阿自岐神社、阿知吉師、和邇吉師

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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阿直岐(あちき)は、記紀によれば、百済から日本に派遣されたとされる人物。阿自岐神社の祭神であり、子孫が始祖を祀…

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  • June 2016 編集されました
    アジスキタカヒコネが先では??
    阿直岐神社

    渡来氏族と当社を結びつける充分な資料がないとも言われている(日本の神々、白水社)。
    本殿は三間社流造、桧皮葺で1819年(文政2年)の建立。棟梁は近隣の田中嘉助、今在家村の木澤甚六。
  • 近肖古王
    (きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国・日本の史書に初めて名の現れる百済王である

    諡号(または追号)は第5代の肖古王と同じであるが、第6代仇首王と区別して第14代近仇首王とし、第4代蓋婁王と区別して第21代蓋鹵王の別名を近蓋婁王とするように、同名の王の区別の為に「近」の文字が用いられている。

    『三国史記』には諱・諡は伝わっていない。『晋書』では余句[2]、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。

    第13代王近肖古王(クンチョゴワン)
    扶余の流民をまとめ、遼西を攻略、馬韓54ヶ国を攻略、そして伽耶、靺鞨族と新羅も傘下に入れ高句麗を牽制する一方で、百済国内では肖古王系とか古爾王系とか貴族間の均衡に苦慮します。
  • June 2016 編集されました
    応神紀8年3月条
    百済人が来朝した。
     百済記によると(百済の阿花王は、日本に対して無礼があったので日本に領地を奪われた。百済は王子・直支〈とき〉を人質として遣わし、友好を戻した。)

    姓氏録・河内諸蕃に「林連、百済国直支王より出づる也」。

    摂津国 諸蕃 百済 林史 史 林連同祖 百済国人木貴之後也
    『新撰姓氏録』諸伝では「「林、林連と同祖 ・百済国人木貴の後也」(『新撰姓氏録』摂津国諸蕃)

    百済王十七代直支王(文周王)の後裔と称す。姓氏録・河内諸蕃に「林連、百済国直支王より出づる也」。左京諸蕃に「林連、百済国人木貴公の後也」。摂津国諸蕃に「林史、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。右京諸蕃に「林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。右京諸蕃に「大石林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」とあり。

    文周王(ぶんしゅうおう、生年不詳 - 477年)は百済の第22代の王(在位:475年 - 477年)であり、先代の蓋鹵王の子。諱・諡は伝わらない。『三国史記』百済本紀・文周王紀の分注や『日本書紀』には汶洲王、『三国遺事』王暦には文明王という別名も見られる

    随書・百済伝に「国中大姓有八族。沙氏、燕氏、刕氏、真氏、解氏、国氏、木氏、苗氏」とあり。八氏は五世紀頃の百済国の支配層なり。百済王十七代直支王(文周王)の後裔と称す。

    ●姓氏録・河内諸蕃に「林連、百済国直支王より出づる也」。

    ●左京諸蕃に「林連、百済国人木貴公の後也」。
    ●摂津国諸蕃に「林史、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。
    ●右京諸蕃に「林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。
    ●右京諸蕃に「大石林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」とあり。
    また、
    ●百済族武内宿祢後裔に林臣あり、蘇我氏も同族にて木氏なり。
    ●延暦六年紀に「河内国志紀郡人林臣海主、野守等、臣を改めて朝臣を賜ふ」。
    ●姓氏録・河内皇別に「林朝臣、武内宿祢の後也」と見ゆ。皇別は仮冒なり。百済族木氏渡来地の林村及び林氏は西国に多く、小林村及び小林氏は東国に多い。」
  • June 2016 編集されました
    『続日本紀』宝亀3年(772)4月条の坂上苅田麻呂の奏言によれば
    「応神朝に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)やその子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に住みつき,その子孫が栄えて檜隈忌寸と称されるに至ったという。」

    阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。「掬」の代に東漢直姓を賜った。

    東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。
    また、記紀等の記録から土木建築技術や織物の技術者が居た事を窺い知れる。

    応神天皇のとき,後漢霊帝の3世孫阿知使主(あちのおみ)が〈党類十七県〉をひきい来日し,さらに子の都加使主(つかのおみ)を呉に遣わし,工女兄媛,弟媛,呉織,穴織の4婦女を連れてかえったという」
    これは雄略天皇のとき倭漢氏の一族が呉に使し,〈手末才伎(たなすえのてひと)〉の衣縫兄媛,弟媛,漢織,呉織を連れかえったとする説話と共通する。
    大化元(645)年に起こった「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)で、蘇我蝦夷邸に馳せ参じたのも東漢氏だった。クーデターは蝦夷の自殺で決着する。 

    葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
     「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
    とある。
     この上表文によれば、その系譜は
       始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-
         -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
                  |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                  |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
    となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。
  • 日前神宮
    和歌山市に紀伊の国一宮の「日前(ヒノクマ)神宮」があるが、その主祭神の名が、「ヒノクマノオオカミ」だ。
    紀ノ川下流に住んだ百済系の渡来人「東漢氏(やまとあやうじ)」が、この「ヒノクマノオオカミ」を携えて、大和国の飛鳥に移住した際につけた地名が、奈良県明日香村檜前(ひのくま)といわれている

    日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

    当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。なお、伊太祁曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。

    朱鳥元年(686年)には國懸神に奉幣したとの記事がある。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、紀伊国一宮とされた。中世には、熊野詣での途中で参拝されたとの記録がある。
  • June 2016 編集されました
    濱宮(はまのみや、浜宮神社)は、和歌山県和歌山市毛見にある神社。旧社格は村社。
    第一殿(主祭神)天照皇大神
    第二殿(配祀神)天懸大神 - 日前神宮祭神の日前大神に相当。国懸大神 - 國懸神宮祭神。
    日前國懸神宮(和歌山市秋月)の元摂社であり、両神宮の旧鎮座地であるとともに、伊勢神宮元宮(元伊勢)の1つの奈久佐浜宮(なぐさのはまのみや)であると伝える。和歌山市西南部の岬(毛見崎/駒ノ御崎)の中ほど、古くは「名草の浜」と呼ばれた海岸部に東面して鎮座する。

    垂仁天皇十六年(紀元前14)、天懸大神、国懸大神が名草萬代宮(現在の日前宮)に遷されたと伝わる。 この時、名草萬代宮に鎮座していた伊太祁曽神社は山東へ遷座したとされるが、これをもって、出雲神話のいう「國譲り」に当たると考える説もある。

