紀伊、伊太祁曽神社、五十猛

July 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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続日本紀大宝二年二月二十二日条に見える 「是日、分遷伊太祁曾・大屋郁比売・都麻都比売」という記事がある。 大宝…

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コメント

  • 09/16編集されました
    大屋毘古神は諾冉二神の国生みの後に生まれたとあり、古い神との認識があったようだ。紀氏が名草を支配する以前の人々が祀っていた神かも知れない。
     現在は、五十猛神と大屋彦神とは同じ神と見られている。五十猛神の妹神に大屋津姫神がいるのも傍証である。
     また、『旧事本紀地神本紀』には、「五十猛握神亦云大屋彦神」とある。

    福岡市西区の白木神社、糸島市王丸の白木神社の祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。

     佐賀県杵島郡白石町辺田の稲佐山中腹に稲佐神社が鎮座、五十猛神・大屋津姫ほかを祀る
  •  伊太祁曾の近くの鳴神(なるかみ)や井辺(いんべ)などの地は、古くは紀伊忌部の居住地であった。『古語拾遺』は、紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇のために宮殿を造営した天富命(あめのとみ)(忌部氏の祖)の子孫が紀伊国名草郡の御木(みき)・麁香(あらか)二郷にいると伝えているが、この伝承は大和朝廷の宮殿建築の用材を伐採して造営を行なう工人の部曲(かきべ)が、忌部氏の配下として古くからこの地に居住していたことを示している。

     三神にまつわる神話は『日本書紀』の一書の伝えに見える。
    すなわち、昔、スサノヲがその御子イタケルを伴って新羅の国からくにの曾尸茂利(そしもり)の地に天降ったとき、イタケルは天から多くの樹木の種子を持って降ったが、これを韓国の地には播かず、日本に渡り、九州から始めて津々浦々に播いたので、日本全土の山々が青山となった。そこでこの神を「有功(いさお)の神」とたたえ、「紀伊国にいます大神」と呼んだという。また別の一書によると、イタケルは妹のオホヤツヒメ・ツマツヒメの二女神とともに樹木の種子を広く播きほどこして紀伊国に渡り、のちに三神の父スサノヲは熊成峯(くまなりのたけ)から根の国(死者の国)に去ったという。

     『古事記』には、兄の八十神(やそがみたち)に迫害された大己貴命(おおなむち)が木の国の大屋毘古(おおやぴこ)神を頼って行ったとあるが、この神とイタケルとが同一の神であることは多くの学者が承認するところである。妹のオホヤツヒメに対して、兄をオホヤビコと呼んだのであろう。いうまでもなく、オオヤは大きな家を意味し、やはり木材とは不可分の関係にある。
  • 五十猛命の妹神とされている神に大屋津比売(おおやつひめ)と都麻津比売(つまつひめ)がある

    伊太祁曾神社
    現在当社では、中央に五十猛、左脇に大屋津比売、右脇に都麻津比売が三殿ならんでまつられている。平安はじめの 『先代旧事本紀』地神本紀には、このイタケルとその二人の妹オホヤツヒメ、ツマツヒメの三柱の神は、「紀伊国造の齊き祀る神なり」と記されている。この三神は、伊太祁曾神社の古縁起によると、いま日前・国懸神宮の神域のある宮郷で一所にまつられていたが、垂仁天皇十六年に日前・国懸大神がこの地へ遷座するに及んで山東庄(現在の「亥の森」という地)に移り、そこから和鋼六年(七一三)現在地に遷座したという。この「亥の森」には現在、イタケル兄妹三所神を祭神として摂社三生神社(みぶ)がまつられている。
  • 伊太祁曾神社の故地は現在の日前・国懸神宮の神域内にあったという。
    次のような伝承がある。

     伊太祁曾神社には『日本紀伊国伊太祁曾明神御縁起事』という中世の縁起絵巻があり、イタキソの神を「日出貴(ひだき)大明神」とか「居懐貴孫(いだきそ)大明神」と呼んで、日輪もしくは日の御子を抱く一種の母神的存在として描いている。

     また同絵巻は、イダキソの神を伊勢の風宮の祭神シナトベと同体の神だと言ったり、その抱く御子をホノニニギであると言ったりするほか、御子を抱く形だからイダキソだという語呂合せ的説明を行なっており、また全体的にかなり中世的な色彩も強いが、古い日本の母子神信仰を残したものであることは西田長男も論じているところである。そしてこの文書にも、この母子神がまず紀伊の日前宮に降臨し、のちにそこから山東庄伊太祁曾の地に影向ようごうしたと記されている。この伝承が何らかの史実を反映しているか否かについてはさまざまに論じられ、たとえば、古い土地の樹木神イタキソの神を奉じる集団と、そこへ新しい日前大神を奉じて乗りこんで来た支配者集団との葛藤というような史実の反映と取る説もある。

