水鏡の敏達天皇、聖徳太子、崇峻・推古天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
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敏達天皇 敏達天皇と申まうしき。欽明天皇の第二の御子、御母宣化天皇の御娘、石姫皇后なり。 欽明天皇十五年甲戌正…

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  • 聖徳太子の父君・第31代用命天皇は、第30代敏達天皇崩御後、異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を押さえて、磐余(いわれ)の池辺双槻宮(いけへのなみつきのみや)で即位し、聖徳太子の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)が皇后になります。
    聖徳太子十二歳の時であります。

    ここにも「穴穂」という名が複雑怪奇に現れます。
    「穴穂」とは物部一族という。

    聖徳太子の父君・用命天皇は、深い仏教信仰の人であったようで、和泉市の松尾寺(まつのおじ)は、用命天皇の本願で役小角(えんのおずみ)が開基した寺として有名であります。
    しかし、この時代はまさに、神道擁護派の物部氏と、仏教推進派の蘇我氏の争いが頂に至っていた。
    用命天皇は、即位と同時に、欽明王朝以来のこの難問の決着を図らねばならない立場にありました。
    ところが、用命天皇は、即位して二年後の四月二日、新嘗祭の当日に急逝してしまいます。
    一説には、暗殺説があります。
    聖徳太子にとっての悲劇は、父の死と共に、彼の母君である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の数奇な人生にあった。
    穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)は、用命天皇の父君・欽明天皇と蘇我稲目の第一女である小姉君(おあねぎみ)の間の皇女であり、夫の用命天皇とは異母兄妹であったのに対し、用命天皇の母君、つまり、聖徳太子の祖母は、蘇我稲目の第二女である竪塩媛(かたしおひめ)であったからです。
    用命天皇の死後、皇位継承権をめぐって、蘇我氏と物部氏の争いが激化します。
    物部守屋は当然のように、穴穂部皇子を時期候補として押しました。
    穴穂部皇子は、「穴穂部」が示すように、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのみこ)の同母弟であったのを利用して、物部守屋は彼女を抱き込もうとした。
    聖徳太子の立場は極めて微妙な立場であったことが、こういった経緯から、わかってきます。
    「記紀」に書かれているような、聖徳太子が蘇我氏側に立って、物部守屋を撃つために四天王寺を建立した、という説を鵜呑みにできないほど、「穴穂」の意味は大きいのであります。

    物部氏と蘇我氏の争いは、「神」と「仏」の争いの陰に隠れて、継体王朝の後を継ぐ、欽明王朝と敏達王朝の覇権争いに、「穴穂」一族が絡んでいる
  • 聖徳太子が生前にここを墓所と決め、連続死した母、妃、太子の三体を推古天皇が葬ったとされ、三骨一廟とも称されます。

    聖徳太子の母の穴穂部間人皇后は、欽明天皇と蘇我小姉君の皇女です。
    妃の膳大娘は太子から「死後は共に埋葬されよう」と言われていたと伝えられます。

    膳大娘は膳部菩岐々美郎女(かしわで・ほききみ)とも。
    膳(かしわで)とは宮中で食膳の調理をつかさどった人々で、カシワの葉を食器にしたことに由来。

    太子町は二上山の西麓に位置し、周囲3km四方の狭い谷間にある町で 王陵の谷とも磯長谷(しなが)と呼ばれます。

    「王陵の谷」とは皇族の陵墓が集中していることにより、叡福寺の聖徳太子廟と天皇陵4基(用明・推古・敏達・孝徳)とがあります。

    用明天皇は聖徳太子の父、推古天皇は叔母、敏達天皇は叔父にあたります。
  • 前方後円墳の終了と八角墳
    近畿の古墳と古代史 白石太一郎 学生社
    まさに6世紀末葉から7世紀初頭を境に畿内の支配者層は、3世紀中葉すぎ以来3世紀に亘って続けられた大型前方後円墳の造営と決別するのである。
    一方東日本の関東地方などでは最後の大型前方後円墳は群馬県高崎市八幡観音塚古墳や千葉県木更津市金鈴塚古墳などTK209型式の古段階に並行する時期のもので、畿内の場合より若干新しくなる。ただその差はごくわずかで十数年であろう。このように畿内では6世紀末葉、関東など東日本でも7世紀前半の早い段階でほぼ一斉に前方後円墳の造営が停止されることは、とりもなおさず前方後円墳の造営について強力な規制が出されたことを示すものである。
    それが、推古朝の早い段階の出来事である。

