山城国、山背、京田辺、宇治

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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古くは「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。 この名称は、平城京から見て「奈良山のう…

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  • June 2016 編集されました
    祝園神社(ほうそのじんじゃ)
     社記によれば、崇神天皇の時代に、この地で討伐された武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡魂が鬼神となって柞ノ森(ははそのもり)に止まり、人々を悩ませていました。これを鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが同神社であるといわれています。現在に伝わる「いごもり祭」も、この時の斎戒沐浴(さいかいもくよく)しての祈願に始まるといわれています

    神社の南に武埴安彦破斬旧跡の石碑がある。古事記によれば「崇神天皇十年、孝元天皇と河内の青玉の女の波邇夜須毘売の間に生まれた建波邇夜須毘古が朝廷に反逆し、越の国を制圧に向かう大毘古の命の軍に敗れたとあり、 その御魂鎮めのために四十八代称徳天皇の御代に創建されたとある。

  • 阿陀比賣神社
    奈良県五條市原町24

    祭神 阿陀比賣神、彦火火出見命 配祀 火須勢理命、火照命
    摂社
     八坂神社 「素盞嗚命 配祀 牛頭天王」
     大神宮、熊野神社、春日神社、八幡神社、琴平神社
    『和名抄』の大和国宇智郡阿陀郷の名が見える。当社の鎮座地である。また『和名抄』に、薩摩国阿多郡阿多郷の名が見える。阿多隼人の居住地である。開聞岳を神奈備山としていた隼人である。なお、隼人には大住隼人もいる。こちらは人数が多いようだ。
    阿多隼人は少数派だが名門で『記紀』では皇室に妃を出している。当神社の祭神の阿陀比賣神とは神阿多都比売、または木花佐久夜姫命と言い、まさに皇室の祖先の母親とされている。
  • June 2016 編集されました
    岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)
    「延喜式」で大社に列せられた古社です
    下鴨神社の元宮でもあります
    由緒に
     「御祭神・賀茂建角身命(カモタケツヌミ)は、釈日本紀収載の山代風土記・逸文によると、日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が賀茂建角身命の化身である。・・・
     (カモタケツヌミ命は)大和平定後は葛城の峰に留まり、ついで山城国岡田の賀茂に移られ、その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御代と伝える。その後、命は山城川を下り洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まられた」
    とある。
    この由緒は、山城国風土記(713)・逸文にある賀茂の社条(丹塗矢伝承)をうけたもので、
     その前半は、祖神・カモタケツヌミ命の出自を神武東征時の八咫烏神話に付託した神話的伝承だが、
     後半にいう賀茂氏の大和葛城から洛北賀茂への移動は史実に近いと推測され、賀茂氏は雄略朝の初期の頃(5世紀中頃)に葛城から岡田への移住を始め、その後、乙訓(桂川と賀茂川の合流点付近)を経て賀茂川を北上し、雄略朝から清寧朝の頃(5世紀後半頃)に洛北賀茂の地へ進出したという(日本の神々5-2000・賀茂別雷神社他)。
     その移動の途上、最初に留まった当地に創建されたのが当社となるが、その時期ははっきりしない

    もとは木津川南岸(鴨大明神址)に鎮座していましたが、木津川流路の変遷でたびたび水害に遭った為、遷座しました

    京都府木津川市(旧相楽郡加茂町)にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。賀茂氏の祖である建角身命を祀る。

    賀茂建角身命
    加茂川(木津川、小椋池、宇治川、桂川、鴨川)水系の水利権と山城の地を賜り、木津川中流の岡田加茂に拠点を置き、以北の広大な土地開発を進める。「建角身命」の子孫「賀茂剣根命」は葛城の国造となり権勢を揮い、その子孫は山城国、山代国、山背国を拓き、加茂県主や「木津氏」、「舟木氏」、「宇智氏」などを輩出する。

    山城国風土記(逸文)によれば、建角身命は大和国葛城から山城国岡田賀茂を経て洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まったとある。崇神天皇の治世に賀茂氏によって、建角身命に縁のある岡田賀茂の地に下鴨神社より勧請を受けて創建されたものと伝わる。文献の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)年正月27日条の当社に従五位上の神階を授けるという記述である。延喜式神名帳では大社に列している。