    イタキソの旧地が日前神の神域であったとする伝承はこのイタキソの神と日前大神とが未分化であったころの記憶の名残りではないかとの説もある
    つまり、中世の縁起絵巻にある母子神としての像は、原始信仰を中世密教が変容させたものと考える見方もある。 
  • August 2016 編集されました
    瓊瓊杵命は、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子である。
    兄に天火明命(あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

    瓊瓊杵命の母神は、栲幡千千姫命であるので、伊太祁曽の神とは、この母神と瓊瓊杵命かもしれない。

    紀伊国造(きのくにのみやつこ、きいこくそう)は、紀伊国(現在の和歌山県)を古代に支配した豪族、紀氏の長の流れを汲む氏で、古代には代々紀伊国の国造職とともに日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、律令制施行により国造制が廃された後も同神宮の宮司として「国造」を称した。
    歴代の紀伊国造
    天道根命(あめのみちねのみこと)
    比古麻命
    鬼刀禰命
    久志多麻命
    大名草比古命
    宇遅比古命
    舟木命
    夜都加志彦
    等与美々命
    紀豊布流
    紀塩籠
    紀禰賀志富
    紀忍
    紀国見
    紀麻佐手
    紀国勝
    紀忍勝
    紀大海


    天道根命
    彦狭知命の子、高家首の祖神とする説もある。

    天道根命 を祀る神社

    大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
    大伴神社 長野県佐久市望月字御桐谷227
    日前國懸神宮 境内 摂社 和歌山県和歌山市秋月365
  • August 2016 編集されました
    天道根命
    先代旧事本紀、天神本紀によれば高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた

    異伝として『紀伊続風土記』所載の「国造家譜」は、日前大神と国懸大神(紀伊国造が奉斎する和歌山県和歌山市秋月鎮座の日前宮の祭神)の降臨に随従して以後両大神に仕え、後に神武天皇の東征に際して両大神の神体である日像鏡と日矛の2種の神宝を奉戴して紀伊国名草郡に到来し、毛見郷(現和歌山市毛見)の琴ノ浦にそれを鎮座させて天皇の東征の成功を祈念したために、即位後の天皇によって論功行賞として紀伊国を授かるとともに国造に任じられ、以来その子孫が国造職を襲うとともに日前宮を奉斎し続けることとなったとの由来を記す。また、同家に伝わる別の『紀伊国造系図』は更に詳しい伝えを載せている。

    『紀伊国造系図』によれば、天道根命は天照大神の天岩戸隠れに際して石凝姥命によって鋳造された日像鏡と日矛の2種の神宝を高天原の神々から託され、高天原においてこれを天照大神の「前霊(さきのみたま)」として奉斎していたが、天孫降臨に際して天照大神から三種の神器とともにこの2種の神宝を聖なる鏡、聖なる矛として授かった天津彦彦火瓊瓊杵尊に随従して同尊とともに日向に降臨、降臨後も引き続いてこれらを奉斎していたが、後に神武天皇の東征に際して天皇からそれらを鎮座させるべき地を探すよう改めて託せられ、東征軍とは別に諸国の浦々を遍歴して遂に紀伊国賀太浦に到着、そこより木本郷(現和歌山市木ノ本)へ移って暫時滞在し、その後更に毛見郷舟着浦に移って同地の海中に聳える奇岩上に行宮を建てて奉斎するとともに神武天皇の武運と寿命長久を祈念することとなったといい、次いで神武天皇が東征の途次に竃山(現和歌山市和田)に来着すると神宝の鎮座地の実地検分を求め、現地へ赴いた天皇から選定地の妥当なることを誉められて引き続き天下平定を祈念するよう命じられ、その後天皇が大和国橿原の地で即位すると祈念の功を賞されて紀伊国を授かり、子々孫々に亘って国造職を継承するよう命ぜられたため再度紀伊国へ下向、現地の神の女である地道女命を娶って比古麻命を儲け、以来その子孫が国造として日前・国懸両神宮を奉斎するよう受け継いだといい、最後に「神皇産霊尊の時より神武天皇の御宇に至る」まで在世した「長寿の神」であったと結ばれている。
  • 紀伊国造

