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漢鏡2期 BC2世紀後半 前漢中期前半 三雲南小路遺跡から重圏彩画鏡1面、四乳羽状地文(雷文)鏡1面が出土。須…
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新山古墳は北葛城郡広陵町にある前方後円墳。古墳時代前期(4世紀中葉)の築造と考えられる。宮内庁により、第二十五代武烈天皇の「大塚陵墓参考地」に治定されている
奈良県西部の馬見古墳群に属し、その郡中でも初期に築造され、墳丘は前方部を南にむけ、全長約126メートル、後方部幅67メートル高さ約10メートル、前方部幅約66メートルほどの前方後方墳である。1885年(明治18年)に所有者が植樹の際に穴を掘ったところ後方部にあった竪穴式石室につきあたり、銅鏡ほか多数の副葬品が出土している。
宮内庁によって大塚陵墓参考地として管理されている。
銅鏡34面出土、その内に直弧文鏡がある。
この文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作るが、その作図法は極めて難解である。各古墳の蓋・楯などの埴輪にも表現されている。銅鏡のうちの変形方格規矩神鏡は、紐の周りを方形に区画した中に十二支の漢字が、文字とは解読できないほど文様化したものになっている。
三葉文を透彫りした帯金具は、河北省定県43号墓(後漢中山穆王劉暢墓)のものが最も古く、2世紀に出現している。その他に盤龍文系、龍・鳳凰文系、双龍文系、龍文系などがある。その内、銀製帯具は、江蘇省宜興(ぎこう)周氏墓群1号墓(西晋周處墓)その他の六朝期の古墳から出土した帯具と類似性が強い。江南からもたらされたものか、その影響を受けたものである可能性が高い。年代的には300年前後の製作と考えられる。
出土遺物は銅鏡,管玉,車輪石,石釧,石製鏃,台形石製品,帯金具,刀剣などである。 このうち銅鏡は三四面に及ぶが,とくに直弧文鏡三面や大型仿製の方格規矩鏡・鼉竜鏡や同型の内行花紋鏡があって,日本列島の銅鏡製作の独自性と発展を知る資料といえる。 また金銅製帯金具は中国の東晋および西晋代に同型の出土品がみられる。製作地をめぐっては朝鮮の地域に求める研究もあり,議論は分かれるが古墳前期の実年代を考定する上での手掛かりとなっている。
森浩一『天皇陵古墳』大巧社 1996
同時期の類似古墳にメスリ山古墳がある。
奈良県北葛城郡広陵町大塚小字新山(馬見古墳群で初期造営の古墳)
直弧文鏡(ちょつこもんきょう)
直弧文鏡
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土したものである。鏡背には,直線と弧線を組み合わせた,日本の古墳時代特有の文様である直弧文で飾られている。この文様は内行花文鏡(ないこうかもんきょう)の影響を受けているが,単純な弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。このような直弧文を鏡背文様(きょうはいもんよう)に使用している鏡は,現存する青銅鏡の中で本参考地から出土した3面に限られている。この時期のわが国における鏡生産体制を考えていく上でも重要な鏡である。
京丹後市 太田南5号墳
方格規矩四神鏡は、石棺内北隅で鏡面を上にして出土した。鏡背部分に布片が付着しており、鏡と底石の間に黒色の付着物が残っていたことにより、鏡は布に包まれ、木箱に入れられた状態で被葬者の頭部右側に置かれたものと推定されている。
魏の年号「青龍三年」(235)を持つ紀年銘鏡で、直径17.4㎝、重さ570gを測る。扁平な鈕に長方形の紐孔をもち、鈕孔内に鋳張りが残っている。「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石候王」の銘文があるという。特に「青龍三年」の年号を必要とした意味がないような、魏皇帝から特別に下賜されたとも思えないような、ありきたり的な銘文のように見えてくる。青龍三年銘鏡は、その後、安満宮山古墳(大阪府高槻市)より同型焼が出土し、さらに関東にも出土地不詳の同型鏡1面があることが判明した(同じ鋳型で作られたか、あるいは踏み替えしで作られた鏡同士だという)。福知山広峯15号墳出土景初四年鏡 紀年鏡は全国から13面しか出土していない。青龍三年はその中で最も古い年号であり、丹後王国内と思われる古墳からは紀年鏡は3面も出ている。
