春日・和邇臣、淡海国造、天押帯日子命、粟田臣

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image春日・和邇臣、淡海国造、天押帯日子命、粟田臣

和珥氏は、奈良北部に勢力をもち、天皇の母系となった古代日本の中央豪族。 本拠地は旧大和国添上郡和邇(現天理市和…

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コメント

  •  「……櫟井の和邇坂の土(に)を、初土は肌赤らけみ、しは土は丹黒きゆえ、三栗の、その中つ土を、かぶつく、真ひには当てず、眉書き、濃に書き垂れ、遇わしし女人、かもがと、我が見し子ら、かくもがと、我が見し子に、うたたけだに、向かいおるかも、い添いおるかも。」

     上記は、応神天皇が丸邇之比布禮能意富美の娘、宮主矢河枝比売との婚礼時に詠まれたという歌の一部です(応神記)
  • June 2016 編集されました

    和邇坐赤坂比古神社 
    ●櫟本町大字和邇(北垣内)ニアリ。
    ●延喜式(神名帳)ニ「和邇坐赤坂比古神社(大、月次新嘗)」トアリテ、古ハ盛大ナル社頭ナリシモ中世以降衰微シ今ハ村社タリ。祭神赤坂比古命何神ナルヲ知ラズ。蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン。(大和志料)
    現在の祭神は阿田賀田須命で、和邇氏の祖神を祭った神社

    神社の南にある高塚公園一帯は東大寺山と呼ばれており、東大寺山古墳、赤土山古墳、和邇下神社古墳などの東大寺山古墳群があります。

    高塚公園の西南に和邇下神社が見られても、和邇上神社は存在しませんから、坂の上に位置するこの赤坂比古神社が上神社扱いかもしれません。
  • 和爾下神社(わにしたじんじゃ)
     奈良県天理市櫟本(いちのもと)町2490
     「上治道宮 かみはるみちのみや」とも称し、創建:769年。

     祭神: 素盞鳴命 (すさのうのみこと) 中央、
       大己貴命(おおなむちのみこと)左側、 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)右側。
       江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、
       若宮難波根子武振熊命が祭神になっています。
       天足彦国押人命は和爾氏の祖で、父は5代孝昭天皇、
       母は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、弟は6代孝安天皇です。
     和爾下神社の神紋は素戔嗚の木瓜紋。
  • June 2016 編集されました
    小野神社は、東京都府中市にある神社。式内社論社
    『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵国多磨郡 小野神社」の論社の一つ。論社には他に多摩市の小野神社がある。
    どちらも、天下春命を主神とする。

    小野氏ならば、和邇氏の系譜につながる。奈良の和邇下神社は上治道宮「かみはるみちのみや」と呼ばれる。天下春命も和邇氏の一族ではなかろうか。

    无邪志国造(むさしのくにのみやつこ・むさしこくぞう)は武蔵国東部を支配した国造。無邪志国造・武蔵国造とも。
    建比良鳥命。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。成務朝に二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が无邪志国造に任じられたという。「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。

    相武国造(さがむのくにのみやつこ・さがむこくぞう)は、相模国東部を支配した国造。武相国造と表記される場合もある。Wikipedia
    伊勢津彦(出雲神の子で、一説によると建御名方命の別名とされる)の3世孫の弟武彦命が、成務朝期に相武国造に任じられたという。『古事記』に相武国造が日本武尊を焼き殺そうとして逆に攻め滅ぼされた記述がある。

    どうも、よくわかりません。

    小野神社は、東京都多摩市にある神社。式内社論社、武蔵国一宮。
    当社は安寧天皇一八年二月初末の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)を主神として御奉祀申し上げて居る由緒ある神社である。御社名は上代此地の呼び名であった小野の郷に由来するものであるが其の霊験の灼かなる神社としてやがて朝廷の上聞にも達せられ数々の奉幣にも預かり元慶八年七月には正五位上の神階を授けられた。又、廷喜式が撰せられた折には武蔵国八座の一社として登載された。且つ国府の近在なることに由いて国司や住民の崇敬も殊の他篤く総社六所宮創建の砌には東殿第一次の席を与えられて一之宮と称された。然して当社の社伝には永承六年源頼義陸奥守に任せられて下向の途次其子義家と共に参籠され太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ吾妻鏡にも養和元年四月一宮は吉富井蓮光寺と併記され更に建久四年八月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されている。稍時代も下り安居院の神道集並に深大寺の僧長弁の私案抄を尋ねると当社は中世以来文珠菩薩を本地となした信仰も行われていた。斯くなる所此の近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり当社にも多大の被災が及び衰微したが徳川二代将軍により造営再興された。
    其の棟札に曰く

    一宮正一位小野神社造営再興
    慶長十四年十二月廿六日
    当将軍源朝臣秀忠公
    神主 新 田 大 炊 介 守 忠
    太田太郎左衛門久忠
  • 大田区荏原台古墳群宝莱山古墳:多摩川下流の最古級古墳

