葛城襲津彦

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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葛城襲津彦(曽都毘古・沙至比跪、 生没年不詳、4世紀後半~5世紀前半頃?)は大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖と…

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コメント

  • 葛城の長江の曽都毘古の長江は長柄のことで、姫宮と呼ばれた長柄神社が鎮座する地です。葛城山麓沿いの名柄街道と水越街道が交差する、古来よりの交通の要所に当たります。

    『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曽津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのさし)を攻め落として捕虜を連れ還った。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。 桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。

    葛城襲津彦はその後も新羅を討つべく派遣されました。この後のことは『百済記』の記事が引用されています。即ち、新羅の美女の誘惑で助けるべき加羅を討ったりして、応神天皇の怒りを蒙り、ひそかに帰国したものの岩穴へ入って死んだとされています。所が『紀』ではまた生き返り、弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されています。

    葛城襲津彦は神として祀られています。『平成データ』では5社、その内高知県に2社あります。

    多気・坂本神社 高知県安芸郡奈半利町 http://www.genbu.net/data/tosa/takesakamoto_title.htm
    葛木男神社 高知県高知市 ここには妃神であろう葛城襲津妃神も合祀されています。http://www.genbu.net/data/tosa/katuragio_title.htm
  •  葛城襲津彦の子孫と天皇家との婚姻の状況
         |--葦田宿禰---黒媛
    襲津彦-----磐之媛     |---市辺押磐王子
              |----履中天皇
            仁徳天皇 |-住江仲王子 
                 |-反正天皇
                 |-允恭天皇--雄略天皇
                          |--清寧天皇
    襲津彦-----玉田宿禰---円-----韓媛
  •  神功皇后紀五年   新羅の草羅城を攻め落とす。
          六十二年 新羅を討たせるべく派遣されたが美女を納れて加羅国を攻めた。後、岩穴に入って死んだ。
     応神天皇十四年   弓月の民を連れ帰るべく加羅国に遣わされたが帰らなかった。
         十六年   本国からの応援を得て弓月の民を率いて帰国した。
     仁徳四十一年    百済王族酒君が無礼であったので、酒君を捕らえて襲津彦に従わせて進上した。
  • 菟足神社
    駅路小坂井村にあり。延喜式内。里俗菟足八幡宮と称す。例祭四月十一日。放花炮(はなび)を多く揚ぐる。

    祭神兎上王(うさきかみのきみ)

    『古事記』にいわく、開化天皇[記紀伝承上の天皇]の条下、「大股王の子、[中略]兎上王は、比売陀君の祖なり。」社説にいわく、「祭神兎上の王なり。白鳳年中[六七三〜六八五]神告に依りて、八幡宮を併せ祀る。祭式に雀十二を射取り、祭牲をなす。」『三代実録』にいわく、「貞観六年[八六四]二月、参河国正六位上菟足の神に従五位下を授く。」
    鐘銘にいわく、
    参河国宝飯郡渡津郷の兎足大明神、洪鐘。右の志為ること、天長地久。仰ぎ願わくは円満、国土安穏、諸人快楽、鋳奉る所なり。
    大工 藤原助久
    勧進聖 見阿弥陀仏
    檀那 朝阿弥陀仏
    応安三年庚戌[一三七〇]十一月
    ここの村老いわく、この鐘、社頭の東方土中より掘り出だす。その遺跡、方五間ばかりの地、今にあり。不浄を祓い、注連引わたす。」(p120)
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