    伊太祁曾神社
    大屋毘古命を祀る命は妹大屋津姫命抓津姫命とともに木種を紀伊国に分布し給ひ、実に本国経営の祖神にましませり。初め此の三神は一所に奉祀せられしが、大寶二年三所に分遷せられ、大屋毘古命今日の社地に鎭りぬ。是れ即ち本社の起源なり。本社の由緒を案するに大同元年の牒五十四煙の神封に加へて十二戸を充てられ、嘉祥三年從五位下に叙し、紀貞守を使として之を奉告せしめられ、貞觀元年從四位下に、元慶七年從四位上に進み、延喜の制名神大社に列して、祈年月次相嘗新嘗の官幣に預れり。上述の事歴を通考するに、本社は官幣中社に列せらるるを至当なりと認む。仍て官幣中社に列格被為仰出度、右謹て奏す。

    日前國懸神宮の鎮座伝承

    『紀伊続風土記』の引く『(紀伊)国造家旧記』によれば、神武天皇の東征に際して、「神鏡」「日矛」という2種の神宝(いずれも日前國懸神宮の神体)を奉じた天道根命が、両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦に来着したという。そこから木本を経て毛見郷南方の琴ノ浦(琴浦)に浮かぶ岩上に2種の神宝を奉安したのが創祀と伝える。以上のうち「加太浦」「木本」はそれぞれ加太春日神社(和歌山市加太、位置)、木本八幡宮(和歌山市木ノ本、位置)に比定される。また「琴ノ浦」とは毛見崎の付け根から現・海南市側に広がっていた浜で、対岸の冷水浦(しみずうら)に向かって1丈程(およそ3メートル)の高さの大岩が並び、この岩に波が触れて琴の音のような響きをたてていたために「琴ノ浦」と称されたという。『続風土記』によれば、日前國懸神宮が初めて鎮座した浜であるので汚穢不浄の者を近づけず、もし禁を破れば祟りがあったというが、現在は埋め立てられて住友金属の工場と関西電力の発電所が建てられている。

    また『続風土記』の引く別の古伝では、日前國懸神宮の両大神を奉じた天道根命は淡路国御原山(不詳)に天降り、葦毛の馬に乗って加太浦、木本、毛見浦へと遷ったとする。そして、崇神天皇51年に天照皇大神の神霊を奉じて鎮座地を求めた豊鋤入姫命が「名草浜宮(奈久佐浜宮)」を現社地に造営すると、琴ノ浦の天懸・国懸両大神も遷座して天照皇大神に並べ祀ったという。そして、3年後の崇神天皇54年11月に天照皇大神は「吉備名方浜宮」へと遷座したが、天懸・国懸両大神はそのまま当地に鎮座、垂仁天皇16年に至って現在の日前國懸神宮の地へと遷座したと伝える。これと同様の伝えは、中世の神道書にも見える。
  • January 2017 編集されました
    漢氏と文氏
     最後の渡来人は、漢氏、文氏(越人)で、最も近い時代に渡来したという意味から、「今来」の漢人と呼ばれています。漢氏は今来だけです。秦氏(楚)は新たに来た人という意味で、アラ来、サラ来とされたようで、河内の讃良(サララ)や信濃の更級(サラシナ)、大和葛城の蛇穴(サラギ)などは秦系の地名と考えられます。最も古い韓人(呉)はフル来、モト来かもしれません。文・漢氏の渡来は、次のように表されています。
     応神紀15年
    ●百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を奉ったので、阿直伎を管理者として、軽の坂上の厩で飼わせた。
    ●阿直伎は経典を読むのに習熟しており、太子の菟道稚郎子の教育係とした。
    ●阿直伎に、汝より優れた博士がいるかと尋ねると、王仁という人物がいると教えた。

    そこで、上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎えた。阿直伎は阿直岐史の始祖である。16年2月、王仁が渡来したので、皇太子の教育係とした。これが書首(ふみのおびと)等の始祖である。20年、倭漢直の祖、阿知使主とその子、都加使主が、党類十七県を率いて渡来した。」

     百済からの渡来人、阿直伎の居住した軽の坂上は高市郡にあり、軽は孝元天皇の都が置かれたとされる土地で、孝元天皇とは卑弥呼を補佐したという男弟です。そして、阿直伎(アチキ)が王仁を紹介するという親密な関係を持っています。つまり、これは全て邪馬壱国の一族の表現です。
    漢氏の本拠地は高市郡(=古くは今来郡)の桧隈で、宝亀三年(772)四月庚午(二十日)、漢氏の坂上刈田麻呂がこう奏上しています(続日本紀)
    「先祖、阿智使主は、応神天皇の御世に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡の桧隈村を賜って住んでいました。およそ、高市郡内は桧隈忌寸及び十七県の人夫が地に満ちて住み、他姓の者は十のうち一、二でした。」
  • 坂上氏と文氏は、同族です。
    王仁は書首(文首)の祖とされ、阿知使主、都加使主は漢人の祖とされて、別の氏族のように扱われていますが、実際には、文氏、漢氏はごく近い親戚なのです。また、阿直伎と坂上の厩が結び付いていますから、阿直伎と坂上氏も同族ということになり、阿直岐は漢人の祖、阿智使主の別名とすることができます。

    そして、文・漢氏は文字を知っていました。これも重要で、魏志倭人伝からその可能性を指摘できましたが、邪馬壱国の一族が文字を伝えたことを明らかにしています。
     「記、紀」は、神功皇后を卑弥呼とみなしており、坂上氏は、「桓霊の間、倭国大乱」という後漢書を参考にしたようで、霊帝から出たという姓氏録の主張が真実のはずはありませんが、そうしておけば、渡来時期は大乱の少し後に置かれることになりますから、「記、紀」の応神朝の渡来とうまく結び付くのです。歴史家は、当時の第一級の知識人です。それなりに理屈っぽく、論理的と言って良いかどうかわかりませんが、その論理を見つけてやれば、謎を解きほぐすことができます。

