道臣命、大伴氏の祖

July 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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刺田比古神社 延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、…

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コメント

  • ホツマツタエ
    ミチヲミは東征の功賞として「クメの所」を神武より賜る。この「クメの所」とは元来は、「(皇居に) 隣接する地」の意と思うが、その土地の所有者は自然と「クメ」と呼ばれることとなろう。この推理の帰結として「クメ」とは、実はミチヲミの別称なのではないかと疑っている。
    他文献では天忍日(アメオシヒ)命の曾孫で、大伴タケヒの祖とも言うが、全く信用しがたい。

     アメオシヒ━天津彦日中咋命━ミチヲミ(日臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━┓
                                         ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┃
     ┗角日命━豊日命━タケヒ━武持━室屋┳談━┳金村
                       ┃  ┗歌連
                       ┗御物 

    『書紀』日臣命(ヒノオミ) が宇陀の穿村まで軍を導いた功により「道臣」の名を賜った。
  • July 2016 編集されました
    紀氏の二系統  6世紀後半から7世紀前半に紀氏集団が分断
     紀の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。
     中央の紀氏 紀朝臣 紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
      紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。
      紀氏の非公開系図には、素盞嗚尊を祖としている。この場合には五十猛命と続くものと思われる。ヤハタの神を祀った辛島氏と同じルーツではなかったか。筑紫紀氏とでも言える。
      江戸時代の「熱田旧記」には紀氏は出雲の大国主の子孫とある。出雲紀氏と言える。


    『古屋家家譜』
    甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。

    高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)- 天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦-

    佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後
  • 三河富永氏系図によれば、員助の子・清助、孫の正助は、ともに幡豆郡司、曽孫の依助が八名郡司であったとする。員助の裔が、幡豆・八名郡司となっていることを考えれば、員助は、幡豆、八名両郡司・大伴常盛の跡を嗣いだと考えられる。
     大伴常盛の出自について、三河富永氏系図は、何も記載しないが、日本書紀は、考徳天皇の二(六四六)年の条に三河大伴直の名を記載する。また、宝亀四(七七三)年に大伴宿祢良雄が、三河国司に任命されている。三河大伴氏が伴善男に出自を求めたかについては、次章で考察するが、この三河国司・大伴宿祢良雄の記憶が、後に伴善男に変容したと考えられる。さらに、大伴宿祢良雄が、三河国司に任命される以前の天平宝字元(七五七)年には、大伴宿祢御依が三河国司に任命されている。
     常盛は、三河大伴直あるいは大伴宿祢と関係があるのではないか。旧事紀の巻の七・天皇本紀の第一二代景行天皇の条は、景行天皇の子・倭宿祢を三川大伴部直の祖と記載する。なお、この倭宿祢についても、天平勝宝五(七五三)年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されている。  記紀は、景行の子は、八〇人あまりいたとし、そのなかの二〇人あまりの名を記載する。倭宿祢の名は、記紀には、記載されない。記紀は、八〇人あまりの子のうち、第一三代の成務のほか数人を残し、そのほかの皇子は、国造、群造に分け地方に封じたとする。そして、日本書紀景行条は、これら地方に封じた皇子が、諸国で「別」を称する氏族の祖であると記載する。
     先程述べたように、大伴常盛は、幡豆・八名の両郡司であったとされる。三河国内神名帳に八名郡に大伴神社が鎮座する旨が記載される。
     大伴神社は、明治四一(一九〇八)年、賀茂神社(豊橋市賀茂町、旧八名郡賀茂)に合祀されたが、それ以前は、独立した社であった。明和四(一七六七)年、賀茂真淵(一六九七~一七六九)が、大伴神社神主・加藤氏の依頼に応じ作った祝詞に、「仁徳天皇の時代に我が遠祖・八名国造に命じて神押日命を斎き鎮め奉る」と記載されている。

     旧事紀の編者は、大伴連等の祖・天忍日を邇々杵の天孫降臨以前から日本列島にいたと認識している。さらに、天孫本紀尾張氏系図及び海部氏本紀で天忍日の弟とされる天忍日を古事記神代条大八州の生成の項で知訶島(長崎県五島列島)の別名としている。大伴氏は、弥生文化到来の遥か昔から、日本列島にいた縄文人であったのであろう。そして、大伴氏のうち天孫・邇々杵にいち早く帰順した者が、道臣・大伴連祖となり、饒速日命に従い大和に遷った者が、倭宿祢=大伴直祖となったと考えられる
  • 継体天皇十年九月十四日(516)
    (解説)百済から将軍と「日本斯那奴阿比多(しなのあいた)」と高麗の使いが来て、好(よしみ)を結んだ。
    *斯那奴阿比多(しなのあいた)は「信濃直」らしい。これは科野国造(くにのみやつこ)の姓で、この人は科野国造の本宗出身の日系百済人らしい。

    欽明天皇五年(544)・六年(545)
    (解説)2月、百済の使者、施徳(八位)科野次酒(ししゅ)が百済の使者として任那の日本府を訪れ、6年5月には、次酒はまた百済の使者として来朝した。

    欽明天皇十三年(552)
    (漢字仮名まじり文)冬10月に、百済の聖明王、更の名は聖王、西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)等を遣わして、釈迦仏の金銅像一体・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献ず。
    *仏教初伝を欽明天皇13年としたのは、日系人最高位の次酒の来朝の直前に置いたためではなかったか。

    欽明天皇十四年(553)
    (漢字仮名まじり文)春正月の甲子の朔乙亥に、百済、上部徳率科野次酒(しゃうほうとくそちしなのししゅ)・杆率禮塞敦等を遣わして、軍評を乞う。
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