北史、高句麗伝

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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『北史』高句麗伝 高句麗、その先祖は扶余の出身である。 かつて王は河の神の娘を得て、室内に閉じ込めたが、日光が…

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コメント

  • June 2016 編集されました
    松本清張氏の推論は魏志東夷伝に依拠し、<<朝鮮の南半分にいた原住種族のことは、よくわからない。だがそのなかでも地理的にみて東部の種族(魏志東夷伝の辰韓)は南方的な血の度合いがわりあいにうすく、西部の種族(馬韓)はそれが比較的に濃かったであろう。

    さて、馬韓の一国として東夷伝に名前が出てくる伯済国が馬韓五十余国の群小集落をまとめて百済という原始国家となったのだが、これは本来の馬韓種族の力ではなく、そこに中国の東北部北満州から移住してきた扶余族の勢力であった。>>と扶余族が大和国家を創った説をとっている。

    ここで出てくる扶余族だが、その扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われているる。しばらくは魏志東夷伝が伝える夫餘(扶余)を要約でみてみよう。

    ①夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は[手邑]婁と、西は鮮卑と接し、北に弱水(黒龍江?)あり、方二千里ばかり。戸八萬、その民土着(着は著の略字)し、宮室・倉庫・牢獄あり。山陵・廣澤多く、東夷の域において最平敞なり。

    ②兄死して嫂を妻とするは、匈奴と同じ俗なり。その国、牲(家畜)を養うに善く、名馬・赤玉・貂[犬穴]・美珠を出す。珠の大なるは、酸棗(やまなつめ)の如し。

    ③夫餘はもと玄菟に属す。注記=玄菟郡(げんとぐん)は、漢朝により朝鮮半島に設置された地方行政機構。前107年(元封4年)に遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属した。かつての蒼海郡の再建が玄菟郡であるとの説もあり、その場合は玄菟郡設置の際に「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫餘国」を建国したことになる(夫餘とは穢人の言葉で鹿の意味という)。

    ④注記にある穢人(わいじん)は、前漢代の紀元前107年、玄菟郡を設置した時「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫余国」を建てた。夫余とは穢人の言葉で鹿の意味だという。

    魏志東夷伝や魏志倭人伝の前漢時代以前の記述は必ずしも正確ではないというのが定説だが、北方系のツングース・扶余族が満州からロシア領のシベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース諸語に属する言語を母語としたのは、他の史書でも明らかにされている。

    北アジア史の泰斗・護雅夫氏は「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族であり、4世紀から6世紀の初めにかけての最盛期には朝鮮半島の大半と南満州とを勢力圏に収めた」と言っている。

    高句麗は扶余国から分かれて建国された。

    松本清張氏は百済王朝を建てた扶余族が、海を渡って大和国家を建てたと推理を広げている。

    <<この種族は武力に長じ、土着の部族首長らをひきつける進んだ文化性を持ち、また統治する才能を持っていたと思う。>>という推理を立てた。

    だが古代日本人の人骨からDNA鑑定すると、多くの日本人はシベリアのバイカル湖周辺に住むブリヤート・モンゴル族と一致して、朝鮮半島からのDNAが少ないという結果がある。
  • 女真族の祖地は南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)の東麓だといわれている。古代から言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族で、中国の史書では粛慎(しゅくしん)、ユウ婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が女真族として活躍したと伝えている。

    女真族はまぎれもなく騎馬民族なのだが、一世紀の494年に扶余国という統一国家を作っている。いまでも中国の吉林省に扶余県、韓国の忠清南道に扶余郡の名が残っている。この扶余国から分国して出来たのが高句麗国。さらに高句麗から分国して出来たのが、日本にも馴染みが深い百済国である。この過程で 渤海国や新羅国も生まれたが、大筋でいえば扶余→高句麗→百済の騎馬民族とみることが出来る。ただし百済は高句麗の滅亡前に滅びている。
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