息長日子王

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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この息長宿禰王が葛城の高額比売(タカヌカヒメ)を娶った産んだ子が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト=神…

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  • June 2016 編集されました
    阿 宗 神 社
    兵庫県たつの市誉田町広山
    祭神--応神天皇・神功皇后・玉依姫命
    相殿--息長日子王

    由緒
     境内に掲げる由緒書によれば、
    「欽明天皇の御代に、当国司大伴狭手彦勅を奉じ筑紫国宇佐八幡宮を岡ノ峯に勧請す。後、文治5年(1189)内山城主塩津新左衛門尉義経広山村に遷す。延喜式神名帳・揖保郡七座の一つなり」
    という。

    また、頂いた“阿宗神社略年表”には
    古墳時代 欽明天皇32(571)、当播磨国司大伴狭手彦、勅を奉じ筑紫国宇佐八幡宮を岡ノ峯(現太子町立岡)に勧請し、岡ノ宮八幡宮と称す
    奈良時代 天平宝宇8年(764)、藤原貞国、新羅軍追討の祈願を行う。
    平安時代 延長5(927)、延喜式神名帳・揖保郡7座の内に阿宗神社として小社に列す。
    文治5(1189・平安末)、地頭職の内山城主・塩津新左衛門尉義経、岡ノ峯八幡神社を広山の地(現鎮座地)に遷し、弘山八幡宮と称す。

    宇佐八幡宮を勧請した大伴狭手彦とは、
     継体朝において国政に携わった大伴金村大連(オオムラジ)の子で、欽明紀23年(562)9月条に
     「天皇は、大将軍・大伴連狭手彦を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。狭手彦は百済の計を用いて高麗を撃破した」
    とある人物だが、その狭手彦が播磨国司だったという史料はない。
     (古代の地方行政機関の長官である国司は、大化改新-646-後に設置された官職であって、欽明朝には未だ設置されていない)

    古資料にも当社創建由緒は見えないが、諸資料をまとめると、
     ・阿宗神社は、現太子町立岡にある立岡山(H=104m)にあったが、その創建由緒・時期等は不明
     ・同社に宇佐八幡宮を勧請合祀、岡ノ峯八幡宮と称し(時期不明。欽明朝というが、八幡信仰が拡がった後世の勧請であろう)
     ・文治5年(1189・平安末期)に、誉田町内山の内山城主・塩津義経が自領内の現在地(広山)に遷座、弘山八幡宮と称した(阿宗神社八幡大神宮ともいう)
    とおもわれ、また、
     ・夫木集(1310頃・鎌倉末期)に、「昔より名高き神の二柱 ながくも祈る阿曽の神垣」
    とあることから、広山の現鎮座地には、古くは弘山八幡神社と阿宗神社の2社が祀られていたかもしれない。

    当社祭神については、古資料いずれも息長日子王とするが、特選神名牒(1876)だけは、
      「息長日子王は針間国阿宗君の祖とある、是確証なれば祭神・息長宿祢王なる事明けし、古老の説に阿宗親王を祀る由云伝へたるも、息長宿祢王の事を云へるものとみえたり」
    として、息長日子王の父・息長宿祢王としているが、いずれにしても阿宗君の祖先であることでは違いはない。
  • June 2016 編集されました
    立岡山は、当社の南東約2.5kmにある独立した小山で(太子町役場の南に当たる)。

    播磨国風土記・揖保郡条に
      「枚方里 御立阜(ミタチオカ) 品太天皇(応神天皇)がこの丘に留まって国見をされた、故に御立阜といふ」
    とある御立阜に比定されている。