    この前方後円墳の造営停止を古墳終末の第1の画期とすると、その第2の画期は7世紀中葉における大王墓の八角化である。
    畿内の八角墳で最も遡るのは櫻井市の段の塚古墳(元舒明陵)で、これが舒明陵であることはほぼ疑いない、それ以来8世紀初めの文武陵と想定される明日香村中尾山古墳まで、即位した大王の墓はいずれも八角の墳丘を載せた比較的大規模なものであったが7世紀の第4四半期になると方形壇を省略した小規模のものになる。

    大規模な前方後円墳の造営は6世紀末葉ないし7世紀初頭をもって終息する。それはまさに推古朝の出来事であった。
    またそれと前後して6世紀末には大和南部に飛鳥寺が、7世紀に入ると斑鳩に法隆寺、難波に四天王寺が営まれるなど本格的な仏教寺院の建設が始まる。
    と書かれていた。
    つまり原因は不明だが、前方後円墳の造営は停止され本格的な仏教寺院の建設が始まる。そのなかで、大王墓の八角化が発生した。
  • 善正寺
    804年、最澄は入唐に先立って、和気氏や秦氏出の僧勤操の勧めもあってか、弥勒信仰の盛んな豊前に立ち寄り香春岳に登っている。唐留学を終えて無事帰国した折りも再訪し、香春社に神宮寺・神宮院を建てている。そして帰京後は、和気氏の高尾山寺に日本最初の灌頂道場を設けている。
    延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である。そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。

    善正寺の御本尊(ごほんぞん・本堂の中心にお祀りする仏様)は不動明王です。智証大師円珍(弘法大師空海の甥)の作と代々伝えられています
    百済(くだら)より奉納された釈迦尊像と経典が、山城の地にある草室へ納められたとされます。これが、日本列島最古の寺院の一つとされる「高麗寺(こまでら)」の発祥と推定されます。
    欽明天皇崩御の後、即位した敏達天皇は高句麗(こうくり)と国交を開かれ、山城の地に伽藍境内(がらんけいだい)を造立して「高麗寺」と名付けられたとされます。高句麗より渡来した氏族・狛氏(こまし)の影響により、この地域は現在も「上狛(かみこま)」と称されていると考えられています
  • 推古神社(古墳)
    所在地 奈良県大和郡山市額田部北町826
    御祭神 豊御食炊屋姫命 (とよみけかしぎやひめのみこと)

    推古天皇は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といわれており、この近辺の出身であると思われる。
    額田寺(額安寺)が神社の西にあり、額田氏の氏寺で大寺院伽藍図(国宝)があり。

    父親は仏教公伝で知られる欽明天皇に当たります。

    推古神社拝殿奥にある本殿は、全長約41m、後円部径約26m・高さ約2m、前方部幅約23m・高さ約2mの前方後円墳の推古神社古墳の上に建てられています。
    古墳の埋葬者は分かっていませんが、額田部氏の誰か?なのでしょうか

    額田部氏は、額田部を管理した伴造とものみやつこ氏族。
    大和国平群へぐり郡額田郷(大和郡山市)を本拠とする額田部連が天津彦根命の子孫と称し、推古天皇の時には比羅夫が隋使の接迎などで活躍。後に宿禰姓。氏寺は額田寺( 額安寺かくあんじ)。
  • August 2018 編集されました
    讃岐国の法隆寺「庄」設置経緯
    同国では、飛鳥・白鳳・奈良時代の瓦が出土 する寺院を古代寺院とした場合、現在30か所以 上の古代寺院址が判明している。通常は、一国 で10ヵ寺以下の所が多く、20ヵ寺以上の国は僅 かであり、一国で所在する寺院数としては、飛 びぬけて多いことが確かめられている。平安時 代中ごろに菅原道真が讃岐国司として赴任した 時にも、讃岐国内に28ヵ寺が存在したと記録さ れている。また古代寺院造営がほぼ讃岐国内全 域に広がりを見せていることより、仏法に深く 帰依した国造を中心に寺院造営が進められたと 思われる。
    同国の古代寺院造営時期は、『香川県史』に よれば、創建時の瓦によって以下の四期に分類 されている。

