伊香郷、伊香色謎命、欝色謎命、

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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開化・崇神天皇の時代 伊香色雄と伊香色謎の時代に物部氏は天皇家と密接に結託して大躍進する。 大矢口宿禰の子の欝…

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  • 伊香郡
    〔伊呂波字類抄  安國郡〕
    近江國〈◯中略〉伊香〈イカコ〉

    〔地名字音轉用例〕
    ウノ韻ヲカノ行ノ音ニ轉ジ用ヒタル例 いかこ 伊香〈近郡〉伊香古イカゴ

    〔近江國輿地志略  八十八伊香郡〕
    夫以、伊香の名、諸書に載するところ、土俗傳説をなじからず、土俗相傳、天智天皇の御宇、餘湖に天人下りて游泳舞樂す、其歌妓の美兒多して、其數五百なり、かるがゆへに五百の兒と書して、いかごと讀といへり、然ども五百の字にいかの訓なし、若しこの説實ならば、五十の兒と書して、いかごと訓ずるもしるべからず、五十の字にいかの訓あることはめづらしからず、正史實録及源氏物語等にも、多出たるも、畢竟夢中に夢を説にて、假令五百五十の字にいかの訓ありとも、天人游泳歌妓の兒ゆへに郡の名とすること、あとかたもなき僞なれば、論ずべからず、一説に曰、往古この地に靈木ありて、其花ひらくるときは、異香四方に薫ず、かるがゆへに異香郡といふ、後に伊香の字にあらたむといふ、是もまたあやまりなり、當郡は伊香津臣命所領の地なれば、郡の名とす、郡中に伊香具神社あり、因て郡名とす、延喜式の神名帳にも、伊香具の社のことを載られたり、旁天人游泳靈木異香のことによらざること顯然たり、伊香具と書してもいかごと訓ず、江家次第には伊賀の字につくれり、是又字にかヽはらざることを見るべし、當郡東は美濃の國界中尾嶺土藏嶽、金裾嶽に交り、北は越前の國界三瀬山、中河内山に連る、西南は淺井郡の界に接れり、をよそこの郡の地勢、南北は長して東西はみじかきなり、
  • 五十日足彦

    父:垂仁天皇・活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)

    生母は山背大国不遅の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)あるいは丹波道主王の娘の薊瓊入媛(あざみにいりひめ)。不思議なことに五十日足彦命には『母親は薊瓊入媛ではなく、実は山背大国不遅の娘の苅幡戸辺である(つまり天津彦根命の子孫)』という有力な伝承もあって、息長一族との接点も見え隠れするのです。

    五十日足彦命─忍健別命(弟稚狭久良命─石別之君[高志池祖])─押許呂見命(弟佐太別命[石田祖])─許許米[山守部]─志己夫─意富多─加由(弟乙山[高志池祖])─宇志古─枳波─加知古(春日山、五十嵐の祖)

    五十日帯日子王 について、『古事記』には春日山君、高志池君、春日部君の祖であることが見えます。
  • 垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の系統

    沼帯別命 伊賀帯日子命
    ・垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の子
    ・書記では伊賀帯日子命ではなく膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)と皇女の記載
  • 先代旧事本紀』「天皇本紀」では母は同じとするが、同母弟に五十速石別命(記紀なし)、五十日足彦命(記紀では異母兄弟)があると異伝を記す。

    胆香足姫命:五十日足彦の異母姉妹。
    伊賀国造:五十日足彦の兄息速別命が宮を構えたとされる。
    五十日鶴彦命(伊賀比売):五十日足彦命の叔父(叔母)。垂仁天皇の同母弟(記に妹)。
    讃岐公  右京皇別   大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
    酒部公  右京皇別   同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
    酒部公  和泉国皇別  讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
    そして姓氏録は、この他にも「山公 和泉国皇別 五十日足彦の後なり」「山守 摂津国皇別 五十日足彦の後なり」とも伝えていますから、垂仁帝の皇子だと記紀の云う「イカタラシヒコ」の実体は、どうやら景行帝の皇子だとされている「神櫛別命」という人物であるらしい事が分かります。