     姓氏録逸文(坂上系図)には次のような漢氏の祖先伝承が見られます。

     姓氏録第廿三巻曰く 阿智王
    「誉田(応神)天皇の御世、本国の乱を避け、母並び妻子、母弟迁興徳、七姓漢人等を率いて帰化。
     七姓第一は段。これは高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。
       次、李姓。これ刑部史の祖なり。
       次、皂郭姓。これは坂合部首、佐大首等の祖なり。
       次、朱姓。これは小市(をち)、佐奈宜等の祖なり。
       次、多姓。これは桧前調使等の祖なり。
       次、皂姓。これは大和国宇太郡、佐波多村主、長幡部等の祖なり。
       次、高姓。これは桧前村主の祖なり。
    阿智王を号して使主となす。
    大和国桧前郡郷を賜い、ここに居住した
    阿智使主は奏して言う。『臣が入朝の時、本郷の人民は去って離散し、いま、高麗、百済、新羅等の国にあまねく住んでいます。使者を派遣して呼び寄せていただきたいのです。』

    天皇は使者を遣して、これを呼び、仁徳天皇の時代に、こぞってやって来た。今、高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸村主、金作村主、尾張吹角村主等はその後である
    今来郡を建て、後、改めて高市郡と号した。人が多いのに居住地は狭く、更に分けて国に置いた。摂津、三河、近江、播磨、阿波等の漢人村主がこれである。」

    ここでは、阿智王は本国の戦乱を避け、一族と共に日本に渡来したと唱え、母の弟(叔父)の姓は迁(セン)だとしています。史記趙世家に、「世本いわく、越芊姓なり。楚と同祖是なり。」と注されており、確かに越にもセン姓があって、これは本当のようです。
    越と楚は親戚筋の苗系民族なのです。ただ、日本に渡来した楚人は堂谿氏が首長となっていて、呉と同祖(姫姓)になります。

    阿智王自身の姓は記されていませんが、阿智は阿千と同音です。楚人の後裔、タイ族は雲南ではセン、セム、サム、シェム、シャンなどと呼ばれており(「雲南」)、日本ではシャムとなります。見比べると、これが千の転訛であることは一目瞭然ですし、高句麗王も同一人物が朱蒙、鄒牟、衆解と表されていました。以上から、越王は、騶(スウ)とも千(セン)とも朱(シュ)とも聞こえるシゥームというような音で表されていたと考えればいいようです。
     ●阿直伎(漢人の祖=越人=騶姓)は坂上の厩で「馬飼い」となっている。
     ●タイ国はタイであり、サヤーム(シャム)である。こちらは楚の芊姓。/日本ではチとセン
      になる。
     ●チは「ちいさい」のち、「ちび」のち。


    文氏・王仁の正体と船氏
     同じ姓氏録逸文(坂上系図)の記述から、以下のような漢人の系譜が作成できます。

    阿知使主の子、都賀使主から家系が三つに別れ、そのうちの弟腹に文という文字が集中しています。これが王仁を始祖とする文氏です。兄腹組は全て文部になっているので、弟腹組の下位氏族と考えられます。王仁が中腹組の漢人の祖、阿直伎に推挙され、遅れて渡来したとされるのは、弟腹であることを示すためかもしれません。
    延暦十年(791)四月戊戌(八日)、文忌寸や武生連などが奏上します。
    「文忌寸等には、もと二家があり、東の文(=漢)は直と称し、西の文は首と号しました。今、東文はこぞって宿祢に昇格したのに、西文は漏れて忌寸に沈んでいるので、できれば同じ栄号を賜りたいのです。(続日本紀)」
     桓武天皇がその本系を明らかにすることを求めると、
    「漢の高祖の後を鸞といい、その後の王狗が転じて百済に至りました。百済の久素(貴須)王の時、聖朝(日本)が使を派遣して文人を召したので、久素王は狗の孫、王仁を献じました。これが文、武生等の祖です。」と答えて、文宿祢を授けられています。
    王仁を祖とする文首から文忌寸、文宿祢へと転じたのです。どちらも坂上系図の弟腹に含まれています。文氏と漢氏が同族であることは、坂上系図や、漢に出自を置くこの文氏の奏上から明らかです。漢から百済に至り、さらに日本に渡来したことが述べられていますし、祖先の名は「王狗」として、狗トーテム、ヤオ族であることも同時に示唆しています。

    略紀十三年、播磨国御井隅の人、文石(あやし)小麻呂が略奪を働くので、攻めて屋敷を焼かせたところ、白い馬ほどもある大きな狗が飛び出した。刀で斬ると文石小麻呂に姿を変えたという記述があり、文氏は石、白い狗なのです。
     実際に文氏の始祖となった王仁という人物が実在したわけではなく、トーテムの鰐です。そこで、その祖神のオオナムヂ神は鰐神であるという形になり、仏教と習合し、オオナムヂ神を祭神とする讃岐の琴平神社が、インダス川の鰐に結び付けられたりしています。実際は、長江など中国南方の鰐で、鰐のいない日本では鮫に転化しました。オオナムヂ(大国主)神とは、王仁(鰐)や鹿、狗、蛇に結び付く、崇神天皇以前の邪馬壱国の王族、和迩氏、物部氏、大伴氏、春日氏等の、つまり、文・漢氏の神なのです。
     また、続日本紀、延暦九年(790)七月辛巳(十七日)には、以下のような内容の王辰爾にまつわる百済人の渡来伝説が記されています。これは津連真道等が上表したものです。

    「応神天皇時代、上毛野氏の遠祖、荒田別を百済へ派遣し有識者を捜させたので、国主の貴須王は宗族から選んで、その孫の辰孫王(一名、智宗王)を派遣し、使者と共に入朝した。天皇は喜んで皇太子の師とした。始めて書籍を伝え、儒風を広め、文教が始まったのである。……辰孫王の子が太阿郎王、その子が亥陽君、その子が午定君で、午定君は三人の男子を生み、長男は未沙、次男は辰爾、三男は麻呂といい、別れて三姓となった。葛井、船、津の連等がこれである。……家は文雅の業を伝え、一族は教育を掌る。……」

     応神天皇時 上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎え皇太子の師としたという日本書紀の記述に対応しています。しかし、これを事実と考える必要はありません。王辰爾の真ん中の辰を取れば、王爾となります。ここには王仁が重なっているのです。したがって、葛井、船、津氏は文氏の一族です。文雅の業(学問)を伝え、教育職となっているのも文氏という称号そのものでしょう。文字を知っていて、船や港に関係しているということは、船の貢ぎなどを港で確認し文書で管理できるということです。

    欽明紀十四年(553年)
    「蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて、王辰爾を遣わし、船の賦を数え記録した。即ち王辰爾を以って船長と為し、因って姓を賜いて船史とした。今の船連の祖先である。」

