関東の古墳、出現期

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  • August 2016 編集されました
    古事記に
    「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。
    次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。」

    天菩比命と天津日子根命は、先の五人の神さんの内の二人ですので、全く関係ないことはありませんが、天菩比命の子である建比良鳥命は、今の出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造の先祖ですよ。

    とか、天津日子根命は凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等の先祖ですよ

    と読む人に忠告するように、文脈を離れて掲載されています。
    日本書紀では、この部分は有りませんから、書紀の編集者は載せたくなかったのでしょう。 この文章の前後には、別の文章があったのですが、誰かが削除したために、宙に浮いた文章になっています。

    出雲国国造は、建比良鳥命の子孫ですから、着お付けなさいと古事記の作者が何故言ったのか
  • August 2016 編集されました
    箸墓古墳と相似墳

    箸墓古墳と相似形をなす古墳がたくさんあるらしい。一般には、箸墓古墳の被葬者との近縁な関係を説く見解が多いが、、、、、
    以下、少しばかり箸墓と相似墳と言われるものを列挙してみると、

    古墳名        所在地
    箸墓古墳     奈良県桜井市
    西殿塚古墳   奈良県天理市
    中山大塚古墳  奈良県天理市
    黒塚古墳     奈良県天理市
    元稲荷古墳    京都府向日市
    五塚原古墳     京都府向日市
    椿井大塚山古墳  京都府木津川市
    禁野車塚古墳   大阪府枚方市
    西求女塚古墳   兵庫県神戸市
    浦間茶臼山古墳 岡山県岡山市
    備前車塚古墳   岡山県岡山市
    七つグロ1号墳  岡山県岡山市

    などが上げられている

    西求女塚古墳 兵庫県神戸市(大伴氏)、
    禁野車塚古墳 大阪府枚方市(物部氏)、
    椿井大塚山古墳  京都府木津川市(加茂氏か)、
    元稲荷古墳 京都府向日市、五塚原古墳 京都府向日市(後世の丹波・但馬の豪族か)、
    中山大塚古墳  奈良県天理市、黒塚古墳  奈良県天理市(和珥氏、阿倍氏か)、
    西殿塚古墳 奈良県天理市
    などが思い浮かぶ。
  • 開化天皇―彦坐王―大俣王―菟上王

    記紀によれば、第9代開化天皇の子が彦坐王で、彦坐王が山代の刈幡戸辨(かりはたとべ)を娶して生まれたのが大俣王です。では、山代(=秦氏最大の拠点である山城国)の刈幡戸辨とはどんな人物でしょう?

    彼女は秦氏系と推定されます。なぜなら刈幡とは、既に書いたように山城国相楽郡の蟹幡(かんばた)に由来すると考えられるからです。そして蟹幡は、神服、神畑(豊橋市に二カ所ある地名)へと繋がっていきます。相楽郡は秦氏の居住地と理解されますが、既に書いたように砥神山の東北側に相楽神社があり、相楽神社はかつて兎上神社と称されていました。相楽には見えない関連性がありそうです。蟹幡の詳細は「富士山麓の秦氏 その31」を参照ください。

    刈幡戸辨の記述は「古事記」の垂仁天皇の条に出てきますが、面白いことに山城国相楽郡も垂仁天皇の条に出てきます。円野比売は大和国から丹波国へ向かう途中で自ら命を断つ決心し、 山代国の相楽に至ったとき木に縄をくくり付け首を吊ろうとします。しかし死ぬことはできず、弟国(おとくに、秦氏の拠点でもある京都府乙訓郡)に着いたとき、ついに深い淵に落ちて死にました。

    以上から、大俣王には秦氏の血が入っていることになり、その子が菟上王(うなかみのおう)でした。菟上王とは菟足神社の祭神菟上足尼命を意味すると考えられないでしょうか?もしそうなら、菟上足尼命には酔石亭主の期待通り秦氏の血が入っていることになり、スムーズに秦石勝へ繋がっていきます。また、中継ぎ側の人物として考えることもできます。

    (注:「先代旧事本紀」の 「国造本紀」によれば、菟上足尼命は葛城襲津彦(武内宿禰の子で、秦氏の祖である弓月君を出迎えに行った人物)の四世の孫で、雄略天皇の御代に「穂の国」の国造に任じられたとされます)

