佐伯直、

January 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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佐伯直は、佐伯部民の管掌者。河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます 皇別 景行天皇の皇子、稲…

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コメント

  • 景行天皇40年
    「蝦夷の叛乱」が告げられて『日本武尊の東国遠征』

     『則(すなは)ち俘(とりこ)にさえる蝦夷等を以て、神宮に献(たてまつ)る。因(よ)りて吉備武彦を遣(まだ)して、天皇に奏(まう)して曰(まう)したまはく』云々(紀上 310頁)

     と、『日本武尊』は『蝦夷』を「伊勢神宮」に奉献しながら、この後すぐに「30才」の若さで死んで(死なせて)、後を『吉備武彦』に任せてあるのである。

    ここで注意すべきは『蝦夷等を以て、神宮に献(たてまつ)る』ことをしたと書かれた意味である。


    景行天皇51年8月」

    「伊勢での蝦夷の蛮行が目にあまり、余所に移して欲しい」とのことで、

     『其の情(こころ)の願(ねがひ)の随に、邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしめよ」とのたまふ。

     是今、播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波、凡(すべ)て五國の佐伯部の祖なり』(紀上 312頁)

     とある『瀬戸内周辺の佐伯部』こそは、あとで挙げる『吉備武彦=御スキ友耳建日子=吉備臣建日子』の末裔と称した『吉備海部』の人々

    「雄略天皇23年」条の『五百(いほ)の蝦夷等を率いた征新羅将軍吉備臣尾代』(紀上 500頁)

    『毛野氏』
    日本書紀の「景行天皇55年2月」条

    そこでは「古事記」にはない『東山道』も「初見」となっている。

     『彦狭島王を以て、東山道の十五國の都督(かみ)に拝(ま)けたまふ。是豊城命(とよきのみこと)の孫なり。

     然して春日の穴咋邑(あなくひのむら)に到りて、病に臥して薨(みまか)りぬ。

     是の時に、東國の百姓、其の王の至らざることを悲びて、窃(ひそか)に王の尸(かばね)を盗みて、上野(かみつけの)國に葬りまつる』(紀上 314頁)

     と載せる。翌年の「景行天皇56年8月」条には、死亡した『彦狭島王』の後継者として、

     『御諸別王に詔して曰はく、「汝が父彦狭嶋王、任(ことよ)さす所に向(まか)ることを得ずして早く薨(みまか)るぬ。故、汝専(たうめ)東国を領(をさ)めよ」とのたまふ』(紀上 314頁)

     とあって、『則ち行きて治めて、早(すみやか)に善き政(まつりごと)を得ち。時に蝦夷騒ぎ動(とよ)む。即ち兵(いくさ)を挙げて撃つ』と、

     『足振邊、大羽振邊、遠津闇男邊』などの『蝦夷の首帥(ひとごのかみ)、あるいは神官』の名まで挙げて、

     『降(したが)ふ者は免(ゆる)して、服(まつろ)はざるを誅(つみな)ふ。是を以て、東(ひむがしのかた)久しく事無し。是に由りて、其の子孫、今に東國に有り』(紀上 315頁)
  • 播磨別(はりまわけ)の祖といわれる稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという伝承である。四国は瀬戸内海を挟んで山陽地方の国々と一帯の文化圏をなしている。特に河内や大和に近く、淡路島を含む播磨灘を中心にした地方には一つの文化圏があったと思われる。三井寺の宗祖・智証大師・円珍の生誕地の讃岐国と播磨地方とは家島諸島などを介して陸続きのような位置にある。

