河内の息長氏、杭俣長日子王

December 2018 編集されました カテゴリ: 河内
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日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、その流れから15応神天皇妃「息長真若中比売」が…

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  •  息長氏の本拠地といえば、通常は近江国とされ、 「天日矛(神功皇后の母方の祖)が近江国でしぱらく住んだという吾名邑(アナムラ)に比定される坂田郡阿那郷(現米原市箕浦付近か)は、のち息長村と呼ばれ、息長一族の本居であった」
    というが(青銅の神の足跡・1989)、本貫は山城国綴喜郡(当地付近)であって、その後、近江国坂田郡や摂津国東成郡(現大阪市平野区付近)に進出したともいう。
     これをうけてか、当社社頭の案内には
     「カニメイカヅチ王は、垂仁天皇の御代にこの地を治められ、その子孫朱智姓を名乗る」
    とあり、その父・ヤマシロノオオツツキマワカ王の頃(4世紀中葉末頃か)当地に進出したとするネット資料もある。

     それを証するに足る史料はないが、
     ・ヤマシロノオオツツキマワカ王の名に、“山代(山城)”・“筒木(筒城)”と当地に関連する地名が含まれ、当地との関わりが推測されること
     ・継体天皇が即位した楠葉宮から遷ったとされる筒城宮(511--17)は、現京田辺市内にあったと推定されているが、継体が当地に都したのは、当地一帯が継体と関係の深い息長氏の勢力圏だったのが一因ではないかということ
     なお、筒城宮跡の候補地として、多々羅都谷(当社の北東約4.2kmほどの同志社構内付近)など8箇所ほどが挙がっているが、いずれも地名などからの推定で、発掘調査などで確認されたものではない(筒城宮遷都1500年記念シンポ資料集・2011)
     ・中世の頃、普賢寺庄の庄官であった下司家(ゲシ)が息長氏の後裔と称していたこと
     ・当社の北東約3kmの山麓・普賢寺川沿いにある観音寺(京田辺市普賢寺谷下、大御堂観音寺ともいう)の前身である息長山普賢寺(チョウソクサン フケンジ)が、山号に“息長”を冠すること
     普賢寺について、興福寺官務牒疏に
     「普賢寺 同州綴喜郡筒城郷朱智長岡荘に在り、天平16 甲申年-744-(聖武天皇の)勅願により良弁僧正再造開基、息長山と号す。朱智神社を以て守護神と為す」
    とあること、(ただ、この官務牒疏は江戸後期の偽書であって、その著者・椿井政隆が普賢寺に息長山の山号を冠したともいう--上記・椿井文書)
     現観音寺に天平期-8世紀前半-に製作された十一面観音菩薩像-国宝-があること、付近の発掘調査により、7~8世紀の瓦や塔心礎跡などの遺構が出土していることから、奈良時代以前に建立された寺院があったのは事実で、息長氏の関与が推測されるという(ネット資料・同志社大歴史資料館館報第10号)
    など、当地一帯には息長氏との関係を示唆する事例が多く、息長氏は当地付近を本貫とし、後に近江国・摂津国などに勢力を広げたというのは史実かもしれない。
  • 山城の朱智神社
     社殿・拝所脇に掲げる案内(田辺町・昭和32年)には、
     「当社はもと、此地より西方三町余の所に有り、仁徳天皇の69年に社殿を建て、朱智天王と号しました。
     迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当たられ、垂仁天皇の御代にこの地を治められて、その子孫朱智姓を名乗りました。
     須佐之男命が相殿として祭られたのは、桓武天皇の御代であります。
     その後、清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都 八坂神社に遷し、毎年、榊遷しの行事を行いましたが、何時よりかなくなりました。
     明治維新に至り、神祇官に上請して天王社を古名の朱智神社に復し、明治6年6月郷社になりました」
    とあるが、
     「仁徳天皇の時代に、現在地より西方の西峯頂上に創建され、宣化天皇元年(535)天王号を付け、朱智天王と称した」
    ともいう。
     創建時の鎮座地・西峯の位置は不明だが、今、当社の南南西約300m付近に“天王峯”との地名があり、その辺りかもしれない。

     当社に対する神階授叙記録等はみえず、公的記録による確認は不能だが、古文書・興福寺官務牒疏(1441・室町時代)に、
     「朱智天王神 同郷(普賢寺郷)西之山上に在り、山代大筒城王の児・迦爾米雷王を祭る、相殿素盞鳴命、大宝天王(牛頭天王)とも号す」(漢文意訳)
    とあり、朱智天王社と称していたという。
     下記するように、当社に藤原時代造の牛頭天王像があることからみると、早くから牛頭天王社と認識されていたと思われる。
     (ネット資料・椿井文書他によれば、この興福寺官務牒疏なる古文書は、江戸後期-18世紀末~19世紀初頭頃か-に作られた偽書として、上記記述も、“山城志-1734-に「所在不明」とした式内・朱智神社を、天王村牛頭天王社に付会したもの”として、その信憑性に疑問を呈している。但し、全文入手不能のため、その信憑性は不明)

    ◎息長氏
     主祭神・迦爾米雷王(カニメイカヅチノミコ)の出身氏族である息長氏(オキナガ)は、
     ・古代大王や皇族などで、息長氏出身の女性を妃とした人物が多いこと
     ・天武朝における八色(種)の姓(ヤクサノカバネ)制定(685)に際して、最も高貴な姓である“真人”(マヒト)の姓が与えられたこと
    など、朝廷との関係が深い氏族だが、政治的には表面に出ることは少なかったといわれ、謎の多い氏族でもある。

     息長氏の系譜は輻輳していてはっきりしない点もあるが、古事記によれば、
      開化天皇--日子坐王(彦坐王)--山代大筒木真若王(山代大筒城真稚王とも記す)
       --迦爾米雷王--息長宿禰王--神功皇后(仲哀天皇)--応神天皇
    となる(書紀には見えない)。
     開化の第三子・日子坐王(ヒコイマスノミコ・崇神天皇の異母弟)には15柱(男子12柱)の御子があり、多くの氏族の祖とされているが、その一柱・山代大筒木真若王(ヤマシロノオオツツキマワカノミコ)からその子・カニメイカヅチ王へと連なる系譜から息長氏が出ている。
  • 河内喜連に在った「家記」は建御雷男(タケミカヅチ)の子孫・大々杼彦人は、神武帝から「大々杼」の姓と共に「剣臣(つるぎおみ)」の号も賜ったと記されています。その「剣」を冠した神社が福井越前にあり、謀反の疑いで神功皇后に攻められ滋賀大津で亡くなったはずの忍熊王(応神帝の義理の兄)が気比大神と共に祀られているのは一体何故なのでしょう?また、応神帝(ホムタワケ)が、正に、その気比大神・イザサワケと「名を取り替えた」という伝承は、何を意味しているのでしょうか

    出典:http://www.ten-f.com/kawachi-to-okinaga.htm
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