いまのところ紀年銘鏡は全国で13面しか出土していない。魏の年号を記した鏡が9面で、青龍三年銘方格規矩四神鏡が当墳と高槻市安満宮山古墳ともう1面出土地不明のものが発見されている。景初三年銘三角縁同向式神獣鏡が和泉市黄金塚古墳と島根県加茂町神原神社古墳から、景初四年銘斜縁盤龍鏡が福知山市広峯15号墳↑と伝宮崎県西都原市持田古墳群から、正始元年(240)銘三角縁同向式神獣鏡が豊岡市森尾古墳、→ 群馬県高崎市柴崎蟹沢古墳、山口県新南陽市竹島古墳から出土している。豊岡森尾古墳出土正始元年鏡 同時代の呉の鏡が2面あり、赤烏元年(238)銘対置式神獣鏡が山梨県三珠町鳥居原狐塚古墳から、赤烏七年銘対置式神獣鏡が宝塚市安倉高塚古墳から出土している。どの古墳も当古墳くらいの大きさのものである
[岡村 1984・1993]。漢鏡 7 期を鏡式の創出という視点で通覧すると,各期の特徴は以下のようにと らえられよう。漢鏡 1 期は,戦国の伝統を引く龍文を主題とした蟠螭文鏡を創出した段階であり, 紀元前 2 世紀前半に相当する。漢鏡 2 期は,変形した龍文表現をもつ螭龍文鏡などが出現し,新た に草葉文鏡が出現した段階であり,紀元前 2 世紀後半に相当する。漢鏡 3 期は,文字を主要な文様 とする異体字銘帯鏡を創出した段階であり,紀元前 1 世紀前葉から中葉に相当する。漢鏡 4 期は, 動物図像を細線で表現した方格規矩四神鏡や細線式獣帯鏡を創出した段階であり,紀元前 1 世紀後 葉から紀元 1 世紀前葉に相当する。漢鏡 5 期は,新たに内行花文鏡や盤龍鏡,画象鏡が出現した段 階であり,1 世紀中葉から後葉に相当する。漢鏡 6 期は,夔鳳鏡や神獣鏡が出現した段階であり, 2 世紀前半に相当する。漢鏡 7 期は,新たな鏡式を創出しないが,夔鳳鏡や神獣鏡などが新たな段 階を迎えた 2 世紀後半に相当する。3 世紀以後は,新しい鏡の創出をみず,方格規矩四神鏡や神獣 鏡など,漢鏡を模倣した生産が展開する[森下 1998a・車崎 2002]。
日本列島に漢鏡が流入するのは,弥生時代中期後半以後のことであり,以後漢鏡の流入は古墳時 代に至るまで継続する。初出という視点で,漢鏡と出土する遺構の相対年代との関係を整理すれば, 漢鏡 3 期の鏡が弥生時代中期後半に,4 期の鏡が後期前半に,5 期の鏡が後期中頃から後半に,6期の鏡と 7 期の鏡が庄内式期に,おおむね対応する。日本列島への流入は,漢鏡の製作順序を反映したものといえよう。弥生時代中期以後の暦年代については,弥生時代中期と後期の境を紀元前後 に,後期と庄内式期との境を 2 世紀後半に,庄内式期と布留式期(古墳時代前期)の境を 3 世紀中 頃に求める見解が多い。鏡の製作年代と出土遺構との間には,若干の隔たりが生じているが,概ね 対応するものとみてよい。近年では,ウイグルマッチ法に基づく AMS 炭素 14 年代では,弥生時代後期初頭が紀元前後に求められ,庄内式期の始まりが 2 世紀前半に遡る可能性が指摘されている[春成ほか 2011]。 また,土器様式の並行関係を基礎としつつ,石川県大友 式代 西遺跡出土資料の年輪年代を参照した北陸地域での編年案中国鏡の分布の中心が北部九州から近畿地方へと転じる。 これは,出土遺構という視点で中国鏡を評価しても,流入 段階という視点で中国鏡を評価しても,等しく指摘できる
現象である[辻田 2007b,岡村 1999]。弥生時代中期後半か
ら後期後半まで,漢鏡 3 期から 6 期の鏡が流入する段階に おいては,鏡保有の中心地は北部九州にあった。庄内式期
に漢鏡 7 期が流入する段階には,北部九州は日本列島の鏡 保有の中心地ではない。古墳時代前期(布留式期)に三国西晋鏡が流入する段階には,鏡保有の中 心地は近畿地方へと移動する。外部より入手した鏡という器物を分配する論理には,同時代の社会 形態が反映されている。分布の中心に分配システムを運営した中枢があり,鏡の「分配システム」 の変容は,社会の統合原理の変革を最も端的に示している。
瑞龍寺山墳墓出土の内行花文鏡を位置づけ た東海地域での編年案など[赤塚 2006],庄内式期の始ま りを 2 世紀前半から中頃に求める暦年代体系が提示されて いる。これらを踏まえると,庄内式期の始まりが 2 世紀前 半から中頃に遡る可能性は十分に考えうる。こうした年代 観は,先に指摘した漢鏡の製作年代とその流入時期の隔た りを解消するものでもある