    当社は元々現在地より北方(木津川河岸に「鴨大明神趾」がある)に鎮座していたが、木津川の流路が変わりたびたび水害に遭うようになったため、現在地に遷座した。現在地は元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられる。離宮が廃された後、その旧跡を保存するために村人が神社を創建し、「天神社」と称した。その境内に岡田鴨神社を遷座したものである。現在、天満宮は境内社となっている。
  • June 2016 編集されました
    剣根命の系譜:『古代豪族系図集覧』

    高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多美命(葛城直祖)

    陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。葛城の鴨氏とも近い縁がある。

    ①天神玉命----②天櫛玉命----③賀茂建角身命--④玉依彦命----⑤五十手美命---⑥麻都躬乃命 (註:五十手美の兄弟が剱根命)

     田使首系譜  
    ①伊久魂命----②天押立命(神櫛玉)③陶津耳命----④玉依彦命----⑤剣根命        (註・陶津耳の兄弟が都留支日子=剣彦)
  • 越の一宮、弥彦神社の由緒に

    天香久命(別名、高倉下)の母親は、天道日姫命。妃は熟穂屋姫命(ニギハヤヒと御炊屋姫との子)
    とある。


    風土記逸文は続けて賀茂建角身命が「丹波の国の神野」の神伊可古夜日女(いかこやひめ)を娶って「玉依(たまより)日子」と「玉依日売」の二人の子供を儲けたと伝え、更に玉依日売が「石川の瀬見の小川」に流れて来た『丹塗矢(にぬりや=男神の霊代)』に感応して「男子(可茂別雷命)」を産んだ。その丹塗矢は「乙訓の郡の社」に坐す火雷神であると自家の系譜を記しています。この「丹塗矢」伝承は、古事記が神武帝の『皇后選定段』で比売多多良伊須気余理比売命の出生に付いて「美和の大物主神」が「丹塗矢に化りて」三嶋溝咋の娘・勢夜陀多良比売の許に通ったとする説話を、殆ど変形せずに取り入れたものであることが分かります。
  • 陶津耳命」には『和泉国大鳥郡、陶荒田神社』の註文があって、この神様には「都留支日子命(ツルギヒコ)」という名前の兄弟があり、その神様が『出雲国島根郡、山口里』を本拠地としていたと注記されています。現在でも大阪堺に陶荒田神社、島根松江に布自伎彌神社が在って前者が高魂命、剣根命を、後者が都留支日子命を祭神としています

    「陶津耳命(スエツミミ)」とは神話に登場し薬神、酒神として良く知られる少彦名命の別名

    剣根は娘・加奈知比咩命、孫娘・葛城避比売命をそれぞれ尾張氏の当主である天忍男命と天戸目命に嫁がせ、神武に積極的に貢献した高倉下(亦の名、天香語山命)を先祖に持つ尾張との閨閥作りに努め、ヤマトでの影響力の拡大を目指したと考えられます

    葛城の「鸇姫(ワシヒメ)」は開化帝の妃となって建豊波豆羅和気王を生み、もう一人が「建諸隅命(タケモロスミ)」の妻になったと系譜は伝えています。建豊波豆羅和気王という王子は系譜上「依羅阿比古(ヨサミアビコ)の祖とされる人物であり、建(武)諸隅命は先代旧事本紀が矢田部造の祖で崇神六十年の秋『武日照命が天より将ち来たれる神宝が出雲大神の宮に納められているらしいが、見てみたい』との帝の希望を叶えるため、出雲への使者となった武人です。
  • 葛城の笛吹連
    葛木坐火雷神社(笛吹神社) 葛城市新庄町笛吹
    祭神 火雷大神、天香山命
    配祀神 大日貴尊、高皇産靈尊、天津彦火瓊瓊杵尊、伊古比都幣命
    摂社 春日神、稲荷神、熊野神、梅室神、満開神 等
    創建は詳かでない相当な古社である。大和国忍海郡の式内社二座に比定される。
    神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。
    このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わしてこれを討滅された。
    一方、大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。
    天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。この夜天皇の夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社に祀ったと伝えられている。
  • June 2016 編集されました
    城陽市水主 木津川沿いの 水主神社と山背根子
    山背大国魂命は山背根子のことです。
    山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、自分の娘の葉山姫には天照大神の荒魂を廣田神社に、その妹の長姫には事代主を長田神社を祀らせました。
    水主衆(加子衆:水夫のこと)が集住する町」に由来するそうです。
    新撰姓氏録には、この辺りの豪族に水主直がおり、水主氏の祖を祀る氏神として水主神社を創建したとあるそうです。
    水主氏は、栗隈大溝(水路)に木津川から水を流入させる井堰の管理を司る一族とされます。