    菟上王に関して別の視点から見ていきます。菟上王を祀っている神社は数えるほどしかなく、調べたところ伊勢国朝明郡(現、三重県いなべ市大安町宇賀1070)に菟上神社が鎮座していました
  • December 2016 編集されました
    S字状口縁甕の波及した年代を検討すると、まず、「A類がわずかずつ波及しはじめ」たのは、纏向1式期であるので、AD290年頃のことで、次に、B類が「関東一円まで波及」したのは、纏向2式期であるので、AD300年頃のことである。次に、A類が消失し、「B類に加えてC類が波及」し、駿河・南関東・石田川式分布圏・常陸ではA類→C類と漸移的に増加してゆくのは、纏向3式期であるので、AD320年頃のことである。次に、「B類は消滅」し、「C類に加えてD類が登場」し、石田川式文化圏と常陸では「D類の占める割合が60%を越えており、異常ともいうべき急激な増加傾向が突如見えてくる」のは、纏向4式期(布留1式期)であるので、AD350年頃のことである

    若狭徹は、「S字状口縁台付甕(S字甕)を核とした東海西部様式」の土器様式が「上毛野にはもっとも濃厚に定着した」が、それは「邪馬台国時代の政治的な変動」により「東海地方の人々」が「東への大規模な移住を企図した」とか、「前方後円墳は、邪馬台国を軸とした初期豪族連合の主要メンバーたち、前方後方墳は遅れて二次的に連合に加わった首長たちが共有した墓の形」であり、「東海地方以東に多いことから、邪馬台国に敵対した狗奴国の後裔を含む」とかいうが、これらには何の根拠もない。
  • 第一に、「弥生時代中期には、集落は台地部や扇状地端部を中心に立地し、一部は自然堤防上や低湿地に進出した」が、弥生時代後期になると、「井野川下流や利根川沿岸の低湿地にはほとんど遺跡が見いだせなくなる」ので、それまでの在来弥生人たちは「悪水が滞留する低湿地経営に頓挫し、撤退したと考えられる」という。

    第二に、古墳時代前期になると「一転して低湿地に遺跡が多量に出現し、このエリアの大開発が始まった」が、「低湿地に出現した遺構には、土器様式、墳墓形式、住居形式、木器様式など、あらゆる面で東海西部型の文化が保持されていた」ので、「低湿地に進出したのは」「外部からの移入集団であり、主に東海西部の人々であった」という。

    そして、それが可能となったのは、「東海西部の人々は、古来、木曽三川が合わさる広大なデルタ地帯である濃尾平野を耕してきた」ので、「低湿地を経営するソフトウエアを培ってきた」からであるという。

    第三に、こうした開発の進展の結果、4世紀までに、「古墳時代前期の水田域は完成し、そこからの収穫物が大型古墳築造の経済的な裏付けとなっ」て、「水利と新田開発を巡って幅広い集団利害を調停する広域首長が出現し」、「高崎市元島名将軍塚古墳や前橋八幡山古墳が成立した」という。

    第四に、「集落遺構は5世紀中頃より低湿地から」「榛名山麓の扇状地末端へ移動」し、「前方後円墳の築造地も山麓に移る」が、これは、「山麓水源の掌握によって農業水利を刷新し、水稲農耕の集約化をはかる」ためのもので、首長は、三ツ寺Ⅰ遺跡のように、こうした「開発目的地に社会中心を移動し、居館での祭祀によって人心を結集し、広域用水網の整備と水田域の拡大を断行した」のである。

  • 「前期前半の前方後円墳・前方後方墳は墳長130メートルが上限であり、それが農業用水に立脚した大首長の共立の範囲と動員力の限界であった」が、前期後半には172メートルの高崎市浅間山古墳と165メートルの太田市別所茶臼山古墳が、「利根川を挟んだ上毛野の東西に相次いで成立し」、「農業用水圏を越えたさらに広域の連合から代表者を共立するような社会的な合意が形成されたと考えられる」という。

    そして、中期前半には、東日本最大の210メートルの大田天神山古墳が築造され、「オール上毛野といえる大首長間の共立体制が実現している」という。

    この大田天神山古墳以降、上毛野では巨大前方後円墳は築造されず、「5世紀中頃から後半には120メートル級を最大とする前方後円墳が複数乱立する」ので、「大首長の共立という社会様態が分解し、地域有力層が分立する以前の形に戻った」という。榛名山東南麓では、このころ、およそ20キロ圏内に並立して前方後円墳が築造されている。

    そして、6世紀前半に築造された145メートルの七輿山古墳以降は、墳長120メートルを超える大古墳は築造されず、「100メートル内外以下の前方後円墳が令制下の郡域よりも狭いエリアに、均質的に」築造されていく。
  • 下菟上国と上菟上国の国造は伊勢津彦の後裔であって、下菟上国の猿田神社において猿田彦大神を奉祀しました。

    社伝によれば、垂仁天皇25年11月25日の創建とされ、猿田神社の神主家は、伊勢津彦命後裔の海上国造家であり、猿田姓を名乗り、海上五十狭茅宿禰が神功皇后の三韓征伐において、水軍を率いて参戦したと言われます。

    日本書紀には、201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅宿禰に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと記されている。