    荏原台古墳群は、大田区田園調布から世田谷区尾山台・等々力・野毛にかけての多摩川北岸台地上に分布しています。
    東急東横線多摩川駅から徒歩900m

    宝莱古墳(西岡第37号墳) 前方後円墳 全長97m、前方部幅37m、同高約8m、後円部径52m、同高約11m 大田区田園調布 台地・公園 四獣鏡、紡錘車形碧玉、太刀、槍、刀子、勾玉、管玉、丸玉、小玉

    南西から。多摩川台公園の西端にあたる。右が前方部。左の後円部の大半は昭和9年に破壊され、その際発見された粘土槨から多くの副葬品が発見された。(その時点まで古墳という認識はされていなかったらしい)多摩川下流域では最古の4世紀前半の築造と推定されている。かつて墳丘上には、かの有名な建築家ライト設計の邸宅が建っていた。
  • 珍(ちぬ)県主
    三輪山の磯城族に代って大物主神を祀った大田田根子は、茅渟懸の陶邑から呼び出されていた。しかも、八綱田命が勲功として授けた倭日向武日向彦の号とは、三輪山頂の神坐日向神社の神社号に他ならないから、八綱田命と大田田根子の関係は根深いものとみなせるのである。狭穂彦王の乱とは、だから三輪山の出雲神をめぐる祭祀権闘争であったといえよう。
    国造本紀によると狭穂彦王の三世孫、臣知津彦の子の鹽海足尼は甲斐国造というから、これもまた東国へ移住したらしい。 


    豊城入日子命―八綱田命―彦狭島命―御諸別命―大荒田別命―上毛野君

    狭穂彦王の乱に際して城に火を放って撃ったのが八綱田命であり、その勲功として倭日向武日向彦という号を授かっている。狭穂彦は『古事記』の系譜によると日子坐王を父に、春日の建国勝戸売の女、沙本の大闇見戸売を母として生まれている。日子坐王の母は丸爾族だから両親とも三輪山の磯城族とともに元出雲国の一員であった。
  • June 2016 編集されました
    垂仁帝と正妻の佐穂姫(佐波遅比売=記)の一粒種ホムツワケ(品牟都和気、誉津別)
    その後、垂仁天皇は妻七人で皇子十三人、皇女三人をもうけた。

    母・佐穂姫は王族の一員である彦坐王の娘であり、彼女自身皇后の立場にあったのですが「権力」という魔物に摂りつかれた兄・佐穂彦にそそのかされて帝位の奪取、夫の殺害計画に加担します(『吾と汝と天の下治らさん』古事記)。目論みは直前になって露見、身重だった姫は兄と稲城に立てこもり、王子は陣中で産まれたのです。
    力士たちの尽力によって、助け出された王子の命名について帝が、およそ子の名は必ず母の名づくるを、何とか是の子の御名をば称さんと敵陣の中に留まっている皇后に問いかけると佐穂姫は、

    今、火の稲城を焼く時にあたりて、火中に生れましつ。故、その御名は本牟智和気の御子と称すべし

    妻の生家の反乱にも関わらず、垂仁帝は王子を『常に左右に在きたまう』可愛がりようでしたが、大きな問題を抱えていました。大変可愛がったのだが、八拳髭心の前に至るまで真事とはずの有様だった。だが、或る日、空高く行く鵠(白鳥)の声を聞いて、初めて言葉(『あれは何だろう』)を発した。喜んだ帝は「誰か、その鳥を捕らえることが出来るか」と下問、是に鳥取造の祖・天湯河板拳が応じて、出雲に至って捉えることが出来た。又、或る人は但馬国で鵠を得たとも言っている。
    鳥取造の祖が献上した鵠を「もてあそぶ」ことで王子は言葉を自在に操ることが出来、湯河板拳は沢山の褒美と姓を頂くこととなり目出度しめでたし、の大円団を装う書紀に異論を差し挟んだのが古事記の編者たち。
    確かに山辺に住むオオタカという人物が「紀伊--播磨--因幡--丹波--但馬--近江--美濃--尾張--信濃--越」とひたすら鵠を追いかけ捕獲して帝に献上したのだが、王子は思うように話すことが叶わなかった。
    或る夜『我が宮を御舎(宮殿)の如く修理めたまわば御子、必ず真事とはん』のお告げを夢に見た。そこで占なってみると『その祟りは出雲の大神の御心』であることが分かったので、曙立王、菟上王兄弟を介添えとして王子を出雲の地に向かわせ、大神を鄭重にお祀りしたところ、忽ち、言葉を発せられた。
    帝は、とても喜ばれて菟上王を再び出雲に派遣して「神の宮」を造らせたとあります。

    「姓氏録」右京神別の鳥取連の項目には先祖が「出雲国宇夜江」という所に詣でて「鳥を捕らえて献上した」とあり、この「宇夜江」が出雲風土記に云う「出雲郡健部郷(現在の簸川郡斐川町字宇屋谷)」であるとするなら、記が詳述している「祟り」云々はイリ政権の始祖・崇神帝と大物主神との伝承を下敷きにした創作である可能性もあります。