    山背大国魂が、丹波から水主に移住し、木津川水系・巨椋池周辺での治水治山農業の振興に努め、この地を開発しました。
    祭神:天照御魂 天香語山 天村雲 天忍男 建額赤 建筒草 建田背 建諸隅 倭得玉彦  
    山背大国魂(山背根子)
  • June 2016 編集されました
    天香山ー天村雲ー天忍人ー天登目ー建斗米ー建宇那比ー建諸隅ー倭得玉彦ー玉勝山背根子ー淡夜命ー大木食

    玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等
    神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
    今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.

    天孫饒速日尊の第十世、山脊大國魂命は山脊(やましろ) の國造として国土経営に功あり。其子孫代々此地に廟食して国土を統治す。この故に山脊大國魂命または山代根古命とも尊称す。大國魂とは国土経営を賛称し、根古とは其民統治の謂なり。
    人皇十代崇神天皇の御代、豊鋤入姫命をして大殿裏に奉祀の天照大神を倭笠縫邑に遷祀せしめ給ひしが、また別に淳名城入姫命をして、日本大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊の二国に神籬を建て、齊き祭らしめ給う。水主神社はその一社なり。
    天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。第十世山背大国魂命にいたり山背に移り大に其の国に功烈あり。之を尊みて山背大国魂命という
  • June 2016 編集されました
    水主神社の祭神十座は、全て海部・尾張氏の祖である。
    樺井月神社は、月読命を祭神とし、もとは西岸の大住郷にあったとされている。
    隼人には月を祀る習俗があった、と言う説がある。

     『和名抄』には薩摩国阿多郡阿多郷がみえるが、五條市の阿田は、この鹿児島の「阿多」が地名転移したものと考えられている。阿陀比売神社は、阿田に隣接する原町に鎮座し、上代に南九州から移り住んだ隼人たちが祖神を祀ったものではないかと言われる。『延喜式』神名帳 大和国宇智郡に登載のある小社で、合祀神の火須芹命は隼人の祖神であり、阿陀比売命はその母神である。

    十五夜綱引や十五夜相撲といった習俗に関する、民俗学者の小野重朗の研究から言い出されたものらしい。

     これらの習俗は、(あとで説明するが)月と密接に関係するものである。そして、その分布圏は隼人たちの墓制とされる地下式横穴墓や地下式板石積石室墓が分布する範囲とわりとよく重複する。さらに、京都府京田辺市の大住と呼ばれる土地は、阿田と同じく、上代に南九州から移入した隼人たちの居住した土地だが(「大住」は、「大隅半島」などに見られる「おおすみ」が地名転移したとみられている。)、ここには、月読神社や樺井月神社といった、月神を祀る式内社が複数ある。小野はこうした状況証拠を基に、隼人たちには月神を祀る信仰があったと考えたのである。
    そこには国定史跡に指定され有名な、唐仁古墳群や塚崎古墳群を含むいくつかの古墳群がある。とくに唐仁古墳群の唐仁大塚古墳(一号墳)は前方後円墳であり、畿内的な文化の影響を感じさせるとともに、墳丘の全長が140m、周濠も含めると185mもあって、県下最大規模の古墳である。築造年代は本格的な発掘調査が行われていないため不明だが、古墳時代中~後期頃とされる
     串良町有里の月読神社は、この2つの古墳群から10km内外の地点に鎮座している。
  • June 2016 編集されました
    八咫烏(やたがらす)」こそ鴨氏の祖
    「山城国風土記」逸文
    加茂の社。加茂と称うは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古(神武帝)の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河のまにまに降りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし、賀茂川を見遥かして、言りたまいしく「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまいき。依りて、名付けて石川の瀬見の小川と言う。その川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき。その時より、名付けて賀茂と言う。