    実際、神戸の生田神社には、摂社に大海神社が鎮座しており、猿田神社から移動した海上五十狭茅宿禰によって猿田彦大神を祀られたという伝が、猿田神社社家に残されている。

    更に、日本書紀にあるように、生田神社の稚日女尊も下菟上国で祀られていた神として、生田神社に遷座した。神栖市にある手子后神社には、もともと稚日女尊が祀られていた事が旧社家の伝に残っており、神栖市の木崎という場所が元々の鎮座地である。これは、旧下菟上国の領域である。

    猿田神社の猿田彦大神は、伊勢から遷座したと言われており、嶋津国造氏族(伊勢津彦後裔で海上国造家と同祖)が、神武天皇の将である天日別命に追われて、菟上国に到達し、祖神である猿田彦大神を祀ったと考えられます。また、稚日女尊は粟島坐伊射波神社二座、儀式帳に言う荒前神社から、海上国に一族の移動と共に、遷座したと考えられます。
  • 『関東の古墳、出現期』【古代史の話題を!!】
    http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/400/関東の古墳-出現期


    上記リンク中にある系譜で出雲臣の祖の天穂日命というのは違い、武夷鳥命こそがルーツであるという言説が散見されます。
    系譜上の伊勢津彦とは饒速日命の事であるという言説もあり伊勢津彦と饒速日命がこの二者だけが共に原初太陽神と云われていることや、出雲臣が大切にしていた天穂日命が天から持って降って来たという神宝と全く同じ話と言えば、饒速日命が天から降って来た際に持って来た十種の神宝の話であること、
    天孫でありながら国津神の姫を娶って居着いてしまったといえば天穂日命と饒速日命(笑)。

    武夷鳥命が経津主神であるとすれば即ち武甕槌命の事であり、崇神天皇が大物主に祟られて大物主を祀らせるように言われたという大田田根子が大物主(饒速日命)の末裔で武甕槌命の子であると名乗った事に符合しますし、武夷鳥命の母親が水戸神女天甕津日売命である事に符合します。
    武甕槌命の“甕”は母親の水戸神女天甕津日売命から貰った事になります。
    それをまた藤原氏がややこしくしてしまった気がします。


    茨城県の大甕には、武甕槌命と経津主神が力を合わせて戦ったけれど勝てなかったという天津甕星を封じた大甕倭文神宮があり、武甕槌命と経津主神と天津甕星が全部同一神であるか、もしくは同じ側、同族である気がします。
    大甕倭文神宮は、出雲族になった天穂日命の一族、出雲臣の一族、饒速日命や武甕槌命が、天津神であること天孫族であるという事を封印する為に、その事実を葬る墓場として建てたかのようです。


  • 関東地区・古墳数38000基で、大和王権古墳数29900基と数で上回っている。また関東地区の古墳は利根川流域に数多く分布している。

    埼玉県行田市のさきたま古墳群は、千葉県の鋸山周辺で採れる石を使っていることが分かった。こういったことからも関東平野に巨大な勢力が存在していたことになる、としている。

    埼玉県東松山市の反町遺跡からはハマグリの貝殻が発掘された。これらの海のものは、川を使って運んでいたことが分かる。埼玉古墳群のあたりは「さきたまの津」と呼ばれていた。つまり、津=港である。また古墳の周辺には住居跡がかなり多く見つかっており、権力者による集落が形成されていたことが分かる。
  • June 2017 編集されました
    伊甚国造は、出雲臣と言いつつ、伊勢津彦命の後裔の嶋津国造一族と同祖です。島根県斐川町に伊甚神社がありまして、大歳神を主祭神として祀っています。嶋津国造一族が祀った伊雑宮でも大歳神を祀り、大歳神にまつわる伝承が残っており、同じ一族が伊勢から渡ってきたのではないかと考えられます。
    伊自美と言う名は、三輪君の系譜にも見られ、出雲臣の中でも地祇系の神門臣に近しい一族ではないでしょうか。
    その証拠に、伊甚神社は、神門臣から出た建部臣の根拠地の
    出雲郡建部郷に鎮座しています。興味深い事に、建部郷は荒神谷遺跡のある地域です。