    この宇屋谷(正しくは斐川町神庭宇屋谷)は、三百五十八本もの銅剣など(銅鐸6個、銅矛16本)が埋められていた斐川町の荒神谷遺跡と僅か数百メートルしか離れていない

    神社伝承:
    富能加神社 島根県出雲市所原町城山3549
    第十一代・垂仁天皇の御子・本牟智和気命は、大人になっても口がきけず、 空を飛ぶ鳥を見て「ああああ」というばかりだった。 天皇は山辺之大鶙に鵠を捕えるように命じ、因幡から尾張まで追っても捕まらず、越の国でやっと捕え、献上することができた。 だが、それでも本牟智和気命は声を出せず、はじめて唖であることがわかった。

    ある日、垂仁天皇の夢占いに、出雲大社に参詣せよとあり、 霊験はあらたかで、参詣の帰り道、肥河の仮宮にて口がきけるようになった。

    肥河の檳榔の長穂宮で、本牟智和気命は肥長比売と同衾された。 ところがよく見ると、肥長比売は蛇であったので、本牟智和気命は驚き慌て逃げ帰った。
  • June 2016 編集されました
    狭穂姫命ー垂仁天皇の皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母

    父は彦坐王(開化天皇の皇子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟として狭穂彦王の他に袁邪本王(次兄。葛野別・近淡海蚊野別の祖)、室毘古王(弟。若狭耳別の祖)がいた(『古事記』)。


    彼女の母、建国勝戸売は、春日の建国勝戸売と呼ばれており、この大闇見戸女が率いる狭穂氏は当時、佐保から春日野一帯の機内のかなり広い範囲を支配する力をもった豪族。

    『古事記』は狭穂彦王系譜について下記のように伝えています。


                     春日建国勝戸売
                        │
               彦坐王━┯━沙本大闇見戸売
                 ┌─┴──┐
               狭穂彦王  狭穂媛━┯━垂仁天皇
                         │ 
                        誉津別 
    孝霊天皇の妃に春日の姫がいる。

    千千速比売命(ちちはやひめのみこと、生没年不詳)は、孝霊天皇の皇女。母は、春日之千千速真若比売。異母兄弟に孝元天皇、倭迹迹日百襲媛命らがいる。古事記にのみ登場。その他の事績は不明。

    孝霊天皇 の妃
    記 十市県主の祖大目の娘細比売命
    記 春日の千千速真若比売 *2
    記 安寧の子師木津日子の子和知津美命の娘 意富夜麻登玖邇阿礼比売命(蠅伊呂泥)
    記 その妹蠅伊呂杼
    紀 春日千乳早山香媛 *2 同一妃
    紀 十市県主等の祖の娘 真舌媛
  • 安寧天皇━━━師木津彦━━和知都美命━━倭国香媛ーー倭飛羽矢若屋比賣命


    倭迹迹稚屋姫命:やまとととわかやひめのみこと
    ……
    第七代天皇・孝霊天皇の子。『古事記』では、母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄姉は夜麻登登母々曾毘売命、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)。 『日本書紀』では、母は倭国香媛。 姉兄は倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命。
  • 粟田神社
    京都市東山区粟田口鍛冶町1
    御由緒

    スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬される。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝して当社にお参りされ、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになる。
    祭には神輿に先行して剣鉾が巡行する。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられる。
    一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云う。

    御祭神 建速素盞嗚尊 大己貴命
    八大王子命
    (八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・須勢理媛神・大歳神・宇迦之御魂神)

    奇稲田比賣命(くしいなだひめのみこと)
    神大市比賣命(かむおおいちひめのみこと)
    佐須良比賣命(さすらひめのみこと)
    右座外殿
    竹生嶋社・猿田彦社・度会社・天御中主神・加茂社・日吉社・和歌三神・手力雄社・崇徳天皇
    御神徳

    旅行守護・厄除・病魔退散・縁結び・安産・経営守護

    粟田神社は古より東山道・東海道に面して建ち、この辺りは粟田口とよばれ京都と各地を結ぶ主要な出入り口でした。ここを最後に都を離れるという気持ちからか、人々は旅の安全を祈り、また無事に都へ戻れたことを感謝して当社にお参りされました。そしていつしか旅の神様として世に知られることとなりました。

    創建由緒

    平安時代 清和天皇貞観十八(876)年春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。そこで直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました。
     
    また一説には、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
    旧社名は、感神院新宮(カンジンインシングウ)、粟田天王宮と称されていましたが、明治になり粟田神社と改称されました。
    当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。
  • <本拠地>

