大井神社、意富比神社、大炊

July 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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意富比神社、船橋大神宮 船橋大神宮 千葉県船橋市宮本(JR総武線の船橋駅の東南方近隣で、京成電鉄の大神宮下駅の…

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  • 大枝神社(京都市西京区)
     阪急京都線・桂駅の西約4kmに鎮座する。
     桂駅西側のバス停から西5・桂坂中央行(時間2本)に乗車、桂坂口下車。すぐ横の交差点を西へ、府道142号線を約5分ほど行った右側(北側)山麓に鳥居が立つ。社名は“オオエ”と訓む。

    ※由緒
     創建由緒・年代等の詳細は不明だが、社頭に掲げる案内(大枝神社奉賛会)によれば、
     「康保4年(967)施行の延喜式には、神社の名前として『乙訓郡 大井神社』と記載されている。
      現在の祭神は高美計神(タカミケ神)である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている」
    とあり、式内・大井神社の後継社と称している。
     ただ、神社覈録(1870・明治初年)には、
     「山城志(1734・江戸中期)に、“沓掛村に在り、今千兒明神(チゴミョウジン)”と云ふ。然れども他書にかくいへるものなく、もとより地名なるべきに、此辺に大井てふ名の残れる所もなければ、今従はず」
    とあり(式内社調査報告)、式内社であることに疑問を呈している。

     当社の祭祀にかかわった大枝氏とは、新撰姓氏禄(815)に、
     「右京神別(天神) 大枝朝臣 土師宿禰同祖 乾飯根命七世孫大保度連之後也」
        (土師宿禰--右京神別 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也)
    とある氏族で(渡来系氏族との説あり)、伝説的人物・野見宿禰(垂仁紀)を出した土師氏(ハジ)から別れたという。

     一族から桓武天皇の母・高野新笠(タカノニイカサ、?--790・光仁天皇中宮、母方が土師氏)が出るに及んで、続日本紀(797)桓武天皇・延暦9年(790)12月1日に、天皇の詔として
     「朕は即位して10年になるが、亡くなった人を追尊して称号を贈ることをしなかった。そこで、母方の祖父・高野朝臣乙継と祖母の土師宿禰真琴にそれぞれ正一位を追贈する。
     また祖母の氏である土師氏を改めて“大枝朝臣”とするように。・・・」
    とあり、同年12月30日条には、
     「正六位土師宿禰諸士(モロジ)らに『大枝朝臣』の氏姓を賜った。
     その土師氏にはすべてで四つの系統があり、中宮(高野新笠)の母親の家は毛受(モズ)の系統に属していた。そこで、毛受の系統の土師氏には“大枝朝臣”を賜い、その他の三つの系統の者には“秋篠朝臣”や“菅原朝臣”を名乗らせた」
    とあり、桓武の母・高野新笠が出た系統が大枝氏という。

     その大枝氏が当地に居たことを証する直接的な史料は見えないが、
     ・当社一帯の地名に“大枝”を冠すること
     ・当社の西約300mほどに“高野新笠大枝陵”があること(宮内庁管理)
    などから、当地が大枝一族の根拠地であったこと、当社が大枝氏奉斎の神社であったのは確かであろう。
     なお大枝氏は、後に同じ読みの“大江”と改姓している(866)。

     以上からみて、当社が相当古い神社であるとはいえるが、当社を式内・大井神社とするのは、並河誠所(1668--1738、江戸中期の国学者、当時、既にわからなくなっていた畿内の式内社を調査検証し、式内社として比定したという)が編纂した山城志のみで、そこには比定根拠が記載されておらず、何を以て式内社としたかは不明。

     なお、山城志には「今、千兒明神と云ふ」とある。
     チゴ明神とは、曾て、当社に聖徳太子幼児像が祀られていたことからの呼称で(奉祀由緒など不明)、今は分離して、当社の東約900mの大枝塚原町に遷り、兒児神社と称している(分離時期不明)。

    ※祭神
     今の祭神は高美計神(タカミケ)というが、記紀等にその名は見えず出自・神格等は不明。
     ただ古く、タカミケの“ミケ”が食物を意味したことから、嵐山の大井神社の祭神・ウカノミタマと同じ神格とみられ(タカは尊称)、大枝氏あるいは在地の人々が、五穀の豊饒を願って祀ったのであろう。
     しかし、当社が大枝氏の氏神社であるとすれば、氏の祖(土師氏の祖や高野新笠など)を祭神とするのが順当とも思われ、現祭神が創建当初からのものかどうかは不詳。

    ※社殿等
     道路脇からの石段の上に鳥居が立ち、参道を進んだ先のやや急な石段を登った上が境内。
     背後に山が迫る境内の中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に朱塗りの柱・白壁の本殿覆屋(流造・瓦葺)が建つ。
     覆屋内の中央に一間社流造・檜皮葺の本殿が鎮座し、その右に社名・祭神名不明の小祠がある。