同じ型式の鏡であれば, 中国出土鏡と日本列島出土鏡の間に,大幅な時間差を見積 もる必要がないことの指摘がある[岡村 2008]。それは弥 生時代を通じた漢鏡に広く適応されるものであり,中国鏡の製作年代を以て遺構の年代を議論することが可能
日本列島における中国鏡の 分配システムの変革と画期 上野氏
広島県芦田川下流域 芦田川が下流域で東から南へと流れを変える付近に盆地を形成する福山
市駅家町や加茂町,神辺町周辺の地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 5 面出土している。蝙蝠座内行花文 鏡 1 面(石鎚山 2 号墳)と,飛禽鏡(破鏡)1 面(石鎚権現 5 号墳),上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(池 ノ坊古墳,伝福山市駅家町出土),斜縁神獣鏡 1 面(石鎚山 1 号墳)と斜縁四獣鏡 1 面(蔵王原古墳)
(8) である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面(掛迫 6 号墳)が出土している。
岡山県赤磐市周辺 赤磐市山陽町周辺の地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。画象 鏡 1 面(用木 1 号墳)と,上方作浮彫式獣帯鏡 1 面(吉原 6 号墳)である。三国西晋鏡では,模倣方 格規矩鏡 1 面(吉原 6 号墳)が出土している。なお,中国鏡とは異なるが,非九州系の小形仿製鏡3 面(便木山遺跡・用木 2 号墳・さくら山方形台状墓)が出土している。 愛媛県今治市周辺 今治平野とその縁辺部付近では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上方作浮彫式獣帯鏡 1 面(姫路山古墳)と,画象鏡 1 面(国分古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三 角縁神獣鏡 1 面(国分古墳)が出土している。なお,当地域に近接する高縄半島部でも,漢鏡 6・7 期鏡の画象鏡 1 面(相の谷 1 号墳)と上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(妙見山 1 号墳)が出土している。 一つの地域としてまとめるのは困難であるが,漢鏡 7 期鏡がまとまって流入する広域圏として評価 することも可能であろう。
香川県石清尾山周辺 本津川・香東川の両岸にひろがる台地周辺地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 4 面出土している。蝙蝠座内行花文鏡 1 面(猫塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(猫塚古墳・ 今岡古墳),斜縁四獣鏡 1 面(猫塚古墳)である。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 1 面(猫塚古墳) と模倣方格規矩鏡 1 面(石清尾山古墳群)が出土している。
香川県旧大川郡地域 さぬき市津田町,寒川町の雨滝山・火山周辺の地域では,漢鏡 6・7 期 鏡が 3 面出土している。画文帯神獣鏡が 2 面(奥 14 号墳),斜縁神獣鏡が 1 面(岩崎山 4 号墳)であ る。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面(奥 3 号墳)が出土している。なお,この地域から少 し離れたさぬき市長尾町の山間部にて,漢鏡の画文帯神獣鏡 1 面(丸井古墳)と三国西晋鏡の舶載 三角縁神獣鏡片と双頭龍文鏡(ともに是行谷古墳群)が出土している。これらも含めれば,漢鏡 6・ 7 期鏡が集中する地域の一つとして評価することができよう。
徳島県吉野川下流域北岸 鳴門市大麻町と板野郡板野町に相当する吉野川下流域北岸では,漢 鏡 6・7 期鏡が 7 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(天河別神社 5 号墳・西山谷 2 号墳)と, 画文帯神獣鏡 3 面(萩原 1 号墓・阿王塚古墳)と,斜縁神獣鏡 2 面(天河別 4 号墳・5 号墳)である。 三国西晋鏡の出土は未見である。
