宮地嶽神社、3mの頭椎の太刀

December 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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宮地嶽神社 宮地嶽神社には、全国でも第1級の大きさを誇る横穴式石室を有する巨石古墳があります。約6世紀末の建立…

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コメント

  • 斉明天皇七年(661) 
    5月9日 朝倉に遷幸。
    5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
    5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
          (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
    ○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
    ○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
    ○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
    ○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛)
    7月24日 崩御。68歳。
  • December 2016 編集されました
    高良大社の祭神の高良大名神(玉垂命)の鎮座:仁徳の時代

    この神が高良山に鎮座した年が、「高良社大祝旧記抜書」「筑後国高良山仮名縁起」等に明記されている。
    「仁徳天皇五十五年」 である。

    仁徳55年は「皇暦」では1027年。皇暦は神武即位とされる紀元前660年を起点としているから、皇紀1027年は西暦では「1027-660=367」年???


    七支刀の銘文
    次の年月日が記されている。

    「泰和四年五月十六日丙午正陽」 

    これは東晋の「泰和四年」であり、西暦に換算すると367年である。

    七支刀の銘文とピタリと対応している。 

    「こうやの宮」の主(七支刀を贈られた倭王旨)と高良大社の祭神(玉垂命)が同一人物であるか。 

    倭王讃が中国の史書に最初に現れるのは『梁書』倭伝であり、
    「晋の安帝の時(396年~418年)、倭王賛有り。」
    とある。倭王旨は倭王讃の先王と考えられる。

    「こうやの宮」の正式名称が「磯上物部神社」である(『太宰府は…』による)

    Wikipediaによると、石上神宮禁足地には「2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた」とある。
    私は「2つの神宝」の一つは七支刀ではなかった
    出土したのは「剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝」と記録されていて、七支刀は明記されていない。

    記紀成立時点においては石上神宮に七支刀はなかったことは、古田さんが『失われた九州王朝』で詳しく論証している。
    七支刀はかなり腐食している点から、 内倉さんは「最初から同神宮の宝庫に納められていたのでなく、近世に、境内の禁足地から出土したというなぞの刀である。」と述べている。
    近世に、境内の禁足地から出土した」とする根拠(出典)が明らかにされていないので、全面的に支持することは出来ないが、真実に近いのではないか。


  • 宮地嶽神社の古(いにしえ)の祭神・阿倍高麿・助麿兄弟
    阿部氏の活躍が忘れ去られました。宮地嶽神社は安曇族の宮です。
  • <宮地嶽神社に合祀される勝村大神と勝頼大神は、筑紫君磐井の死後、筑紫君を継承した筑紫君葛子の一族、または末裔とする説があり、筑紫君葛子については、筑紫火君と同一人物、または近親者とする説がある。>

    継体天皇の頃の話か

    一方、玉垂神は高良山に鎮座したのは、仁徳のころと古い。
  • 武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。
    また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「いみ名は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
  • 雄略天皇(即位5年)夏4月。百済の加須利君
    すなわち蓋鹵王(カフロオウ)が人伝てに池津媛(適稽女郎(チャクケイエハシト))が焼き殺されたことを聞いて、 話し合って言いました。
    「昔、女人を献上して采女(ウネメ)としました。しかし礼儀がなくて、我が国の名声を失ってしまいました。今より以後は女を献上するべきではない」
    その弟の軍君(崑支君(コニキ))に告げて言いました。
    「お前、日本に行き、天皇に仕えろ」

    軍君は答えて言いました。
    「上君の命令に逆らうべきではありません。願わくば、君の婦(メ=愛人)をいただいて、そうして後に日本に行きましょう」 加須利君(カスリノキミ)はすでに妊娠している婦を軍君に嫁に与えて言いました。
    「わたしの妊娠ている婦(メ)はすでに臨月だ。もし、道の途中で産まれた場合は、願わくば婦と生まれた子を一つの船に乗せて、どこにあっても速やかに国に送りなさい」 それでお互いに別れの言葉を交わして、朝廷に派遣しました。