    日本の神々2(1984)は
     ・式内・阿宗神社そのものは、立岡山から早い時期に低地の何処かに遷ったらしい
     ・“太子町史跡文化財ひとめぐり”によれば、国道2号線の南・旧国道(県道725号線か)の阿宗神社の道標の南あたりが旧地という
     ・この旧地から見て立岡山は冬至の日昇方向(南約30度)にあたり、その位置関係からみて
     ・阿宗神社は立岡山から旧地へ単に遷ったというのではなく、立岡山と旧地は奥宮と遙拝所(里宮)のような関係にあった可能性がある
     ・現阿宗神社(弘山八幡宮)が領主などの崇敬を受けて発展するとともに、旧阿宗村の阿宗神社は衰退・消滅したと思われる
    として、式内・阿宗神社は、立岡山から直接現在地へ遷ったのではなく、その途中に里宮の時代があったのではないかというが、それを証する資料はない。

    風土記がいう麻打山が何処かは不詳だが、当社鎮座地(誉田町広山)の東・林田川の対岸(当社の北東方)に誉田町内山との地名があり、この地名・内山が麻打の転訛とすれば、麻打山とはその東にある笹山(H=154m、通称・女神山と呼ぶらしい)かと思われる(阿宗山は位置不明、笹山のことかもしれない)。
     その笹山の南に近接する小山が立岡山であることから、風土記にいう広山の里(下記)の範囲を広くみれば、麻打山=立岡山としてもおかしくはなく、伊頭志君麻良比は当地と何らかの関係があったかと思われる。
  • June 2016 編集されました
    立岡山(たつおかやま)は、兵庫県揖保郡太子町の山(104m)。太子町の中心部に位置する単山で、山頂からは付近の平野の四方を見渡すことができる。 立岡山は、『播磨国風土記』における「御立の阜」に比定されており、品太天皇(応神天皇)がこの山に登り、四方の地を眺め、国見をしたことから名づけられたとされている。

    雲部車塚古墳(くもべくるまづかこふん)は、兵庫県篠山市東本荘にある前方後円墳。
    宮内庁により「雲部陵墓参考地」(被葬候補者:第9代開化天皇皇孫彦坐王王子丹波道主命)として陵墓参考地に治定されている。
    丹波地方では最大、兵庫県では第2位の規模の古墳で、5世紀中頃(古墳時代中期)の築造と推定される。

    新宮古墳*
    郡家交差点東、新宮神社背後に所在する古墳。径56m、高さ7mの西丹波地方最大の円墳。昭和44年、南に隣接する碁石塚古墳との間が、道路建設のため試掘調査がなされた。その結果、両墳は共に周りに濠をめぐらした古墳であることが判明する。現在この古墳は出土遺物の検証により5世紀の後半に築造されたものと推定されている。昭和33年、篠山市の指定文化財となる。
  • June 2016 編集されました
    養久山1号墳 3世紀後半

    指定名称:養久山1号墳(やくやまいちごうふん)
    揖保川町養久(やく)の丘陵尾根に造られた前方後円墳で、墳長は約30mである。
    墳形は讃岐(さぬき)地方の古墳と共通し、2段に築成(ちくせい)され、石が巡らされている。後円部には竪穴(たてあな)式石室1基と5基の箱式石棺(せっかん)があり、時期は3世紀後半と推定されている。
    地方の古い前方後円墳の多様性を示す貴重な事例である