は,漢鏡 6・7 期鏡が 1 面出土している。画象鏡 1 面(寺床 1 号古墳)である。三国西晋鏡では,舶
載三角縁神獣鏡 1 面(大成古墳)と倭製三角縁神獣鏡 1 面,模倣方格規矩鏡 2 面,模倣神獣鏡 1 面 (9)
(いずれも造山 1 号墳)が出土している。なお,島根県出雲西部においても,漢鏡 7 期の上方作系浮 彫式獣帯鏡 1 面(松本 1 号墳)が出土し,三国鏡の景初三年銘三角縁神獣鏡 1 面(神原神社古墳)が 存在するなど,様相が共通している。漢鏡 6・7 期鏡の存在は 1 面であるが,両地域の類似性を参 照すべく取り上げた。
鳥取県西部地域 法勝川下流域にあたり,西伯郡会見町,淀江町,米子市に相当する地域では, 漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(石州府 19 号墳)と,画文帯神獣 鏡 1 面(浅井 11 号墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 2 面(普段寺 1 号墳)と模倣神 獣鏡 1 面(中西尾 6 号墳)が出土している。
鳥取県中部地域 倉吉市国府及び上神周辺の限定された地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土 している。夒鳳鏡 1 面(国分寺古墳)と,画象鏡 1 面(国分寺古墳),画文帯神獣鏡 1 面(伝倉吉市上 神出土)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 3 面(国分寺古墳・伝倉吉上神出土)と倭製三 角縁神獣鏡 1 面(上神大将塚古墳)が出土している。
兵庫県六甲山麓海浜地域 神戸市灘区と東灘区に相当する六甲山南麓東部地域では,漢鏡 6・
7 期鏡が 9 面出土している。浮彫式獣帯鏡 2 面(西求女塚古墳),夒鳳鏡 1 面(ヘボソ塚古墳),上方 作系浮彫式獣帯鏡 1 面(ヘボソ塚古墳),画文帯神獣鏡 4 面(西求女塚古墳・東求女塚古墳・ヘボソ塚 古墳),斜縁神獣鏡 1 面(ヘボソ塚古墳)である。そして,三国西晋鏡は,舶載三角縁神獣鏡 13 面(西 求女塚古墳・東求女塚古墳・ヘボソ塚古墳),模倣画象鏡 1 面(西求女塚古墳),模倣唐草文鏡 1 面(一 王山十善寺古墳)が出土している。
大阪府淀川北岸地域 高槻市から茨木市域にかけての地域に相当する。やや広汎な範囲に及ぶ ため,芥川安威川間地域と安威川西岸域にわけてみよう。芥川安威川間地域では,漢鏡 6・7 期鏡 は方格規矩四神鏡 1 面(弁天山 B2 号墳)のみである。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 3 面(弁 天山 C1 号墳・塚原古墳群)と模倣神獣鏡 1 面(弁天山 C1 号墳)が出土している。一方,安威川西岸 地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(安威 0 号墳)と,斜縁 四獣鏡 1 面(安威 0 号墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面と倭製三角縁神獣鏡 9 面(い ずれも紫金山古墳)が出土している。
京都府向日丘陵周辺 桂川西岸の向日丘陵周辺にあたり,向日市寺戸町から京都市西京区樫原 に相当する地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。浮彫式獣帯鏡 1 面(寺戸大塚古墳)と, 上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(百々池古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 6 面(北山古墳・ 寺戸大塚古墳・百々池古墳)と倭製三角縁神獣鏡 5 面(寺戸大塚古墳・百々池古墳・妙見山古墳),そし て模倣神獣鏡 2 面(百々池古墳・芝山古墳)と模倣獣帯鏡 1 面(一本松古墳)が出土している。