     敏達天皇元年(572年)、高麗がカラスの羽に墨で書いた親書をよこしたが、誰も読み解くことが出来なかった。それを王辰爾が、炊飯の蒸気を当てて絹地に写し取り、みごと読み解いたという記述があり、有能で重んじられたことが記されています。

    船氏、王後首の墓誌
    「船氏の故王後首は船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ(572~585)、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自と同墓にして松岳山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」

     これは、大阪府柏原市国分の松丘山古墳付近から発見された船氏の墓誌銘で、王後首本人は既に亡くなっていますが、おそらく、その子息が記させたものでしょうから、同時代の身内のことを語っており、記、紀などより遥かに信頼できる史料です。王智仁はワチニと読むようで、王辰爾(ワシニ)に転訛しそうです。

    経歴を並べると、船氏王後首の祖父、王智仁と、「紀」の船連の祖、王辰爾は、ぴったりと年代を重ねることが出来ます。船氏は王智仁(王辰爾)首、那沛故首、王後首と続いたのです。王智仁、王辰爾というふうに王仁(ワニ)が重なっているのは、逆に、応神朝に渡来した王仁という学者は、この王智仁という実在の優秀な官僚のイメージとトーテムの鰐を合成して創作されたというべきでしょう。

     墓誌で、王智仁首を船氏の中祖とするのは、船氏の遠祖は遥か以前に渡来していたことを示していますし、衰えていた船氏の一族を再興した特筆すべき人物ということになります。
     欽明紀では、王辰爾は船の税を数え記録したとなっています。これは魏から贈られた財宝や文書を、「津に臨みて捜露し、女王に伝送するにあたって間違いのないようにする。」と魏志倭人伝に記された大率が投影されているようで、船と港を表す姓を持つ、船氏や津氏一族の先祖代々の役割だったのではないでしょうか。大率は国王が別に存在していた伊都国で政務を執り、北九州諸国を統括していました。

    文氏、船氏、津氏、葛井(フジイ)氏の伝承は、大阪府の羽曳野市、藤井寺市に濃厚です。藤井寺は葛井氏そのものですし、藤井寺市に津堂、隣の松原市に一津屋(ヒトツヤ)という地名があって津屋崎に共通します。このあたりに津氏が展開していたのではないでしょうか。船氏の本拠地としては、松丘山に近い柏原市国分付近を想定すればいいようです。
  • 05/28編集されました
    王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である[1]。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるという。
    辰孫王(しんそんおう、356年-?)は、百済の王族である。近仇首王の孫で辰斯王の息子である。応神天皇時代、祖父近仇首王の命を受けて学者王仁と一緒に『論語』10巻と『千字文』1巻を携え、船で全羅南道霊岩郡から日本に渡った。『論語』10巻と『千字文』1巻を一緒に持って行った。その際に、百済には帰国せずに日本に定着した。菅野氏と葛井寺の始祖となる。息子太阿郎王は仁徳天皇の近侍となった。


    新撰姓氏録
    『新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。

  • 05/28編集されました
    『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)
    原文 現代語訳
    又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。〔此和邇吉師者、文首等祖〕 天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕
    和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[


    『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。

    古語拾遺』一卷 加序より
    原文 現代語訳
    至於輕嶋豐明朝 百濟王貢博士王仁 是河内文首始祖也 (中略) 至於後磐余稚櫻朝 三韓貢獻 奕世無絶 齋藏之傍 更建内藏 分收官物 仍 令阿知使主與百濟博士王仁 計其出納 始更定藏部

    軽島豊明朝(応神天皇)の時に百済王が博士王仁を貢ぎ、王仁は河内の文首の祖となり、後磐余稚桜朝(仁徳天皇)の時に斎蔵に内蔵の蔵部を定め、出納を百済博士王仁にさせた。
  • 韓国の王仁顕彰運動
    『三国史記』『三国遺事』などの書籍に王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述はなく、朝鮮には王仁の伝承は存在しない。
    しかし、1970年代に韓国の農業運動家で民族史観を信奉する金昌洙らの顕彰運動によって知られるようになった。

    1968年に農協視察のために来日した金昌洙は王仁伝承を知り、1970年に再び来日し王仁の資料を収集した[36]。金は民族史観のための王仁研究所を設立し、1972年(昭和47年)8月、中央日報に『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』を15回連載した。同年10月に霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から巫女の証言で当地に祈祷伝説があると情報を提供された。金昌洙は当地を王仁の生誕地と認定し、1973年(昭和48年)2月、「王仁出生地 霊岩郡」説を発表し、さらに社団法人王仁博士顯彰協会を創立した。1975年(昭和50年)6月、『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』を出版、金昌洙は全羅南道教育委員会で「王仁博士 遺跡学術セミナー」を開催するなどの活動を続けた。

    1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表し、1976年(昭和51年)には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として全羅南道地方文化財に指定し、遺跡公園として観光地にした。1984年には王仁祭が開催され、毎年11月3日に年中行事化する。1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開。1987年には王仁廟が竣工された。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされた。
  • 伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている。
    王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。
    永山古墳 - 大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳で、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁が仁徳天皇(第16代天皇)の陵である百舌鳥耳原中陵の陪冢に治定しているが、独立した古墳とみられる。王仁の墓とする伝承があった
  • 『古事記』は、応神がウジノワキノイラツコを太子に指名し、「ウジノワキノイラツコが天皇になり、大雀命(オオサザキノミコト・オホド王)はその補佐をするように」と命じたと記しています。

    『古事記』は、「応神天皇が亡くなった後、大雀命は天皇の遺志に従って天下をウジノワキノイラツコに譲った」と記す
  • 徳川恒孝『日本人の遺伝子』PHP研究所「御存知、漢末の群雄割拠の時代から日本に漢字をもたらしたのは百済からの渡来人の王仁という方だったと伝えられています。彼は漢の高祖(先ほどの漢王朝の創設者、劉邦)の子孫と言われています。」

    ^関裕二『鬼の帝聖武天皇の謎』PHP研究所「最大の理由は、行基の祖歌位が、百済王家出身ではなく、中国の漢から百済をへて、渡来したという伝承を持っていたことであろう。」

    日笠護『日鮮關係の史的考察と其の硏究』四海書房「後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。」
  • 6世紀の新羅石碑には、多くの者には姓が記されておらず、名と所属のみである。これは、古代朝鮮では、姓がなく、人を名で呼んでいたことを示しており、朝鮮が中国と関わり、中国式の姓を取り入れた。王族や高句麗、百済の貴族が新羅時代の4世紀から5世紀にかけて姓を導入し、6世紀に朝鮮で広まるようになった。このように、王族や高句麗、百済の貴族が中国式の姓を導入したのは、三国時代の後半、統一新羅時代である
  • 05/28編集されました
    「新撰姓氏録」によれば、王仁の子孫は「出漢高皇帝之後鸞王也」という。