     『日前国懸両大神宮本紀大略』によると、
     神鏡者則日前大神也
     日矛者則国懸大神也
     とあり、天照大神(日神)を招祷ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われる。
     鎮座の次第は、天孫降臨の時、天道根命が日像・日矛の両鏡を奉斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、垂仁天皇十六年名草之万代宮、すなわち現在の地に鎮座したと伝えられる。以来、天照大神の御神体として祀られる八咫鏡の御同体として、古代より朝廷の崇敬篤く、藤原定家が御幣使として神馬を奉った記録もある。
     両神は、天道根命の子孫である紀氏の手により代々奉斎され、平安時代には四十七年ごとの遷宮もされていたと伝えられる。
     日前国懸神宮に代々奉斎してきた紀氏は、神武天皇の時、天道根命が紀(紀伊)国造に任ぜられたのに始まるという。その歴史は気が遠くなるほど古い。神話の時代を含めると、なんと二千年以上もの長い歳月をくぐり抜けて、いまもなお日前国懸の神に仕えている。
     紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、大和朝廷から紀伊国造に任じられてからである。以来、紀氏は紀ノ川流域に形勢された豊穣な農耕地帯を押さえて、政治活動を繰り広げてゆく。また、紀州沿岸から瀬戸内海におよぶ海人集団(水軍)をもその配下に掴んでいた。平安時代中期の国造奉世のとき継嗣がなく、武内宿禰系紀氏の紀行義が後を継いだ。
     紀氏は国造という祖先以来の日前国懸両神宮の祭祀をこととしてきたが、国造六十四代の紀俊連のころの室町中期になると兵馬の道にたずさわり、神領の所々に城を築いて外敵に備えるようになった。太田・秋月の城が完成したのもこの頃である。紀氏は神官とはいえ、地方大名ほどの領地を有していた。
     戦国時代になると、国造職六十七代忠雄は、秋月・太田城のほかに忌部城、熊ケ碕城、弁財天城、冬野城、里江城などを構え、一族の者や神官をそれぞれの城に籠らせていた。そして、いたずらに、地方豪族同士が抗争に明け暮れている間に、時代は大きく動いていた。
  • 杉山神社(茅ヶ崎)
    杉山神社(茅ヶ崎)
    横浜市都筑区茅ケ崎中央58−5

    祭神
    五十猛命
    配神 天照大神、倉稲魂神、素戔嗚尊

    都筑郡茅ヶ崎村の郷社であった。
    武蔵風土記にはこの社を式内社としている。これによると「忌部勝麻呂が天武天皇御宇の白鳳三年秋九月、神託によりて武蔵国杉山の地に太祖高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命三柱の神を祀り杉山神社と號す・・」とある。 現在の祭神と全然違っている。また一説には日本武尊を祀るとの伝えもある。
    吉田東悟『地名辞書』によれば、「当社の御神体は円経10cmの銅の鏡に不動の像を刻んだもの。」と云う。
    例祭 10月13日

    由緒
    天武天皇白鳳3年に安房神社神主の忌部勝麿呂が御神託によって、武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命・天日鷲命の孫・忌部氏の祖)の三柱を祀った「杉山神社」としたことにはじまるというが信憑性は乏しいとされている。

    御由緒(境内の碑の裏に記述がある)
    勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル 勝麻呂ノ弟義麻呂祭主トシテ奉仕 麻ノ貢ヲ奉リキ仁明天皇承和五年預宮幣ニ嘉祥九年五月授従五位下封田ヲ寄玉フ 遥後元暦二年正月廿一日依御願而従鎌倉殿御奉幣有之タリ鎮座記元一千二百十余年也
    合資由来 明治四十三年十月八日 神奈川縣指令之第二九三四號ヲ以テ御認可 神奈川縣都筑郡中川村茅ケ崎字境田二〇九八番地村社枌山神社祭神五十猛命 被合併神社同東前八〇八番地無格社神明社祭神天照皇大命 同字八二五番地天王社祭神素盞鳴命 同字六二七番地稲荷社祭神稲倉魂命 右三社ハ村社枌山神社に合祀 空社地立木ハ村社基本財産ニ編入本社ノ経営成 大正九年十月指定村社ニ昇格 同年十月十三日中川村長供進使トシテ奉告祭ノ式ヲ挙ゲタリ碑ヲ建テ以後世ニ傅フ
    大正九年十月十三日 氏子中  二子石工小俣刻

