阿部仲麻呂

December 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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阿倍仲麻呂 – Wikipedia 文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を…

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  • 王維と阿倍仲麻呂(中国・唐での名前=晁衡)

    【送祕書晁監還日本國(王維)-祕書晁監(=阿倍仲麻呂)の日本國に還るを送る】・《魚拓》


    積水不可極、 - 積水 極むべからず、
    九州何處〈所 遠〉、- 九州 何れの處〈所 遠き〉か、
    萬里若乘空。 - 萬里 空に乘ずるがごとし。
    向國惟看日、 - 國に向かひては 惟(た)だ日を看、
    歸帆但信風。 - 歸帆は 但(た)だ風に信(まか)す。
    鰲身映天、 - 鰲身(がうしん) 天に映じてく、
    魚眼射波紅。 - 魚眼 波を射て紅ならん。
    樹扶桑外、 - 樹 扶桑の外、
    主人孤島中。 - 主人 孤島の中。
    別離方異域、 - 別離 方(まさ)に異域なれば、
    音信若爲通。 - 音信 若爲(いかん)ぞ通ぜん。

       【全唐詩】巻一百二十七



     作者は王維、字は摩詰、尚書宇丞に至って没した。天宝十二載(七五三)、日本の阿倍仲麻呂の帰国を送る宴での詩である。五言排律の詩であるが、第三句に「九州」がある。
  • 阿部寺
    日本書紀に出てくる大彦命が安倍氏の祖で、その後、大化の改新で初代の左大臣になった阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)が当寺院の前身・安倍寺を建立しました。この倉梯麻呂が全国の安倍氏(阿部、安部などすべての『アベ』氏)の太祖で、安倍晴明も安倍首相の安倍家のルーツも倉梯麻呂です。遣唐使の阿倍仲麻呂も一族。当寺院にはかつて阿倍仲麻呂の屋敷もありました
    (同寺院の説明)

    阿倍倉梯麻呂が建立した寺院

    阿倍倉梯麻呂の子孫に平安時代中期の東北の武将、安倍貞任、宗任の兄弟がいる。2人は前9年の役で朝廷軍と戦って敗北。貞任は死んだが、生きのびた宗任の子孫のうち、山口県に落ち延びた一族が安倍家の直接のルーツとされる。
    13年7月の参院選で岩手県入りした安倍首相は演説の中で「安倍貞任の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話した。
  • July 2017 編集されました
    孝元天皇の時代 安倍氏の祖、大彦命生まれる。(日本書紀)

    景行天皇、安部氏木事の女、高田媛を娶り、武国疑を生む。

    507 継体天皇、磐余玉穂宮を造る、妃に阿部波延比売とある。(書紀)
    593 推古元年 安倍氏、四天王寺に金仏像を献ず。
    612 聖徳太子、安倍の地に土舞台を造る。

    639 百済大寺の建立にかかる。安倍倉梯麻呂、百済大寺の造寺司となる。

    645 大化改新。安倍家の太祖、安倍倉梯麻呂(内麻呂)、初代左大臣となる。安倍倉梯麻呂、安倍寺を建立

    648 安倍倉梯麻呂、仏像四躯を四天王寺塔に安置。

    658 斉明4年 安倍比羅夫蝦夷を討つ。

    667 斉明6年 大津京遷都

    698 安倍仲麻呂生まれる。

    702 遣唐使 粟田真人、山上憶良など
    7世紀までは朝鮮半島経由で入唐したが、白村江の戦い後、新羅との関係が悪化。702年以降は、東シナ海を横断する危険な航路をとった。
    710 和銅3 平城京遷都
    716 霊亀2 遣唐使多事県守,遣唐留学生安倍仲麻呂、吉備真備随行。

    天平6 吉備真備、唐にて安倍仲麻呂より暦書等を託される。

    736 安倍継麻呂、遣新羅大使として渡る。この年大般若経の写経が納経される。(現・重要文化財)