    「五十日足彦命」は垂仁の子ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた。四国の讃岐を本拠地とする豪族の祖だったこ
  • July 2016 編集されました
    意賀美神社--枚方上之町
     京阪・枚方市駅から線路沿いに南へ約500m、香里丘陵の北端部にある万年寺山(H=38m)上にある。京阪線路添いの道から、山腹に沿うように石段を登った上にあり、“梅の名所”として知られる。また神社前にある豊臣秀吉が建てたという“御茶屋御殿跡”からの眺望はいい。

     延喜式神名帳(927)に『河内国茨田郡 意賀美神社』とある式内社で、元はここから南約300mの伊加賀村(現伊加賀北町付近)にあったが、明治42年(1909)、現在地付近の字三矢にあった『須賀神社』および大字岡(現岡東公園付近)にあった『日吉神社』の2社を合祀して現在地(須賀神社旧地)に遷座したという。

     今、社殿が建っている辺りからは、古く「万年山古墳」(4世紀中葉、推定前方後円墳、三角縁神獣鏡8面など出土、規模不明)が発見され、淀川水系を利用して交易などに従事した首長の墓と推定されている。また、奈良時代(推古天皇の頃という)には一草庵が、平安時代に「長松山萬年寺」が建立されたが(清和天皇・貞観2年860、聖寶上人開基)、明治の神仏分離によって廃寺となっている。

     旧意賀美神社の由緒について、旧枚方市史によれば、

     「開化天皇の頃、当地の豪族・伊香我色雄命(イカガシコオ、物部氏系)が淀川の水害排除と舟の航行安全を祈願して、その廷内に創建したのがはじまりで、もと大字伊加賀字宮山に鎮座していたが、付近の住民や淀川を上下する舟人等が通航の安全・水害排除の祈願のため、最も開発されていた伊香の地に社殿を創建したと伝える」
    とあるが、開化天皇の存在そのものが否定されるなか、当社創建がいつまで遡れるかは疑問。ただ式内社であることからみて、枚方で1・2を競う古社であることは確か。

      祭神--タカオカミ神・スサノヲ命・オオヤマクイ命・オオクニヌシ命

     今、当社の祭神は4柱となっているが、当社に合祀された3社の祭神をまとめたもの。

     タカオカミは旧意賀美神社の祭神で、その由緒は上記の通り。淀川を治め氾濫を抑える治水の神として祀られたのであろう。

     スサノヲは、もと当地にあった旧須賀神社の祭神で、旧須賀神社は、清和天皇・貞観14年(872)の疫病流行に際し、勅命によって萬年寺の開祖・聖寶上人がゴズテンノウを勧請したことにはじまり、古くは「牛頭天王社」と称していたが、明治の神仏分離によって同じ神格を持つスサノヲに替わったもの。
    意賀美神社・拝殿
    意賀美神社・拝殿
     オオヤマクイは旧日吉神社の祭神で“山の神”。古くは「山王大権現」と称し、「昔ある人が、流れ着いた日吉神社のご神体を家に持ち帰ったら、霊験顕著だったので氏神として祀った」とも、「伝教大師が、平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀り、皇城鎮護の社寺としたのがはじまり」という。
     オオクニヌシの合祀由縁は不明だが、旧日吉神社に祀られていたともいう。比叡山麓・坂本に鎮座する日吉神社が、京都の鬼門を護る神であるように、枚方が京都の裏鬼門(大阪からみると鬼門)に当たることから、当地に日吉神社が祀られたのかもしれない。