    6月1日。妊娠していた婦が、加須利君が言ったように筑紫の各羅嶋(カカラノシマ)で児を生みました。それでこの児を嶋君(セマキシ)といいます。軍君はすぐに一つの船で嶋君を国に送りました。これが武寧王(ムネイオウ)です。百済の人はこの嶋を主嶋(ニリムセマ)といいます。

    秋7月に軍君は京へと入りました。すでに5人の子がありました。
    百済新撰によると、辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支君を派遣して大倭に詣でて、天王と仕えた。兄王の好みを修めた、とあります。
  • 昆支王(– 477年7月)は、百済の王族。『三国史記』によれば、第21代蓋鹵王の子で22代文周王の弟であり、24代東城王の父。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で、東城王と武寧王の父である。昆伎王、昆枝、崑枝、崑支、軍君(こにきし)。『日本書紀』によると、雄略天皇5年(461年)、日本に渡来した。

  • 『新撰姓氏録』には難波吉師部氏という氏族名が見られない

    『日本書紀』の方は伊佐比宿禰のことを、「吉師の祖、五十狭茅宿禰」と記しています。

    『新撰姓氏録』 には、摂津国の氏族の条に吉師の名が見え、「難波忌寸(きし)と同祖」、「大彦命の後なり」と、記されています。

     ちなみに、河内国の氏族の条には難波の名があり、こちらも「難波忌寸(きし)と同祖」、「大彦命の孫、波多武彦命の後なり」と、記されています。

    難波吉師部氏とは吉師氏のことなのかというと、そう単純なことでもなさそうなのです。

    大阪府吹田市には吉志部神社(きしべ神社)が鎮座し、伝えられるところでは祭祀氏族は
    難波吉士であるといいます。
     主祭神は天照大御神と豊受大神。
    『日本書紀』には、根使主(根臣)による虚偽の讒言によって、大草香王(大日下王)が
    安康天皇に殺害された時に、難波吉士日香香(なにわのきしのひかか)なる者が王に殉死
    したことがしるされています。

     大日下王が太陽祭祀に関わっていたと思われることは以前にも採り上げましたが、大日下王と深い関係にある難波吉士が天照大御神を祭祀していたのは、難波吉士もまた太陽祭祀を司っていたからと思われます。

    難波吉師部がやはり難波吉士として、『日本書紀』が五十狭茅宿禰を吉師としているのはどういうことなのでしょうか。

    その理由のひとつと考えられるのは、難波吉士と吉師が同族であることから系譜の混合が
    おこった、ということであり、もうひとつの考えとして、服属儀礼でもあったろう吉志舞に
    関わる難波吉士が神功皇后・応神天皇の母子に謀反を起こした側に与していたことを意図的に
    ぼかすことを目的に行われたのかもしれません。
     同じことが吉備上道臣にも同じことが言えます。

    志田諄一(『古代氏族の性格と伝承』)の説は、吉志舞の起源を『日本書紀』の雄略天皇
    八年の条にある、高麗の軍が新羅の筑足流城を攻め囲んだ際に、膳臣斑鳩、吉備臣小梨、
    難波吉士赤目子が新羅を救援したという伝承に求めていますが、『古事記』では大吉備津
    日子命を吉備上道臣の始祖と明記しているのに、『日本書紀』の方が吉備津彦(大吉備津
    日子命)のことを吉備上道臣とは結びつけていないのです。

    これは、吉備臣田狭の裏切りや星川皇子の反乱に吉備上道臣が加担したなどの事件により、
    西国の平定や吾田媛討伐に活躍した吉備津彦と吉備上道臣とが切り離されたものと推測される
    わけですが、それとおなじことが難波吉士にも行われた可能性があるわけです。
  • 筑紫舞

    宮地嶽神社の筑紫舞が

    秋祭の始まりを告げると、九州王朝に伝えられたという筑紫舞があでやかな和の彩りを添える。
    ご覧になる神は神功皇后。勝村神。勝頼神。

    「千代の友」千代の友とは菊の事。千代に八千代に、国が豊かであるようにと祈る。

    浮神、芸能の祖と言われる阿曇磯良が舞ったという。











  • 09/20編集されました
    武寧王(志摩)ー聖明王ー兄の余昌、弟の恵

    佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文

    稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

    斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる
    まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた。
    斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、、、
    当然、糸島半島の志摩であろう。