    元は山東の琅邪郡を指すとか。
    琅邪は琅邪王氏の土地でした。邪王氏の系図の中に、「王仁」という名前が見えます。

    王仁と同名の人物が、琅邪王氏には居たということですよ。時代は違いますけど。

    琅邪王氏が書家であるのを踏まえ、名前が同じ人が一族に居たとなると、「倭に渡来した文人・和邇吉師は琅邪王氏かもしれない」という。

    琅邪王氏の王吉の流れが、和邇吉師に直結している可能性が見えてきました。

    王仁は百済人ではなく、中国の山東半島の琅邪王氏の一族か
  • 「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
    下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

  • 雄略天皇の崩御のあと、天皇の位の継承を巡って「星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)」というのが起こった。それは朝廷と地方の大豪族・吉備との衝突でもあったのだが、「都加使主(つかのおみ)」は 総大将・大伴室屋を支える副大将として活躍するのである。

    雄略天皇は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちおみたさ)が自分の妻・稚媛(わかひめ)の美しさを自慢するのを聞いて、田狭(たさ)を任那の国司と して派遣した後で、稚媛(わかひめ)を奪って妃とした。 任那に赴いた田狭を待っていたのは、 妻・稚媛が雄略天皇に略奪されたとの報だった。田狭は新羅と同盟して天皇を討伐する事を企図するが、日本と不仲だった当時の新羅には入国する事も出来なかった。田狭の動きを知ってか知らずか、天皇は吉備弟君と 吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)、西漢才伎歓因知利 (こうちのあやのてひとかんいんちり)の3人に、新羅討伐を命じる。吉備弟君は、田狭の次子だった。新羅討伐の為に百済へと赴いた弟君に田狭は使いを送り、叛乱の意思を告げる。これに賛意を示した弟君は、田狭と共に新羅・百済と同盟し、天皇討伐計画を練り始める事になった。しかし、この事態を見逃せなかった弟君の 妻・樟媛(くすひめ)は、 夫を殺して計画の妨害を図った。この為、田狭の計画は頓挫してしまう。こうした状況下で、稚媛(わかひめ)は、雄略天皇との間に星川皇子を儲けた。

    稚媛(わかひめ)は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子 は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛(わかひめ)のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣(きびのかみつみちおみ)は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。

    このように、「星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)」は、新羅や百済が絡んだ争乱なので、当然、新羅や百済に対する外交が重要で、 都加使主(つかのおみ)の根回しがあって新羅や百済は反乱軍に味方をするような馬鹿なことはしなかったのであろう。私は、 都加使主(つかのおみ)の功績は誠に大きったと考えている。
  • 応神41年春2月
     裁縫師兄媛、弟媛、及び穴織(あやは)、呉服(くれは)の機織の師四女を伴い帰国した。時筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろなる乞いにより断るを得ず兄媛を置き(筑紫御使君の祖先)三媛を伴い同年二月摂津国武庫浦に着船。応神天皇崩御の報に接した。
     阿知使主は驚きかつ悲しみ、急遽船を猪名の海に乗り入れ、猪名の港より上陸し、馬にて都へ走った。子、都加使主は船に三媛を護って留まり、父の帰船を待つこと三日、時に如月の海波浪荒く、風激しく危険なるを思い、猪名の港に船を着岸(当神社の下なり)せしめ、三媛を上陸、仮の宿舎を作り、ここに守護することとした(今渋谷の地なり)。阿知使主、都より帰り、別途沙汰あるを伝え、暫時この地にて滞在した。

     仁徳元年
     阿知使主は仁徳天皇にお仕えすることになり天皇はその功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び伊居太、豊中一円)を領地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪名津彦の神と申し上げる。六月十日阿知使主一族並びに三媛ともに同天皇に仕えることとなった。
     天皇厚く阿知使主の労をねぎらい給い、領地として猪名の都の地一帯を賜った(現池田市を中心とする付近の地なり)。阿知使主はこの地に織殿・縫殿を建て(平尾なりといわれる)、盛んに機織・裁縫の業を興すこととなった。呉国へ随伴せる百二十六名中四十二名は、阿知使主の一族で、みな漢氏を名乗る人たちで、六名は奴玖部(ぬくべ)、比良部(ひらべ)を頭として六役を定め、年遇収納と、湊の奉行職を掌り、十二名は巨勢林(こせばやし)、久米比手(くめひで)を頭として呉織の織殿を守護し、他十二名は涯ろう(羊偏に良)佐々和志(かいろうささわし)、犬かい(羊偏に良)物部(いぬかいもののべ)を頭として穴織の織殿、縫殿を守護、残る十二名は知代保奴気臣(ちよほぬきのおみ)、牟手我孫宇奴比古(むこあびこうぬひこ)を頭として阿知使主の家臣とし、職責を分担し、能利布弥(のりうね)、宇気船(うきふね)等、八十四名の水手達は、阿知使主に属して、地内全般の治安、行政に任じ、一族挙げて我国の機織、裁縫の業発展に専念することになった。
     そこで、仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、採取した繭を全部この織殿に納めしめられ、糸につむぎ、染色、加工され、上は宮中の服飾より、国民の男女、四季、階級に応ずる服制を定められて全国に配布されると同時に、各地より婦女子を集めて穴織の織殿にて綾羅(りよらお)を織る業をはじめ裁縫の道を教授せしめられた。
     ここに於いて穴織の織殿、縫殿は日に日に教えを乞う者多くなり弟媛をはじめ阿知使主の家臣十二名其の他もあげて穴織の織殿を援助し、生産、教育に励んだため、この道いよいよ盛んになり、全国所々に精巧なる織物を産するに至った。したがって、猪名の湊は夜に日に殷賑を究め、ここに難波猪名の津(津は大きな町のことなり)が開かれることとなった。
     都加使主、仁徳天皇三十一年四月十一日逝去
     穴織媛は仁徳天皇七十六年九月十七日長逝され遺骸を梅室に、呉織媛は翌十八日に逝去され、遺骸を姫室におさめられた。天皇は両媛の功を多とせられ、翌七十七年己丑十一月十三日、勅定により神社を建て、御鎮座式を執り行われた。これより呉織の里と呼ばれたるこの地を伊居太と改め、当神社を秦上社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称し奉ることとなった。