    賀茂建角身命が「丹波の国の神野」の神伊可古夜日女(いかこやひめ)を娶って「玉依(たまより)日子」と「玉依日売」の二人の子供を儲けたと伝え、更に玉依日売が「石川の瀬見の小川」に流れて来た『丹塗矢(にぬりや=男神の霊代)』に感応して「男子(可茂別雷命)」を産んだ。その丹塗矢は「乙訓の郡の社」に坐す火雷神であると自家の系譜を記しています。
  • June 2016 編集されました
    物部系図
    宇摩志麻治命━彦湯支命━出石心大臣命━大矢口宿禰━━欝色謎ー+ー大彦、開化天皇

    神武天皇ー神八井耳━━━武宇都彦━━━武速前━━孝元天皇━━+

    和邇・丹波系
    神武天皇ー綏靖天皇━━孝昭天皇━天足彦国押人命━━和邇日子押人命ー姥津媛(開化天皇)━彦坐王━━━丹波道主

    吉備系
    神武天皇ー綏靖天皇━孝昭天皇━孝安天皇━━孝霊天皇━━五十狭芹彦、百襲姫

    天香山ー天村雲ー天忍人ー天登目ー建斗米ー建宇那比ー建諸隅ー倭得玉彦ー玉勝山背根子ー淡夜命ー大木食

    倭得玉彦命(日本得魂命)は、崇神の時代彦坐王(ひこいますのきみ)と陸耳御笠を(くがみみのみかさ)討った人物で、崇神時代の人である。
    また中臣氏の神聞勝命は、崇神時代、鹿島大神を祭った人物とされる。どちらも崇神時代に活躍した人物で近い年代の人である。
  • June 2016 編集されました
    応神天皇が丸邇(ワニ)氏の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘の宮主(ミヤヌシ)矢河枝比売(ヤカハエヒメ)を娶って産んだ子が
    宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)
    八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)
    女鳥王(メドリノミコ)
    です

    春日井市の朝宮神社も上条町の和爾良神社も主祭神は、「阿太賀田須命(あたかたすのみこと)」で建手和尓命(たけたかにのみこと)という神様も併せてお祀りされているようです。
    阿太賀田須命は、赤坂比古命とも言われ、天理市和爾町にある和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の主祭神です。

    『新選姓氏抄録』摂津国皇別に和爾部を大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命之後也、また、同書に山城国皇別にも和爾部を小野朝臣同祖、大天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後、と記されています。すなわち和爾部の祖神が阿田賀田須命と言うことだろう 』とあります。
    つまり、阿太賀田須命は、和爾氏の祖先の神だという事です。

    「米餅搗大使主」のもとの名を「日布礼大使主」とする伝えがあります(参照:滋賀県神社庁小野神社の項など)。 『日本書紀』で応神妃・宮主宅媛の父は「和弭日触使主」とあり(『古事記』では「丸迩之比布礼能意富美」)、これは系図上では、米餅搗大使主の兄弟の「日触臣」のこととされています。 しかし『古事記』の「意富美」を「大使主」と見るならば、もとの名を「日布礼大使主」と見た米餅搗大使主と、和邇の祖「丸迩之比布礼能意富美」とは、無視できない関連性があります。
  • June 2016 編集されました
    神功皇后の時代
    山背根子と天照大神
    山背大国魂命は山背根子のことです。山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、自分の娘の葉山姫には天照大神の荒魂を廣田神社に、その妹の長姫には事代主を長田神社を祀らせました。

    難波根子 健振熊の登場
    『勘注系図』は建振熊命の注記で次のように述べる。

    「息長足姫(神功皇后)、新羅国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為って以って使え仕え奉るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾等を賜う。品田天皇(応神)の御宇(みよ)国造として仕え奉る故に、海部直亦云う丹波直、亦云う但馬直なり。」

    建振熊命は神功応神朝成立の功労者である。その功績によって丹波、但馬、若狭の広い範囲の支配者となるのである。もちろんその前に成務の時代、丹波には大倉岐が、但馬には船穂宿禰がそれぞれの国造として任命されている。
    建振熊命は丹波、但馬、若狭という広域を支配する上位の国造である。
  • 京田辺の月読神社
    月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀る延喜式内社で、大社に位置づけられていた。中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられ、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。現在の本殿は、東に面する一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺:ひわだぶき)の建物である。明治26年(1893年)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる。この春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。本神社が位置する大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となっている。往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。 毎年10月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)が奉納される。
  • June 2016 編集されました
    崇神天皇の兄の比古由牟須美命には、大筒木垂根王と讃岐垂根王と言う二人の御子がいた。