    天平勝宝4年(752)、吉備真備は、再び、長安の都に入京し、親友・阿倍仲麻呂と再会します。阿倍仲麻呂は55歳・・・吉備真備は58歳になっていました。

    753 天平25 仲麻呂・鑑真と共に日本へ向け出発。
    755 天平27 仲麻呂船の難破により長安へ戻る。
    763 天平宝字7 鑑真没す
    770 宝亀元 安倍仲麻呂唐にて客死。(没年72歳)
    794 延暦13 平安京遷都.桓武帝京都に都を移す。

    921 延喜21 安倍晴明生まれる。
    986 寛和2 安倍晴明、星を見て花山天皇の退位を知る。
    1005 寛弘2 安倍晴明没す。9月26日(没年85歳)
    1173 承安3 興福寺衆徒多武峯発向全山を焼く。安倍寺多武峯発向に参戦。
    1185 文治元 平氏滅亡する。源頼朝全国に守護地頭職を置く。安倍寺崇敬寺全山焼失。
    1192 建久3 鎌倉幕府開く。
    1203 建仁3 快慶仏師により文殊菩薩像が造られる。
    1220 承久2 文殊菩薩開眼法要を行う。
    1234 文暦元 安倍寺崇敬寺を安倍別所に移転統合する。
    1333 元弘3 足利尊氏挙兵、北条氏滅亡、鎌倉幕府滅びる。天皇帰京
    1336延元元 足利尊氏、室町幕府を開く。
    1392 明徳3 南北朝統一なる。

    1413 應永20 足利義持公、安倍寺に3600石を付与する。
  • 持統天皇5(691)年8月13日条に、「其の祖等の墓記を上進らしむ」69)と簡単に書いているが、その意図は、、、

    ○石上神宮(現在の天理市布留町)の古文書(須佐之男尊、大歳(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏=出雲系)

    ○饒速日大王の陵墓で、三輪山(桜井市三輪)を御神体として祀る大神神社(斎主・三輪氏)の古文書。

    ○以下、豪族十六氏の系図 ・春日氏 ・大伴氏 ・佐伯氏 ・雀部氏 ・阿部氏 ・膳部氏 ・穂積氏 ・采女氏 ・羽田氏 ・巨勢氏 ・石川氏 ・平群氏 ・木(紀)角氏 ・阿積氏 ・藤原氏 ・上毛野氏の系図である。

     饒速日尊(ニギハヤヒ)の陵墓・大神神社を祀っていた大神(おおみわ:大三輪)朝臣高市麻呂は、大宝二(702)年二月十七日、左遷されて長門守に下ったが四年後に没している。また、同年八月十六日、石上神宮(饒速日尊一族)を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷されている(続日本紀)。
  • July 2017 編集されました
    藤原広嗣は藤原不比等の孫にあたり、当時の流行り病で藤原家の実力者が次々と倒れるなか、天平10年(738)21歳の若さで式部少輔兼大養徳守に任じられました。
    ところがその年の12月にはいきなり太宰少弐として大宰府に左遷されてしまいました。これを右大臣橘諸兄に重用される僧の玄昉、吉備真備の陰謀だと考えた。

