武埴安彦の反乱、山背国

December 2018 編集されました カテゴリ: 崇神ー仲哀
image武埴安彦の反乱、山背国

崇神十年、孝元天皇皇子の武埴安彦命(タケハニヤスヒコ)が反乱した。 第8代孝元天皇の子の武埴安彦(たけはに・や…

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コメント

  • 笛吹神社の社伝
     社伝によると建多乎利の子の「櫂子(かじこ)」が崇神朝の建埴安彦の乱で活躍し、天磐笛を賞賜されて笛吹連の祖となったとされる。その櫂子の子孫が持田氏で、現宮司は第八五代だと伝える。「櫂子」という名がどこまで信拠できるか不明だが(カジは舟の梶、あるいは木の枝の意か)、その通称が「笛連王」として伝えられた可能性もないでもない(古代の名前としては奇妙だが、後世に名づけられた通称なら、ないとはいえない)。また、「櫂子」が建多乎利の子であったのなら、イトコにあたる大海媛が崇神天皇妃であったと伝えるから、建埴安彦の乱に関与したことはありうるものである。
  • 笛吹神社

     創建は詳かではないが相当な古社である。大和国忍海郡の式内社二座に比定される。

     神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。
    このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わしてこれを討滅された。

    一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。

    天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。この夜天皇の夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社に祀ったと伝えられている。
  • 笛吹連は火明命の児天香山命之後也とされる。詳しい所伝はないが、雅楽か遊部に関係のあった氏族とされる。 また、天香山命は別名を高倉下と云う。

     火雷神社は延喜式の宮内省大膳職坐三坐の一つを始め山城国乙訓郡、大和国宇智郡、上野国那波郡に鎮座する。水神、火神を祀る神社であったと推定される。
    当社を笛吹神社とも言うのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる
  • 椿井大塚山古墳は、全長約190メートルで、山城の国最大の古墳である。当時の天皇の后妃陵(平均約200メートル)なみの大きさである。
    京都大学の考古学者、小林行雄氏は、大塚山古墳と武埴安彦との関係について、つぎのようにのべている。
    「山城大塚山古墳の被葬者は、あるいは武埴安彦のように、大和の最高統治者の地位を争う資格のあったほどの人であったかも知れない。あるいはまた山背(やましろ)の大国不遅(おおくにふち)[「垂仁紀」34年)のような重々しい名を負うた外戚の一人であったかも知れない。それはなお明らかにすべくもないことであるが、この一族が全国的な(三角縁神獣鏡の)同笵鏡の分配にはたした重要な役割は、かならずや大和政権の統治力の伸長に役立つものであったろう。初期の大和政権の構成に、南山城のこのような一勢力が、かくも大きな比率を占めて加わっていたことは、従来の政治史的考察の上にはあまり考えられていなかったことではあるまいか。初期の大和政権の構成の問題もまた、これらの面からさらに考えて見る必要があろう。」(「古墳発生の歴史的意義」『論集日本文化の起源1 考古学』所収 平凡社)

    邪馬台国大和説の立場にたつ徳島文理大学教授の、石野博信氏は、つぎのようにのべる。
    「前方後円墳の中で有名な京都の椿井大塚山古墳では、三角縁神獣鏡を三十数面持っている。これは、大和政権が服属の証(あか)しに政権側から各地域の王に渡したが、その渡す役割をやった人の古墳だといわれている。この古墳は非常に古いといわれているが、ここからは土器が出ていて、土器からすると、どう見ても四世紀の中ごろから四世紀後半ぐらいのものではないかと思われる。
    三角縁神獣鏡は女王卑弥呼がもらった鏡で、それを隠しておいて、ある時期になってからお墓に入れるようになったという三角縁神獣鏡の伝世論というのがあるが、そういう難しいことを考えなくても、素直に、この鏡は新しくて、その中枢を握ったといわれている椿井大塚山古墳も、土器が示すように新しい時代であると考えることができる。
    そのように考えると、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡と同じ型でつくった鏡を、Aの古墳からB、C、Dなどの古墳まで、それぞれ分有していることは事実だと思うが、そういう事実ができあがった段階は四世紀中葉であると考えると、前方後円墳が、東北から九州まで全国的に広まった段階と一致してくるのではないか」(『邪馬台国研究』朝日新聞社、1996年刊)

