九州の吉備、前期古墳、豊後、日向、肥後

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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記紀の初出は、景行天皇、日本武尊の九州遠征 吉備と九州の関係は、どのように進められたか。 吉備津彦命・稚武彦命…

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  • May 2016 編集されました
    八代
    日本書紀
    景行天皇18年5月 天皇が葦北より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で、人の火ではなかったので、その国の名を『火の国』と名付けた。

    「日本書紀」
    「…六月の辛西の朔発亥に 高来縣より玉杵名邑に渡りたまふ 時に其の処の土蜘蛛津煩というを殺す 丙子に阿蘇国に到りたまふ…」とあって、島原半島では景行天皇の高来縣から、玉杵名邑への出発点は、口之津町宮崎鼻からと言う伝説がある。

    宇土
    「肥前風土記」
    景行天皇が巡幸された時、島原半島をみて、「あれは、島か、陸続きか、知りたい」と。
    神大野宿祢(みわおほののすくね)に見せに行ったところ、人が迎えに来て、「僕者此山神名高來津座 聞天皇使之來 奉迎而巳 因曰高来郡」(私は此の山の神、名は高來津座(たかつくら)といいます。天皇のお使いが来られると聞いて、お迎えに来ました。)と申し、「因りて高来(たかく)の郡(こほり)と曰ふ。」

    次の立ち寄り地は熊本県熊本で景行天皇の伝承が残る神社
    健軍神社(けんぐんじんじゃ)は、熊本県庁前熊本県熊本市東区にある神社である。
    阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(こうさじんじゃ、甲佐町)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)と共に阿蘇四社とも称せられる。

    火(肥)国造 の祖である健緒組(たけおくみ。健緒純にも作る)
    健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという
  • 福岡県内における畿内型古墳最古の一つは、京都郡苅田町の「石塚山古墳」である
  • 肥後国風土記の逸文

    疫隈(えのくま)の国つ社。昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。ここに畢へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答せむ。汝が子孫その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨に着けしむるに、即夜に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。
  • 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」

    「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

     このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。
  • 周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、
    百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている
    15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、
    琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。
    聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという
    その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、
    以降歴代の当主もこれを世襲した
    鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は
    31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え 京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き
    山口が「西の京」と呼ばれるまでになった
    しかし 琳聖太子という人物名が
    当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く
    琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり
    真偽は謎である
  • 九州古墳時代研究会発行の
    「宮崎平野の古墳と古墳群」によると、

    あくまでも概算としながらも宮崎平野部の前方後円墳150基、円墳1153基、方墳4 基、横穴墓965以上、地下式横穴墓224以上と言う数字が掲載されている。考古学者の鈴木重治氏による昭和60年発行の著作によると瓜生野地区だけで、 昭和30年代の調査で90基以上の横穴墓が確認されていると言う。ところが、瓜生野古墳群は、現在では主要な古墳群に掲載される事も無い。おそらく、ここ 50年の間に、その多くは破壊されたのだろう。
     これらの数字を見ただけでも、宮崎平野の古墳の数がいかに凄いかがわかるだろう。しかもこの数字は確認されているものだけなので、確認されないまま壊さ れたものは含まれていない。更に、横穴墓や地下式横穴墓に関しては、外から見えないだけに、いったい幾つあるのか検討もつかないのだ。それにもかかわら ず、西都原古墳群のみが整備され、宣伝されてきた為、宮崎平野にこれほどの数の古墳が存在する事を知る者は少ない。
  • 装飾古墳の種類
    (1) 石棺系装飾古墳
    4世紀終わり頃から造られ始めます。石棺の蓋や身に円文や三角文、あるいは直弧文等の文様を浮彫や線刻で表現しています。北部九州から日本海沿岸部に広がりを見せます。
    (2) 石障系装飾古墳
    4世紀末頃から5世紀初めにかけて、八代海(不知火海)沿岸部で造られ始めます。ほぼ正方形の墓室に円文や靫・盾等を浮彫や線刻で表現しています。5世紀前半頃、宇土半島を経由して熊本北部に広がり、6世紀には菊池川流域まで広がります。当初は浮彫で装飾していましたが、八代海を北上して宇土半島から熊本市に入ると、赤・黄・緑(灰色)などの彩色が浮彫の上から塗られるようになります。
    (3) 壁画系装飾古墳
    6世紀に入り、北部九州では壁画系の装飾古墳が数多く造られ始めます。この頃の特徴は彩色で装飾文様を描くことです。熊本では6世紀前半頃から円文や連続三角文を石室に描く様になります。その後、武具や人物、馬など、絵画的な装飾も多く描かれるようになります。
    (4) 横穴系装飾古墳(装飾横穴墓)
    6世紀の中頃から、熊本では多くの装飾を持つ横穴墓が造られます。古墳と異なり、墓室以外の壁面にも装飾が描かれるようになります。装飾の中でも人物、靫、盾などの装飾は破邪として描かれたと考えられます。
  • 09/29編集されました
    雄略天皇の時代に、東漢氏、秦氏の先祖が伽耶(かや)から渡ってきたと考えています。「475年に高句麗が百済の漢城の地を奪ったために、百済が南方の弱い伽耶諸国に圧力をかけ始めた。高句麗に奪われた土地に代わるものを、伽耶から得ようと考えたのだ。これによって、伽耶に戦乱が広まったため、祖国に見切りをつけて、新天地に移り住もうと考える者も出てきた。この時代に、伽耶から陸続きの新羅に移住した者も、少なくあるまい。それとともにごく少数であったが、危険な航海に耐えて日本に渡る者もいた。・・・東漢氏と秦氏の先祖も、この時期に招きを受けて、職人たちを従えて来航したと考えられる。

    吉備の加夜国造 上道臣の田狭の系譜
  • 、「凡」のつく国造を抜き出してみると、

    凡河内国造 おおしこうち おおしかわち 彦己曾保理命
    (神武天皇期) 凡河内氏 (直) 河内国

    周防国造 すおう 加米乃意美
    (応神天皇期) 周防氏(凡直) 周防国東部

    淡道国造 あわじ 矢口足尼
    (成務天皇期) 淡道氏(凡直) 淡路国

    粟国造 あわ 千波足尼
    (応神天皇期) 粟氏(凡直) 阿波国北部

    都佐国造 とさ 小立足尼
    (成務天皇期) 都佐氏(土佐氏)(凡直)
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