    1.素弁八弁蓮華文瓦
    寺院造営が開始されたのは七世紀初葉から中 葉頃で、山田郡の宝寿寺、寒川郡の下り松廃寺、 多度郡では仲村廃寺、苅田郡の紀伊廃寺等でほ ぼ讃岐全域にわたって開始されたようである。 宝寿寺跡からは高句麗系の軒丸瓦の特徴を持つ 素弁八弁蓮華文瓦が出土し、その瓦当文は大和 豊浦寺出土瓦と類似している。
    2.単弁八葉蓮華文軒丸瓦
    次に続くのが香川郡の坂田廃寺、阿野郡の開 放寺、寒川郡の下り松廃寺、三野郡の妙音寺跡 で単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土し、その瓦当文 より640年代に創建されたとする山田寺系とされ ている。
    3.複弁蓮華文軒丸瓦
    さらに続くのが多度郡の仲村廃寺で複弁蓮華 文軒丸瓦が出土しており、大和の川原寺(川原 寺式伽藍配置と太宰府市の観世音寺伽藍配置が 類似しているのは注目される。)創建時の瓦や再 建法隆寺の瓦当文に類似していることが報告さ れている。
    4.藤原宮所要軒瓦
    七世紀末頃から八世紀初頭に相当するのが藤 原宮造営時期以降に相当する瓦で、藤原宮所要 軒瓦と同笵あるいは酷似した軒瓦を出土する寺 院が、大内郡、寒川郡、三木郡、山田郡、香川 郡等19ヵ寺に分布している。
    特筆すべきは三野郡宗吉瓦窯跡では藤原宮所 要瓦を生産していたことである。
    同瓦窯跡は、日本最大の規模で二十三基の瓦 窯を有し、飛鳥時代の特徴を示す「十一弁素弁 (花弁の中に何もない)蓮華文軒丸瓦」や白鳳 時代の特徴を示す「単弁蓮華文方形捶先瓦」が 出土していることより、少なくとも七世紀初葉 には生産を開始していたと思われ、1の古代寺 院造営時期と一致する。
    『法隆寺資材帳』が記す讃岐の庄倉の所在地 である那珂郡の宝幡寺跡、多度郡の仲村廃寺、 善通寺、三野郡の道音寺、鵜足郡の鴨廃寺、三 木郡の長楽寺跡、阿野郡の開放寺から法隆寺式 の軒瓦が出土し、いずれも4の時期に分類できると思われる。したがって法隆寺の庄倉があり、 そこに法隆寺式の軒瓦が出土する古代寺院があ ることは「庄倉」の設置による布施だけにとど まらず、文化的交流が非常に大きかったことを 物語っている。具体的には造瓦技術や工人、僧 侶の移動などがあげられる。
    同国の古代寺院造営時期のそれぞれの檀越に ついて、1はほぼ同時期に寺院造営が開始され ているので讃岐国造の主導によるものと思われ るが、同国の国造始祖伝承には二つの系統があ り、一は神櫛王=鷲住王を始祖とする讃岐凡直、 二は大伴健日を始祖とする佐伯直と云う二系列 の伝承が存在している。『日本書紀』にみえる伝 承は前者である。
    ところが讃岐凡直の先祖が国造を継いだとさ れる六世紀後葉(『続日本紀』延暦十年(791) 九月十八日条に、「訳語田朝廷(敏達朝)のに御 世に、国造の職務を継いで所轄地域を管轄した」 との記事あり。)には、石室・墳丘ともに傑出し た規模を持つ古墳は、凡直の本拠とされる讃岐 東部(令制寒川郡)ではなく、讃岐西端部(令 制刈田郡)の母神山・大野原古墳群に存在して おり、こうした状況が七世紀中葉まで続いてい る。母神山・大野原古墳群は「おそらく讃岐か ら伊予東部にかけた広域的な政治秩序を踏襲し た単一の築造系譜」とみることが出来るようで ある。
    法隆寺が讃岐国に庄を設置した地域を分類す ると讃岐東部で大内郡一、三木郡二、山田郡一 の計4カ所で、讃岐西部は阿野郡二、鵜足郡二、 那珂郡三、多度郡一、三野郡一の計9か所で、 讃岐西部が中心だったことが確かめられている。
    讃岐西部の鵜足郡・多度郡は物部一族の大伴 氏の分布が顕著で、那賀郡は佐伯部を率いた佐 伯直が本拠としていたようである。佐伯直は、『日 本三代実録』貞観三年(861)十一月十一日条に よれば、「佐伯直豊雄の改姓申請で、先祖は(中 略)大伴健日連の孫で雄略天皇の御世に大連と なった大伴室屋の長男御物宿禰の後裔倭胡連公 であったとし、自らを大伴氏の子孫と称した。」 と上奏している。真偽はともかく、佐伯直は先 祖を大伴氏と主張していることは注目できる。 また大伴氏を先祖とするならば、佐伯直は物部 一族の可能性が指摘できる。阿野郡は「讃留(さる)王伝説」の系譜をひく讃岐綾君や、瀬戸内 に面した要衝地域であることより、饒速日命東 遷に従った物部一族が早くから土着していたよ うである。
    三野郡は『先代旧事本紀』天神本紀が記す讃 岐三野物部の名が見られる。
    讃岐東部三木郡は「平城宮発掘出土木簡」に、 “物部又麻呂”の名を見ることが出来る。
    以上の検討から讃岐東部が「凡直」、讃岐西部 は物部一族の「佐伯直」によって、古代寺院の 造営が進められ、その後は各地域の豪族が氏寺 として造営したものと思われる。
    讃岐国における法隆寺庄倉の設置は、佐伯直 や大伴氏並びに古代より土着していた物部氏等 が、一族の精神的支柱に昇華した仏法、また象 徴でもあった若草伽藍の焼失を乗り越え、物部 一族の象徴である新たな寺院造営に向けて、法 隆寺の財政基盤を整備するとともに、南海道以 外の陸路を含む海上交通経路を確立するため、 法隆寺の「庄倉」設置を進めたものと思われる。
  • 表2 「法隆寺の庄」所在地