    兵庫県たつの市揖保川町養久の尾根先端にあります。
    墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳と呼ばれるもので、先端に向かって曲線的に広がりを示す特徴的な前方部を持っており箸墓古墳に代表されるものです。
    墳丘の規模は、二段構築された後円部の径17.6m、高さ2.2mで、前方部の最大幅は9.7m、高さ0.8mを測り、墳丘全長は31.65mとなっています。
     また、前方部と後円部のつなぎ目である括れ部の幅は3.35mとされています。
     埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。
     葺石が墳丘に施されていたとみられています。
     発掘調査が1967年に行われています。
     主体部は6つ確認されております。
     後円部頂中央にある埋葬施設は第1主体とよばれ竪穴式石室で箱形木棺が収められていました。
     竪穴式石室は花崗岩と流紋岩質凝灰岩でつくられ全長4.07m幅1.12m高さ1.0mと測られています。
     出土したものとして中国製四獣鏡、鉄剣、鉄鏃、柳葉式類銅鏃、ヤリガンナなどが知られています。
     後円部頂東寄りにある埋葬施設は第2主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
     出土したものとして鉄剣などが知られています。
     後円部頂東端にある埋葬施設は第3主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
     出土したものとしてガラス製小玉、鉄剣、斧頭などが知られています。
     後円部頂南端にある埋葬施設は第4主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
     後円部頂北端にある埋葬施設は第5主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
     出土したものとして鉄剣などが知られています。
     後円部頂東寄りにある埋葬施設は第6主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
     出土したものとしてヤリガンナなどが知られています。
     養久山古墳群を構成しています。
     この古墳の築造は古墳時代の前期と推定されています。
     この養久山1号墳は兵庫県の史跡に指定されています。
     ちなみに平成の自治体大合併で合併しており2005年10月以前は揖保郡揖保川町になっていました。

    興塚古墳 4世紀中頃
    御津町黒崎(くろさき)の丘陵上にあり、前方部が失われているが、全長約100mと推定される。揖保川流域最大の前方後円墳である。
    墳丘は3段に築成され、葺石(ふきいし)と埴輪(はにわ)を持ち、後円部には竪穴(たてあな)式石室が知られている。時期は4世紀半ばと推定される。
    畿内の大型前方後円墳にならって、地方首長の権力を見せつけるものである。
  • June 2016 編集されました
    神戸神社
    たつの市揖保川町神戸北山222
    祭神 大己貴命  オオナムチノミコト
    配祀神 少彦名命 誉田別命(応神天皇) 息長帯比売命(神功皇后) 大物主命
    由 緒
     御祭神の鎮座されているこの宮山には山頂に大きな磐境があって播磨風土記の「神山」に擬定され、古来神の宿る霊地として人々に畏敬されてきた。さらに応仁2年(1468)3月午の日に播磨の国の一の宮伊和神社より御分霊を勧請し、10月第二の午の日を午祭と定めて五百数十年継承してきた。

    この祭が「菜食わず祭」といわれる由縁は、弘法大師が全国行脚の途次、近くの小川で菜を洗っていた女性にその菜を所望されたところ固辞したので、それ以後秋祭の日に菜を食べると腹痛を起こすという伝承との習合によるもので、当神社を「なくわずの宮」ともいう。

     社殿の創建年代は不詳。古来何回も修理・増改築を重ねて維持に努めてきたが長い年月を経るうちに損傷が甚だしく、昭和52年境内地の一部を売却して三間社流れ造りの社殿を造営し今に至る。


    境内社 八幡宮
    誉田別命(ほんだわけのみこと)応神天皇
    息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) 神功皇后
    この神社の八幡宮は、全国的にも珍しく、2つ縦に並んでいる末社の後ろ側にある。基本的に、八幡宮は目立つ手前におかれるのだが、そのふたつのうち手前の末社が旧本殿であるため、旧本殿を優先し八幡宮が後ろに隠れている

    養久山古墳墓群 が近い

    神戸山に建っていた神戸神社は、山を縮小し、縮小してはみ出た分の土地を売り、数億円をかけ、約6000坪の境内の整備、社殿、社務所、社宅の建て直し、大国殿と呼ばれる式場の建設を行った。 国道2号線、JR竜野駅の正面の一等地に建っている。
  • June 2016 編集されました
    御津町の古墳
    [ 綾部山39号墳 ]
    邪馬台国時代に作られた古墳で、画文帯神獣鏡が出土しています。
    石を巧みに積んだ珍しい遺跡です。
    [ 権現山51号墳 ]
    5枚の三角縁神獣鏡と特殊埴輪の共伴した貴重な前方後方墳。
    前期古墳の代表的な古墳です。
    [ 舟形石棺 ]
    朝臣1号墳から出土した環状の把手を持つ舟形石棺で市指定の文化財。
    阿蘇擬灰岩製で九州から運ばれてきたものです。
    御津歴史資料館に展示されています。
    [ 輿塚古墳 ]
    揖保川水域(西播磨)で最大級の前方後円墳。
    前方部分は失われていますが、県指定文化財になっています。
    前方部があった場所に1/4スケールのレプリカを復元しています。