    ・椿井大塚山古墳は武埴安彦の墓と考えるのが妥当であろう。考古学から椿井大塚山古墳が四世紀の古墳となり、記紀の武埴安彦と崇神天皇の記述から崇神天皇は四世紀の時代と考えられる
  • June 2016 編集されました
    京都市左京区の北部は、昔は丹波に属していたという。古代には、京都盆地の北部は、ほとんど丹波の領域だったかも知れない。また私の住んでいる西京区の大原野に近い大枝<おおえ>というところは、本来は酒呑童子が住んでいたという大江山だったという説がある。現在は京丹波市の大江山ということになっているのだが、なるほど酒呑童子の親友だったという茨木童子の住んでいたところは、こちらの大枝の方が近い。

    山背國というのは、だいたい巨椋池付近までで、それより北は主として秦氏や栗隅氏が開発したのだという。平安京は秦氏の土地に営まれたわけである。「鴨一族が入り込んで山背を平定した」という話になっていることが多いのだが、実はそれより古く、土師氏が住んでいたそうだ。

    当時の山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいた。その場所は愛宕山からだいぶ離れている。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があるらしい。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにある。愛宕山も現在は京都と亀岡の境ぐらいにあるが、かつては丹波の勢力圏で、朝廷が直接統治する場所ではなかったのではなかろうか
  • タケハニヤス王との戦場となったのは南山城ですが、ここ南山城にある京都府木津川市の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が発見されています。
     椿井大塚山古墳は全長が175メートルもあり、その築造は3世紀中頃から末頃と推定されていますから、この頃に南山城に大きな勢力が存在してことになります。

     そして、椿井大塚山古墳から発見された三角縁神獣鏡と同じ鋳型で作られた鏡が、岡山市中区の備前車塚古墳からも発見されているのです。
     備前車塚古墳は4世紀初め頃の築造と推定されているのですが、実はこの古墳、被葬者に
    は大吉備津日子命が比定されているのです。
     さらに、調査の結果この古墳と酷似していることが判明した古墳があります。
     4世紀後半頃の築造と推定される、島根県雲南市の松本1号墳です。
     しかも、同じ雲南市ある、松本1号墳と同じ時期に造られたと推定される神原神社古墳からも、三角縁神獣鏡が出土しているのです。
  • この<謀反>記事に対する本来的な関心は、<謀反>したこの二人が一体どこ を勢力分布にしていた<王>かという点である。<建波邇安子王>は<謀反>が露見して、 崇神軍(和邇氏の祖、日子国夫玖*を将軍としている)と伊豆美(山背国、相楽郡、水泉に 比定されている)の地で和可羅河(泉川=木津川)をはさんで対峙するが、<日子国夫玖 >に射殺されてしまう。この為、彼の軍は久須婆(クズハ)の渡しを渡って北摂へ敗走し ようとするが果たせず、<波布理曾野(山背国相楽郡祝園に比定されている)で、ついに 全滅する。
    <沙本毘賣>は垂仁に入后し、同母兄の<沙本毘古>に垂仁*の暗殺を命ぜられるが、心 情的な板ばさみの裡に、それを果たすことが出来ない。結局垂仁に事実を告白した後、兄 が立てこもる稲城に入場し、垂仁との子供(本牟智和気*)を手渡し、兄と運命を共にする。 (もちろんこれは火災の中の生誕神話を伴っている)
    この「稲城」の地理的比定には大きく二説がある。一つは大和の佐保川流域であり、今 ひとつは摂津の佐保川流域である。
    しかし「紀」では、垂仁が怒りの為に「玉作り」の「其 の所」(私有地)を奪ったと記している所からみて、北摂の佐保川流域(今の茨木市)の方 が妥当である。(茨木市東奈良遺跡は玉作り遺跡として有名である)。そうだとすると戦闘 は全て北摂から山背にかけて行なわれており、二人がそこで亡んだという記述からみて< 建波邇安子王>も<沙本毘古>も北摂・山城の<王>と推定し得る。<建波邇安子王>の 謀反が、この四道将軍派遣を契機に露呈している記事の筋立てから考えて、むしろ戦闘を 仕掛けたのは崇神や垂仁の方であったと考えることが出来るのである。

    1)「記」にはないが「紀」では<武埴安彦>の妻<吾田媛>が謀反に加担して崇神 を呪詛する。2)「紀」にはないが「記」では、垂仁が沙本毘賣を失った怒りの裡に、「玉作り」 の地を奪ってしまう。
  • 四道将軍の行動範囲
    九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。
    因以詔之曰、若有不受教者、乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。
    「9月9日、大彦おおひこ命を北陸に、武渟たけぬな川別かわわけを東海に、吉備津彦きびつひこを西道、丹波道主ちぬし命を丹波に遣わされた。
    詔りして『もし教えに従わない者があれば兵を以て討て』といわれた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。」

