集権化を進めた。苻堅はこれまで胡族と漢族の対立が厳しかった華北では様変わりしたような融和策を次々と採った。彼の施策は王猛の補佐の下、漢族伝統の治世方針を採用したものが非常に多く、また王猛とは水魚の交わりと称してもよいほど君臣を越えた仲であったという。また多くの側近から排除をするように進言された仏教僧の道安を信任して仏教を厚く尊崇するなどしている。

    360年半ばまでは内政に尽力したためか、国内では苻氏一族の苻双や苻柳、苻武による内乱や匈奴等の反乱、国外からは前涼や前燕の外圧を受けていたが、368年までには国内を安定させた。その後は積極的な対外策を展開し、370年11月には親征して前燕を滅ぼし、中原から遼東までの広大な領域を獲得し、関東の烏桓や丁零などを関中に移した[12]。371年4月には苻雅や楊安らを派遣して前仇池を服属させ、373年9月には東晋から蜀(現在の四川省)を奪った。376年8月には姚萇や梁煕らを派遣して前涼を滅ぼして涼州を奪った。12月には苻洛を派遣して代を滅ぼし、華北を統一した。

    またこの勢威により、朝鮮の高句麗や新羅からは朝貢が行なわれ、国内は学校が復興されて学問が盛んになり、風俗が整備され、街道や宿舎が整備されて商売や手工業者が安心して仕事ができたという。

    苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分達の本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ氐族を移すということを行った。また王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位に就けていた。苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑・匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし、王猛はこのやり方で民族対立が収められたとは思えず、漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険であるとの見方を持っており、たびたび苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。

    華北統一の1年前の375年に王猛は「晋を攻めないように[3][注釈 1]。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた。しかし苻堅はこれに従わなかった。

    そして383年、中国統一を目指しついに100万と号する(実質的には50万)大軍を率いて苻融と共に南下した[18]。だがこの苻堅出陣でさえ群臣は反対しており、長安に留まるように諫言するも聞き入れなかった。苻堅は前燕、前涼の君主をいずれも殺さずに降伏させており、長安に屋敷を建てて住まわせていた。そこで今度は、司馬曜の屋敷を建てさせ、勝利の暁には連れてくる予定であった。前秦の南下を知った東晋では先手を打ち、桓沖が襄陽を、楊亮が蜀をそれぞれ攻撃したが、前秦はこれを押しとどめた[

    東晋との決戦で大敗した結果、前秦の中央支配力は動揺して一気に衰退した。このため、これまで前秦に服属していた氐族以外の有力者は次々と謀反を起こして独立し、慕容泓・慕容沖が華陰で関中の鮮卑を糾合して西燕を、姚萇が馬牧に拠って後秦を、慕容垂が後燕を建国した。前秦の勢力は一気に華北全土から長安周辺や河北の一部という地方政権にまで零落した。苻堅はこれら離反した勢力の鎮定を目指して応戦したものの敗戦が多く、この混乱により長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った。

    385年3月、苻堅は東晋に救援を求める使者を派遣し4月に謝安が救援に向かった。5月、反乱を起こした慕容沖の勢力を恐れた苻堅一家は長安を脱出して五将山に逃れたが、7月に姚萇に捕らえられてその本拠の新平県の仏寺に幽閉された。

    苻堅は姚萇から禅譲を迫られるが、「五胡の次序に、汝羌の名はない」と述べて拒否した。このため、8月に姚萇によって縊り殺された[23]。一説に自殺したともされる。享年48。鄴にいた庶長子の苻丕が即位、残存勢力をまとめて後燕との戦いを続けていった。

  • 前秦・苻堅の建元15年(379年)2月、前秦が襄陽を攻略し、高名な釈道安を言わば政治顧問とするために長安へと連れ去った。長安に移った後も、彼は苻堅の庇護のもと、経典の研究に打ち込み、多数の経序を後世に残した。また、西域で名を馳せていた鳩摩羅什を中国に招くよう、苻堅に建言したのは道安であった。苻堅の東晋遠征に対しては他の群臣と共に強く諌めて反対した。そして383年の肥水の戦いで苻堅が東晋に大敗して前秦が滅亡し、また、直後に道安自身も長安で亡くなってしまうので、彼の生前に実現することはなかった。鳩摩羅什が長安に渡来して、大々的に訳経事業を始めるのは、次の後秦になってからのことである。なお、死没時期は苻堅の死の直前と伝わる

    道安は弥勒信仰を持っており、隠士の王嘉や弟子たちと弥勒像の前で誓願を立て、兜率天への上生を願っていた。釈道安の功績は、大別して、以下の仏・法・僧の三宝すべてにわたっている。

    苻堅は襄陽を落として道安を長安に招いた時、「朕は10万の軍を用いて襄陽を取ったが、ただ1人半を得た」と述べた。1人とは道安であり、半人は東晋の歴史家であった習鑿歯の事である。苻堅は道安を信任して通例を破って皇帝専用の車に道安を同乗させる特権を与え政治顧問にするなど優遇した。

    今日でも、日本も含めて漢字文化圏の仏教教団では、出家した者は受戒の師によって戒名(法名)を付けてもらう決まりとなっている。この時、在家の姓を捨てて、出家者はすべて釈氏を名乗る。

    この、出家者は釈氏と名乗るという制度を始めたのが、釈道安である。道安以前の中国の仏教界では、その中国伝来の当初から、受戒の師の姓を受け継ぐのが慣習となっていた。インド・西域からの渡来僧は、その出身地を姓として名乗ることが通例であったので、中国人の出家が許可された後、新たな出家者は、師の姓に従って、竺(インド)・安(パルチア)・康(サマルカンド)・支(大月氏)などの姓を名乗った。支遁や竺道生らがその代表である。
  • 道生

    当初、東晋の隆安年中(397-401年)に江南の廬山に居た慧遠に師事した。その後、姚秦弘始3年(401年)に鳩摩羅什が長安に到来し経論を翻訳する事を聞き、慧観、慧叡、慧厳らの僧たちと共に北へ向かい、羅什三蔵の弟子となり、羅什門下四傑の一人に数えられた。長安では、

    情に通ずるのは則ち(道)生と(道)融を上首とす。難に精しくするのは則ち(慧)観と(僧)肇を第一とす。(『高僧伝』巻7)
    と評された。
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