     履中天皇
     仁徳天皇崩御の折、住吉皇子が反乱を起こし、皇太子を殺いたてまつろうとしていることを知り、阿知使主は平群木莵とともに難を皇太子に告げ、馬にて逃れ禍をさけたので、後、皇太子が皇位につかれた時、その功により蔵の官をさずけられ、新たに領地を賜った。

     反正天皇
     阿知使主は、反正天皇三年四月八日に長逝され、同年二神の功を賞し、更正まで祀らしめんとして社を建立され猪名津彦神社と命名された。(漢・秦・大蔵・丹波・田村・坂上等の姓の人はみなこの二神の子孫である)

     応神天皇20年は386年、反正天皇3年は435年である。倭国で50年ほど活躍したことになっているが、阿知使主は倭国にやってきた時、すでに成人した子都加使主がいた。この子が応神20年に20ぐらいだったとすると、阿知使主は40ぐらいの年齢になり、反正3年には90歳前後となっているはずである。都加使主が仁徳31年(411年)に亡くなっているので、長寿だったことは確かなようであるが不自然である。

     また、382年(応神16年)に弓月君が一族郎党を率いて来朝している。機織りを職とし、秦氏の先祖である。阿知使主はその4年後に来朝し同じく機織りを職とし、秦氏の先祖といわれている。大変よく似ているのである。阿知使主が日本へやってきた時はまさに朝鮮半島が戦乱の真っ最中である。
  •  『倭漢直』一族の「阿多部」なる人物が、『内大臣になり斉明天皇(女帝)と結婚し、生まれた三人の男子の二番目に大蔵姓を賜ったが、その者の子孫である』(市来町郷土誌 70頁)などと載せる。そこには、

     ≪阿知使主→ 安致臣(雄略)→都賀直→ 阿多部→ 倭漢直→ 大蔵姓市來氏 ≫

    の系譜が読み取れる。

     実際、『阿知使主(あちのおみ)』について、『秦氏』同様、「中国皇帝の末裔」とされるが、『吉備倉敷の阿智神社』のあたりが本貫で、共に古く『鉄開発』のために渡海していた『海商』であったと信じる。

     述べてきたように「新撰姓氏録」の『諸蕃』に謎を感じるのであるが、「姓氏家系大辞典」に、太田亮も『阿智祝部』(同書 125頁)のことを取り上げている。

     つまるところ、『雄略帝時、船団を率いて渡海した「安致臣」は、「応神天皇32年」の段に見える『阿知使主(あちのおみ)』の系譜の人物=『隼人』とするが、

     同時に渡海した『馬飼臣(うまかひのおみ)』についても、

     686年の「天武帝の葬儀」で、『次に大隅・阿多の隼人、及び倭・河内の馬飼部造、各誅(しのびごとたてまつ)る』(紀下 482頁)と、『隼人と共に誅(しのびごと・弔辞)』を述べた『倭・河内の馬飼部造』や、

     642年「舒明天皇の葬儀」で誄(しのびごと)を述べ、645年「大化元年の孝徳天皇即位式」では「靱負」として「金の靫」を帯びた『大伴長徳[字(あざなは)馬飼]連(むらじ)』などの、
  • 温羅(うら)
    「吉備冠者」「鬼神」とも。
    鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わる。
    出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。

    阿曽媛(あそひめ)
    温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝の娘。

    王丹
    温羅の弟
  • 10/02編集されました
    猪名津彦神社 いなつひこじんじゃ
    -池田市宇保町
    公園一体型神社。古墳の上に鎮座しているらしい。
    由来が伊居太神社のものを写したらしい
    御祭神は、猪名津彦(阿知使主・都加使主)。
    元は阿知使主のものといわれてきた円墳に小祠をお祀りしていたのですが、盗掘にあったことで棺の破片や人骨の若干を伊居太神社に移し社殿を建て遷座。
  • 10/02編集されました
    穴織宮伊居太神社
    祭  神:穴織大明神 応神天皇 仁徳天皇
    説  明:長くなりますが栞に
    「伊居太神社は、正規の名称を穴織宮伊居太神社といい、延喜式第九巻神名帳その他の古文書に記されている通り、由緒正しく、歴代の天皇、皇族、将軍その他の高貴なる方の崇敬の厚い神社であって、歴代の天皇、皇族の勅願所として官幣
    (天皇が勅使をたてて、お祭を行われること)を奉られた神社である。
    当神社の機嫌を述べるためには、境内の中にお祀りしてある猪名津彦神社の祭神について述べる必要がある。
    猪名津彦神社の祭神は、阿知使主(あちのおみ・下坂神)及びその子都加使主(つがのおみ・岩坂紙)(武将坂上田村麿はこの子孫なり)の二神であり、父阿知使主は漢(中国)の霊帝四代目の曾孫である。
    中国の昔、漢より魏へと政治の実権が移り、漢の子孫は追われて、帯方と言われていた北中国から北鮮の辺りまで神牛と云う占いによって、たどりつき、部下と共にここに宮城をつくり住むことにしたのである。ところが魏の圧力がここでも次第に強くなり危険になってきた。そこで阿知使主は一族の者に、『若しこのままこの国にいたならばおそらく一族部下は滅ぼされるであろう。しかし聞くところによれば東国(日本)に聖主(立派な天皇のこと)があるということである。
    私はこの天皇に仕えるのが最も良いことであると思う』と伝えて自分の子都加使主、その妹の迂興徳(うこうとく)と、部下七姓(七つの色々の姓の人)の十七県の部下たちをつれて応神天皇二十年に日本に渡り気化した。応神天皇は、この一族に大和の高市郡檜前(ひのくま)村を領地として与え、ここに住ましめられた。
     阿知使主は当時の日本の文化程度が非常に低いのを見て『帯方という国には男女共に才芸の優れたものが多く、最近では高麗、百済(北朝鮮)の辺りを流浪し、不安な毎日を送っています。これらのものたちを使いを出して日本に呼び寄せていただきたい。』と天皇に懇願したので天皇は早速八腹氏に命じてこれを迎えにやられ連れ帰って日本の国民にされた(日本に今残る漢氏の先祖である)。
     