    和邇氏 奈良県天理市和爾町、滋賀県滋賀郡志賀町和邇春日、滋賀県大津市真野町、熊本県玉名郡三加和町和仁川流域、大阪府枚方市王仁公園付近、青森県南津軽郡大鰐町、茨城県鹿嶋市鰐川流域 等
    春日氏 奈良市春日野町
    粟田氏 愛宕郡粟田(京都市左京区)
    小野氏 滋賀郡志賀町小野、愛宕郡小野の郷、島根県益田市戸田町(旧小野村)、
    櫟井氏 天理市櫟本町
    柿本氏 北葛城郡新庄町柿本
    高橋氏 奈良県奈良市八条町菰川(旧高橋邑)
  • 彦国葺命(ひこくにぶくのみこと)
    日子国意祁都命の子。
    11代垂仁朝の建波邇安王(たけはにやすのみこ・8代孝元天皇の皇子.。母は河内青玉の娘、波邇夜須毘売。阿倍氏の祖、大彦命の異母兄弟)の乱の際、大彦命の副官として遣わされた。その時、丸邇坂に斎み清めた酒瓶を据えて神を祭り、出立したという。そして、山城の和訶羅河(泉河すなわち木津川の古名)で待受けていた建波邇安王と交戦し、王を一矢のもとに倒して大彦命の軍を勝利に導いた。

    宮主矢河枝比売の項で、和邇族は丸邇坂の赤土を神聖なものとしていたと述べた。彦国葺命もその丸邇坂に忌瓮(いわいべ・斎み清めた酒瓶)を据えて神祭をしている。忌瓮は伊部(いんべ)であり、丸邇坂の土は赤土であるから、吉備氏との関係が窺える。また、誅殺した相手の名に「波邇(はに)」が入っているのも象徴的だ。建波邇安王の母は河内青玉の娘なので、陶都耳命系の土器製作集団との抗争があったのか?

    難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)
    彦国葺命の孫。
    神功皇后の命により、15代応神天皇の政敵である忍熊王を討った。
    16代仁徳天皇紀六十五年、飛騨の国の両面宿儺(顔が二つで身体が一つ、左右に剣を佩いて、4本の手に弓矢を使う)という、皇命に背いて人民を略奪する怪物を退治した。
    忍熊王軍との戦いに際して、「古事記」ではこの難波根子建振熊命が策略をめぐらせたことになっているが、「日本書紀」ではその手柄はすっかり武内宿禰に移ってしまっている。
    両面宿儺の武器をたくさん持った姿が、天之日矛と比定される蚩尤を彷彿とさせる。
  • June 2016 編集されました
    この神社の社家・海部氏系図(国宝)には、「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇冝部氏・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」

    『勘注系図』は六世孫建田勢命が宰(みこともち)となって丹波に赴いたとする。その後山背の久世水主村(くぜみずしむら)に遷り、更にその後大和に遷ったとする。
    久世水主村とは現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という延喜式に記載される古い神社がある。祭神は彦火明命を始めとして天香語山命、天村雲命、天忍男(あめのおしお)命、 建額赤(たけぬあか)命、建筒草(たけつつくさ)命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂(やましろのおおくにたま)命を祀る。まさに尾張氏の一族を祀る。

    山背大国魂命が 玉勝山背根子である。
  • June 2016 編集されました
    日本得魂命は建諸隅命すなわち由碁理の子供である。妹は大倭姫命亦の名を天豊姫命とする。
    武諸隅命は、孝霊天皇の時、大臣となって輔弼の任務に尽くした。 諸見己姫を娶って倭得玉彦を生ん だ。

    日本得魂命や竹野姫命の母親は葛城氏の諸見己姫(もろみこひめ)である。
    古事記は竹野姫を丹波の大縣主由碁理の娘とする。
    しかし母親は葛城氏で、出身地は大和葛城である。父親由碁理は丹波の大縣主であるが尾張氏の当主でもある。
    丹波に常駐したわけではなさそうである。宇那比姫と同じ葛城高尾張であろう。

    『勘注系図』によると彦坐王(ひこいますのきみ)に従って、丹波周辺で陸耳御笠(くがみみのみかさ)と戦っている。

    『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、日本得魂命の妻は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)と、伊賀臣(いがのおみ)の先祖の大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻とする。
    倭得玉命の妻の一人谷上刀婢は淡海の出である。淡海とは滋賀県琵琶湖の事である。

    詳しい場所は不明だが滋賀県野洲市の三上氏が祀る御上神社の祭神は天御影である。『勘注系図』によれば、三世孫倭宿禰の亦の名が天御陰命である。
    また二人目の妻と関係するのは三重県伊賀市西高倉の高倉神社である。高倉神社御由緒によると、祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)である。高倉下命は神武天皇東征の功神で、その七代の孫、倭得玉彦命が祖神である高倉下命を祀ったとされる。
  • 先代旧事本記
    饒速日命亦名天火明命─児天香語山命─孫天村雲命┬三世孫天忍人命→
                             │  ∥
                             ├異妹角屋姫
                             │(葛木出石姫)
                               │
                              ├弟天忍男命┬以下略
                               └忍日女命 ├以下略
                                    └以下略