    出雲の斐川で製鉄をしていた集団が、東に移動したように思われます。

    伊甚国(夷隅川・一宮川流域を支配していた・千葉県の大半にあたる)この地方は鎌倉時代「鎌倉の大仏」を作るほど丹治技術に優れ、かつ鉄の精錬技術でも10メートル近い鉄仏を作っており、素晴らしい技術を持っていました。

    https://blogs.yahoo.co.jp/miyamoto83885/15489081.html

    夷隅川流域も高塚古墳の分布はきわめて希薄な地域であるが、上流の大多喜町には、前方後円墳1基、円墳11基からなる台古墳群があり、その中の径15mの小円墳(大宮氏旧宅裏山古墳)から半円方格帯神獣鏡、馬具などが出土している。
     この白銅製の鏡は「辛亥年在銘」の鉄剣が出土した埼玉県稲荷山古墳出土の鏡と同范(同じ鋳型で造られた)鏡で注目される遺物である。6世紀前半頃の古墳であろう。
     成武天皇の世に、伊己侶止直が国造となった。伊甚国造は、夷隅川及び一宮川流域を支配していた。のちに夷隅川流域は夷隅郡、一宮川流域は長生郡となる。
     『日本書紀』によれば、安閑元年(534)に、この地を支配していた国造伊甚直稚子がアワビの中にある珠(真珠)を献上するのが遅くなり、その罪を逃れるため春日皇后の寝殿に逃げ隠れた。皇后は驚き失神したため、より罪が重くなり、その免罪のために伊甚国造は、大和朝廷の直轄地となる伊甚屯倉を献上したという屯倉設置の記述がある。
  • 建部と古墳

    「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
     飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)

    大生は潮来の方ですので行方の東端にあり、こちらは同じ行方でも西端ですが、こちらの地方の馬はきっと有名だったのでしょう。

    前に、香取市にある「側高神社」(そばたかじんじゃ)に残されている言い伝えで、

    「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」

  • 三昧塚(さんまいつか)古墳

    愛宕山古墳(水戸市):全長136.5m 5世紀初頭 仲国国造 建借間命(たけかしまのみこと)の墓か?
    三昧塚古墳(行方市):全長88.2m 5世紀後半 この地方の若き豪族の長の墓か?

    と二つ比べると大きさも築造時期もいささか平凡な古墳です。

    しこの古墳は考古学上大変貴重な古墳と言われています。それは、この古墳からの出土品です。

    舟古墳の墳丘には円筒埴輪が三重にめぐらされ、この後円墳上から深さ2.7mのところから箱式石棺が発見されました。この石棺内の大きさは長さ196cmx幅56cm、深さ35cmで真ん中に成人男子(20歳くらいか?、40歳くらいという記述もあった)の遺体が真っ直ぐに足を延ばした形でおかれており、まわりには数々の装飾品が置かれていました。

    両脇には「太刀」や「剣」がおかれ、首部から胸のあたりには「玉類」が、頭の上には「金銅製馬形飾付冠」が置かれ頭部の右に「青銅製飾金具」、左上に「変形神獣鏡」などが置かれていました。

    特にこの古墳を有名にしているのがこの
    「金銅製馬形飾付冠」です。
    冠の上には「馬の飾り」(左右4頭ずつ計8頭)が飾られています。長さは約60cm(径20cm)、高さ9.4cmで正面には蝶形金具を持ち「二つ山形式」 と呼ばれるものです。
    この冠は「歩搖(歩くと揺れる)付王冠」ともいわれるもので、歩搖=歩くと揺れる というものです。
    この歩搖付王冠は騎馬民族の4~5世紀頃の各地で発見されているものに特徴がよく似ています。

    日本では九州や、関西圏で発見されていますが、東国ではこの三昧塚古墳だけだと思います。

    またアフガン出土の王冠に良く似ているそうです。

    この三昧塚古墳の冠は中央正面に蝶形金具があり、これは他の国では見られない日本独特のもののようです。

    常陸国風土記(8世紀始め)でも「行方の馬」として、この地方を馬の産地として紹介しています。

    「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
     飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)

    大生は潮来の方ですので行方の東端にあり、こちらは同じ行方でも西端ですが、こちらの地方の馬はきっと有名だったのでしょう。

    前に、香取市にある「側高神社」(そばたかじんじゃ)に残されている言い伝えで、

    「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」

    ということを紹介したことがあります。

    この陸奥の馬というのはまだ当時は常陸国は陸奥と見られていたときの話でしょうから「行方の馬」だったのかもしれません。

    常陸国にやってきた大和朝廷の人々は海からのルートでは九州の民族(九州から大和に移動した?)でした。
  • 真土大塚山古墳(しんどおおつかやまこふん)は、神奈川県平塚市真土字十四ノ域にかつて存在した古墳。
    墳形については双方中円墳説、前方後円墳説、前方後方墳説があるが、墳丘本体の調査が行われないまま消滅してしまったため、どの墳形であったのかは確認できない。

    真土大塚山古墳
    所在地
    神奈川県平塚市真土字十四ノ域(現在消滅)

    規模 不明
    築造年代 3世紀末から4世紀半ば
    埋葬施設 木棺直葬主体部、粘土槨
    被葬者 不明
    出土品 木棺直葬主体部:三角縁神獣鏡、管玉・巴形銅器、銅器2、銅鏃39、鉄斧2、鉄剣、鉄刀、土器
    粘土槨:変形四獣鏡、水晶製勾玉、水晶製算盤玉、ガラス玉150、銅鏃、銅鐸、槍鉋、土器
  • June 2017 編集されました
    平塚市の前鳥神社
    現在の祭神は以下の3柱である。

    菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)
    大山咋命(おおやまくいのみこと)
    日本武尊(やまとたけるのみこと)
    菟道稚郎子命を祀る神社は極めてまれで、東日本では当社のみと言われている。『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では、所縁の地から離れた東国で菟道稚郎子命が祀られている事に関し、兄に帝位を譲るため自殺したとされる菟道稚郎子命が実は死んでおらず、一族を率いて東国に下り曽祖父である日本武尊に所縁の地へ宮を建てた、あるいは当地が菟道稚郎子命の御名代であったことにより祀られたとする伝承があることを紹介した後、これら伝承には傍証が無く一切は不明だが、なぜ東国で祀られたのかについては興味あることとしなければなるまい、と述べている。

    明治の頃に村内日枝神社の祭神であった大山咋命を合祀、昭和61年(1986年)に日本武尊を合祀している。

    当社の創建年代は不明である。『前鳥神社 御由緒で
    は、平安時代に「四之宮」の地名が始まり、それ以前の奈良時代の諸文献に「さきとり」の地名が見えることから、この「さきとり」の地に住んでいた人々が清浄な場所を選んで奉祀したのが始まりではないかと述べている。
  • 『日本書紀』には、伊甚屯倉献上の記事があり、安閑天皇元年(534年)4月条によれば、内膳卿の膳臣大麻呂は伊甚国造に真珠の献納を命じたが、期限に遅れたため捕縛しようとしたところ春日山田皇后の寝殿に逃げ隠れた。皇后は驚き失神したためより罪が重くなり、国造伊甚稚子は贖罪のため春日山田皇后に伊甚屯倉を献上し、これが後の夷灊郡であるという。

    この『日本書紀』の記述をそのまま信じるわけにはいかないが、後代の『日本三代実録』貞観9年(867年)4月20日条に夷灊郡の春日部直黒主売の名がみえるので、屯倉が置かれたことは史実とみなされている。こうした屯倉の設置には、地方豪族の支配領域に直轄領を楔のように打込み、勢力を伸張させるヤマト王権のあり方をみることができる。6世紀には、春日山田皇后の外戚である和珥氏の一族武社国造も北東の九十九里浜中央に進出したとされ、『続日本後紀』承和2年(835年)3月16日条には、安閑天皇の他の妃宅媛の父物部木蓮子の弟(つまり宅媛の叔父)小事の功勳による匝瑳郡建郡に関する記事があり、古墳時代中後期のこの地域の首長勢力の衰退を反映している可能性がある。
  • 下菟上国と上菟上国の国造は伊勢津彦の後衛

    下菟上国の猿田神社
    猿田彦大神を奉祀

    社伝によれば、垂仁天皇25年11月25日の創建とされ、
    猿田神社の神主家は、伊勢津彦命後裔の海上国造家であり、
    猿田姓を名乗り、海上五十狭茅宿禰が神功皇后の三韓征伐において、水軍を率いて参戦したと言われます。

    日本書紀には、201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅宿禰に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。
    “うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」
    との神託があったと記されている。

    実際、神戸の生田神社には、摂社に大海神社が鎮座しており、猿田神社から移動した海上五十狭茅宿禰によって猿田彦大神を祀られたという伝が、猿田神社社家に残されている。

    更に、日本書紀にあるように、生田神社の稚日女尊も下菟上国で祀られていた神として、生田神社に遷座した。神栖市にある手子后神社には、もともと稚日女尊が祀られていた事が旧社家の伝に残っており、神栖市の木崎という場所が元々の鎮座地である。これは、旧下菟上国の領域である。

    猿田神社の猿田彦大神は、伊勢から遷座

    嶋津国造氏族(伊勢津彦後裔で海上国造家と同祖)が、神武天皇の将で
    ある天日別命に追われて、菟上国に到達し、祖神である猿田彦大神を祀ったと考えられます。また、稚日女尊は粟島坐伊射波神社二座、儀式帳に言う荒前神社から、海上国に一族の移動と共に、遷座したと考えられます。

    猿田神社の資料集に記載される秘伝によると、猿田彦大神こそ天照神であると言い、粒坐天照神社の神が伊勢津彦命、伊勢津姫命であるという伝と一致してきます。

    海上五十狭茅宿禰が海上国造の祖として祀った猿田彦大神
    系譜に残される海上国造の祖である伊勢津彦命
    猿田神社の資料;猿田彦大神こそ天照神
  • August 2017 編集されました
    菟足神社
    御祭神は「莬上足尼」(うなかみのすくね)といい、葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおし)の兄弟で、眉輪王の変後、連座して穂の国の国造として配流されたのだという(『古代の謎 抹殺された史実』)。