     『古事記』によると、開化天皇の子の比古由牟須美命の子の大筒木垂根王の娘(曾孫)である迦具夜比賣命とその叔父讃岐垂根王が、かぐや姫と竹取りの翁にあたる讃岐造となる。 これをモデルに作成された物語。

    案内板に
    「今は昔、竹取の翁といふものありけり・・・・・」で始まる『竹取物語』(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族斎部氏が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐姓は、『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉郷があり『大和志』では「散吉郷廃村済恩寺村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の済音寺集落付近に比定している。又この付近に「薮ノ下」、「薮口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。

     三吉の北部には讃岐神社が鎮座し「延喜式」神名帳、広瀬郡の讃岐神社がこれに当たるとされる。

     『竹取物語』の舞台が大和国であったことはかぐや姫の求婚者であった五人の貴公子の名が、持統朝末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた五人の実在の人物に比定されることも符合する。

     (資料)奈良県史(風土と文学)
     読売新聞
     (昭和六十一年三月十五日付夕刊)

  • 佐牙神社 京都府京田辺市宮津佐牙垣内164

      「延喜式神名帳」の綴喜郡の佐牙乃神社に比定される。『新抄格勅符抄』には佐牙神として摂津に九戸と記されているが、摂津には佐牙神は見当たらず、当社のことであろう。
     酒造の神として信奉されていた。敏達天皇二年、佐賀弥豆男神、佐賀弥豆女神を咋岡の山本に鎮座なし玉ひて云々と「佐牙神社神紀」にある。山本とは現鎮座地と見られている。
     天変地異の地を祀ったとの説もある。吉田東[イ吾]は『地名辞書』で、「社名を切山(キレヤマ)と云う、地[女尺]ありて地裂けたるによりて祭る所以」とし、これは『三代実録』貞観十二年(870)の「綴喜郡山本郷山朋陥 云々」の記事を根拠にしている。
     これを認めれば、先の、『新抄格勅符抄』の記事の佐牙神をいいいよ摂津国に求めなければならない。
  • 佐牙神社は古文書によると飛鳥時代の794年に創建され、木津川近くの三山木の山本にあったものを平安時代が始まった794年に現地(京田辺市・宮津)へ移したそうです。

    現在も山本に御旅所があり、祭日には神輿の渡御があります。

    佐牙神社御旅所
    佐牙神社の山本御旅所1


    山本の御旅所には「百味と湯立」という伝統行事があります。

    10月の秋祭りに神輿が到着すると、
    穀物や豆類、果物など100種類以上の「百味」を神前に供えます。

    「湯立」は、神酒、塩、米を入れた神水を大きな釜を沸騰させ、
    煮立った釜の湯を笹ですくい、集まった人々に振りかけて無病息災を願います。
  • June 2016 編集されました
    『旧事』天一目命を山代国造としました。すなわち、山代直(やましろのあたい) の先祖です。橿原朝の御世に、阿多振命(あたふりのみこと) を山代国造としました。
    阿多根命。阿多振命。 
    カンミムスビの孫であるアメマヒ (アマメヒトツ) の曾孫。 
    神武東征中、丹生川端に別雷山の御祖神 (ニニキネ) を写して、これを三日間祭り(奈良県宇陀郡榛原町大字高井字神定、伊豆神社)、その後に敵を討伐する。 
    神武の即位式では、月の使い(月の臣)として、ヤタ鏡をタネコ(鏡臣)に渡す役を務める。 
    大和平定の功で、山城の賀茂の県主になる。 
    タケヒトは御祖神 (ニニキネとウガヤ) を大和でも祭るため、アメトミをして賀茂の社を、ハリハラ(榛原)の鳥見山に写させる。同時にアタネを山背の国造にして、カモタケズミの政を継がせた。
  • 村屋坐弥冨都比売神社(守屋の宮)旧県社
    磯城郡田原本町蔵堂 近鉄線 田原本町駅より東四粁
    祭神 弥冨都比売命 大物主大神 例祭 一〇月一〇日
    神紋 五七の桐 本殿 流造 朱塗 六坪
    境内 三三八〇坪 末社 五社
    宝物 弓 一張 氏子 八〇〇戸 崇敬者 四〇〇〇人
    神事と芸能 御田植祭、綱掛行事
    由緒沿革 崇神天皇の御代七年伊香色雄命を して祭らしめ、後垂仁天皇の御宇伊色雄命の 子物部十市根命をして、大物主命を併せ祭る 延喜式内大社にて官幣に預り給えり。天武天 皇御代大友皇子と争い給いし時(壬申の乱) 天皇河内より当社の森に逃れ給いし時神主守 屋朝臣喜久麻呂天皇を守護し奉り、其神託に より大勝を得給いしより御即位御位階を贈り 給いて神恩に謝し給う。
  • 式内社 大和國城下郡
    村屋坐弥富都比賣神社 大 月次相嘗新嘗
    旧県社