    聖明王 
    朝鮮、百済 (くだら)の第26代の王(在位523~554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]

    武寧王(462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)

    聖明王の子には余昌がいます。余昌は倭国から来ていた鞍橋君に助けられているんですね。鞍橋君は「くらじのきみ」と読み、


    鞍橋君は葛子の子。言い換えれば磐井の君の孫にあたります。

    その鞍橋君が余昌と共に新羅内に侵入して砦に籠城していたのです。それを援けるために援軍の指揮を執った聖明王自身が戦死してしまう。

    こののち、余昌が百済王に即位するのですが、その前に倭国に使いを出した。
    「聖明王は賊に討たれて殺された。」と。

    その使者の名前が「恵」。余昌の弟です。この時の天皇は欽明天皇。欽明16年2月のことです。天皇は「王子恵が着いた津」に許勢臣(こせのおみ)を送って、王子に「ここに留まるか、本国に帰りたいか」と尋ねさせます。
    すると、恵王子は「天皇の徳で、父王の敵討ちをしたい。兵卒を賜って雪辱したいのが臣である私の願いです。私の居留は勅命に従います」と答えます。
    蘇我卿が恵王子を見舞って、聖明王の死を悼みます。その間、百済では余昌が出家しようとして止められます。
    翌年、欽明17年(556)1月、百済の王子恵は帰国しますが、その時、兵や馬を授かります。天皇は阿倍臣、佐伯連、播磨直を派遣して筑紫国の舟師に送らせます。
    これとは別に筑紫火君(筑紫君の児、火中君の弟)を派遣してミテという地を守らせ、かつ湊々を守らせます。結局、恵王子の日本滞在は11カ月だけだったのです。

    威徳王の即位前に恵王子が来日。
    (「推古5年(597)百済王が王子阿佐を派遣して朝貢した。」)
    その前後に阿佐太子が杵島郡八艘帆が崎に上陸。42年後、威徳王の在位中に王子阿佐が来日。

    阿佐太子
    『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。
  • 09/21編集されました
    新羅の法興王(在位514~540)

    日本書紀の552年説
    欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。

    538年(戊午)説
    『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。


    ⁇ 法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった

    528年には貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行ない、さらに534年には興輪寺の建立を開始し、仏教を広めることにも努めた。
    『三国遺事』王暦には十日行を行ったこと、殺生を禁じたこと、また王妃が王の死後に出家して法流と号し永興寺に住んだことなどが伝えられる。また、『三国遺事』 興法・原宗興法条には、法興王自身も出家して名を法雲とし、法空と号したことが伝えられる。
    536 初めて年号を用いる(建元元年)

    「高句麗本紀」に
    第17代小獣林王の代、二年(372)六月、秦王苻堅は使節の浮屠(僧)の順道を高句麗に遣わし、仏像と経文を伝えた。王は使者を遣って謝礼し、貢物を届けた。五年(375)二月、始めて肖門寺を創立して僧の順道を置き、また伊弗蘭寺を創立して僧の阿道を置いた。
    これが海東(朝鮮)における仏法の始まりである。

    「百済本紀」には、
    第14代沈流王の代、元年(384)九月、胡僧の摩羅難陀が晋から来たので、王は迎えて宮内で礼敬した。これが仏法の始まりである。
    二年(385)二月、漢山に仏寺を創立し、僧10人を置いた。

    「新羅本紀」には、
    第23代法興王の代、十五年(528)に、王もまた仏教を興そうとしたが、群臣たちは仏教を信じないで、さかんに反対の意見をしたので王はためらった。近臣の異次頓(あるいは処道ともいう)が申し上げた。「どうか私を斬って、衆議を決めてください」と。
    王は、「本より道(仏教)を興そう思っているのに、無実のものを殺すことはできない」と云ったが、異次頓は「もし道(仏教)を行うことができるなら、臣は死んでも心残りはありません」と答えた。そこで王は群臣を召して意見を問うた。
    臣下たちは「今、僧侶たちの姿を見ますに、子供のように剃った頭で、奇妙な服装をしていて、言う論理は奇異で、常道ではありません。
    今もし、これを赦すならば、後悔することを恐れます。臣らは重罪になろうとも、敢えて王詔を奉ずることができません」と云った。
    しかしひとり異次頓だけは、「今群臣の言葉は間違っています。非常の人がいてこそ、非常の事が起こるのです。
    今仏教の奥深い話を聞いても、信じることができないのでしょう。」と云った。
    王は、「衆人の言葉は堅固で、破ることができない。特にお前だけがひとり異る論を云う。両論に従うことはできない」と云った。
    遂に異次頓を刑吏に下し、まさに処刑しようとしたとき、異次頓は死に臨んで云った。
    「私は仏法のために刑を受ける。仏にもし神霊があれば、私が死んだ後、必ず異変が起きるでしょう」。
    彼の首を斬ると、切り口から血がほとばしり、その血の色が乳のように白かった。
    衆人はこの異変に驚き恐れて、ふたたび仏教を反対することはなかった。