    菟足神社の案内書きによると、熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っているそうです。神社の祭神は「菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)」で、起源は、雄略天皇の御世、穂の国の國造(東三河の国司)がいい政治をし、平井の柏木浜に社を造り奉祀していたものを、神の教えにより、686年(天武天皇の御世白鳳15年4月11日)に秦石勝(はた いわかつ)によって現在地に移して、お祀りをしたということです。
    尾張に「宇太志(うたし)神社」という神社があります。所在地は、海部郡八開村開治蔵王西で、祭神は、邑上足尼命(うがたりにのみこと)といいますが、これは菟上足尼命と同一であろうと考えられます。この人物は、穂の国の國造でしたから、尾張にその痕跡があるのはとくわかりません。また、彼は「葛城襲津彦命四世孫」とも言われ、葛城氏につながるよう人物ぼようです。
    ところで、菟足神社では生贄神事が行われているとも書いてあります。

    式内社 参河國寶飫郡 御津神社
    御祭神 大國主命
    愛知県御津町にある。JR愛知御津駅の北1Kmほどの広石祓田に鎮座。御津町役場を過ぎ、御津川を越えて100mほど北西に進むと、当社境内の入口。とういうことで、境内入口は南東向き。
    鳥居をくぐり、境内に入ると、右手に枯れた池のようなものがあり、中央に、船形に積んだ石がある。その上に、龍神石雌龍神と呼ばれる石が立っている。
    御津町の歴史も古く、8代天皇の孝元天皇(西暦前200年)が当国の行幸の時に、御船を此の津に寄せられたことから、当地を御津湊とされたことが惣国風土記に記されています。
    その時、天皇は既に此の地にあらせられる神社に対し、御津神社の名を賜ったとされています。

    さらに参道を進むと、左右に境内社。左手にあるのが摂社・船津神社(猿田彦命)、右手にあるのは、天満宮(菅原道眞)。参道階段を登ると広い境内。境内中央奥に、尾張造の当社社殿があり、周囲に境内社が並んでいる。

    境内の右手には、先ほどの龍神石雌龍神と対をなす龍神石雄龍神が立っている。

    烏賊(イカ)まつり(例大祭)
    毎年4月の第3土曜日の例大祭の前日に行われる祭事です。大国主命が海から此の地に降りる時、船にイカを積み振るまわれたと伝えられ、祭礼の前日にはイカ祭りを行い、故事に習います。
    創祀年代は不詳。

    当社は、御津郷十二ケ村(のちに十八ケ村)の総氏神として崇敬された神社。
    また、式内社・御津神社に比定されている古社で、三河国神名帳に、「正三位御津大明神」と記されている神社。

    祭神は、大国主命。資料によっては、事代主命・建御名方命も配祀されているとある。伝承によると、祭神は、御舳玉・磯宮楫取・船津各大神を従えて船津へ着いたという。各随神は、それぞれ、村社御舳玉神社(泙野鎮座)、磯宮神社(境内摂社)、船津神社(境内摂社)に祀られている。
    愛知県豊川市御津町広石祓田70

    延喜式(平安時代) 全国神社三千百三十二座の内三河国二 十六座の一となし、三河国神名帳に正三位御 津大明神として載せらる
    天武天皇四年二月圭田五十六束を奉納し給ふ
    文徳天皇仁寿元年十月従五位下の神階を給ふ
    当三州刺吏源朝臣義範は応永廿二年御社殿を 再建し永享十一年之が御屋根葺替を成し奉り
    享徳元年御津庄刺吏細川兵部少輔は洪鐘を献 納し、天文十五年当庄刺吏牛久保城主平朝臣 保成御社殿屋根葺替を成し奉れり
    明治十四年十月有栖川宮熾仁親王殿下より神 社号の御染筆を御贈進あらせらる
    明治廿二年内務省より御本殿保存資金として 金壱百円を下附さる
    当社は往古御津七郷(広石、森下、茂松、灰 野、金割、西方、泙野、大草、赤根、大塚、 丹野、山神)十二ヶ村の総氏神なりしが、明 治五年更に六ヶ村(森、為当、上佐脇、下佐 脇、下佐脇新田、御馬)を加えて十八ヶ村崇 敬の社となる
    神領は中古七十五石を有し、今尚、小字に祓 田、禰宜田、神子田等の名を残す

    豊川進雄神社

    「御祭神 進雄命(すさのをみこと)

    当神社の創立は伝承によると文武天皇大宝元年(701)大旱魃の際豊川の西岸旧鎌倉街道に沿った元宮豊川町仁保通77番地の地に牛頭天王をお祭りして雨乞いの祭祀を行ったことから始まったと伝えられている……(後略)」