    杉山神社は本源の所在不明。現在、横浜市内に「杉山神社」と称する神社は41社。また新編武蔵風土記稿に72社、うち都筑郡24社の記載がある。杉山神社の分布はいずれも鶴見川の本流、並びに支流ちかくに鎮座している。

    なお杉山神社のうち五十猛命を祭神とするのは「杉山」と植林の神としての五十猛命の神格が結びついたものであり、日本武尊を祭神とするところは、東征伝説から付会されたものであるとされ、多くの杉山神社が五十猛命もしくは日本武尊を祭神として祀っている。現在の最有力候補として以下の4社があり、いずれも小高い丘の上にある。

    杉山神社・神奈川県横浜市緑区西八朔町(旧郷社)
    杉山神社・神奈川県横浜市都筑区中川町(旧郷社)
    杉山神社・神奈川県横浜市港北区新吉田町(旧郷社)
    杉山神社・神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎町(旧村社)
  • 韓国伊大氏神社は、その由来についても不明瞭な点が多い。

    一般的には、スサノオ神の御子神である五十猛神と関連させてとらえ、この神を祀る神社といわれている。こうした見解は、天保十四年(1843)に千家俊信によって唱えられたものであり、『日本書紀』のスサノオ神の出雲降りについて記した一書をふまえたものである。すなわち、スサノオ神が、韓国(新羅)を経由して出雲へ降るさいに同行した神が御子神の五十猛神であり、このことを前提として、千家俊信は、「伊太氏は、氏は気とかよひて五十猛と同じ。忌部正通が神代口訣に、肥前国西南沖五十猛島」、又貝原好古が考に、筑前国御笠都筑紫神社は五十猛神といへり」と述べており、さらに、韓国伊大氏神社および五十猛神に関連あるものとして、「又帳に、紀伊国名草郡伊達神社名神大あり。是と同神なるべし。又同郡に伊太祁曽神社名神大月次相甞新甞あり。又大隅国囎唹郡韓国宇豆峯神社あり。是韓国てふ言を冠らせたる例也。又仁多郡伊我多気神社も此神を拝祭れり」として類例を提示している。すなわち、千家俊信によれば、伊大(太)氏は五十猛が転託したものであり、韓国とあるのは五十猛神がスサノオ神に伴われて朝鮮半島を経由して日本へ渡ってきたことによるということになる。こ うした千家俊信の見解はつとに江戸時代末期にのべられたものであるが以後、さほど疑問をさしはさまれることなく受け継がれ、今日ではほとんど定説といってもよいほどの位置を占めるにいたっている。

    韓国宇豆峯神社
  • 石塚氏はまず、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社を引き合いに出され、ここに祭られている射楯神と兵主神のうち、射楯神は『播磨国風土記』の因達里に記載がみられる「伊太氏之神」であるとされた。そして、因達里の説話が、神功皇后が韓国平定をおこなったさいにその御船の上に鎮座したのが伊太氏之神である、という内容であることに注目して、「韓国」を頭に冠しないイタテ神の場合にもすでに韓国との関係がみられると指摘された。その上で、「由来、漢土・漢土の神を迎え祀る例は多く、そもそも『古事記』に「韓神」「曽富理神」と、明瞭な韓神の名がある」とのべられ、こうした韓神・曽富理神を「帰化人によって招来された「今来の神」であった」と把握れている。これらの考察を基に石塚氏は、出雲国の韓国伊大氏神社も今来の神の信仰と無関係ではないとして、「韓国」は文字通り韓国そのもののことをさし、「これを冠する伊太氏の神は、だから、あたかもかの八幡神が八鹿の幡によって降臨ましましたというがごとくに、もしかしたら文字通り「射立」であり、矢になって降臨ましました神ではなかったろうか」と考えられた。石塚氏の見解は、先の志賀氏が伊大氏神に冠せられた「韓国」を遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるとされたことをさらに一歩進められて、渡来人によって招来された今来の神の信仰と関係があるとされた点において志賀説を批判的に継承したものといえよう。ただ、志賀氏が提唱されたイタテが本来、ユタテ(湯立)であるとする見解に対しては、石塚氏は疑問を発せられている。志賀氏の湯立説の根拠のひとつは、ユタテ→イタチ→イタテという音の変化にあるが、もうひとつ『延書式』の神名帳にみられる伊達神社の多くが泉井に依存する立地になっているということも壷要な根拠になっている。この泉井に依存する立地条件に伊達神社が鎮座しているという点については、石塚氏も批判しているようにひとえに伊達神社のみに限ってよいものかどうか問題があると考えられる。むしろ、神社と清らかな泉井との関係は一般的ととらえる方が自然ではなかろうか。また、音の変化についても、ユタテ→イタチ→イタチと変わる可能性はもちろん否定することはできないかもしれないが、その一方では、そのように変化する必然性ということを考えるならば、それほど強いものがあるともいえないのではなかろうか。こうした点を考え合わせると、志賀説は興味深い見解ではあるがにわかに肯定することはできないように思われる。また、石塚説の場合についても、今来の神とされる韓神・曽富理神を例に引かれ、ここから韓国伊大氏神社も今来の神の信仰と関係があるとすることは論理に飛躍があると思われる。伊大氏神が韓国と関係のある神ということと、韓神や曽富理 )神と同じ性格をもっているということは別次元で考えなければならないことであろう。石塚説はこの点でなお問題を残していると考えられる。
  • 韓国伊大氏神社の分布
     『出雲国風土記』  『延喜式』神名帳
      〔意宇郡〕
     ①玉作湯社→   →玉作湯神社
      由宇社→  ? →同社坐韓国伊太氏神社
     ②伊布夜社→   →揖夜神社
      伊布夜社→   →同社坐韓国伊大氏神社
     ③佐久多社→   →佐久多神社
      佐久多社→ ? →同社坐韓国伊大氏神社