京都府木津川東岸地域 巨椋池と木津川に挟まれた地域であり,城陽市久世,平川に相当する 地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 5 面出土している。盤龍鏡 1 面(伝西山古墳群)と,飛禽鏡 1 面(上大 谷 15 号墳),画文帯神獣鏡 3 面(西山 4 号墳,箱塚古墳,車塚古墳)である。三国西晋鏡では,舶載 三角縁神獣鏡 4 面(西山 2 号墳,箱塚,車塚)に倭製三角縁神獣鏡 1 面(伝車塚),模倣夒鳳鏡 1 面(上 大谷 6 号墳)が出土している。
京都府木津川西岸地域 木津川下流域西岸にあたり,八幡市域に相当する地域では,漢鏡 6・ 7 期鏡が 4 面出土している。夒鳳鏡 1 面(美濃山王塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(西の口 古墳),画文帯神獣鏡 2 面(石不動古墳・西車塚古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 3 面(西車塚古墳,東車塚古墳,内里古墳)と,模倣神獣鏡 1 面(伝石不動古墳),模倣内行花文鏡 1 面(美濃山王塚古墳),模倣方格規矩鏡 1 面(ヒル塚古墳)が出土している。
奈良盆地東南部地域 天理市から桜井市域にかけての地域であり,古墳時代前期には大型前方 後円墳が密集した大和古墳群が造営される地域をふくむ。ここでは,未調査の古墳が数多く存在し ており,大和天神山古墳など数例に限られている。この地域の北半では,漢鏡 6・7 期鏡が 6 面と, 三国西晋鏡が 37 面出土している。漢鏡 6・7 期鏡は,上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(天神山古墳,中 山大塚古墳)と,画文帯神獣鏡 2 面・画像鏡 2 面(ともに天神山古墳)である。三国西晋鏡は,舶載 三角縁神獣鏡 33 面(黒塚古墳)と模倣神獣鏡 3 面(天神山古墳,黒塚古墳)と模倣獣帯鏡 2 面(天神山古墳)である。南半では,画文帯神獣鏡 3 面(ホケノ山古墳,伝ホケノ山古墳,伝箸中出土)と模倣 神獣鏡 1 面(ホケノ山古墳)が出土しており,漢鏡 6・7 期鏡が 4 面は確認できる。なお,盆地南辺 の茶臼山古墳では,漢鏡 6・7 期鏡の縁神獣鏡,画像鏡,画文帯神獣鏡等の鏡片と,三国西晋鏡の 模倣神獣鏡や舶載三角縁神獣鏡の破片が出土している。
奈良盆地西部地域 馬見丘陵とその周辺地域にあたり,北葛城郡域に相当する。ここでは,漢 鏡 6・7 期鏡が 4 面出土している。画像鏡 2 面(黒石山古墳)と斜縁神獣鏡 2 面(佐味田宝塚古墳) である。三国西晋鏡は 2 面出土しており,舶載三角縁神獣鏡 20 面と倭製三角縁神獣鏡 4 面(佐味 田宝塚古墳,新山古墳等)と模倣画像鏡 1 面と模倣方格規矩鏡 1 面(ともに佐味田宝塚古墳)である。
近畿以東の地域
静岡県磐田原台地周辺 天龍川左岸に広がる磐田原台地の周縁地域は,比較的漢鏡が密集して
分布する地域である。地域社会としてはやや広範に及ぶが,広域の地域圏としてとらえた。この地 域では,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土している。蝙蝠座内行花文鏡 1 面(寺谷銚子塚古墳付近)と,斜 縁神獣鏡 1 面(庚申塚古墳),画象鏡 1 面(堂山古墳)が出土している。三国西晋鏡では,舶載三角 縁神獣鏡 6 面(連福寺古墳・新豊院山 D2 号墳・連城寺古墳・松林山古墳・寺谷銚子山古墳)と模倣内行 花文鏡など創作模倣鏡 4 面(堂山古墳等)が出土している。
山梨県中道地域 甲府盆地南縁部に位置する笛吹川南岸の旧東八代郡中道町に相当する地域で は,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土している。画文帯神獣鏡 2 面(大丸山古墳・丸山塚古墳)と,斜縁神 獣鏡 1 面(小平沢古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 2 面(中道銚子塚古墳・大丸山古墳), 倭製三角縁神獣鏡 1 面(中道銚子塚古墳)が出土している。
千葉県木更津地域 木更津市域に相当する,小櫃川下流域の南方一帯では,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土している。斜縁四獣鏡 1 面(手古塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(高部 32 号墳), 画象鏡 1 面(高部 30 号墳)である。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 1 面(手古塚古墳)が出土 している。