    「豊川牛頭天王社」と呼ばれておりましたそうです。
  • 菟足神社といえば、天武最晩年の朱鳥元年に平井の地から、現在地に遷座したと社伝は伝えています。遷座に関わったのは、秦石勝。菟上足尼は穂国に養蚕を広めた功績を高く評価されて、死後に神として祀られたといわれています。日本書紀の朱鳥元年八月一三日条は「秦忌寸石勝を土左大神に遣わし、幣を奉る」と載せています。また 書紀は天武は草薙剣の祟りにより病になったとしています 。「草薙剣が熱田神宮に収まる前には菟足神社に保管されていた」との伝承もあるそうです。この菟足神社の祭神菟上足尼は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」となっています。真偽はわかりませんが、『古事記』に記載されている「兎上王」とする説もあります。
    https://www.google.co.jp/amp/gamp.ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11300938911.html
  • October 2018 編集されました
    出雲の伝承
    物部イクメ王の東征の際、出雲を攻略した菟上王は、因幡国西部の伏野にしばらく滞在した。菟上王は豊王国・宇佐家の御子だったから、宇佐のウサギ神(月神)を信仰していた。
     月の中にウサギがいるので、「月読みの神」をウサギ神とも称した。ウサギ神宮の「ギ」を省略した言葉が、ウサ神宮の名前になったと言う。

    ヤマトのワニ王家・彦イマス王の御子・日子立彦はその頃、稲葉国(後で字が変わった)方面に
    勢力を養っていた。かれは菟上王軍に降伏し、菟上王軍に降伏し、菟上王に協力することになった。
  • 猿田彦は伊勢の海人族・宇治土公家が祖神として祀っていた太陽神である。現在でも宇治土公家は三重県伊勢市の猿田彦神社の宮司家として続いている。
     同じように鈴鹿市の椿大神社の山本宮司も猿田彦の子孫と称している。

     また、猿田毘古神は、出雲国風土記に登場する佐太大神であると考えられている。生まれたのは加賀の潜戸(くけど、松江市島根町加賀)という海岸の洞窟の中で、母は神魂神(出雲の祖神で伊弉奈彌命か)の娘の枳佐加比売です。
     その佐太大神を祀るのは島根県松江市鹿島町佐陀宮内に鎮座の出雲国二の宮・佐太神社(神在の社、かみありのやしろ)で、主祭神が佐太大神(猿田毘古大神)となっている。明治政府から祭神を猿田彦命と明示するように言われた時には拒否しているが、その後、政府に押し切られたのか同意した。
     神社の伝承にないということは、佐太大神と猿田毘古大神は別神かもしれない。
  • 海上国造と相武国造
    千葉県市原市の姉崎古墳群の入口に、海上
    国造後裔の、海上氏がおられる。
    西方の海老名市にある、相武国造の古墳群
    を、2基の前方後円墳が貫く。
    また、相武国造の古墳、秋葉山3号墳が、
    東方の姉崎古墳群を貫いており、同族と
    わかる。

    多珂国造と下海上国造
    茨城県高萩市の赤浜1号墳近くに、多珂国造
    後裔の、大高氏が多数おられる。
    同古墳は、南方の下海上国造の三之分目大塚
    山古墳を貫いている。
  • 05/17編集されました
    九十九里平野の北東部には、「椿海」と呼ばれる内海が存在していました。古墳時代においても、一定の水深をもって広がる湖水、もしくは湖沼が散在する湿地で、小型の船が航行可能な状態だったと推定されています。
    鏑木古墳群は、椿海北岸の台地上に位置する、5世紀末から7世紀にかけて造営された古墳群です。その盛期は大型古墳が築かれる6世紀中葉以降と見られます。
    当地は、波高い銚子沖を避けて設定された、太平洋から黒部川流域を通り、霞ヶ浦・北浦などを包括する広大な湖「香取海」の沿岸水上交通に接続するルートの、重要拠点だったと見られます。
    西方3km程のところにある古代寺院址・八日市場大寺廃寺や、もとは現在より広い範囲だったという「匝瑳」の有力豪族・物部匝瑳連との関係が気になるところです。