    有名な全国への派兵命令です。はっきり、従わない者は殺せと命令したものです。大和軍事国家宣言です。琵琶湖の北東と北西、そして東と西への派兵です。ここに南がありません。
    ところが、崇神天皇がまず、命令を下したのは、叔父、武埴たけはに安彦やすひこへの討伐命令でした。
    武埴安彦の謀反は伯父、大彦が倭迹迹日百襲姫に占った結果、発覚したものです。
    埴安彦は北の山背から、妻の吾田あた媛らの軍隊は東の河内と二方面から襲ってきたのです。大きな勢力であることがわかります。つまりは、国内すら統一できていない状態です。
    この武埴安彦とはどんな人物なのでしょう。彼は孝安天皇と河内の青玉繋の娘、埴安媛から生まれ、妻も河内の娘です。河内が勢力地区であることがわかります。主力部隊は伯父の大彦とその息子、武渟川別です。大彦は父開化天皇の実兄であり、東海を任された武渟川別は大彦の息子です。つまり、崇神天皇は、叔父の武埴安彦を殺すためにもう一人の伯父大彦親子に依頼したのです。
    武渟川別は後に東国を任されていますが、別件で崇神は長男豊城入彦にも東国を任せています。二人とも東国での武勇は聞こえてきません。
  • 畝尾坐健土安神社
     奈良県橿原市下八釣町にある神社。天香久山 北西麓、畝尾都多本神社北隣に鎮座。祭神は健土安比売命・天児屋根命。近世に天照大神社と 称したが、「延喜式」神名帳十市郡の「畝尾坐健 土安神社大、月次新嘗」に比定(大和志)。旧村社。畝 尾の訓について、「延喜式」金剛寺本はウネヒ、 九条家本はウネヲとし、十市郡には畝尾都多本 神社の名もみえる。「古事記」神代巻の「香山も 畝尾の木の本」はウネヲと読むのが定説になっ ており、式内社の場合は香山のうねりをもった 山の尾に鎮座する神と解釈されている。畝尾坐 健土安神社は「日本書紀」神武天皇即位前紀己未 年二月二〇日条に「天皇、前年の秋九月を以て、 潜に天香山の埴土を取りて、八十の平瓫を造り て、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂に区 宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処 を号けて、埴土と白ふ」とみえる埴安に鎮座し た土霊とされる。天平二年(七三〇)神戸の租稲 九〇束のうち四束を祭神料に充てられ(「大倭国 正税帳」正倉院文書)、天安三年(八五九)一月二七 日、従五位下より従五位上に昇叙した(三代実録)。 また大同元年(八〇六)に大和国に神封一戸を充 てられた畝尾神は(新抄格勅符抄)、当社のことか 畝尾都多本神社のことか明らかでない。なお 「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午九月条に埴 土を取ったと記す「天香山社」は、同じく十市郡 の式内社天香山坐櫛真命神社のことではな く、当社をさすとする説がある(大和志料)。神 社と天香久山の間に赤埴山という小丘があり、 埴安伝承地の石碑が建つ。「磯城郡誌」は「赤埴 山。香久山の西北に接続し、全山赤色粘土なれ ば赤焼土器に適するならん。土人これを赤せん 山と称し、香久山の中央西側は白色粘土なるを 以て、土人これを白こと称せり」と伝える。
    -『大和・紀伊 寺院神社事典』
  • 田神様
    福岡県朝倉地方は田神社の多い地域である。旧朝倉郡(地方)での田神社と天神社の数は60社以上である。
    田神社の祭神・田神様(タノカンサー)は「埴安命」「埴安姫」と表向き表示されるが、実際の祭神は義兄弟である大幡主と大山祗の二人で一体のご神体として祀られて、男性のご神体一体が奉安されている。これを百嶋神社考古学では「擬神体」といっている。
    祭神の公表では大部分、「埴安命」「埴安神」となっていて、「埴安姫」が数社あるが、大幡主と大山祗を一体としたご神体の祭神となる。恐らく、「埴安命」は存在せず、この祭神が男性の擬神体であろう。一般には、埴安命、埴安神単独では大幡主を指し、以後、埴安姫は埴山姫と名を変えられる。
  • October 2018 編集されました
    大彦命の御子は建沼河別命、彦背立大稲腰命、比毛由比命、波多武日子命、得彦宿禰(姓氏録)
            比古伊那許志別命、御間城姫、 (古事記)