    松浦(唐津市)の地に建つ鏡神社です。
    一の宮の祭神が神功皇后であ ること、東(都)の方角を向いて鎮座する二の宮を創建した人こそ、天平勝宝二年(750)正 月、筑前守に左遷された吉備真備だったのでした。謀反人・弘継、大逆の罪人を出した藤原氏の名門、宇合-弘継の藤原式家、常識的には「没落」し、その後、歴史からも消え去った、と思われるでしょうが事実は異なります。
    弘継には「良継」という弟が居ましたが、その娘、つまり姪に当る女性(藤原乙牟漏、 760~790)が山部親王(後の桓武天皇)の皇后となって、平城天皇と嵯峨天皇を産むこととなります。式家は不滅だったのです。一方、帰朝が叶わなかっ た阿倍仲麻呂は七十三歳で異国の土となりました。宝亀十年(779)五月、都を訪れた唐使・孫興進たちから『先の留学生が唐で亡くなり』『家族は大変貧し く、葬礼も十分に行えなかった』ことを聞いた光仁天皇は、葬礼のための費用(あしぎぬ、真綿)を送り届けた、と国史は伝えています。
  • 世界で最初の博物館といえる奈良の正倉院には、多くの唐からきた文物があるが、その大部分は遣唐使がもたらしたものではなく、
    唐の人々が持ってきたものであることは知られている。
    天智天皇の時代には唐から毎年のように、唐人がやって来た。669年には千余人、671年には二千人の人々が船47隻に乗って遣ってきた。
    天武天皇の時代にも、来日した唐人が唐のものを献上したのに対し、日本側からは〈純千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤を賜った〉と書かかれており、
    日本から唐人たちに絹や綿の織物を与えていたのである。
    日本から行く人々がせいぜい五、六百人であるのに、彼らは三倍以上来ていたことは何を意味するのか。

     今日の中国の一部となっている渤海から、日本へは約2百年の間に33回も使節を送ってきている。これに対し日本からは13回である。
    新羅からは8世紀の百年だけで日本へ35回も遣日使がやって来ており、日本の遣唐使が17回ほどである
  • 孝元天皇─大彦命─建沼河別命─豊韓別命─雷別命─阿加子宿禰─稚子豆─大龍臣─忍国臣─

     忍国臣─大麻呂臣┬鳥子臣─阿倍倉橋麿(阿倍氏祖)─
             │
             └目臣─┬阿倍比羅夫─安麿─小島─家麿─富麿─宅良─頼良─阿倍貞任
                 │
                 └阿倍船守──阿倍仲麻呂
     
     阿倍倉橋麿─┬阿倍御主人─廣庭┬嶋麿┬粳虫─道守─兄雄─春材─益材─安倍晴明─
           │        │  └吉人
           │        └毛人─大家
           ├小足媛
           │ ∥───有馬皇子(有馬皇子の変で殺害さる)
           │孝徳天皇
           │
           └橘娘
            ∥────新田部皇女
            天智天皇   ∥───舎人親王(日本書紀の編纂者)
                 天武天皇

     ※なお系図は異説が多い。比羅夫・船守と倉橋麿を兄弟とする説も。その場合
      阿倍姓を最初に名乗ったのは彼らの父かも知れない。なお彼ら以前の大彦命
      からの系図についても代数が極端に違う異説もあり、よく分からない。
  • 安倍晴明は実に謎が多く、出身地さえ定かでない。後世の陰陽師達が彼の名声を利用したのも原因の一つであろう。
    生没年月日…延喜21(921・辛巳)年?〜寛弘2(1005・乙巳)年09月28日【『土御門家記録』】
    享年…85歳【『尊卑分脈』『安倍氏系図』】←当時の平均寿命の二人前以上である(笑)。
    出身地…
    讃岐国(香川県)香東郡井原庄?
    【『大日本史料』所引『讃岐国大日記』『讚陽簪筆録』(さんようしんぴつろく)】
    讃岐国(香川県)香川郡由左?
    【『西讚府志』】
    和泉国(大阪府)阿倍野?
    【大阪・安倍晴明神社由緒書、芸能の「信太妻」もの】
    常陸国(茨城県)真壁郡猫嶋?
    【『三国相伝陰陽*轄**内伝金烏玉兎集』(さんごくそうでんおんみょうかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)】
    讃岐の人、天武朝の攻臣右大臣安倍御主人(あべのみうし)の裔、大膳大夫安倍益材の子。
    賀茂忠行・保憲に師事して天文得業生となり後に天文博士に。
    陰陽師。権少属、大膳大夫、主計権助、左京権大夫、穀倉院別当などを歴任、従四位下まで昇進。
    陰陽道家の土御門(つちみかど)家の祖といわれる。【『尊卑分脈』】
  • 「天文司郎安倍博士吉備後胤晴明朝臣撰」ということになっている『三国相伝陰陽*轄**内伝金烏玉兎集』、実際は鎌倉時代成立らしい。でも『占事略決』という占術書は晴明公の著作である事が確実視されているってさ。村上修一『日本陰陽道史総説』(1981年塙書房)139〜169ページに全文あり
  • 安倍晴明の子孫