栃木県那珂川上流域 那珂川上流域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。夒鳳鏡 1 面(那 須八幡塚古墳)と,斜縁神獣鏡 1 面(斜縁四獣鏡?:下侍塚古墳)である。三国西晋鏡では,模倣神 獣鏡である画文帯旋回式四獣鏡 1 面(駒形大塚古墳)が出土している。
後漢時代には,中国世界では,諸侯王をはじめと して鉄鏡を副葬する事例が増加してくる。その初例は,河北定県北荘漢墓であり,北荘漢墓は永元 二年(A.D.90)に没した中山簡王劉焉の墓である。後漢後期に比定される甘粛武威雷台漢墓では, 将軍章銀印とともに象嵌鉄鏡が出土した。また,河南洛陽でも,焼溝や西郊などの都市近郊墓地で も後漢後期には鉄鏡を副葬する事例が多くなる。2 世紀を境として,鉄鏡を銅鏡よりも上位とする 価値が中国世界では定着したのである。北荘漢墓と平原 1 号墓はともに,漢鏡 5 期の鏡を中心に副 葬鏡を構成しており,その暦年代も大きな隔たりはないと考える。両者は保有する銅鏡に遜色はな いものの,鉄鏡をめぐり大きな違いが存する。弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に流入した 鉄鏡は,大分県ダンワラ古墳出土の象嵌鉄鏡など,数例に限られる。政治交渉を背景に日本列島は 大型の銅鏡は入手しえても,中国世界で高い価値をもつ鉄鏡を入手するには至らなかったのである。 それは,外夷としての評価の限界でもあったのだろう。
なお,2 世紀以後は漢王朝の内政事情や匈奴,鮮卑,羌など周辺諸民族との抗争により,外夷へ の対処が受け身にまわる。直接境界を接さない外夷との関係は理念的・象徴的であり,消極的な関 与へと転換する。現実対応に追われた 2 世紀の漢王朝の実態が,日本列島への漢鏡 6 期鏡や 7 期鏡 の流入状況にも反映されているのであろう。その点で,紀元 100 年頃を前後する漢鏡 5 期鏡の流入 も,漢鏡 3 期鏡と同じく,一過性のバブル的な現象と評することもできよう
伊都国域では、中期後半の糸島市三雲南小路遺跡で前漢鏡 30 面あまり、後期前半の同市井原鑓溝遺跡で前漢末 ~新代の銅鏡 17 面、後期中頃~後半の同市平原遺跡で銅鏡 40 面がそれぞれ副葬された墓が江戸時代と 1965 年に 発見されています。三代にわたる伊都国域の最有力者の墓地です。
A.D.8 王莽、皇帝と自称 A.D.25 後漢王朝成立 A.D.57 倭奴国王後漢に遣使
A.D.107 倭国王帥升、後漢に遣使
倭国大乱 A.D.184 黄巾の乱
A.D.208 赤壁の戦い
A.D.238 公孫氏滅亡 A.D.239 卑弥呼魏に遣使 ・この頃、卑弥呼死す A.D265 西晋成立 A.D.266 壱与西晋に遣使
草葉文鏡 3面 (前2世紀第3四半期)
星雲文鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
重圏銘帯鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
連弧文銘帯鏡 6面 (前1世紀第2四半期)
単圏銘帯鏡(日光鏡) 5面 (前1世紀第2四半期)
須玖岡本遺跡の王墓の年代
紀元前1世紀の終わりごろか、その前後とみられている。したがって、西暦57年に金印を下賜された奴の国王ではなく、その数世代前の国王(『倭人伝の国々』小田富士雄ほか・学生社)。
がもんたいぶつじゅうきょう
青銅製/一面 南北朝時代・5~6世紀
径22.1cm 五島美術館蔵
明治41年(1908)、千葉県木更津市祗園弦巻塚古墳出土。神像ではなく、仏像(坐像と立像の二種類)と龍虎を表した点が珍しい。立像の脇侍一躯が半跏思惟像である同型の鏡がほかに二面(岡山県倉敷市王墓山古墳出土〈東京国立博物館蔵〉・愛知県名古屋市中区大須二子山古墳出土〈名古屋市博物館蔵〉)ある。近年、中国北京の故宮博物院に同型鏡が所蔵されていることが判明し、この四面の鏡が、原鏡(もとになる鏡)は出土していないが、おそらく呉の画紋帯仏獣鏡をもとにして、南北朝時代に製作した踏返(ふみかえし)鏡(もとになる一面の鏡から型取りして鋳型〈いがた〉を作り鋳造した鏡)であると考えられるようになった。