    ※末社--琴平神社・稲荷神社
    ◎琴平神社--祭神:オオモノヌシ命
     石段を上がった境内左手に鎮座する。現社殿は旧須賀神社の本殿という。
     祭神・オオモノヌシはオオクニヌシの和魂で国土経営の神だが、本来の祭神はインド伝来の竜神で金比羅大権現と呼ばれていた。
     コトヒラ社の総本社・讃岐の金比羅神社に伝わる伝承では、太古の昔、琴平の地まで海が湾入していたころ、オオモノヌシがここに行宮を営んだとあり、中世以降の神仏習合により金比羅大権現と習合したという。
     讃岐の金比羅社が象頭山という高所にあって瀬戸内を航行する船からの目印であるように、万年寺山が淀川航行の船からの目印とされて当地に祀られたのかもしれない。
    末社・琴平神社
    ◎稲荷神社--トヨウケ大神・ウカノミタマ神
     石段上の右手に鎮座し、真っ赤な鳥居が林立し“正一位・稲荷大明神”の幟がはためいている。トヨウケ(伊勢外宮の祭神)・ウカノミタマ両神とも食物神・穀物神だが、商売繁昌の神として勧請されたものであろう。
  • 建豊波豆羅和気王(武豊葉列別命・武歯頬命)(たけとよはずらわけのきみ)について。

    大依羅神社の主祭神である建豊波豆羅和気王

    、第9代開化天皇の第4皇子で、皇后ではなく、皇妃であるワシヒメという人との子。
    皇后である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の子は崇神天皇なので、崇神天皇の弟ということになります。
    また、
    道守臣(ちもりのおみ)、
    忍海部造(おしぬみべのみやつこ)、
    御名部造(みなべのみやつこ)、
    稲羽忍海部(いなばのおしぬみべ)、
    丹波之竹野別(たにはのたかののわけ)、
    依羅吾彦(よさみのあびこ)等の祖という
  • 04/08編集されました
    真清田神社 由緒
    神社神明細帳によれば当社の創建は崇神天皇の御代のこととされるが、当社の社記によれば、神武天皇33年3月3日、天香山命(天火明命の子)がこれを斎き祀った。天香山命の別名は高倉下で、熊野にいて神武天皇東征の折に神剣を献上して大功があったので、天皇の侍臣となり大和の高尾張邑にいたが、尾張国に遷し国を開拓した。父の天火明命を尊び海中島、嶼(こじま)の地を斎き祀られたのが今の中島郡である。往古から毎年3月3日を大祭日と定めた。

    以上から、真清田神社は神武天皇33年3月3日に天香山命が父神・天火明命を祀ったのが始まりと理解されます。ところが、別名の高倉下は物部氏であり、尾張には既に書いたように物部系の影響も見られます。例えば、熱田区に鎮座する高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)は熱田神宮の境外摂社で祭神は高倉下です

    真清田神社の神職を見ていきます。同神社神職は当初大三輪氏系の真神田氏でした。天野信景が著した「本国神名帳集成」によれば、(真清田神社の祭神は)真神田朝臣・大神朝臣等祖神也と記されています。「三代実録」には、「右京人左大史正六位上真神田朝臣金雄 賜姓大神朝臣 大三輪大田田根子命之後也」と記載あり、真神田氏が大田田根子の後裔となり、大物主神に接続します。

    ただ、真神田氏に関してさらにチェックすると、「新撰姓氏録」物部氏族条の左京神別上には真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)。神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命(けつわけのみこと)の後なり。とあります。

    大和国神別には真神田首(まかみたのおびと)。伊香我色乎命(いかがしこをのみこと)の後なり。ともあります。

    つまり、真神田氏は物部氏となっているのです。

    和名抄によれば、一宮市は尾張国中島郡美和郷に含まれます。美和郷の範囲は予想以上に広く、一の宮村を本拠と為し、北は三輪川の酒神社(倭姫命の元伊勢・中島宮所在地)、西は南木、宮地花池、南は妙興寺から氏永、国府輪まで及んでいます。現在で考えると、名鉄の今伊勢駅から名鉄国府宮駅辺り(尾張大国霊神社)までが美和郷の南北軸になりそうです。
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