     ─天戸目命─建斗米命┬建田背命─┬建諸隅命─倭得玉彦命┬弟彦命→
               └建宇那比命└大海姫命       └日女命
                     

     ┬淡夜別命─小登与命 ───────────────建稲種命─以下略
     ├大縫命   ∥                  ∥
     └小縫命   ∥         邇波直君祖大荒田─玉姫
            ∥
      尾張大印岐─真敷刀俾
  • 国宝の「海部氏」系図では建田勢命の子として、大倭玖邇阿禮姫が建諸隅命の兄妹?として記入されています。大倭玖邇阿禮姫の父が建田勢命になっています。そして、建諸隅命の子の日本得魂命(やまとえたまのみこと)(川上眞若)の子として大海媛{葛城千名媛・八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)}として記入されています。

    また、一方『おとくに』さまの尾張氏概略系図にては、建宇那比の子として、建諸隅と兄妹として大海姫(葛木高名姫)が記入されています。そして、尾張氏詳細系図では、大海姫は師木の瑞垣宮(=久留米市大善寺玉垂宮)に居たと考えられる崇神天皇との間に大入杵命・八坂之入日子命を儲けています。この八坂之入日子命は岐阜県可児市へ渡っており、其処で八坂入姫と弟姫を儲けています。
  • 黒田庵戸
    第6代孝安天皇暦102年(紀元前291年)に、第7代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられる。そのため、黒田庵戸宮ともいわれる。ただし、正確な所在地については諸説ある(奈良県史料『大和志料』によると黒田ではなく同町字宮古であるとか、「いおと」という読みから同字伊与戸に置かれたとする説がある)。いずれにしても、孝霊天皇以前の皇宮の多くが奈良県山間部に置かれたと伝わるのに対して、奈良県中央に位置する大和盆地に遷都されたことで、大和国から河内国への進出、吉備国平定など黎明期の大和政権の支配域拡大につながったものとみられている。

    孝霊天皇暦76年(紀元前215年)2月に同天皇が崩御し、第8代孝元天皇により軽境原宮(かるのさかいはらのみや、現在の奈良県橿原市見瀬町周辺と伝えられる)に遷都されるまでの間、政権の中枢として機能したとみられる(一方で、この時期は第9代開化天皇までのいわゆる欠史八代の期間にあたり、そもそも『古事記』『日本書紀』自体の信頼性を疑う見方も根強く存在する)。

    庵戸神社には、祭神として孝霊天皇の他、倭迹迹日百襲媛命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命をはじめとする皇子皇女を含めた計7神が祭られている。
  • June 2016 編集されました
    闇見神社

    祭  神:沙本之大闇見戸賣命
    菅原道眞 天照大神
    建御名方命 底筒男命 中筒男命 八坂刀賣神 火軻遇突智神 別雷神 國懸神
    日前神 玉依姫 大山咋神 加茂健角見命 表筒男命 應神天皇 神功皇后   
    説明:境内案内
    「若狭国神名帳ニ『正五位闇見明神』トアリ、若狭国誌ニ『成願寺ニ在リ、今天神 ト称ス。弘化三丙午年七月三日深夜民家ヨリ出火ノ際、当社類焼社殿書類悉ク焼 失、現本殿ハ安政四年再建セルモノナリ。伴信友著『神社私考』ニ第九代開化天 皇ノ皇子日子坐王(若狭耳別ノ祖)ノ妃ニシテ室毘古王(現美浜町宮代鎮座 弥 美神社ノ御祭神)ノ御母・沙本之大闇見戸売ヲ祀ル』トアリ、現鳥居ハ、旧藩主 酒井忠勝公の奉献ナリ。
    明治四十二年七月二十三日、左記神社ノ合祀を許可セラル
    諏訪神社 元上野諏訪森ニ鎮座
    愛宕神社 元成願寺大羽日に鎮座
    住吉神社 元倉見庄法庵ニ鎮座
    日吉神社 元白屋山王ニ鎮座
    加茂神社 元白屋堂田ニ鎮座        
    熊野神社 元白屋風呂ノ上ニ鎮座」
    福井県三方郡三方町成願寺字手洗水12-7
    延喜式神名帳に記載された、旧郷社です。
    ご祭神「沙本之大闇見戸賣命」とは、日子坐王の妃であり、室毘古王の母である、となっています。 古事記によれば、沙本之大闇見戸賣命は、建国勝戸売の娘であるとしています。そして、日子坐王と、沙本之大闇見戸賣命の子供は4人。
    沙本毘古(さほひこ)の王・袁耶本(おざほ)の王・沙本比売(さほひめ)の命、室毘古(むろびこ)の王となっています。
    そして、沙本比売の別名は、「佐波遅比売(さはじひめ)」。
    伊久米(垂仁)天皇の皇后様におなりになりました。        ・・・とあります