    国名と庄倉数

    庄の所在地
    近江國壹處 在粟太郡物部郷
    大倭國貮處 平群郡一、添下郡一
    河内國陸處
    大縣郡一、和泉郡一澁川郡一、 志貴郡一、日根郡一、更浦郡一
    摂津國伍處
    西成郡一、川邊郡一、武庫郡一、 雄伴郡二
    播磨國参處 明石郡一、賀古郡一、揖保郡一
    備後國壹處 在深津郡

    讃岐國拾参處
    大内郡一、三木郡二、山田郡一、 阿野郡二、鵜足郡二、那珂郡三、
    多度郡一、三野郡一

    伊豫國拾肆處
    神野郡一、和気郡二、風早郡二、 温泉郡三、伊余郡四、浮穴郡一、 骨奈嶋一


  • 『続日本後紀-承和元年(834)』の記事に伊 予国人浮穴直千継と云う名がみえ、直は朝廷か ら賜った家格を示すもので、千継の先祖は大来 目命としているので、大来目命の子孫は久米氏 でもあることより、久米氏と浮穴氏は同族とさ れている。したがって物部一族の一員として法 隆寺再建に向けて「庄」の設置に協力したもの と思われる。
    以上の各郡の検討から概ね物部一族が法隆寺 再建のための「庄」を積極的に設置し、法隆寺 は物部一族の要請を受けて寺院造営のノウハウ や僧の派遣がなされたと思われる。
    その背景には物部一族が法隆寺再建に向けて 発揮した大きなエネルギーの源泉は、若草伽藍 が物部守屋大連等による造営であったことを深 く記憶していたことによるものと思われる
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