隋書 倭国伝、多利思比孤、裴世清

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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『隋書』 倭国伝 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の…

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コメント

  • 晋書に、泰始二年11月巳卯 倭人の使者が入貢した記事がありますから、266年になります。この後、倭国のことは中国の史書には現われません。
    次に記録されるのは、同じく晋書と宋書に「倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年,」で始まるもので、良く知られる倭国王讃・珍・済・興・武が、413~478年の間に使いを送って貢物を献じたとあります。ほぼ150年間の空白があります。
    何故、中国の史書から消えてしまったのでしょう
  • October 2018 編集されました
    第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。
    『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。
    「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ)、字(あざな)は多利思比孤(タラシヒコ)、阿輩雞彌と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。(中略)王の妻は雞彌と号す。(中略)太子を名づけて利歌弥多弗利と為す
    (『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
    文帝の開皇20年(600年)は、推古8年である。阿毎多利思北孤は天を兄とし、日を弟とし、その名は天より垂下した尊貴な男子という意味で、天孫降臨を思わせる。「阿輩雞彌」はオオキミの音を写したものと見られている。そうすると6世紀末の時点で俀王は国内で「大王(オオキミ)」と称されていたことが分かる。

     隋の「開皇二十年、倭王、姓は阿毎(あま)、字は多利思比孤阿輩雞弥(たらしひこおおけみ:天足彦大王)と号し、使いを遣わして闕(宮・長安)に詣る。上(皇帝)、所司(長官)をしてその風俗を訪わしむ云々33)」と。隋の開皇二十年は、書紀によれば(女帝)推古天皇八(600)年にあたり、書紀では厩戸皇子は27歳で摂政として活躍していた頃です。ところが、「王の妻は雞弥と号し云々。太子を名付けて和歌弥多弗利とす」と書いています。

     遣隋使が伝えた倭王は、まさしく男王です。書紀が書いた女性の推古天皇ではない。

     また、隋の「大業三年(607年)、その王の多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。また、明年(大業四年、608年)、文林郎の裴清を遣わして倭国に使いす33)」と、今度は、遣隋使の帰国とともに隋の使者が大和に来ています。

     使者が帰国して後に書かれた「隋書」には、倭王はやはり600年の時と同様、男王・多利思比孤で、推古女帝や太子・厩戸皇子の名前の片鱗も出ていません。

    乙巳の変645年
    昔は中大兄と中臣鎌足が蘇我蝦夷を殺害した事件をもって「大化の改新」といいましたが、現在ではこの事件は「乙巳の変」と、単にこの年の干支を取って呼んでいます。この殺害事件自体に改新といった意味合いはなかったとみられるからです。そして乙巳の変に続く孝徳天皇による一連の政治改革のことを「大化の改新」と呼んでいます。

    事実が改竄されたか?

    果実を得たのは軽皇子(孝徳天皇)という脇役

    中大兄は勝利しました。だが、最大の功績者であるはずの彼が政権を握ることがなかった
    蝦夷が自殺した翌日、皇極は弟の軽皇子に譲位しました。
    当初、皇極は自分の実子である中大兄に譲ろうとしましたが、中大兄は鎌足との相談の結果、軽皇子を推薦し辞退したとされています。

    軽皇子は「年長の古人大兄がいるので、彼がなればいい」と言うと、入鹿を失い孤立無援の古人大兄は「私は出家します。軽皇子がなってください」と言って、その場で刀を外し、すぐに飛鳥寺にいってひげと髪をそり、袈裟《けさ》をかけて出家してしまいました。
    「はい。では私が天皇になります」などととてもいえる空気ではなく、むしろ命の危険を感じたのでしょう。

    そして皇位についたのは、軽皇子でした。「孝徳天皇」の誕生です。

    日本書紀が隠す黒幕とは、事件がなければ皇位につく可能性がほぼゼロだった軽皇子とするのが、最も可能性が高いのです。

    なぜこの時、中大兄は即位できなかったのか。2つの理由が考えられます。

    1)19歳ときわめて若くてこの時点では即位する条件を満たしていなかったこと

    2)みずからの手で血で汚した重大な罪を背負ったこと
  • January 2017 編集されました
    『新唐書』日本国伝
     「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

     「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
     『隋書』イ妥国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(イ妥国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』のイ妥国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
    http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/ama-tarisihoko-an-emperor-of-wa/
  • October 2018 編集されました
    多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。

    『隋書』はこの王を妻のいる男性としており、男性の王は『日本書紀』、『古事記』には記述が無い。『旧唐書』卷199上 列傳第149上 東夷 倭國 においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。
    『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり多利思北孤を多利思比孤とし用明天皇としている。