    大彦命━━━┳━武沼河別命
          ┃ 
          ┃ 
          ┣━比古伊那許志別命
          ┃
          ┃ 
          ┣━比毛由比命
          ┃
          ┃ 
          ┣━彦背立大稲腰命
          ┃ 
          ┃
          ┣━御間城姫命
          ┃
          ┃ 
          ┣━波多武日子命━━┳━三宅人(摂津国 皇別 大彦命男波多武日子命之後也)
          ┃         ┃     ┏━越後 三宅人(造石山寺所関係文書 762年)
          ┃         ┃     ┃
          ┃         ┃     ┗━播磨 三宅人(播磨国風土記 715年)
          ┃         ┃             (藤原京木簡) 
          ┃         ┃     
          ┃         ┣━難波(河内国 皇別 難波忌寸同祖 大彦命孫波多武彦命之後也)
          ┃         ┃
          ┗━得彦宿禰命━━━╋━難波忌寸(河内国 皇別 大彦命之後也 ※異説並存)
                    ┃     
                    ┗━ 吉志 (摂津国 皇別 難波忌寸同祖 大彦命之後也)


    他に姓氏録に

     河内国 皇別   難波忌寸   大彦命之後也

     阿倍氏遠祖大彦命。磯城瑞離宮御宇天皇御世。遣治蝦夷之時。至於兎田墨坂。忽聞嬰児啼泣。即認□獲棄嬰児。大彦命見而
     大歓。即訪求乳母。得兎田弟原媛。便付嬰児曰。能養長安□功。於是成人奉送之。大彦命為子愛育。号曰得彦宿祢者。異説
     並存

     大彦命が蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探してみると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。これが難波忌寸の祖である。
  • October 2018 編集されました
    和風諡号 日本が付く人

    四代 懿徳天皇(いとく) 大倭日子鉏友命 大日本彦耜友尊 義仁 トシヒト 前510年
    五代 孝昭天皇(こうしょう) 御真津日子訶恵志泥命 観松彦香殖稲尊 海松仁 ミルヒト 前475年
    六代 孝安天皇(こうあん) 大倭帯日子国押人命 日本足彦国押人尊 押仁 オシヒト 前392年
    七代 孝霊天皇(こうれい) 大倭根子日子賦斗邇命 大日本根子彦太瓊尊 根子彦 ネコヒコ 前290年
    八代 孝元天皇(こうげん) 大倭根子日子国玖琉命 大日本根子彦国牽尊 元杵 モトキネ 前214年
    九代 開化天皇(かいか) 若倭根子日子大毘々命 稚日本根子彦大日日尊 太日日 フトヒヒ 前158年

    四十三代 元明天皇(げんめい) 日本根子天津御代豊国成姫天皇 日本根子天津御代豊国成姫天皇 阿閇 707年
    四十四代 元正天皇(げんしょう) 日本根子高瑞浄足姫天皇 日本根子高端浄足姫天皇 氷高 715年

    崇神、垂仁には、五十が付く。

    代 崇神天皇(すじん) 御眞木入日子印恵命 御間城入彦五十瓊殖天皇 五十瓊殖 ヰソニメ 前97年
    十一代 垂仁天皇(すいにん) 伊久米伊理毘古伊佐知命 活目入彦五十狭茅尊 五十狭茅 ヰソサチ 前29年
  • 古事記
    〔仁徳天皇〕

    始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。
    その翌朝、(父親の)応神天皇は大臣・武内宿禰を召して
    「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。大臣は
    「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」
    と言いました。

    この時天皇は言いました。
    「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

    そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。(日本書紀)
    少し変な気分です。
    だって、壱岐真根子が竹内宿禰の身代わりで死んだ原因は、
    応神天皇が竹内宿禰の殺害命令を出したからでした。

    ところが、今度はお互いの子供が同じ日に生まれたから、名前を交換して契ろうという訳なのです。
    ずいぶん信頼関係が変化しました。応神天皇はもちろん神功皇后の御子です。
    系図を出しましょうね。
  • 宇美八幡宮の縁起
    本宮 古名を長野八幡宮という。

    神功皇后、三韓御渡航の折、船上に神あり。「吾は新羅の神、清瀧権現なり」と「皇后の国土を守護せん。」よって、神功皇后が無事御帰朝の際、当山にて報賽の祭りを執り行ったという。

    その後、第16代仁徳天皇の治天10年、平群木菟(つく)の宿禰の子、博公を神主として、この霊蹟に神社を建立し、気比大神(天日鉾尊)を祀らせたのが本宮の起源である。
    古名を長野八幡宮というのは、所在地が長野という地名だからです。

    縁起では神功皇后の渡航の船に新羅の神が現れて守護してくれたので、凱旋後、ここで報賽の祭を行い、
    平群のツクの子が気比大神を祀ったのが起源だと書いてあります。

