道臣命、大伴氏の祖

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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刺田比古神社 延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、…

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コメント

  • ホツマツタエ
    ミチヲミは東征の功賞として「クメの所」を神武より賜る。この「クメの所」とは元来は、「(皇居に) 隣接する地」の意と思うが、その土地の所有者は自然と「クメ」と呼ばれることとなろう。この推理の帰結として「クメ」とは、実はミチヲミの別称なのではないかと疑っている。
    他文献では天忍日(アメオシヒ)命の曾孫で、大伴タケヒの祖とも言うが、全く信用しがたい。

     アメオシヒ━天津彦日中咋命━ミチヲミ(日臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━┓
                                         ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┃
     ┗角日命━豊日命━タケヒ━武持━室屋┳談━┳金村
                       ┃  ┗歌連
                       ┗御物 

    『書紀』日臣命(ヒノオミ) が宇陀の穿村まで軍を導いた功により「道臣」の名を賜った。
  • July 2016 編集されました
    紀氏の二系統  6世紀後半から7世紀前半に紀氏集団が分断
     紀の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。
     中央の紀氏 紀朝臣 紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
      紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。
      紀氏の非公開系図には、素盞嗚尊を祖としている。この場合には五十猛命と続くものと思われる。ヤハタの神を祀った辛島氏と同じルーツではなかったか。筑紫紀氏とでも言える。
      江戸時代の「熱田旧記」には紀氏は出雲の大国主の子孫とある。出雲紀氏と言える。


    『古屋家家譜』
    甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。

    高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)- 天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦-

    佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後
  • 三河富永氏系図によれば、員助の子・清助、孫の正助は、ともに幡豆郡司、曽孫の依助が八名郡司であったとする。員助の裔が、幡豆・八名郡司となっていることを考えれば、員助は、幡豆、八名両郡司・大伴常盛の跡を嗣いだと考えられる。
     大伴常盛の出自について、三河富永氏系図は、何も記載しないが、日本書紀は、考徳天皇の二(六四六)年の条に三河大伴直の名を記載する。また、宝亀四(七七三)年に大伴宿祢良雄が、三河国司に任命されている。三河大伴氏が伴善男に出自を求めたかについては、次章で考察するが、この三河国司・大伴宿祢良雄の記憶が、後に伴善男に変容したと考えられる。さらに、大伴宿祢良雄が、三河国司に任命される以前の天平宝字元(七五七)年には、大伴宿祢御依が三河国司に任命されている。
     常盛は、三河大伴直あるいは大伴宿祢と関係があるのではないか。旧事紀の巻の七・天皇本紀の第一二代景行天皇の条は、景行天皇の子・倭宿祢を三川大伴部直の祖と記載する。なお、この倭宿祢についても、天平勝宝五(七五三)年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されている。  記紀は、景行の子は、八〇人あまりいたとし、そのなかの二〇人あまりの名を記載する。倭宿祢の名は、記紀には、記載されない。記紀は、八〇人あまりの子のうち、第一三代の成務のほか数人を残し、そのほかの皇子は、国造、群造に分け地方に封じたとする。そして、日本書紀景行条は、これら地方に封じた皇子が、諸国で「別」を称する氏族の祖であると記載する。
     先程述べたように、大伴常盛は、幡豆・八名の両郡司であったとされる。三河国内神名帳に八名郡に大伴神社が鎮座する旨が記載される。
     大伴神社は、明治四一(一九〇八)年、賀茂神社(豊橋市賀茂町、旧八名郡賀茂)に合祀されたが、それ以前は、独立した社であった。明和四(一七六七)年、賀茂真淵(一六九七~一七六九)が、大伴神社神主・加藤氏の依頼に応じ作った祝詞に、「仁徳天皇の時代に我が遠祖・八名国造に命じて神押日命を斎き鎮め奉る」と記載されている。

