卑弥呼の時代の鉄の鍛冶遺跡、彦根の稲部遺跡

January 2017 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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弥生末から古墳時代前期(3世紀~4世紀) の近畿北部の中心的な大都市集落 「彦根市稲部遺跡」 2016.10.…

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コメント

  • 菟上神社(うながみじんじゃ)2012.8.11


    伊勢之國 一之宮 都波岐・奈加等神社から多賀大社へ向かう途中、何か引き寄せられる感覚で参拝した。境内は、いつも無人のようで、連絡先が張ってあったが、本殿を覗きこむと美しく感動した。菟上耳利神社とも言われ、論社である。


    御祭神:應神天皇 
     配祀:菟上王・大山祇神

  • 誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、やはり卜して日子坐王の孫の曙立王・兎上王兄弟で あった。そのとき曙立王は倭は師木の登美朝倉の曙立王という名を与えられたと『古事記』はいう。 師木は三輪山麓の磯城に他ならず、その名において出雲神の加護を得ることが出来たのである。
    □ さらに兄弟の系譜が『古事記』にあり、曙立王は伊勢の品遅部君と伊勢の佐那造の祖、兎上王は 比売陀君の祖である。このうち比売陀君の名は他の文献に一再出てこず、himedaはmがぬけたhieda、 つまり『古事記』を誦んだ稗田阿礼を出した稗田氏かもしれないと考えられる。また伊勢の佐那造 とは、おそらく銅鐸・鉄鐸の鐸に関わる一族である。というのも、銅鐸について『記・紀』はあか らさまに語らないが、齋部宿禰廣成が上申した『古語拾遺』には鉄鐸を「サナギ」としており、 佐那造の名に重なる
  • 海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、生田神社社家の先祖。

    上総国海上郡の海上氏(祖・天穂日命)との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代の生田神社祭主となったという。

    麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。なぜ戦った相手の子に奉祀させたかは不明。本当であるとすると、壬申の乱の後の石上麻呂の様に、敗者側関係者が栄達を遂げたこととなる。あるいは子だけが、神功皇后、応神天皇側についたのかも知れない。

    名前の五十(い、いと、いそ 等)の部分は皇室関係の古い名に散見されるが、意味は不詳。

    海上五十狭茅の子孫は、海上氏から、やがて村田家などの名字を称するようになる。
  • 彦根城が築城される以前、彦根山には、近江の国司藤原房前が亡母の供養に建立した彦根寺という霊験あらたかな古刹がありました。房前の護持仏であった金色の亀の背に乗った一寸八分の観音様を本尊としていたため、彦根山を金亀山と呼ぶようになりました(彦根城を別名金亀城と呼ぶのもこのためです)。彦根寺は建立当初より名刹の聞こえ高く、陸続と参拝者が後を絶たなかったようで、参拝者は彦根山に登る前に、ここで連着を解くのが通例であったので、今にその名が残りました。 往時は連着を解く際に腰掛石として多くあったであろう露頭石も、代々の古老たちが藤原時代から存在する唯一の記念物として、この石の失われることを恐れ、誰がいいだしたか、この石を腹痛石と云い、さわると腹が痛くなるといい伝えて来たものです。今も連着町四辻に祀られてある石がそれであり、巡礼の腰掛石ともいいます。
    所在地:〒522-0068 滋賀県彦根市城町(スミス記念堂から徒歩1分)
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