    天皇は更に織物、衣服などの不完全なることに気づかれ、三十七年に阿知使主・都加使主に命じ中国に渡らせ機織(きしょく)の師、裁縫の師をもとめしめられ四十一年に裁縫師兄媛、弟媛、及び穴織(あやは)、呉服(くれは)の機織の師四女を伴い帰国した。  たまたま、応神天皇が崩御せられたので仁徳天皇にお仕えすることになり天皇はその功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び伊居太、豊中一円)を領地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪名津彦の神と申し上げる。次代履中天皇皇太子の折、住吉皇子が反乱を起こし、皇太子を殺いたてまつろうとしていることを知り、阿知使主は平群木莵(へぐりのつく)とともに難を皇太子に告げ、馬にて逃れ禍をさけたので、後、皇太子が皇位につかれた時、その功により蔵の官をさずけられ、新たに領地を賜った。
     都加使主は、仁徳天皇三十一年四月十一日、父阿知使主は、反正天皇三年四月八日に長逝され、同年二神の功を賞し、更正まで祀らしめんとして社を建立され猪名津彦神社と命名された。
    (漢・秦・大蔵・丹波・田村・坂上等の姓の人はみなこの二神の子孫である)

    以上阿知使主、都加使主二神につき予備知識として述べたが、上古、垂仁天皇より、応神・仁徳両天皇に亘る次代は我国に外国文化が入り始めたときであって、特に応神天皇は学問・殖産・興行に意を用いられたのであるが、中にも衣服、裁縫、織物の術が遅れていることを痛感され丁度中国より気化した阿知使主よりその術が中国呉の国に於いてすぐれていることを聞かれ、阿知使主父子に命じて勅使として呉国に渡り、女工を求めしめられることとなった。
     両名は同天皇三十七年丙寅の二月勅命を奉じて部下百二十六人を連れ、まず高麗の国へ至り、これより先、呉への道、不明なるため高麗王に案内者の人選を依頼し、久礼波(くれは)、久礼之(くれし)の両名を得、漸く呉国へ到着したのである(呉なる文字を『くれ』とよむのはこの両名の名を記念するためであるといわれる)。
     呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、のぞみの趣を了とし、早速数多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて裁縫の師として兄媛(えひめ)弟媛(いろとひめ)を、機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。かくて阿知使主等一行は山海万里の長途をつつがなく四十一年始めに筑紫へ帰着せるところ、当時筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろなる乞いにより断るを得ず兄媛を置き(筑紫御使君の祖先)三媛を伴い同年二月摂津国武庫浦に着船。応神天皇崩御の報に接した。阿知使主は驚きかつ悲しみ、急遽船を猪名の海に乗り入れ、猪名の港より上陸し、馬にて都へ走った。子、都加使主は船に三媛を護って留まり、父の帰船を待つこと三日、時に如月の海波浪荒く、風激しく危険なるを思い、猪名の港に船を着岸(当神社の下なり)せしめ、三媛を上陸、仮の宿舎を作り、ここに守護することとした(今渋谷の地なり)。阿知使主、都より帰り、別途沙汰あるを伝え、暫時
    この地にて滞在され漸く仁徳天皇の即位あり、六月十日阿知使主一族並びに三媛ともに同天皇に仕えることとなった。
    天皇厚く阿知使主の労をねぎらい給い、領地として猪名の都の地一帯を賜った(現池田市を中心とする付近の地なり)。
    阿知使主はこの地に織殿・縫殿を建て(平尾なりといわれる)、盛んに機織・裁縫の業を興すこととなった。呉国へ随伴せる百二十六名中四十二名は、阿知使主の一族で、みな漢氏を名乗る人たちで、六名は奴玖部(ぬくべ)、比良部(ひらべ)を頭として六役を定め、年遇収納と、湊の奉行職を掌り、十二名は巨勢林(こせばやし)、久米比手(くめひで)を頭として呉織の織殿を守護し、他十二
    名は涯ろう(羊偏に良)佐々和志(かいろうささわし)、犬かい(羊偏に良)物部(いぬかいもののべ)を頭として穴織の織殿、縫殿を守護、残る十二名は知代保奴気臣(ちよほぬきのおみ)、牟手我孫宇奴比古(むこあびこうぬひこ)を頭として阿知使主の家臣とし、職責を分担し、能利布弥(のりうね)、宇気船(うきふね)等、八十四名の水手達は、阿知使主に属して、地内全般の治安、行政に任じ、一族挙げて我国の機織、裁縫の業発展に専念することになった。
    そこで、仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、採取した繭を全部この織殿に納めしめられ、糸につむぎ、染色、加工され、上は宮中の服飾より、国民の男女、四季、階級に応ずる服制を定められて全国に配布されると同時に、各地より婦女子を集めて穴織の織殿にて綾羅(りよらお)を織る業をはじめ裁縫の道を教授せしめられた。
     ここに於いて穴織の織殿、縫殿は日に日に教えを乞う者多くなり弟媛をはじめ阿知使主の家臣十二名其の他もあげて穴織の織殿を援助し、生産、教育に励んだため、この道いよいよ盛んになり、全国所々に精巧なる織物を産するに至った。
     したがって、猪名の湊は夜に日に殷賑を究め、ここに難波猪名の津(津は大きな町のことなり)が開かれることとなった。
     穴織媛は仁徳天皇七十六年九月十七日長逝され遺骸を梅室に、呉織媛は翌十八日に逝去され、遺骸を姫室におさめられた。
    天皇は両媛の功を多とせられ、翌七十七年己丑十一月十三日、勅定により神社を建て、御鎮座式を執り行われた。これより呉織の里と呼ばれたるこの地を伊居太と改め、当神社を秦上社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称し奉ることとなり、当社の創始である。
     即ち、媛が日本の地に上陸の第一歩を記された現地に媛の功績をたたえて都の守護神として祀りたまい、又阿知使主、都加使主は反正天皇の勅正により下坂・岩坂の神として秦上社の北西、九十米のところに祀られ、猪名津彦神社と申し上げ同じく都の守護神とされ、俗称辰の宮、又は秦上社の奥院といわれるに至った。
     以来この二社は、宮中の勅願所として官幣をたまい、歴代天皇、皇族、将軍たちの崇拝をうけ、桓武天皇延暦四年十一月十三日勅命により社殿を新たに、応神天皇、仁徳天皇を相殿に祀らしめられ、産業、文化、学芸、武術の神として尊崇せしめられた。
    かくて阿知使主の四代の孫・漢直努留間直(はたのあたへぬるまのあたへ)を二社の神主とし、波夜嶌直(はややしまのあたへ)を始め、四十四名が神領を治め、天下安全、宝祚の延長を祈らしめたまい、人皆この二社を崇敬せざるなしといわれ、以来、努留間直より代々、この二社の神職を継ぎ、八十五代目の現宮司に及んでいる。
    祭神応神天皇・仁徳天皇については既に日本歴史に衆知なるを持って、これをここに略する。」
    住  所:大阪府池田市綾羽町2丁目4-5
  • 和名抄に河内国志紀郡拝志郷(はやしごう)あり、延喜式神名帳に志紀郡伴林氏神社を載す。大阪府藤井寺市林三丁目の伴林氏(ともばやしうじ)神社なり。伴は大伴の略で祭神は大伴氏の祖・天押日命(あめのおしひのみこと)・道臣命(みちのおみのみこと)を祀っているが後世の附会にて大伴氏は無関係なり。平城宮出土木簡に「志紀郡少林郷」と見え、拝志郷沢田村に小林八幡神社がある。林郷は小林(少林)郷とも称し、小は胡(こ)の佳字で胡(えびす)・蕃(えびす)にて渡来人を称す。渡来人林族の集落を蕃林(ばんばやし)と称し、伴林(ばんばやし)の佳字を用いる。東大寺奴婢帳・天平勝宝三年奴婢見来帳に「河内国志紀郡林郷戸主上部古里・戸口上部白麻呂」と見ゆ。百済の五部制は高句麗の制にならったもので、王城の泗沘城(忠清南道扶余)、中方(中部)の古沙城(全羅北道古阜)、東方(上部)の得安城(忠清南道恩津)、南方(前部)の久知下城(全羅南道長城)、西方(下部)の刀先城(未詳)、北方(後部)の熊津城(忠清南道公州)である。神護景雲元年正月紀(続日本紀・767年)に「上部木」と見ゆ、林氏は百済上部(じょうほう)の恩津地方出身の木(もく)氏なり。随書・百済伝に「国中大姓有八族。沙氏、燕氏、刕氏、真氏、解氏、国氏、木氏、苗氏」とあり。八氏は五世紀頃の百済国の支配層なり。