    大枝神社/鳥居
    大枝神社・鳥居 大枝神社/拝殿正面
    同・拝殿正面 大枝神社/拝殿
    同・拝殿
    大枝神社/本殿覆屋
    同・本殿覆屋 大枝神社/本殿
    同・本殿
     社殿右に稲荷社が、左に末社合祀殿(八幡社・天満宮)が、境内左手に山の神を祀る小祠があるが、いずれもそ勧請由緒・年代など不明。
  • August 2017 編集されました
    富家と船橋御殿

    富氏は、遠く平安時代にまで遡る系図を持つ船橋大神宮の宮司を代々務めた高位の神官 であった。船橋大神宮は、日本武尊の戦勝祈願の地と云う創建伝承を持つ古社である。 家康が初めて参詣したのは、江戸入府間もない天正19年(1591)のこと。関東の惣社にして 江戸城守護の神社として参宮ーこの時富氏の屋敷を仮の御殿としたーと古書に伝える。こ れが富家と徳川将軍家との縁の初まりのようである。時の当主は富基重であった。彼は関ヶ 原の戦いに家康軍に付き従ったという伝えが有る程、家康命の人だったようだ。そのかい あってか、慶長13年(1608)家康は、神社の改築を命じ木造の日本武尊像を奉納した。更に 慶長17年(1612)、富氏より土地・邸宅の提供を受け家康の命により関東郡代の伊奈忠政が 船橋御殿を造営した。土地は約4800坪という広大なものであり、御殿は鷹狩りの際の休 憩・宿舎として使われた。くだんの御成街道の造成に先立つものである。

    慶長18年(1613)12月12日に、家康は江戸城に居た佐倉城主の土井利勝に対し急遽、翌年 正月に、上総東金辺りで鷹狩りをしたいので、その準備を命じたと云う。 利勝は、この 命に応え僅か26日間という短期間で、船橋から東金迄の間に約34kmの新道を造成した。 旧東金街道とは異なり、ほぼ直線道路を沿道の村々の農民達を動員し、昼夜兼行の突貫工 事で完成させた。この為、この御成街道は別名一夜街道とも呼ばれた。更に、道路に加え て休憩・宿泊施設としての御殿(御茶屋、東金)を造営、街道筋の警護体制の検討、東金辺 りの鷹狩場の整備などの段取り迄つけた。こうして、翌慶長19年(1614)1月7日江戸城から の鷹狩りの為の御成に無事間に合わせた。」
    この時の御成街道の造成と鷹狩りは、単なる娯楽の為ではなく大坂での戦雲近付いて
    いた頃であり、次のような説もあると云う。曰く、江戸から九十九里浜に至る逃走経路の確保の為、とか、今だ不穏な情勢の関東の外様大名への威圧の為ではとも云う。新設した東金御殿で大坂冬の陣の密談をしたのだと云う説もあるようだ。何かにつけ慎重な事で知られる家康のこと故有り得たかも。
    この鷹狩りの後、11月には大坂冬の陣を戦い、翌年に は夏の陣で豊臣家を滅ぼした。その年、元和元年(1615)冬 11月には、二度目の東金辺りでの鷹狩りを楽しんだのだ が、翌年の元和2年4月には亡くなってしまい、御成街道に 再び姿を見せる事は無かったと云う。
  • 東金・富家秘蔵の家宝
    東金市教育委員会発行の『東金市史総集編』 (1987年刊) の中にあるとのこと。
    ●富家は、元々船橋大神宮の宮司であり、境内の常盤神社の宝物を代々保管してきた。
    ●明治時代に富家は宮司を退き、昭和になってから東金市の旧東金御殿近くに移住した。
    ●先祖伝来の「常盤御箱」は、箱の由来書きにより 江戸時代中期以降 秘蔵されてきた。
    ●昭和57年(1982)に、家康研究の一助になればと、開封し公開したものである。
    ●肖像画は家康直筆の書状・文章・絵・枕槍、秀忠の書等、13点の内の1点である。
    ●駒沢大学所理喜夫教授等家康研究の専門家はこれらの史料を90%以上真筆と鑑定した。
  • 静岡の富士川周辺には例の、秦川勝に叱咤された大生部の多(おおうべの・おう)一族が住まっている。「枕草子」に「浦はおほの浦」とあり、中世には於保、「和名抄」に飯宝、飫宝と書いて「おう」とある。静岡県磐田市のことである。ここから太平洋を北上すると千葉県袖ヶ浦に飯富(いいとみ)があり、式内飫富(おう。現在は飽富)神社がある。さらに北上して茨城県
    行方(なめかた)郡潮来町に大生原(おおうはら)がある。ここは建貸間(たけかしま)命軍勢が「杵島歌」を歌って国栖(くず)という山賊をおびき出して殺した記録が『常陸国風土記』にある。「きしま」は「かしま」であるので茨城県鹿島郡の「かしま」と同じである。その「きしま」は阿蘇山のひとつ杵島岳に由来する地名である。また同じ風土記に「ヤマトタケル食事を煮炊きするために小屋を海辺にかまえ、小舟を並べ連ねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(おおい)の意味をとって大生と名づけた」ともある。これらの「おう」地名はすべてが多氏居住の痕跡であると言える
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