      〔出雲郡〕
     ④阿受枳社→   →阿須伎神社
      阿受枳社→   →同社神韓国伊太氏神社
     ⑤出雲社→    →出雲神社
      御魂社→    →同社韓国伊大氏神社
     ⑥曽伎乃夜社→  →曽枳能夜神社
      曽伎乃夜社→  →同社韓国伊大氏奉神社
  • 伊大氏神の「伊大氏」に注目してその神の性格について考えてみたい。そもそも、韓国伊大氏神社に祭られている神を伊大氏神としたのは、播磨国の飾磨郡の式内社として射楯兵主神社(二座)があることによる。つまり、韓国は文字通り朝鮮半島、すなわち当時の新羅のことであり、「伊大氏」は「射楯」と考えるわけである。このようにとらえるならば、韓国伊大氏神社の伊大氏神の性格を規定する上で、播磨国の射楯兵主神社の射楯神の性格は重要である。そこで、『播磨国風土記』の飾磨郡因達里の条をみるならば、

     因達里土中々 右称因達者 息長帯比売命 欲平二韓国 渡坐之時 御々船前 伊太代>之神 在於此処 故因神名 以為里名
    とある。因達里の地名由来は、息長帯比売命、すなわち神功皇后が韓国(新羅を平定するために朝鮮半島へ渡ったとき、船前に立って導いた伊太代神がこの地に鎮座しているからであるという。神名がもとになって里名ができたとしている。

    中臣印達神社

     ここにみえる伊太代神が射楯兵主神社の射楯神である。因達里の条の伊太代神、すなわち射楯神は、朝鮮半島へ向かう神功皇后の軍船を誘導する航海神としての性格をみせているが、単なる航海神というのではなくて軍船を守護する武神・軍神としての性格もあり、むしろこちらの方が濃厚と考えられる。『播磨国風土記』にみられる伊太代神は音を漢字に移したものであるが、射楯神という表記からはこの武神・軍神としての要素がよく読みとれるであろう。射楯神の「楯」はいうまでもなく敵が射った矢を防ぐための兵器であり、敵から自らを守るためのものである。したがって、射楯神の表記である「射楯」からは、敵から自らを守護するという意味を読みとることができ、『播磨国風土記』の因達里の条にみられる伊太代神の伝承を象徴しているといえるであろう。
  • スサノオ神の御子神である五十猛神は、スサノオ神にひきいられて天降りし、新羅国の曽尸茂梨に到ったことになっている。このとき五十猛神は多くの樹種をもっていたが韓地には植えずに大八洲国に渡り、筑紫から始めて国中に青山を成したので有功の神とされ、紀伊国の大神として鏡座しているとされている。また、第五の一書をみると、「素戔鳴尊曰。韓郷之嶋。是有金銀。若使吾兒所御之國。不有浮寶者。未是佳也。乃拔鬚髯散之。即成杉。又拔散胸毛。是成桧。尻毛是成[木皮]眉毛是成 樟。已而定其當用。乃稱之曰。杉及[木豫]此兩樹者。可以爲浮寶。桧可以爲瑞宮之材。[木皮]以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具。夫須[口敢]十木種皆播生。于時素戔鳴尊之子。號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次採津姫命。凡此三神亦能分布木種。即奉渡於紀伊國也。然後素戔鳴尊居熊成峯。而遂入於根國者矣。』棄戸。此云須多杯。[木皮]此云磨紀。」
  • 五十猛は素戔嗚の第2子ですが、五十猛が抓津彦と呼ばれていることは、素戔嗚の娘・抓津姫の婿だったのかもしれない。五十猛は海人族の要素が多い。天火明の孫に天村雲(天五多底、あめのいたて)があり、綿津見豊玉彦の孫に武位起(たけいたて)がいる。これが五十猛かもしれない。
     私見ですが、海人族の要素の多い五十猛が素戔嗚の娘の抓津姫を妻としたので、五十猛は素戔嗚の子となった可能性がある。或いは五十猛の父は素戔嗚で、母が櫛稲田姫ではなく伊都国の海人族だったのでしょうか。