    播磨の天戸間見命

    青玉神社

    1月下旬に多可町加美区鳥羽(とりま)の青玉神社を訪ねました。境内の説明板によると、御祭神は天戸間見命(あまのとまみのみこと)・大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)で、元は播磨・丹波・但馬の境である三国岳の頂上に鎮座していましたが、後に南の現在の鳥羽の地に遷座されたようです。さて、この「とりま」という地名ですが、この遷座した「祭場:まつりば」が「とりば」と訛り、それに「鳥羽」の文字が当てられ、さらに訛って「とりま」と呼ばれるようになったようです。
  • June 2016 編集されました
    妃:沙本之大闇見戸売 - 春日建国勝戸売の女。
    沙本毘古王(狭穂彦王) - 日下部連祖、甲斐国造の祖。
    袁邪本王 - 葛野之別祖、近淡海蚊野之別の祖。
    沙本毘売命(狭穂姫命/佐波遅比売) - 垂仁天皇の前皇后。
    室毘古王 - 若狹之耳別の祖。

    沙本毘古王
    ・日子坐王と沙本之大闇見戸売の子
    ・日下部(くさかべ)連、甲斐国造の祖
    ・垂仁天皇の頃に謀反を起こす
    「国造本紀」『先代旧事本紀』では、纒向日代朝(景行天皇)の世、狭穂彦王三世の孫臣知津彦公の子である4世孫塩海足尼が甲斐国造に任じられたと記している

    袁邪本王は父の彦坐王と共に滋賀県愛知郡秦荘町・軽野神社の祭神となっている他、滋賀県長浜市・佐波加刀神社の祭神に名を連ねている。
  • ???は大彦か。大彦命は、娘の御間城姫が崇神天皇の皇后となり、孫が垂仁天皇
    となった有力者でありながら、その妻の名前が明らかにされていない。

    ・春日建国勝戸売は???に嫁した。
    ・彼女は、沙本大闇見戸売(さほおおくらみとめ)と御間城姫の
     姉妹を生んだ。
    ・二人の娘は、開化天皇の皇子達に嫁した。すなわち、沙本大闇見
     戸売はワニ家の姥津媛の生んだ彦坐王へ。御間城姫は、物部氏の
     イカガシコメが生んだ崇神天皇へ。

    そして、沙本大闇見戸売の生んだ狭穂姫は、いとこの垂仁天皇の
    皇后へ。
    狭穂姫・狭穂彦王の謀反は、たちまちに鎮圧されたが、一族への加罰は、母の名前を大闇見戸売と暗く変える程度で済まされた様子だ。
    謀反者の祖父母は、垂仁天皇の祖父母でもあったからだ。
  • June 2016 編集されました
    孝霊天皇と春日
    『磯城のオオメが ホソ姫を 后ぞ 春日 チチハヤが ヤマカ姫 なる スケ后』32文


    春日千乳早。春日千千速。 
    =和邇日子押人彦命 (稚押彦命)。春日親君の子。春日県主。
    孝霊天皇のスケ・ヤマカ姫の父。オケツの父。 
    オオヤマトフトニのハラミ御幸に同行する。
      
    尾張國中嶋郡三十座の中に知除波夜(チチハヤ)神社(除治早天神)があるが所在不明。
    愛知県岡崎市東阿知和町字北山、謁播 (アツワ) 神社
    奈良県奈良市三碓、添御縣坐 (ソウノミアガタニイマス) 神社
    奈良県奈良市歌姫町、添御縣坐 (ソウノミアガタニイマス) 神社

    ヤマカヒメ 山香姫

    千々速比売命とも。
    春日県主チチハヤの娘。
    オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) のスケ。
    岡山県岡山市吉備津、吉備津 (キビツ) 神社。
      
    十市県主の系譜では大日彦の娘となっている。 五十坂彦 - 大日彦 - 倭國早山香媛
    しかしこれによるとマシタ姫と姉妹になってしまう。

    建田背命や宇那比姫(宇那比媛)が、『先代旧事本紀』尾張氏系譜と『勘注系図』海部氏系譜、それにこの和邇氏系譜の、三つに登場する。

    和邇氏系図は『押媛命(一に忍鹿比売命、母は建田背命の妹、宇那比媛命也)』とする。尾張氏の建田背命や宇那比姫が和邇氏系譜に登場するのである。
  • June 2016 編集されました
    ■春日・十市県主

    アウヱモロ──┬オオマ─────┬フトマワカ──┬サタヒコ──┐
    ┌──────────────────────────────┘
    ├ヰサカヒコ──┬マソヲ─────マシタ姫
    │ │
    └オオヰ姫 └ヰサカ姫

    十市県主のマソヲ。 
    オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) のココタヘ・マシタ姫の父。 
    十市県主の順番からいくと、ヰサカヒコの次の大日彦に相当する。
      
    五十坂彦。 
    十市の県主。サタヒコの子。
    ヤマトタリヒコクニ(6代孝安天皇) のナガハシ、ヰサカ姫の父。またおそらくマソヲの父。 
    アマタラシヒコクニが春日親君となったため、春日県主から十市県主に県替えとなった様だ。