    権現山古墳
    日本最古の古墳のひとつといわれています。兵庫県揖保郡御津町中島の北西部、権現山(140.3m)の山頂にあります。
     この古墳は、権現山の山頂に築かれた全長43mの前方後方墳で、高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室(高さ4.8m、幅は北1.15m、南1m)が設けられています。日本最古の古墳の一つで、当時のこの地方の有力者の墓です。

     吉備で発生した埴輪の祖型、特殊器台と、大和的なにおいの強い三角縁神獣鏡という、二つの政治的意味合いの濃い遺物が出土したことにより、吉備と畿内の二つの文化の統合された葬送儀礼の最古のすがたです。

     発掘調査が行われていた頃(1989年)には新聞に大々的に取り上げられましたが、近頃は訪れる人も少ないようです。
  • June 2016 編集されました
    綾部山古墳群
     旧御津町の海岸に面した綾部山一帯に分布する前方後方墳2基を含む37基からなる古墳群で、三世紀前半の39号墳のほか、横穴式石室墳17基などからなります。

    綾部山39号墳(墳墓)
    http://www.gensetsu.com/03ayabe39/doc1.htm
    瀬戸内海を眺望することができる海岸沿い小高い尾根上(標高27m)に立地しています。ここから南側の海を見渡すと、向こうには大阪・淡路島・徳島県・香川県・岡山の牛窓か見え、瀬戸内の海上交通を強く意識してこの場所に造られています。ここに葬られた人物(首長)は、まだ山陽道が整備されていなかったこの時代、重要であった瀬戸内の海上交通に関与した人であったと考えられます。
    綾部山39号墳(墳墓)は墳丘の盛上の大きさや墳形にはあまりこだわらず、ハッキリとした区画をしない弥生時代の墳丘墓の要素を強くもっているといえます。もう一つ、忘れてはならない重要なことは、現在の道路部分である北西側に、突出部(前方部?)をもつ可能生があり、前方後円形になる可能性が考えられるという

    東西4.6m、南北3.5mの石で囲まれた隅丸方形をしている埋葬主体部は『石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺』の3重の構造になっています。3年前の平成12年に奈良県桜井市で発掘された『ホケノ山古墳』(3世紀中ごろ)があります。この古墳は『最古の古墳』として有名な遺跡です。『ホケノ山古墳』の構造は『石囲い・木榔・木棺』になっており、石榔と木榔とが違うだけで、この遺跡と非常に似た構造になっています。『ホケノ山古墳』では、この構造を『石囲い木榔』と言っています。これから考えると綾部山39号墳(墳丘墓)は『石囲い石榔』と言えます。このような3重構造は、兵庫県で初めての発見で、岡山県でもまだ見つかっていません

    『竪穴式石榔(たてあなしきせっかく)』を石で囲む遺構を『石囲い』または『石塁壁(せきるいへき)』といいます。『石囲い』はほとんどが川原石で長軸を中心部方向に向けて、石をもたせかけるようにきれいに丁寧に整然と積んであります。やや外側に傾斜して構築しているために、石榔との間に出来るスペースには、川原石を詰めていました。
    『石囲い』という構造は非常にめずらしい構造で、まだあまり見つかっていません。この構造は瀬戸内海沿岸各地などで、弥生時代後期から古墳時代初めにかけての墳丘墓や古墳に見られる特有のものです。四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものと考えられており、綾部山39号墳(墳墓)はその文化を取り入れたものです