     肥前国基肄郡(きいぐん、現・佐賀県三養基郡)の基肄も紀伊(木)でしょう。三養基郡基山町の荒穂神社(五十猛命)が元は基山山頂に鎮座していたので基山を神体山としている。
  •  『筑前続風土記』には、荒穂神社は、現在佐賀県三養基郡基山町宮浦にある荒穂補明神を招いたもので、 一説にはニニギノミコトを祭神とするが、本来は五十猛命であるとされている。 また宮浦荒穂明神が一夜のうちに馬上空を飛んで、この岩間に鎮座したともいわれています。以上

     筑紫野市の説明板もある。
     『筑前続風土記』には昔、宮浦の荒穂明神は城山(基山)の上に坐り、基肄城をとりまく山々に五十猛命が祀られたことがわかります

    筑紫神社 筑紫野市

    祭神
    筑紫大明神(白日別神、五十猛命)
    配 玉依姫命 坂上田村麿



    由緒
     筑紫の国魂を祀る式内名神大社である。古くは近くの城山頂上に祀られていたと伝わる。
     祭神の白日別神は筑紫の神であるが、この神も朝鮮とのかかわりから見ると、光・明・火などを表す「白」がついており、ウラルアルタイ系諸族に共通する天神・祖神を示していると指摘されている。*1
     白日別神は五十猛命の別名と思われる。

     筑後国風土記に三つの地名由来がのっている。
     1.筑前筑後の間の山に嶮しく狭い箇所があり、往来の人は乗っていた鞍「革+薦」[シタクラ]を磨り尽くされた。民人はクラツクシの坂と呼んだ。

     2.この堺の上に麁猛神がいて、往来の人、半ば生き、半ば死んだと言う。その数いたく多かったという。よって、人の命尽しの神と言った。時に、筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖甕依姫を祝として祭らせた。それより以降は神に害はれなかったと言う。これを以て筑紫の神と言う。 (瀬藤注)五十猛命は勇猛神とされてはいるが、麁猛神と呼ばれている説はここしか知らない。

     3.その死んだ者を葬るために、木を切って棺輿を造ったので、山の木尽きてしまった。よって筑紫の国と言う。
  • 元怡土郡と元志摩郡のちょうど境の所には、志登支石墓と言う渡来人の有名な支石墓(お墓)がありますが、そのすぐ近くに糸島市潤(うるう)と言う地名の住宅地があります。この一角にこんもりした砲台地形があり、その上には「潤神社(うるうじんじゃ」」が鎮座しております。実はこの砲台地形は古墳なんです。おそらくこの閏神社、元はこの古墳の被葬者を祀っていたんだと思います。

    さてこの閏神社、実は元々「白木神社」と呼ばれておりましたが、明治41年に近くの神社と合祀され、閏神社に改名しました。更にこの糸島市一帯には、福岡市西区西浦「白木神社」、福岡市西区草場「白木神社」、福岡県糸島市王丸「白木神社」、福岡県糸島市潤「潤神社(元白木神社)」と、白木と名がつく神社が4座鎮座しております。(西区が二つありますが、地図上志摩地区になります。)これら白木神社の語源は「新羅」から来ており、これらの神社に祀ってある神様は全て五十猛命(いそのたけるのみこと)であります。五十猛命は素戔嗚尊の子供であり、素戔嗚尊と一緒に新羅の牛頭山に降臨して日本に渡来した神様なんです。
    前回の語源話でお話しした、古代伊都国の県主(国王)は五十迹手(いとで:いそとて)で、同じ「五十」がつくので、おそらく同じ一族(集団)ではないかと言われております。
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