    大日諸 - 大間宿祢 - 春日日子 - 豊秋狭太彦 - 五十坂彦 - 大日彦

    天足彦国押人命。 
    カヱシネ(5代孝昭天皇) と その内宮ヨソタリ姫の第1子。 斎名:オシキネ。 
    オシ姫、チチハヤの父。 春日親君。
    親君(親王)となり、カヱシネから春日県を賜る。春日臣の祖。 
    この人が春日親君となったことによって磯城・春日・十市辺りの県主の系統に変化が起きているようだ。 
    子はそれぞれ、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟耶臣・都怒山臣・伊勢の飯高臣・壱師臣・近淡海国造の祖先という。
      

    天理市和爾町、和爾下 (ワニシタ) 神社
    和歌山県海南市大野中、春日 (カスガ) 神社
      
  • June 2016 編集されました
    春日神社
    和歌山県海南市大野中。 
    祭神:天押帶日子命 配 天照大御神

    天押帯日子命は第五代孝昭天皇の皇子であり、春日の朝臣彦国茸命の庶族がこの地に在住し、祖神としてまつったのがはじまりである。

     
    天足彦国押彦 (春日親君) ー春日千乳早。春日千千速=和邇日子押人彦命 ー彦姥津命(春日県主、妹が押姫)ー彦国葺と姥津媛(開花天皇妃、彦坐王の母)ー??ーシホノリヒコ

    日本足彦国押人尊=第6代孝安(こうあん)天皇。 
    カヱシネ(5代孝昭天皇) と ヨソタリ姫の第2子。 斎名:オシヒト。 
    誕生のとき朝日が輝く。 
    ムロアキツシマ(室秋津島) に遷都。 代孝安天皇)がここに遷都。 
    奈良県御所市室。宮山古墳の東の八幡神社の境内に石碑がある。付近には「秋津」の名が多く存在。


    塩乗津彦命。 ヒコクニフクの孫。 
    頭に三つ瘤があって松の君と言われる 。身長一丈五尺、八十人力。 
    ツノガアラシトが要請した、援軍の司令官『任那御使』に任命される。
    凱旋して "吉" の姓を賜る。吉田氏の祖。
  • June 2016 編集されました
    『記紀』伝承によると、九代開化の皇子、彦坐(ひこいます)は、母親の母親の妹、袁祁都比売(姥津媛・おけつひめ)を妃にしたとする。すなわち叔母を妃にしたという。ちょっと信じ難い伝承である。

    和邇氏系譜によれば彦坐の妃は、彦国姥津(ひこくにおけつ)の子、意祁都依比売(おけつよりひめ)で、彦坐と同世代の女性である。こちらの方がよほど信じられる。

    押媛は天足彦国押人の弟、日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)、すなわち六代孝安天皇の皇后になって、七代孝霊天皇を生んだとされる。

    六代孝安の宮を『古事記』は『葛城室之秋津嶋(かつらぎむろのあきつしま)』
    『日本書紀』は『都を室(むろ)の地に遷(うつ)す。これ秋津島宮という』とする。
    アキツとはトンボの古い呼び名であり、古くは日本という国の意味にも用いられた。室秋津とは現在の御所市南部の地名である。 現在も秋津小学校、県営秋津団地、秋津鴻池病院など秋津の名を持つ。

    また室とは、西側を葛城川に接し川の東である。また池之内村の西隣とされ、東側は現在の池之内と接する。南は巨勢山を境とする。北側は蛇穴(さらぎ)接する。

    御所市立秋津小学校や、宮山古墳のあるあたりである。
  • June 2016 編集されました
    葛城地方では古墳時代前期に大型古墳はなく、中期に入り宮山古墳が突如出現する様相を示。宮山古墳に次ぐ葛城地方の首長墓は掖上鑵子塚古墳(御所市柏原、墳丘長149メートル)と見られるが、その規模は宮山古墳から大きく縮小する。なお、御所市域では宮山古墳を契機とする遺跡として、5世紀中頃-後半に盛期を迎えた広域の集落遺構の南郷遺跡群や、5世紀末から営まれた巨勢山古墳群が知られる。

    室大墓古墳は近鉄御所駅の南3km程にあり、御所市循環バス・室からは徒歩10分程。
    長柄地区を本拠とした葛城襲津彦の墓と言われ、全国で第16位の大きさを誇り天皇陵墓に匹敵する巨大古墳です。

    <室宮山古墳>
    形状   :3段築成の前方後円墳
    サイズ  :全長238m、後円部径105m、高さ25m
    築造時期:5世紀前半
    被葬者  :葛城襲津彦(4世紀末~5世紀前半)
    出土品  :形象埴輪、銅鏡、石製勾玉、剣類、 
    埋葬施設:竪穴式石室内に長持形石棺
    二基の竪穴式石室がありますが、墳頂には露出した石室の天井石が見え、竜田石を用いた長持形石棺が埋納されています。長持形石棺は王の柩ともされるもので竪穴式石室に安置されたままの状態。


    御所市域の古墳は、孝安天皇の頃よりも新しい。
    孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇以降の和邇氏の古墳は、何処に築かれたのであろうか。
    馬見丘陵か? 崇神天皇以降に、箸墓遺跡の辺りはの地域は衰退する。
  • June 2016 編集されました
    琵琶湖西岸の淡海国(現・滋賀県周辺)