    石榔床面には2センチ~8センチの小円礫が敷かれている礫床(れきしょう)になっています。礫床が平になっていることから、棺(ひつぎ)は箱形木棺と考えています。そして木棺のあった場所には朱が付着し、痕跡から棺の大きさは長さ約190cm・東小口幅約80cm・西小口幅杓76cmです。東側が幅の広いことや、副葬品の位置から考えると頭位は東向きに葬られていたと推察できます。


    副葬品として鏡・鉄製品・砥石が出土しています。被葬者の頭部右横付近には『舶載鏡』(はくさいきょう)と思われる割れた鏡がボロボロの状態で2片出土しました。この鏡については棺内に副葬していたのか、或いは棺上に置いていたかわかりませんが、弥生時代の副葬方法である『破鏡』(はきょう)の可能性が高いものと考えています。この鏡の種類は『画文帯神獣鏡』(がもんたいしんじゅうきょう)と思われます。直径は10.4cmで『ホケノ山古墳』など、ほかの遺跡の出土例と比べても、かなり小型です。また『画文帯神獣鏡』は権現山51号墳で出土した三角縁神獣鏡よりも、古い時代の鏡と言われています。鉄製品は棺内の被葬者左足付近に長さ17cmのものが1点見つかっています。この鉄製品はヤリガンナかモリ・ヤスの可能性があります。次に砥石があります。棺外の頭上部に置かれてあり、極めて精緻な仕上げ用の砥石です。意図的に二つに折られているようで、葬送儀礼として使われたのでしょうか。

    『石囲い』は、阿波・讃岐で考え出され発達していったものと考えられていますが、その『石囲い』を採用しているということ。

    本墳から讃岐の土で作られた土器が出土しました。これは葬式に讃岐からはるばる海を渡って土器を持ってお参りに釆たと考えられること

    権現山古墳群
    旧御津町の北端、旧揖保川町との境にある権現山の尾根筋や南斜面一帯に築かれた西播磨最大の群集墳です。約170基からなり、ほとんどが横穴式石室を主体部とする後期の円墳ですが、一部前方後円墳、前方後方墳、方墳も含んでいます。東の揖保川沿いにある八王寺大権現のところから登り道があります。山頂に築かれた51号墳は全長43mの前方後円墳で、後方部の中央に竪穴式石室が設けられ、1989年の調査で、特殊器台と三角縁神獣鏡などが出土し、畿内と吉備の特徴を合わせ持つ最古級の古墳であることがわかりました。
  • 息長田別命

    日本武尊ノ王ニシテ成務天皇ノ時来リテ當國ヲ治シ子孫世世之ニ居ル阿波君ト称セリ
  • 日本武尊の御子達は真に不思議な死に方をしていますが、息長田別王だけが石井町海城(あまぎ)、現在の尼寺(あまじ)の主将として影響を残し、息長の一族が急激に勢力を伸ばしています。
    息長とは帶族同様の海人族。
    特に遠洋漁業の漁場、その航路をはるか古代から熟知し遠洋航海専門の海人でした。

    明治期以後にも阿波の漁民と讃岐の津田町(難破邑)が遠洋漁業の礎となっていました。

    阿波白鳥宮と讃岐白鳥宮。
    中継点は板野町の白鳥神社です
  • 阿波の石井町の白鳥神社が本宮

    息長田別命が初めて阿波君となり、代々子孫が君を継いできた場所が白鳥宮の東にある海城。そして阿波君の範囲は元の名西郡と名東郡。

    さらに昔、この二郡を名方郡と呼んでおり、その名方のいわれは息長田別命の名、ナガタからとったものと伝えられた経緯。

    また、、、
    阿波名方郡で大帶比古命の御子である大名方王(おおなのかたのきみ)が、この名方郡の王を名乗った。

  • 08/31編集されました
    五百城入彦皇子━品陀真若王┳高城入姫
    ┣仲姫命(母:金田尾野姫命。応神天皇后。仁徳母)
    ┗弟姫(母同。応神天皇妃)
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