    新羅
    仏教受容時に関しては『三国遺事』に法興王14年に興輪寺の創建工事 が一旦着手されたにもかかわらず中断され,8年後(535)に再び建て始めら れたことに注目し,法興王22年(535)が仏教公認の年とし,王族に仏教的名 前が多いことから王室内で仏教信仰が篤かったこと等が記されている
  • 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』に記される、欽明天皇七年戊午(538)というのは『日本書紀』では宣化三年になってしまい、『書紀』には宣化天皇三年という条はありません。
    実は『日本書紀』には継体・安閑・宣化・欽明の四朝の紀年には様々な問題があって “仏教公伝の年” 以外にも、継体天皇の崩御や安閑即位の年、『百済本記』に記される “天皇・太子・皇子が同時に死ぬ” という記事、継体朝で亡くなった筈の大臣が安閑朝でも大臣だったり等々多くの矛盾が生じています。

    そのため、仏教公伝の年が何時になるのか、合理的に解説するため様々な試みが行われた結果、現在では「欽明天皇の戊午の年(538)の十月十二日に百済国の聖明王が初めて仏像・経文を伝え、僧侶を送ってきた」という事を仏教公伝としています
  • 『日本書紀』 (実況一なし 結論5-1)

     (継体天皇二十一年)夏六月壬申朔甲午、近江毛野臣、衆六万率いて、任那に住かんと欲す。復た新羅に破られし南加羅・喙己呑を越し建て、任那に合わせんが為なり。是に於いて筑紫国造磐井、陰かに叛逆を謀りて、猶予すること年を経たり。・・・・新羅是を知りて密かに貨賄を磐井の所に行りて、毛野臣の軍を防喝せんことを勧む。・・・・
     二十二年冬十一月甲寅朔甲子、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊帥磐井と筑紫御井郡に交戦・・・・磐井を斬りて果して彊場を定む。


    『上宮聖徳法王帝説』 (実況一3-8 結論5-2)

     志癸嶋天皇の御代の戊午の年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教並びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。


     『日本書紀』 (実況一3-9 結論5-3)

     (欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王・・・・釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る。・・・・

  • 阿志岐山城があります。
    また、高良神籠石・宮地岳(阿志岐)神籠石・宝満山・砥石山・鉾立山と南北ライン上にある阿志岐山城。
    阿志岐山城の西へラインをのばすと、糸島市には、雷山神籠石があります。
    阿志岐山城は、7世紀の築造とパンフレットに書かれ、案内の方に説明も受けました。しかし、その根拠はまだないそうです。歴史書にも書かれていないし、手がかりになる遺物もまだないそうです
  • 10/10編集されました
    太宰府市にある王城神社の縁起 『大宰府市史』の「王城神社縁起」
    「胸肩県主阿部高丸・助丸 今宗像郡宮地村の宮地嶽大明神なり」
    神功皇后が出産ののち、王城神社で「皇子の賢くましまさんこと」を祈った時のことが書かれ、阿部高丸・助丸と武内宿禰が側で祈ったとある

    二人は宮地嶽神社の失われた祭神で、安曇族である。宗像の長は宗像氏ではないことになる。
    そして、宗像は安曇族の領地だったということになる。
    王城神社の神紋の扇は安曇磯良が神功皇后から賜った紋と同じ

    古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
     筑前國續風土記拾遺によると

    中 殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げ られたりと祀る。」とある。藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である
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