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    御祭神
    彌富都比賣神 大物主命

    境内社 式内社
    大和國城下郡 服部神社二座 鍬靫
    境内摂社服部神社
    天之御中主命 天之御鉾命

    大和國城下郡 村屋神社二座
    境内摂社村屋神社
    経津主神 室屋大連神
    武甕槌神 大伴健持大連

    大和國城下郡 久須々美神社
    境内久須々美神社
    天之久之比命 事代主命
  • 山城南部、京田辺市近辺が元々の息長氏の本拠地として本命???
    そこから河内中部に移りさらに滋賀県坂田郡にも勢力を持ったか。讃野皇山には伝忍坂大中姫御陵があり。中筋塚という伝沙禰王墓、広住塚という伝息長真若中姫墓、浮山にある伝杭俣長日子王埋葬地、ツブレ池は継体天皇皇女都夫良郎女溺死伝承地など息長氏関連人物の伝承遺跡が多数この喜連町周辺にある
  • 奈良時代の山背國というのは、だいたい巨椋池付近までで、それより北は主として秦氏や栗隅氏が開発したのだという。
    平安京は秦氏の土地に営まれたわけである。平安京の最大の神社は賀茂大社であって、「鴨一族が入り込んで山背を平定した」という話になっていることが多いのだが、実はそれより古く、土師氏が住んでいたそうだ。)

     当時の山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいた。その場所は愛宕山からだいぶ離れている。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があるらしい。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにある。愛宕山も現在は京都と亀岡の境ぐらいにあるが、かつては丹波の勢力圏で、朝廷が直接統治する場所ではなかったのではなかろうか。

    「寧楽遺文(ならいぶん)」に神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されている。そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓なのである。
  • 山城国愛宕郡で賀茂氏が従事したのは、平安京やその周辺の皇族や貴族等の邸宅や寺院、神社などの建設のための木材の供給であり、律令国家が建設されていく過程では、それらの建築物の建設や船の建造のための木材の供給は、全国的に必要となっていったので、賀茂氏は全国の山林に広がって木材の供給を行った。

    これが、各地に加茂郡、賀茂郡や賀茂郷が存在する理由であったが、三河国にも賀茂郡や賀茂郷があり、賀茂氏が「鴨山守」として、山林から木材を切り出していた
  • 釈日本紀 山城国風土記逸文 「賀茂社」
    賀茂社 

    山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。

    可茂と稱(い)ふは、日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、

    神倭石余比古(かむやまといはれひこ・神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に宿りまし、

    彼より漸(やくやく)に遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河(木津川)の隨(まにま)に下りまして、葛野河(かどのがは・桂川)と賀茂河との會ふ所に至りまし、

    賀茂川を見迥(はる)かして、言りたまひしく、「狹小(さ)くあれども、石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまひき。仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。

    彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。

    賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。

    玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなわ)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。

    人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、神集(かむつど)へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、