     旧事紀の編者は、大伴連等の祖・天忍日を邇々杵の天孫降臨以前から日本列島にいたと認識している。さらに、天孫本紀尾張氏系図及び海部氏本紀で天忍日の弟とされる天忍日を古事記神代条大八州の生成の項で知訶島(長崎県五島列島)の別名としている。大伴氏は、弥生文化到来の遥か昔から、日本列島にいた縄文人であったのであろう。そして、大伴氏のうち天孫・邇々杵にいち早く帰順した者が、道臣・大伴連祖となり、饒速日命に従い大和に遷った者が、倭宿祢=大伴直祖となったと考えられる
  • 継体天皇十年九月十四日(516)
    (解説)百済から将軍と「日本斯那奴阿比多(しなのあいた)」と高麗の使いが来て、好(よしみ)を結んだ。
    *斯那奴阿比多(しなのあいた)は「信濃直」らしい。これは科野国造(くにのみやつこ)の姓で、この人は科野国造の本宗出身の日系百済人らしい。

    欽明天皇五年(544)・六年(545)
    (解説)2月、百済の使者、施徳(八位)科野次酒(ししゅ)が百済の使者として任那の日本府を訪れ、6年5月には、次酒はまた百済の使者として来朝した。

    欽明天皇十三年(552)
    (漢字仮名まじり文)冬10月に、百済の聖明王、更の名は聖王、西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)等を遣わして、釈迦仏の金銅像一体・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献ず。
    *仏教初伝を欽明天皇13年としたのは、日系人最高位の次酒の来朝の直前に置いたためではなかったか。

    欽明天皇十四年(553)
    (漢字仮名まじり文)春正月の甲子の朔乙亥に、百済、上部徳率科野次酒(しゃうほうとくそちしなのししゅ)・杆率禮塞敦等を遣わして、軍評を乞う。
  • 神武創業の功臣、道臣命の後裔である。
      道臣命は紀州名草郡片岡邑の人であり、その功により大倭国築坂邑(高市郡北部。現橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜ったという。その祖天押日命について、瓊々杵尊の天降り随行という伝承があるものの、この氏族の遠祖には紀州土着の色彩が相当強い。この氏族の紀州在住時代に紀国造氏族(紀伊氏族。天御食持命後裔)を分岐した、というより、むしろこの氏族の方が紀国造氏族の一支族と位置づけられよう。
     こうした出自の影響か、大伴氏族の榎本連、丸子連、仲丸子連、宇治大伴連等が紀伊国で繁栄した。

     大伴氏族は、その発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行したが、何故か国造家は全く創出されていない
  • 大伴氏出身の最初の著名人と言えば、大伴金村ですが、この人物は512年に任那四県を百済に譲渡した首謀者とされていますが、失脚したのは540年、欽明天皇の即位が539年ですから、これを境に、当時の政界の潮流の変化が見て取れます。

    その大伴金村を糾弾したのが物部麁鹿火、金村はこれ以降、隠遁を余儀なくされます。

    因みに、歴代大連(おほむらじ)を下記列挙しますと、

    物部十千根(伊莒弗の曾祖父)
    物部伊莒弗
    大伴室屋
    物部目(伊莒弗の息子)
    大伴金村(大伴室屋の息子又は孫)
    物部木蓮子(伊莒弗の孫)
    物部麁鹿火(木蓮子の孫)
    物部尾輿(物部目の孫)
    物部贄子(物部尾輿の子)
    物部守屋(物部尾輿の子)

    初代の物部十千根を除くと、大伴氏と物部氏が交代で大連に就任し、金村の失脚を機に物部氏が独占するところとなったことが分かります。

    ついでに、歴代大臣(おほおみ)を記しますと、

    武内宿禰(紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏の祖先。成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇治世)
    和邇日触(応神天皇治世)
    物部小前(大前小前宿禰大臣、允恭天皇治世)
    葛城円(武内宿禰曾孫。履中天皇・安康天皇治世)
    平群真鳥(雄略天皇・清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇治世)
    巨勢男人(継体天皇治世)
    蘇我稲目(宣化天皇、欽明天皇治世)
    蘇我馬子(嶋大臣、蘇我稲目の息子。敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇治世)
    蘇我蝦夷(豊浦大臣、蘇我馬子の息子。舒明天皇・皇極天皇治世)
    蘇我入鹿