    百済王十七代直支王(文周王)の後裔と称す。姓氏録・河内諸蕃に「林連、百済国直支王より出づる也」。左京諸蕃に「林連、百済国人木貴公の後也」。摂津国諸蕃に「林史、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。右京諸蕃に「林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」。右京諸蕃に「大石林、林連と同祖・百済国人木貴の後也」とあり。また、百済族武内宿祢後裔に林臣あり、蘇我氏も同族にて木氏なり。延暦六年紀(787年)に「河内国志紀郡人林臣海主、野守等、臣を改めて朝臣を賜ふ」。姓氏録・河内皇別に「林朝臣、武内宿祢の後也」と見ゆ。皇別は仮冒なり。百済族木氏渡来地の林村及び林氏は西国に多く、小林村及び小林氏は東国に多い。>
  • 小林 (こばやし)
     関東甲信越に多く、東北や西国には少ない。
     林郷は少林(小林)郷ともいい、少(小)は胡(こ)の佳字 で、胡(えびす)のこと。蕃(えびす)は朝鮮からの渡来人をいう。よって、渡来人の林族の集落を蕃林(ばんばやし)とも言い、伴林(ばんばやし)の佳字 を使う。
     藤井寺地方は百済族葛井連 (ふじいのむらじ)の居住地で、林郷は別名胡林郷(こばやしごう)といった。よって、百済族の林族を小林 というようになった。
     小さな林の近くに居住したので小林 を名乗ったという説は何の根拠も無い。

    参考: 「伴林氏神社(ともはやしのうじじんじゃ)」は河内国 志紀郡拝志郷(大阪府 藤井寺市)にある。

    http://folklore.office-maeta.jp/b001.htm
  • 「林史」は、直支王の息子、であり、直支王=阿直岐で、阿直岐の後裔、阿直岐史とは林史、とする事は可能だ
  • 白猪胆津 しらいの-いつ

    ?-? 6世紀中ごろの官吏。
    百済(くだら)(朝鮮)系渡来人で白猪氏の祖。吉備(きび)地方(岡山県)の白猪屯倉 (みやけ)の田部(たべ)(農民)に丁籍(ていせき)の不備のため賦課をまぬかれる者がおおく,欽明(きんめい)天皇30年(569)胆津が派遣され正確な戸籍の作成に成功。白猪史(ふひと)の氏姓(うじかばね)をあたえられ,田令(たづかい)(屯倉の管理者)に任命された。
    屯倉設立でも名前が見えますが吉備の人です。
  • 直支王(397~405年渡来)が阿直岐とすると、仁徳の先代の皇太子の家庭教師をするのは難しいです、というか不可能。

    辰孫王は若い時に倭に来ており、その間に父(辰斯王)が王位についてその後失脚したりと、故郷百済に帰りたくない身の上かもしれない
  • 大原氏は、大原真人で、奈良の桜井地方に地名があるのと、敏達天皇の孫・百済王の後裔で、現在の熱田神宮社家で有名ですよね。百済王の後裔だから600年以降でしょう。
  •  『古事記』の仲哀段にも、新羅の王が御馬甘(みうまかい)となって服属することを誓う話が載る。馬飼部は、当初、新羅渡来の技術をもとに編成された可能性が高い。
     5世紀前半、応神天皇の15年8月条で、百済王から良馬2匹が贈られたので、その時、使者であった百済の王子阿直吉師に飼育させたという記述もあり、百済系の技術も後に入ったものと思われる。
     飼部は、河内と大和を中心に居住した。『日本書紀』に河内馬飼部(かわちのうまかいべ;履中天皇5年9月の条)・河内馬飼首歌依(―のおびとうたより;欽明天皇23年6月の条)・河内母樹馬飼(かわちのおもきのうまかい;継体天皇24年9月条)がみられ、
     天武天皇12(683)年9月の条には
     「9月2日、大風。23日、倭馬飼造・川内馬飼造など、凡(すべ)て38氏に姓を賜い連という」とある。
     飼部は、馬飼部を管掌する伴造や娑羅々馬飼造(さららうまかいのみやつこ)・菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)などの伴造(とものみやつこ)に率いられ、朝廷の馬官(うまのつかさ)に上番して職務にあたった。娑羅々・菟野・母樹(大阪府東大阪市豊浦町)など生駒山西麓を本貫として、河内には馬飼の集団が濃密に分布していた。
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