    国造本紀(先代旧事本紀)によると、成務天皇(13代)の時代に開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐命)の3世孫である大陀牟夜別(おおたむやわけ)又は大多牟坂王(おおたむさかのみこ)が淡海国造に任じられたとされる。古事記によると天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと、天足彦国押人命)を祖とする春日氏・小野氏らと同系であり、国造は淡海氏が世襲したとされる。

    後には琵琶湖東岸の安国造を併合して近江全体を支配したとも言われている。但馬(多遅摩)国造の祖先と同系、倭建系、武内宿禰の子孫・淡海臣と同族、近江臣氏の出身、等と諸説あり
  • June 2016 編集されました
    古事記 開化天皇条に、「この天皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命」とあり、また『日本書紀』開化天皇六年条に「天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命を生む。」とある。

    旦波大縣主由碁理-竹野比売-比古由牟須美命-丹波道主命(=日子坐王)-比婆須比売

    大縣主は旦波と河内の志畿大縣主しか記紀に見えない。時代が下るが志畿大縣というのは河内大和の国堺、生駒山地の信貴山のあるあたりで、ここの大縣主は雄略天皇と変わらない立派な屋敷に住んでいたという。
  • 謁播神社。
    愛知県岡崎市東阿知和町字北山。
    祭神:春日明神、知波夜命

    春日千乳早。春日千千速。 
    =和邇日子押人彦命 (稚押彦命)。春日親君の子。春日県主。
    孝霊天皇のスケ・ヤマカ姫の父。オケツの父。 
    オオヤマトフトニのハラミ御幸に同行する。
      

    尾張國中嶋郡三十座の中に知除波夜(チチハヤ)神社(除治早天神)があるが所在不明。
    愛知県岡崎市東阿知和町字北山、謁播 (アツワ) 神社
    奈良県奈良市三碓、添御縣坐 (ソウノミアガタニイマス) 神社
    奈良県奈良市歌姫町、添御縣坐 (ソウノミアガタニイマス) 神社
  • 佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)は、奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面、古代曾布県主が治め、後に大和国添上郡となった佐保川西岸・佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である

    佐紀丘陵の南斜面に前期後半から中期、つまり4世紀末から5世紀前半にかけて巨大前方後円墳が営まれた。200メートル超す巨大古墳が前期後半には3基、中期には4基みられる。これらは、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高い。

    主な前期古墳

    五社神古墳(神功皇后治定陵、276メートル、前期後半)2008年に墳丘1段目に限り研究者の立入り調査が認められた。
    西(山陵町・佐紀町)

    佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、220メートル、前期後半)

    佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、垂仁天皇妃・日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵、210メートル、前期後半、後円部の頂には平たく割った石を小口積みにし、高さ約70センチの石垣を矩形に巡らして内側に土を詰めた壇を造っている。2009年2月に行われた調査によれば、前方部や渡り堤の斜面に葺石が確認されている。その広さは、東西15.7メートル、南北16.51メートルと想定されている)

    佐紀瓢箪山古墳(全長96メートル、後円部径60メートル、前方部幅45メートル、後円部高さ10メートル、前方高さ7メートルの前方後円墳、周濠・葺石をもつ。1913年(大正2年)前方部西側から碧玉製琴柱形石製品3点出土。円筒埴輪・壺形埴輪。埋葬施設は未調査。前期末から中期はじめの中規模古墳。1971年(昭和46年)国の史跡に指定。)

    宝来山古墳(垂仁天皇治定陵、227メートル)
    宝来山古墳がある現・尼ヶ辻町は古代の佐紀の地に含まれないが、垂仁天皇の「菅原伏見東陵」として宮内庁書陵部畝傍監区事務所佐紀部事務所が管理しており、奈良市街周辺の古墳を一括して総称する場合、便宜的に佐紀盾列古墳群に含まれる場合がある
  • 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)

     奈良県橿原市見瀬町718(大和国高市郡)、近鉄吉野線岡寺駅の近くに鎮座。
     地名の見瀬は牟佐(身狭)の転訛。 400m北東に見瀬丸山古墳がある。
     祭神: 高皇産霊命、孝元天皇
    神社の由来によると、境内は8代孝元天皇の宮跡とされ、20代安康天皇の時代(5世紀中頃)に牟佐村の村主青(すぐり、あお)がここに生雷神(雷公)を祀った。江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。

     帰化人であり史部(ふひとべ)の青は三国時代の呉王孫権(西暦182年~252年)の子孫とされており、21代雄略天皇の時(5世紀後半)に呉(くれ=中国南朝の宋)との外交に従事しています。孫権は「碧眼で髭が赤紫色だった」という伝承がありますが、これが村主青の名の由来でしょうか。

     当社は享保の頃(18世紀初め)に菅原道真公を祭神としたが、明治になると天津神である高皇産霊命を奉祀し今日に至っている。
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