    「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。

    乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。

    謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。

    可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社(やしろ)に坐(いま)す。                          (釋日本紀 卷九)
  • 日子坐王系譜で注目されるのは、大和北部と山城南部の地名に由来する人名が集中的にみられることである。
    まず、〔A流〕系譜には、春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)・沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)・沙本毘古王(さほびこのみこ)・袁邪本王(おぎほのみこ)(すなわち小沙本)・沙本毘売命(さほびめのみこと)などの名が見える。春日は「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)」にいう大和国添上郡(そうのかみぐん)春日郷(かすがごう)付近の地で御蓋山(みかさやま)(春日山)や春日大社のある地域を指し、サホは添上郡佐保の地にほかならない。
     〔B流〕系譜についてみると、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が山城の綴喜(つづき)に由来する名であることはいうまでもないが、高材比売(たかきひめ)も、かつて田辺町(現・京田辺市)に存在していた高木村(たかぎむら)の地名に由来する名であろう。さらに、迦邇米雷王(かにめのいかずちのみこ)のカニメは、相楽郡(現・木津川市)山城町綺(かば)田(た)の旧名である蟹幡(かむはた)(倭名類聚鈔)や蟹満寺(かにまんじ)のカニマンと語源は同じで、やはり山城南部の地名からきているのである。幡はハタともマンとも読みうるから、カニマンは蟹幡の別の読みにほかならず、カニメはそのカニマンから転訛(てんか)した言葉とみて誤りない。
     〔D流〕系譜についてはどうか。山代之荏名津比売(やましろのえなつめ)は山城国綴喜郡江津(えっつ)(田辺町〈現・京田辺市〉宮津付近)の地名に、また、その「亦(また)の名、苅幡戸弁(かりはたとべ)」は蟹幡郷の地名に、それぞれ基づくものと考えられる。
     ただ、〔C流〕系譜には、大和北部や山城南部の地名にちなむ人名はみられない。だが、そのかわりに、「近淡海(ちかつあふみ)の御上(みかみ)の祝(はふり)」(野洲郡の三上山の神主)が奉斎する天之御影神の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)と日子坐王との間に生まれた水穂真若王(みずほのまわかのみこ)を始祖とする「近淡海の安直」が登場し、近江南部と深い関係にあることを注意しておこう。
  • 角宮神社
     【鎮座地】旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあった
            文明16年(1484)今の地に再興

       【祭祀対象】
       【祭祀】江戸時代には乙訓神、角宮と称していた
       【社殿】本殿神明造、瓦葺
           拝殿・神饌所・絵馬堂・社務所
       【境内社】春日神社・太神宮・八幡宮・稻荷神社・向日神社

    市街地の中にある小社。境内を覆う楠の巨樹があり遠くからもよく見える。
    鎮座地の西約500mに宮山の地名があり、旧社地はこの辺りにあったのかもしれないが、跡地の確認不能


    角宮神社

    式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る。
    乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。
    初見は「続日本紀」の大宝2年(702)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明16年(1484)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。
    全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
  • 11/15編集されました
    伴氏神社(大 月次/新嘗) 山城国 葛野郡鎮座

       【現社名】住吉大伴神社
       【住所】京都市右京区龍安寺住吉町1
           北緯35度1分54秒,東経135度43分
    『続日本後記』承和元年(834)正月庚午の條に「山城國葛野郡上林地方一町賜伴宿禰等爲祭氏神処」とあり、そのとき創祀されたものと恩われるが、その後全く史上にその名を没した。
    現社は中世以降、「住吉社」と呼ばれ、社殿様式や祭神も住吉であり、大伴社と称したことはない。
    ところが並河永の『山城志』には「在龍安寺村。今称住吉」とあり、これを受けて明治に社名を住吉大伴社と改名した。『山城志』が何を根処に当住吉社を式内伴氏神社と想定したかは不審である。

    住吉大伴神社

    『山城名勝志』もまた龍安寺の條につゞけて伴氏神社を掲げ、鎭守住吉明神は龍安寺建立己前の勧請なることを記してゐる。しかし龍安寺は『和名抄』の馬代郷に属し、伴宿禰が氏神を祭るベく賜はつた地上林郷とは別郷であり、住吉神社にもかつて大伴神社と呼ばれたことのなかつたこと、明治8年龍安寺住職並に谷口村戸長連名の左記口上書(京都府総合資料館藏)に明らかで、當時それにもかかはらず、それを式内伴氏神社に擬定しようとして、その社名までも住吉大伴神社と改称せしめたものと察せられる。
    式内社調査報告