    太子名(固有名詞説と普通名詞説がある)のうち利を和の誤りとする説がある。
    古来の大和言葉では、原則として「ら行」音は語頭に立たない(万葉仮名では語頭にr音が来ない)ことから、「利」を「和」の誤りとして「利歌彌多弗利」を「和歌彌多弗利」とする。また、「和歌彌多弗利」を源氏物語等にもあらわれる「わかんどほり(皇室の血統、皇族)」とする説もある。
    なお、『翰苑』には「王長子号和哥彌多弗利。華言太子。」とある。
  • October 2018 編集されました
    用明天皇

    別称:大兄皇子、橘豊日命、橘豊日天皇
    父親. 欽明天皇. 母親. 蘇我堅塩媛
    皇后. 穴穂部間人皇女
    子女. 田目皇子、聖徳太子、当麻皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、酢香手姫皇女

    間人皇女
    京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。ただし、『日本書紀』『古事記』などの文献資料には穴穂部間人皇女が丹後国に避難したとの記述はない。

    子女:
    厩戸皇子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子(以上用明天皇との子)・佐富女王(田目皇子との女)
    孫:山背大兄王・財王・日置王・片岡女王・白髪部王・手島女王・長谷王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王・春米女王・久波太女王・波止利女王・馬屋古女王(以上用明天皇との孫)・葛城王・多智奴女王(以上田目皇子との孫)

    上宮王家
    『日本書紀』皇極紀[1][2]によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。

    蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある。

    だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。

    皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

    結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。
  • 阿輩雞弥、自表天兒之稱

    今案

    其王姓阿毎、國号為阿輩雞、華言天兒也、父子相傳、王有宮女六七百人、王長子号(和)哥弥多弗利、華言太子。》
    因禮義而標祑、即智信以命官
    《括地志曰
    「倭國其官有十二等、一曰麻卑兜吉寐、華言大徳、二曰小徳、三曰大仁、四曰小仁、五曰六義、六曰小義、七曰大礼、八曰小礼、九曰大智、十曰小智、十一曰大信、十二曰小信。」》

    http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_text4.htm

    http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_ref11.htm

    原文

    開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
  • October 2018 編集されました
    今案、其王姓阿毎、國号為阿輩雞、華言天兒也。(翰苑 蕃夷部 倭國)
    「阿輩雞」の後ろに「彌」が抜けているが、「阿輩雞彌」は中国語で「天児」のことだと書かれている。オオキミとよんでいるが、天命による天子ではない。

    日本側の中国文の誤訳で「阿輩雞彌」が大王になっている。
    翰苑では國号為阿輩雞、国号が阿輩雞なる。と言っているが、文頭に【今案】がある。
    今にな考えればということ。不確か。

    王長子号(和)哥弥多弗利:和の聖徳太子?

    第1回遣隋使は、600年(推古8)に派遣された。
    『隋書』にみえるが、『日本書紀』には記載はない。
    因みに、『隋書』の著者は、魏徴(?- 貞観17年(643))である。
    「開皇20年、俀王あり、姓は阿毎(アメ)、字(あざな)は多利思比孤(タラシヒコ)、阿輩雞彌と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。(中略)王の妻は雞彌と号す。(中略)太子を名づけて利歌弥多弗利と為す(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)

    俀国伝の次の記事

    a  開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
    b  王妻號雞彌、後宮有女六七百人、名太子爲利歌彌多弗利。

  • October 2018 編集されました
    「名太子爲利歌彌多弗利」
    http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_text4.htm

    「名A爲B」という文型である

    問題はこれが「利歌彌多弗利という名の太子がいる」という意味なのかどうかである。『隋書』には「名A爲B」又はAが先に来る「A…名爲B」という形の文が全部で42例ある。これを【資料14】としてまとめておいた。なお、標点本で傍線を引いて固有名詞と見なしている部分を赤字に、波線を引いて書物の名前と見なしている部分を青字にしておいた。
     これらを眺めると、重要な事実に気づく。Bの部分には、10や37のように青字(書名)になっている例はあるが、赤字(固有名詞)になっている例は一つもない。つまり標点本では一般に「名A爲B」の構文ではBを固有名詞とは見なしていないのである。ではBが固有名詞ではないとしたら、「名A爲B」や「A…名爲B」はどんな意味になるのであろうか。

    それでは逆に、「AをBと名付ける」という場合は漢文ではどう表現されているのだろうか。『隋書』の中に次の例がある。

    c  文帝名皇太子曰勇、晉王曰英、秦王曰俊、蜀王曰秀。(隋書 志第十七 五行上)