    これをみると、和邇日触と物部小前を例外として、武内宿禰の系統が大臣を務めています。

    留意すべきは、大伴金村を失脚に追い込んだのは同じ大連の物部麁鹿火、以降は本貫(本籍)の摂津国住吉郡に引き籠ります。
  • 憶良が旅立つ遣唐使へ別れを告げ無事を祈った好去好来の歌にも、
    大伴の御津が見られる。


    ・神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は
     皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ

        ・・・ 中略 ・・・

     還らむ日には またさらに
     大御神たち 船の舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸(か)けて
     墨縄(すみなは)を 延(は)へたる如く あちかをし 値嘉の崎(ちかのさき)より
     大伴の 御津の浜辺(はまび)に 直泊(ただは)てに 御船は泊てむ
     恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(い)まして 早帰りませ    (894)



     (訳)
     神代から言い伝え来ることには、空に充ちる大和の国は、
     統治の神の厳しき国で、言霊の幸ある国と語りつぎ

        ・・・ 中略 ・・・

     帰国するでしょう日には、さらに大御神は舟の先に御手をかけ、
     墨縄を引き伸ばしたように、あちかをし値嘉の岬を通って、
     大伴の御津の海岸に、まっ直ぐに泊まるべく
     御船は寄港するでしょう。
     無事にしあわせにいらっしゃって、早くお帰りなさい。

    その反歌。

    ・大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ    (895)

     (訳)
     大伴の御津の松原をきれいに掃いて、私は立って待っていましょう。
     早くお帰りなさい。

    参照:『万葉集(一)』 中西進(著) 講談社文庫


    万葉集の編者の一人で、万葉集中に多くの歌が収録されている大伴家持。
    私の好きな人。


    その先祖、大伴金村は、
    今の大阪難波あたり、
    住吉(すみのえ)に住居を構えていた。

    金村の生きた時代は、
    国々の中でヤマト国、ヤマト王権が力を増した頃だ。

    天皇の系譜でいうと継体天皇の時代。
    大連大伴金村は継体天皇の擁立のため越前へ行った。


    この頃大伴氏は、戦いの前線に立ち戦いを制し、政治の中央に居た。
    後の天皇家につながる一族に伴してきた一族らしい立場だった。

    しかし金村は、その後、外交の失敗を問われ住吉に蟄居。
  • December 2018 編集されました
    値嘉島(ちかのしま 値嘉嶋、値賀嶋とも表記)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つである。西海道に所属し、領域は現在の平戸島と彼杵郡所属であった江島・平島を除く五島列島、及びその附属島嶼にあたる。876年に肥前国から分立されたが、10世紀初頭までに廃止された


    肥前国風土記」によると、その昔、景行天皇が志式嶋(しじきじま)(平戸市志々伎)の行宮にお見えになった折、西の海をご覧になり、「遠くにあるが近くに見えるので近島(ちかしま)(値賀島)とよぶようになったと伝えられています。第一の島を小近(おちか)(小値賀島周辺)といい、第二の島を大近(おおぢか)(中通島、または中通島およびそれ以南の島)とよんだと伝えられており、現在では小値賀島が当時の名を引き継いでいます。 古事記では五島列島全体を指して、「知訶島(ちかのしま)」と呼ばれています。

    値嘉の郷
     郡の西南のかたの海の中にあり。烽の處三所あり。
     昔者、同じき天皇、巡り幸しし時、志式嶋の行宮に在して、西の海を御覽すに、海の中に嶋あり、烟氣多に覆へりき。陪從、阿曇連百足に勒せて察しめたまひき。爰に、八十餘りあり。就中の二つの嶋には、嶋別に人あり。第一の嶋は名は小近、土蜘蛛大耳居み、第二の嶋は名は大近、土蜘蛛垂耳居めり。自餘の嶋は、竝に人あらざりき。(中略)彼の白水郎は、馬・牛に富めり。或は一百餘りの近き嶋あり、或は八十餘りの近き嶋あり。西に船を泊つる停二處あり。一處の名は相子田の停といひ、廾餘りの船を泊つべし。一處の名は川原の浦といひ、一十餘りの船を泊つべし。遣唐の使は、此の停より發ちて、美彌良久の埼に到り、〈即ち、川原の浦の西の埼、是なり、〉此より發船して、西を指して度る。此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人に異なり。
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