    安倍晴明には吉昌と吉平の二人の息子がいたとされます。彼らも父・晴明の後を継ぎ陰陽師となったとされています。吉平から13代目の子孫で室町時代の陰陽師・安倍有世が初代となり土御門家が誕生しました。家格は公家の家格のひとつ堂上家の中でも最下位の貴族「半家」ですが、明治時代には、土御門晴栄が子爵を授けられました。

    晴明の子孫・晴栄には息子が無く、子爵・松平信正の次男・晴行を長女と結婚させ婿養子としています。そして、晴行は土御門家を継ぎました。平成6年に36代目当主・土御門範忠が亡くなったそうです。
  • 出自の諸説

    ・大膳大夫・安倍益材(あべのますき)の子とする説:『安倍氏系図』『尊卑分脈』『諸家知譜拙記』による
     → 右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の子孫とも
    ・淡路守・安倍春材(あべのはるき)の子とする説:『百家系図稿』『古代氏族系譜集成』による

    讃岐説(香川県高松市香南町):『讃岐国大日記』『讃陽簪筆録』『西讃府志』による(冠纓神社)
  • 泉州信田白狐伝

    ・阿倍仲麻呂の子孫・安倍保名(稀名)と白狐・葛の葉の間に生まれる
     → 父・保名は賀茂保憲のもとで陰陽道の修行をしたとされる
    ・4歳頃:地面の虫を食べてしまう悪癖が出てくる
    ・10歳頃:住吉祭の折、子供に虐められていた亀を助けて龍宮城に行く
     → 「龍仙の丸(鳥語が理解できる玉)」と「四寸四方の箱(齢を封じ込めた箱)」を授かる
     → 龍宮城で一夜過ごすと、地上は9年の時が経っていたとされる
    ・都で異変が起き、内裏(皇居)が焼け落ちた(930年の「清涼殿落雷事件」と思われる)
     → その後、後涼殿から震動が生じ、鎮まらなくなっていた
     → 当時、宮中で重用されていた播磨の僧・蘆屋道満がこれに対処しようとしていた
     → 安倍童子は陰陽師である父の威厳を守るために蘆屋道満に対決を挑むことを決めた
     → 安倍童子は「龍仙の丸」を以って震源を突き止め、これを止めたことから「龍宮童子」として評判を集めた
    ・蘆屋道満に目を付けられた安倍童子は、宮中で対決することとなった
     → 安倍童子は陰陽道の術で蘆屋道満を出し抜き、その勝負で勝利をおさめた
    ・その後、朝廷に仕え、安倍保名の長子の安倍晴明と改名した
    ・漢土(中国)に旅立ち、雍州の城刑山にいる白道仙人のもとで天文陰陽を学んだ
     → そこで「四寸四方の箱(齢を封じ込めた箱)」を開け、陰陽道の奥義を知る代わりに9年も歳をとった
     → その後、壮年になって帰朝した
    ・帰朝した後、蘆屋道満によって暗殺される
     → 白道仙人は「泰山府君の法(たいざんふくんのほう)」を以って晴明を蘇生させた
     → 道満も誅殺されたが、道満の師・法道仙人によって蘇生された
     → 2人の師は談合し、晴明・道満ともどもに御所を守らせることで決着した
    ・以後、史実に繋がる
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