    住吉大伴神社

    1.御祭神 住吉三神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
    1.例祭日 10月16日
    1.神幸祭 10月第三曜日
    1.由緒
    住吉大伴とは古代の豪族大伴氏を祭る伴氏神社に住吉大神を合わせ祭った事による。
    大伴氏ははじめ大和国にあってその勢力を振るっていたが、平安遷都によりこの地に移住し、その先祖の神天押日命を祭ったのである。
    「続日本記」には、「承和元年正月賜葛野郡上林郷地方於伴宿禰等為氏神之所」、又「嘉永2年12月授従五位下伴氏神社」とあり、大伴氏は上代の武門の家として物部氏と共に皇居を警衛し禍乱を鎮圧して功を立てた一族であり、後に淳和天皇の御諱の大伴親王をはばかり伴氏と改めたのである。
    応天門の変(866)によって伴善男が伊豆に流されてから衰退し伴氏神社の名も世に疎くなっていったものと思われる。
    並河永編するところの「山城誌」に「伴氏神社(中略)在龍安寺村今称住吉」とあり、又伴信友の「神名帳考証」には「伴氏神社(中略)「今龍安寺村にありて住吉という」とあり、両書とも古伝によるものであるが当社が伴氏神社と同じ地にありながらいつの世にか住吉神社と称せられるに至ったのは伴氏の衰微と共に葛野郡に山荘を営む徳大寺家の領しるところとなり、その徳大寺家の和歌の神として崇めた住吉三神を祭ったことにより伴氏神社は住吉神社として祭られ、それ以降永く龍安寺、谷口地区の氏神として崇敬されて居た。
    昭和17年8月21日許しを得て住吉3神及び大伴祖神を合祀、社名を住吉大伴神社と変更して今日に至る。住吉の神の和と大伴の神の武それぞれ和武合体中庸を保ちて和平の神と崇められている。
  • 阿刀神社

    式内阿刀神社は阿刀家の祖霊社である。 阿刀家は、かつてここで鎮魂伝を相承していた。また、阿刀家はここで嵯峨天皇の御作と言う天照大神のお木像をおまつりしていた。  昔は、この社から東の方を嵯峨野と言った。後水尾天皇はここにあった燈象菴におこしのとき、阿刀栄元に  虫の音も長き夜飽かぬ故郷に  楢思ひ添う松風ぞ吹く  との御色紙を下さった。  阿刀家は弘法大師の生母の里方である。 弘法大師は、三教指帰の初稿をここで書いたと言われている。  阿刀家は弘仁14年正月真言宗の執行職として東寺に移ったが、嵯峨との交渉には変わりはなかった。角倉了以の家も清原国賢の家も阿刀家と親族であった。この両家の関係は、近世嵯峨文化の基源を成したと言われている。右京区嵯峨広沢南野町
    http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=342
  • 月読神社

    【由緒】顯宗天皇3年(487)春2月丁巳朔 月読神葛野へ勧請
      大宝元年(701)4月3日 勅祭『続日本紀』
      貞観11年(869)12月17日 從一位『三代実録』
      元慶8年(884)2月21日 奉幣帛
      延喜6年(906)12月20日 正一位勲二等『扶桑略記』
      天慶4年(942)8月5日 神宮號宣下
      明治10(1877)年3月21日をもつて、松尾大社の摂社
    【関係氏族】壱伎縣主
    【鎮座地】顕宗天皇の三年(437年)葛野郡の荒樔田(上野辺付近)に鎮座 斉衡三年(856年)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地へ

       【祭祀対象】月神
       【祭祀】松尾七社の一として古くから祀られる
       【社殿】本殿流造 桧皮葺
           拝殿・神撰所・手水舎
       【境内社】太子社・御舟社

    道路に面して鳥居があり、階段を登ると境内。
    日本書紀によれば、顕宗天皇の3年(437年)、阿倍臣事代が山城国葛野郡の荒樔田の地(桂川辺、現在の上野辺付近)を神領として賜り、月読尊を祀る神社を創建し、壱岐県主・押見宿祢が神職として奉仕したと伝えている。押見宿祢の子孫は卜部姓であり、代々神職として世襲したが、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移った。
    全国屈指の名社であるが、当松尾大社の勢力圏内にあるため、古くから松尾大社の摂社とされてきた。
      境内には聖徳太子社・御船社・月延石がある。聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわれ、御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する。
    月延石は安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説があり、古来安産の霊験があると云われている。

    月読神社境内

    月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。
    文献によれば、顕宗3年(487)阿閉臣事代が朝鮮半烏に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡3年(856)に松尼山南麓の現在の地に移ったと伝えます。
    境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。
    月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡米系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京郁の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。
    平成5年4月1日 指定
    京都市
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