    白国の佐伯神社
    第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている
  • 軍事的伴造氏族。八草の姓の制定により、連から宿禰に改姓。門号氏族で大伴氏の同族とされている。職掌が宮廷防守であったことから、「塞ぎる」が「さえき」になったと言われている。
    佐伯氏系図
    天押日命 ━ 天津彦日中咋命 ━ 天津日命 ━ 道臣命 ━ 味日命 ━ 稚日臣命 ━ 大日命 ⇒
    ⇒ 角日命 ━ 豊日命 ━ 武日 ━ 武以 ━ 室屋 ⇒
    ⇒ ┳ 談 ┳ 金村
    ┃ ┗ 歌連 ━ 平曽古連 ━ 平彦連 ━ 伊能直 ━ 大人直 ━ 枳都直 ⇒
    ┗ 御物(林宿禰)
    ⇒ 男足 ━ 田公 ━ 道長 ┳ 空海
    ┗ 女子 ━ 円珍
  • 酒人については、近江の坂田郡の上申書(天平十九年・七四七・十二月二十一日付)「坂田郡司解」に、郡の大領(長官)・坂田酒人真人新良貴(さかたのさけひとまひとしらき)と記されており、近江の坂田郡には坂田酒人氏が居住していたことが知られる。この氏は「姓氏録」・左京皇別の「息長真人同祖(おきながまひと)」とあり、応神天皇の皇子に祖をもとめている。一方で「開化記」には針間の阿宗君(あそのきみ)の祖は息長日子王(おきながひこのおほきみ)であるとしているので、開化天皇の時代に既に針間国は存在していたことを示す記述がある。そして「景行記」には景行天皇が吉備臣等(きびのおみら)の祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶り生ませる御子、櫛角別王(くしつぬわけのおほきみ)、次に…小碓命(をうすのみこと)、亦の名倭男具那命(やまとおぐなの)…次に神櫛王(かみくしのおほきみ)…とあることも既に針間国(播磨国)の存在を示すものである。更に、「姓氏録逸文」には景行天皇の子の稲背入彦の後。孫の阿良都別命(あらつわけのみこと)男・豊島は孝徳天皇の御世(六四五~六五四)に佐伯直の姓を賜る…との記載がある。阿良津命(あらつのみこと)は白国神社の祭神・阿曽武命(あそたけるのみこと)の子で、応神天皇の時に父を祭神に加えている。阿良都別命は阿良津命の後であろうか。その子の豊島の時に佐伯直となったとしている。佐伯直は「姓氏録(右京皇別)」に記載があり、概略は「景行天皇の皇子稲背入彦命の後なり佐伯直の男・御諸別命が成務天皇の御代に針間国の中を分けて之を賜った。之により針間別と名づけられた。さらに、男・阿良都命(あつらのみこと)、一名を伊許自別という―は応神天皇が国堺を定める為に、針間国・神崎郡に巡行の折に、岡部川の上流に住む日本武尊が東国平定の折に俘にした蝦夷の後裔が居住していたことを知り、この国を針間別(後に佐伯直と為す)に賜り、針間のほか、安芸、阿波、讃岐、伊予も同時に賜った」と記載されている。仮に、この伝承の通りであるとすれば、讃岐の佐伯氏は播磨の佐伯氏のと同族ということになる
  • 姫路の白国神社

    祭神
     神吾田津比賣、稲背入彦命、阿曽武命

    由緒

     景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から播磨へ下向、この白国の地に宮殿を構え、統治をした。その孫の阿曽武命の妃高富媛が出産時、大いに苦しんだ。命は倉谷山の峰に白幣を立てて神吾田津比賣(木花咲耶媛)を祀り、安産を祈願した。女神が忽然とあらわれ、汝の祈りは天に通じている。とお告げになり、白幣と共に天高く舞い上がりお隠れになった。
     妃は無事に出産、神徳に感謝し、倉谷山に社殿を設けて祀ったのが創始である。以上『神社の栞』

     『式内社調査報告』では、応神天皇が当地を巡幸の時、三韓征伐の折りの阿曽武命の軍功を賞してこれをも合祀し「新羅国国主大明神」の神号を与えられ、当社を「日の宮」とも称したと云う。
  • 稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという伝承である。四国は瀬戸内海を挟んで山陽地方の国々と一帯の文化圏をなしている。特に河内や大和に近く、淡路島を含む播磨灘を中心にした地方には一つの文化圏があったと思われる。三井寺の宗祖・智証大師・円珍の生誕地の讃岐国と播磨地方とは家島諸島などを介して陸続きのような位置にある。

    佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。
    佐伯神社と大木 / 佐伯神社入口と社殿孝謙天皇の御代天平宝字二年(七五八)命の子孫の佐伯宿祢芸胡多というお方が出月岡という地に祖先の阿良津命をお祀りになられたのが、佐伯神社の創立であり、佐伯大明神として崇め奉りました。天皇の思し召しにより、佐伯姓を白国姓に改め、白国宿祢と申し上げる事になりました。阿良津命は白国の地を開かれた国造・稲背入彦命の曽孫にあたらせられる。今、境内に高くそびえる椋の大樹は長い歴史を物語っています」と記載されている。この由緒書によれば、この神社の祭神は白国宿禰である。「神社の由緒」については、白国郷土史愛好会「ふるさと白国」にも「第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている。
  • 稲背入彦命は第12代・景行天皇の皇子で、播磨国に下向の際、ここ白国の地に宮を構え、播磨地方統治の拠点とされた。

    その御孫・阿曽武命の后・高富媛(たかとみひめ)
    がご出産の際、大変な難産なので、阿曽武命は倉谷山に白弊を立て
    一心に神吾田津日売命に祈願した。すると高富媛は無事男子を
    出産された。そのご神徳に感謝して建てられたのが白国神社である。

    「国造本紀」によると、第13代成務天皇の御代、稲背入彦命の孫・伊許自別命(いこじわけ)が針間国造に任じられたとある。

    諸説あるが、この伊許自別命を阿曽武命とする説もある
  • 大宰府防衛を主な目的として築かれ、築城当初の責任者吉備真備は、当時大宰大弐(だざいのだいに:大宰府の副
    長官)であった。築城当初は吉備真備が責任者だったが、途中天平勝字7年(763)真備は京へ帰還命令が出たの
    で、佐伯宿禰今毛人(さえきすくねいまえみし)が怡土城専知官となり、3年後に完成した。建築には、当時他の
    作業に着かせる事が禁止されていた防人まで動員された。
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