応神王朝の始め 摂津、河内、和泉は

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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古代の地域図 大和川の扇状地 と 上町台地、くさか江 住吉と難波津 二俣の地域は大和川の扇状地のはじまり、応神…

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コメント

  • 『新撰姓氏録』(以下『姓氏録』と略記)によれば、天道根命の6世の孫である君積命(きみつみのみこと)の後裔氏族とされ(右京神別下)、天道根命は直姓の紀氏の祖神とされるので[同氏とは同族であることになる。

    「大村」の氏名(うじな)は和泉国大鳥郡大村郷(現大阪府堺市中区高蔵寺一帯)に因むとされるが、肥前国彼杵郡大村郷(現長崎県大村市一帯)に因むものとする説もある。う

    君積命
    始祖である君積命は『姓氏録』和泉国神別の同氏条では枳弥都弥命(きみつみのみこと)に作り、大名草彦命(おおなくさひこのみこと)の子とされている。大名草彦命は『国造次第』に紀伊国の第5代国造として見える大名草比古(命)と思われ、『紀伊国造系図』[5]には大名草比古命の子としては宇遅比古命(うじひこのみこと)しか掲げていないので、宇遅比古命の兄弟であったと思われる。なお、『姓氏録』右京神別の同氏条では「君積」を「若積」に作る諸本があり、そこから別名を若積命といい、『肥前国風土記』藤津郡能美郷条に見える「紀直(きのあたい)等の祖、穉日子(わかひこ)」や『先代旧事本紀』の「国造本紀」に見える葛津立国造(ふじつたちのくにのみやつこ)に任じられた「紀直の同祖、大名茅彦命(大名草彦命)の子、若彦命(わかひこのみこと)」と同じ人物であるとする説もあるが、『紀伊続風土記』は上記のように「枳弥都弥(きみつみ)」に作る場合があるために『姓氏録』で「若積」に作る諸本は「君積」の誤記であるとしつつ、「国造本紀」の所伝を活かして大名草比古命の子に宇遅比古命、君積命、若彦命の3子があったとし、それぞれ現和歌山市の宇治(うじ)、紀三井寺(きみいでら)、和歌浦(わかのうら)の地名に基づいて命名されたものであろうと説いている。因みに『国造次第』、『紀伊国造系図』ともに宇遅比古命を天道根命の5世の孫とするので、君積命は天道根命の6世の孫となる。
  • 「住吉大社神代記」は、天平3年(731年)に成立した書物である。成立の年代はもっと後であるとの見方もある。天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊(アメノミナカヌシノカミ)としている。
  • 阪神間の夙川から生田川までが古代の摂津国兎原(うはら)郡である。 平安初期には東から賀美 葦屋 佐才 住吉 覚美 天城 津守 布敷の八郷に分かれていた。 佐才郷が後の魚崎郷にあたる。 津守郷は敏馬社、住吉郷は本住吉社を中心としていた。 賀美が宮川、覚美が石屋川、布敷が生田川流域に比定される。 天城は摩耶山山麓。 

    古代の葦屋郷は圧倒的に芦屋川右岸が中心であった。 現在の神戸市東灘区東部は芦屋郷の中心であるだけでなく兎原郡全体を統括していたようである。 東灘区深江北町遺跡は古代山陽道芦屋駅家の最有力候補になりつつある。 
  • 宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)
    南海淡輪駅の南側に五十瓊敷命の陵とされる泉南第2位の前方後円墳がある。墳丘長170m、後円部径110m、3段築成で、後円部を囲むように6基の賠塚がある。この3段築成は、元福井県埋文ンター所長の中司照世氏は「大王家につながりのある人物が埋葬されている。」との説であるが、五十瓊敷命は実在するとして4世紀代と思われる。宇度墓古墳は5世紀中葉から後半の造営と推測されており、宮内庁の指定は当たらない。

    『雄略紀九年』 新羅を征討するため、天皇は紀小弓宿禰らを大将軍として派遣した。紀小弓宿禰らは進撃がめざましかったが、陣中で病気になり、薨じたと云う。
    紀小弓宿禰の妻の吉備上道釆女大海は小弓宿禰の喪に従って帰国し、大伴室屋大連に小弓宿禰の墓を造る場所を相談し、室屋は天皇に申しあげた。天皇は紀小弓宿禰を称えて、視葬者を派遣し、大伴卿と紀卿は同じ国の近い隣であると云われ、淡輪邑に墓を造らせて葬った。
    天皇が視葬者(はふりのつかさ)を派遣したことは、天皇家と同様の古墳であとなっている証だろう
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