    気比大神はアメノヒボコだと書かれています。(気比神宮ではイザサワケです。)
    新羅攻撃なのに新羅の神が現れて、倭国の方の応援を約束したという事になります。

    古事記によると、このあと13年後には応神天皇と気比の大神の名前交換も行われています。
  • November 2018 編集されました
    名前を交換した人。

    応神天皇 ーーー 気比大神(天ヒボコ)、垂仁天皇の時代に来日

    仁德天皇(ミソサザイ) ーーー 平群ツク(ミミズク)、竹内宿禰の子


    『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記す。

    応神天皇は、ずいぶんと、のちの時代になって昔の新羅王子の名前と交換?
    応神天皇の時代のヒボコの末裔は、誰でしょう。




    田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。

    『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。

    三宅連について『新撰姓氏録』右京諸蕃 三宅連条・摂津国諸蕃 三宅連条では、いずれも天日桙命(天日槍)後裔と記されている。
  • November 2018 編集されました
    『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子の天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。その神宝とは次の5物、

    羽太の玉 1箇
    足高の玉 1箇
    鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇
    日鏡 1面
    熊神籬 1具
    であった。ただしこれらとは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府(みくら:奈良県天理市の石上神宮の神府か)に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする

    また、同条では続けて昔話として、新羅王子の天日槍が小舟に乗って但馬国に停泊し、そのまま但馬に留まったと伝える。そして天日槍は但馬国の前津耳(一云に前津見または太耳)の娘の麻拕能烏(またのお)を娶り、麻拕能烏との間に但馬諸助を儲けたとし、これが清彦の祖父であるという
  • 01/08編集されました
    仮説のようですが、、、

    https://07197046.at.webry.info/201603/article_3.html

    雄略9年2月、凡河内直香賜を宗像神を祀らせるために采女と一緒に遣わいたところ、この采女を犯したために摂津三嶋の藍原で殺されたと書いてある。以前書いたように、この凡河内直香賜は南九州から来た大山祇神の可能性が高い。

    そして崇神10年9月、武埴安彦と阿田媛が謀反を起こす。
    雄略9年は継体9ねん、崇神10年は継体10年とする。
    継体天皇は7年に崩御している。
    一年から一年半かけて磐井の乱を鎮圧し、継体9年2月凡河内直香賜が采女を犯した罪で殺され、
    翌10年9月に父もしくは兄弟が殺されたことを恨みに思って吾田媛が謀反を起こす。
    話がつながるようだ。
  • 凡河内直氏は現在の神戸市湊川付近に「凡河内寺山」を領し(「法隆寺伽藍縁起資材帳」)、摂津国菟原〔うはら〕郡に河内国魂〔かわちくにたま〕社があること(「延喜式神名帳」)も西摂〔せいせつ〕地域(摂津国西部)への勢力の扶植〔ふしょく〕をうかがわせます。凡河内直氏は猪名湊〔いなのみなと〕・武庫水門〔むこのみなと〕を管理し、この尼崎地域とも関わりを持ったと考えられます。凡河内直氏は凡河内国造〔おおしこうちのくにのみやつこ〕とも称しました。国造とは地域の有力豪族である場合が多いのですが、凡河内国造の場合は港湾管理や外交など、王権の官僚的性格が強いのが特徴です。摂津地域が元来の本拠地であったかどうかはわかりません。この一族の本貫地(本籍地)が河内国志紀郡にあるという記録もあり(『日本三代実録』元慶7年6月条)、港湾管理などの職掌上この地に勢力を扶植したとも考えられます。

    凡河内直氏からは継体天皇の子である宣化天皇の妃となった大河内稚子媛〔おおしこうちのわくごひめ〕が出ました。6世紀前半のことです。その間に生まれた火焔〔ほのお〕皇子を祖とするのが椎田君〔しいだのきみ〕一族です(『日本書紀』宣化天皇巻)。『日本書紀』では宣化天皇の后、橘仲皇女〔たちばなのなかつめみこ〕のもとに生まれた上殖葉〔かみつえは〕皇子を祖とするものとして丹比公〔たじひのきみ〕・偉那公〔いなのきみ〕一族を挙げるのですが(『日本書紀』宣化天皇巻)、『古事記』では火焔皇子・上殖葉皇子両者を大河内稚子媛のもとに生まれた皇子としており、やはり丹比公・偉那公一族は、上殖葉皇子の子孫としてあります。『古事記』と『日本書紀』の系譜にくい違いがあるのですが、偉那公とは為奈〔いな〕・猪名とも表記する猪名地域ゆかりの氏族名です。椎田君も尼崎市内の地名・椎堂〔しどう〕と関連し、一族には川原公〔かわらのきみ〕(市内の瓦宮と関連)がいます
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