    鏑木の地には鏑木古墳群があり、そのほとんどの古墳は地方豪族の墓に見合った小さな墳丘である。その中にただ一つだけ6世紀末前後のものと想定される巨大な前方後円墳の御前鬼山古墳がある。これは時代背景からして、577年に他田宮で敏達大王の日祀りを幇助した下海上国造の墓としか考えられない。また、大和政権の記録として、大王家の日祀行事の費用に当てるために下海上国に他田日奉部が置かれたとあり、『倭名類聚抄(934)』の匝瑳郡の項に日部という地名があることから、現在の多古・鏑木・山倉・飯岡の地が日部[他田日奉部]の地で、下海上国造の故地と想定される。日部の北側には田部・茨城という大和朝廷ゆかりの地名が、南部には太田・辛川という上州系の地名が迫っていて、最後に残った南関東の八百万的精神勢力が大和政権によって吸収されてしまったことを示している。その後、匝瑳物部氏の秋田侵攻の拠点として日部の地は匝瑳郡に編入された。しかし、関東では江戸幕府が開設されるまでは、豪族間の土地所有の権利関係は複雑に入り込んでいて、現代人が考えているように明確な境界線で区分出来るものではなかった。歴代の領主から、日奉族の宮・宮田・神田と呼ばれる土地の所有は許されていたようで、それらの土地を頼りに武蔵国と海上国を行き来していたと考えている
  • 武蔵国の氷川神社は、出雲国大原郡斐伊郷の斐伊神社から勧請された事が、
    大原郡神原神社の社伝に伝わっていて、

    「大原斐伊郷にある斐伊社を武蔵国に氷川神社として勧請せられるに当たり、
    当社に伝わる出雲神宝十握剣(とつかのつるぎ)をもってその御神霊の御霊代に
    奉献したといわれ、その際に十握剣を模写して再び当社の神宝としたと
    いわれる」


    この斐伊神社の鎮座地は、出雲国風土記の大原郡の郡家があった、
    斐伊郷、菟原野という地名にあったと考えられます。

    その当時の大原郡の大領は、勝部虫麻呂であり、諏訪神の末裔という勝部氏の一族でした。勝部氏の系譜には、菟という名がありました。

    埼玉県大宮市の氷川神社の奥宮と言われる、奥多摩の奥氷川神社は
    武蔵国造であった、菟上国の国造とも同族であった海上(菟上)五十狭茅によって
    勧請されたと言う言い伝えがあります。
  • 奥氷川町史によると、

    「奥氷川神社明細帳に
    武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社
    ニ対シ入間郡三ケ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称スと、あり、特選神名帳入間郡中氷川神社の条には、
    入間郡氷川村中氷川神社、式内足立郡氷川神社竝ニ多麻郡杣保内氷川村鎮座上
    氷川神社里程中央ニシテ当村鎮座中氷川神社ナリ
    とあって大宮-長宮(中宮か)-奥宮。氷川-中氷川-奥氷川と一線につながり、
    この社が武蔵三氷川の一社といわれる所以がわかります。
    牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣
    は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲
    で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に
    数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。」

    下海上国(下菟上)国から摂津の菟原への遷移
    現在、千葉県の銚子市猿田に鎮座している猿田神社は、垂仁25年に創始された
    と言われていて、下海上国造が奉仕していたと言われています。
    猿田神社の社伝によれば、海上五十狭茅は、猿田神社の猿田彦を生田神社の
    摂社に祀り、太陽神を生田神社に祀りました。

    生田神社は、摂津国(大河内国)八部郡の式内社でしたが、行基の年譜によると、
    生田神社からほど近い八部郡宇治郷は、

    「大輪田船息 在摂津国兎原郡宇治」

    と、お隣の菟原郡の菟原という地名となっています。
    生田神社も往古は菟原郡に属していたと考えられます。

    菟原という地名は、「ウナヒ」と万葉集では読んでいたようです。
    一方、菟上はウナヘと読めますので、音が通ります。
    海上五十狭茅が出雲から菟上国、大河内国菟原郡と移動し、地名
    が移動したのではないでしょうか。

    この生田神社の鎮座地の郡名は、何度か変更があったようで、
    雄伴郡、八部郡と変更されていますが、この郡名と武蔵国造の系図の
    又書きに一致しています。海上五十狭茅が摂津に菟原郡に移動して
    周辺地域を支配していたと考えられます。

    すなわち、武蔵国造の系譜を見ると、允恭天皇の時代に武蔵国造の系譜において
    忍敷命という名が見られ、系譜には忍敷(允恭御宇為 勝部・刑部 負 刑部直
    祖)と記載されています。

    その前代の乙名古(矢田部)と八背(大部直)という名がありますが、摂津の菟
    原郡に隣接する八部郡(矢田部)と雄伴郡(大部)の名称に合致しています。

    海上五十狭茅は、摂津に拠点を持ち、允恭天皇の時代に勝部と刑部を統括
    することになっているのです。

    このような海上五十狭茅の移動による地名の移動によって、出
    雲国大原郡の勝部の一族の祖先の移動が見えてくるのです。

    最後に、大河内の国の菟原郡には、河内国魂神社がありました。
    一般にこの神社は凡河内忌寸らが祖先を祀った神社であると考えられて
    いますが、凡河内忌寸らと親族であった生田神社を祀った海上五十狭茅ら
    伊勢津彦の末裔に縁ある土地だからこそ、菟原郡にこの神社があると考えます。
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