吉野金峰山と役小角、水銀、大仏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
吉野金峰山と役小角、水銀、大仏 – 古代史俯瞰 by tokyoblog

吉野の金峰山
697文武1年8月20日、賀茂朝臣比売の娘、宮子が文武天皇夫人となる。
698文武2年3月21日、賀茂祭での無礼講を諫める、詔。
699文武3年5月24日、賀茂氏の一族の一人、役氏の小角が伊豆に流される。
701大宝1年3月21日、対馬国が金を貢じたので、年号を大宝と改めた。
    この年宮子夫人が、後の聖武天皇を生むと続日本紀にある。
701大宝1年11月4日、全国に大赦する。
702大宝2年正月   、大赦により、役小角、京に戻る。(本説)

Read the full story here


コメント

  •  役行者の最古の記録は『続日本紀』に文武天皇三年(六九九)、術を行う行者が弟子の讒言により伊豆へ流された――とある。
     また、桜研究家・桐井雅行氏の『吉野桜物語』(吉野町刊)によれば、『万葉集』には吉野の桜の歌は一首もなく、『古今和歌集』に至り、三首みえるという。
    『万葉集』には七五九年までの歌が収録され、『古今和歌集』の成立は九〇五年か九一四年ごろ(広辞苑)とされる。
     これらのことから吉野の桜が人に知られるほどになったのは七世紀、約一三〇〇年前ごろと思われる。その後は修験道が隆盛を極めたり、後醍醐天皇の聖地となったりして、桜も栄えた。人々は一生に一度は吉野詣でを夢み、全盛期の秀吉は壮大な花見の宴を催し、豪商たちは桜の寄進数を競った。
     明治初期、廃仏毀釈で信仰が衰え、桜は危機に瀕した。そのとき地元の有志が財を投じて守ったことも桐井氏の研究に詳しい。
     やがて日清・日露の戦いで傷病兵の保養地となり、再び全国から桜が集まるようになる。大正五年に地元の熱意で「財団法人吉野山保勝会」が結成され、以来、桜の保護と育成の中心になった。
    「奈良県と吉野町でも、対策費を計上し保存活動に尽力しています。桜トラスト運動というのもあります」と吉野町で桜を担当する経済観光課課長補佐・山本茂之さんがいう。ある銀行の協力で桜を愛する人から一定の預金をしてもらい、利息を保存活動に当てる。すでに四千万円余りを集めた。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。