     「文帝が皇太子を勇と名付けた」という場合に「名A曰B」という文型を用いている(魏志倭人伝でも「共立一女子爲王、名曰卑彌呼」と書かれている)。
     以上の調査により、俀国伝の「名太子爲利歌彌多弗利」は、「太子を利歌彌多弗利と名付けた」という意味ではなく「(俀国では)太子のことを利歌彌多弗利と呼んでいる」という意味であることがわかる。つまり、「リカミタフ(ホ)リ」というのは個人名ではなく、太子という意味の倭語(普通名詞)だったのである。標点本で傍線が付いていないのも当然であろう。
     では、太子のことを倭語で実際に「リカミタフ(ホ)リ」と呼んでいたという痕跡はあるのだろうか。
     「ワカンドホリ」という古語がある。三省堂の『新明解古語辞典』によると、「皇室の御血統。皇族」とあり、『源氏物語』の「なまわかんどほりなどといふべき筋にやありけむ」という文例が載っている。この語については関口昌春氏の『ふたりの聖徳太子』126頁以降に詳しく述べられていて、それによると、『源氏物語』『宇津保物語』などの用例から、これは皇族・王族に関連した意味だろうという考え方が一般的であるという。これは太子(=天子の跡継ぎ)の意味が変化したものである可能性が十分ある。
     また、音の変化については、「カミタチ(神館)→カンダチ」に見える「カミ→カン」や、「ダホ→ドホ」という母音の同化により、「カミタホリ→カンドホリ」という音韻変化は説明可能である。

    王長子号(和)哥弥多弗利、華言太子。(翰苑 蕃夷部 倭國)

     原文では「哥弥多弗利」と書かれた「哥」の字の右上に「和」と朱書きされている。fは、“王の長子を「和哥弥多弗利」と呼び、これは中国語で「太子」のことである”という意味であるから、先の“「利歌彌多弗利」は「和歌彌多弗利」の誤りで、太子という意味の普通名詞である”という結論を裏づけるものとなっている。
  • October 2018 編集されました
    g  次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、 始與中國通。(新唐書 東夷 日本)
    h  按、隋開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、遣使致書。
    (宋史 外国七 日本國 【資料3】の『王年代紀』引用部分に続く本文中)

     ここでは「多利思北孤」が「目多利思比孤」とか「自多利思比孤」となっているが、この頭の「目」とか「自」は衍字と考えられている。しかしこの「衍字」は『新唐書』や『宋史』が初めてではなく、801年成立の『通典』に既に出て来るのである。

    i  隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名自多利思比孤、其國號阿輩雞彌、華言天兒也、遣使詣闕。(通典 第一百八十五 邊防第一 倭)

    「多利思北孤」は『隋書』でも『通典』でも個人名と見なされていることがわかり、推古紀との間に王名の矛盾があることは確実になった。しかも「多利思北(比)孤」は「タリシ矛」又は「タリシ彦」で、どう見ても男性の名前であり、さらにbによれば王には妻がおり、後宮に女があるというのであるから、推古女帝とは性別も矛盾しているのである。
  • 俀国伝の大業3年条には「聞、海西菩薩天子、重興仏法。故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法」とある
    推古紀15年条には小野臣妹子と鞍作福利の2人の名前しか出てこない

    「隋書俀国伝」では、この部分を次のように訳している。

    a  海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆されていると聞いた。故に使して朝拝し、かたがた僧侶数十人が来て仏法を学びたい。(『東アジア民族史』1 p322)

     古田氏が「故遣朝」以下を「現在形」で読んだのに対し、この訳では「未来形」で読んでいる。漢文ではどちらも可能であるが、実はこの場合、未来形で読めば矛盾など生じないのである。なぜなら、翌推古16(大業4)年の遣使に次の記事が存在するからである(【資料15】のθ)。

    b  是の時に、唐の国に遣はす学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀、学問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人広濟等、并せて八人なり。

     すなわち、大業3(607)年の遣使時に告げた「故に使して朝拝し、かたがた僧侶数十人が来て仏法を学ぶ」というのは実は「予告」であり、翌年の遣使のときにこれを「実行」したのである。つまり、「大業三年の遣使が数十人の大使節団だった」のではなく、「大業三年の遣使時に、近々数十人の大使節団を送りこむという予告をし、翌年それを実行した」のである
  • 大業4年の遣隋使

    俀国伝と推古紀の間には、裴世清を迎えた使者の名や日付等のすべてに対し、明確に齟齬が存在している。
    俀国伝における出迎えの使者の名前を抜き出すと次のようになる。

    俀国伝(大業3年条)
    (1) 到着した海岸で数百人を従えて出迎え ……    アハイダイ 小徳・阿輩臺
    (2) 後十日、二百余騎を従えて出迎え …………    カタヒ 大礼・哥多[田比]

    一方推古紀における出迎えの使者の名前を抜き出すと次のようになる。

    b 推古紀(推古16年条)
    (3) 4月、筑紫で出迎え ………………………… 難波吉士雄成
    (4) 6月15日、難波津で飾船三十艘で出迎え …中臣宮地連烏摩呂 大河内直糠手 船史王平
    (5) 8月3日、京で飾騎七十五匹で出迎え ……額田部連比羅夫
    (6) 8月12日、朝庭で出迎え ……………………阿部鳥臣 物部依網連抱
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