仁徳天皇と吉備、淡路島

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
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仁徳天皇 其の嶋より伝ひて、吉備国に幸行(い)でましき。 尓(しか)して黒日売、其の国の山方の地に大坐(おおま…

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  • 桑津天神社と髪長媛

    祭  神:少彦名命 菅原道真 須佐之男命 天児屋根命 布刀玉命 天宇受売命 猿田毘古神 奇稲田比売命 経津主命 健甕槌命 野見宿根

    由緒:口伝によると、髪長媛が病にかかられた時、少彦名神に祈願され全快された。その縁故により、後世同神を桑津の地に勧請された。

    髪長媛は、采女として、宮中の新甞祭に奉仕するために、日向の国(現在の宮崎県都城市が髪長媛生誕の地と言われ、同地の早水神社は髪長媛をご祭神として奉祀されている)
    より召され、仁徳天皇妃となられ、桑津にお住みになった。

    応神天皇・仁徳天皇が親子で奪い合った美女

    日本書紀では

    日向国に髪長媛という乙女(諸県の君牛諸井の女)が、国中での美人との噂を聞き、春三月、天皇は専使を遣わして、髪長媛を召された。秋九月中旬、髪長媛は日向からやってきた。摂津国桑津邑に置かれた。皇子の大鷦鶺尊は髪長媛を御覧になり、その容貌の美しいのに感じて、引かれる心が強かった。天皇は大鷦鶺尊が、髪長媛を気に入っているのを見て、娶わせうようと思われた。
    大鷦鶺尊(仁徳天皇)は、早速彼女に言い寄ります。髪長媛はそれに逆らわず、めでたく若い二人は結ばれたという。

    鹿子(かこ)水門

    播磨の加古の港の近くの話。
    天皇は『あれはどういう鹿だろう。大海に浮かんで沢山やってくる』といわれた。
    見るとみな人である。ただ角のついた鹿の皮を、着物としていたのである。『何者か』というと『諸県君牛です。年老いて宮仕えができなくなりましたが、朝廷を忘れることができず、
    私の娘の髪長媛を奉ります』と言ったので、天皇は喜んで娘を宮仕えさせられた。
  • 日本書紀には幽宮を淡路の洲に構り、と御鎮座の起源を明かにしている、即ち日本最古のお社

    『古事記』では、「その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」とあり、突然に琵琶湖の多賀大社付近に幽れたように出るのだが、どうも幽宮は淡路島のことのようだ。岩屋に岩楠神社が鎮座、当社の摂社で、伊弉諾神の幽宮の伝承を持つ。
     当社の本殿下に古墳があり、そこを祭神の幽宮とする伝承がある

    『日本書紀』履中天皇五年、淡路で狩りをした際、供の飼部たちが入れ墨をしたばかりで血なまぐさい臭いを嫌ったこと。
     允恭天皇十四年、明石海峡の真珠を奉納するように島神である伊弉諾神のお告げがあった。阿波の国の男狭磯が深い海に潜って真珠をとったと云う。

  • 日本書紀には髪長姫の類似名と思われる人物が3人登場している。
    ・景行十八年春三月、筑紫国を巡狩する景行帝が大御食(おおみあへ)を行っている 諸県君泉媛を見かける。
    ・応神帝の妃に日向泉長姫がいる。
    ・仁徳帝の妃となった日向髪長姫。
  • こんな説がある。

    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html
    仁徳~武烈は兄弟継承が多く、動乱の時代とする研究も多い。仁徳から雄略の皇后は豪族の娘で、皇系の王女は他権力を滅ぼして奪ったものである。
     『姓氏録』の後裔氏族ゼロの仁徳~武烈は他から盗用か、造作の疑いがある。

     『二中歴』の初めに「善記以前武烈即位」と書き込みがあり、ここから違う武烈紀の姿が見えてくる。仁徳~武烈は動乱の時代であり『書紀』編者は「日本旧記」等を手元に置き、九州王朝史から盗用した王者に、造作の王を加えてこの時代につないでいったと考えられる。畿内の氏族は真実を知って、この時代に先祖を持つ事を避けたのであろう。
  • August 2017 編集されました
    古事記にだけある黒媛の話

    吉備から迎えて妃にした黒媛を、皇后の磐之媛が妬んで“いじめ”るので、黒媛はそれに耐え切れず、とうとう吉備へ逃げ帰ったが、天皇は彼女が恋しく、淡路を経由して吉備へ行き、彼女に逢って帰ったと云うものである。この話が不審なのは、これと全く同じ話が日本書紀の応神紀の中にある点である。応神紀の方は、吉備から迎えた女性の名を兄媛としており、また、吉備へ帰った理由を彼女の望郷の思いのためとしているが、両者の違いはただそれだけで、他は全くの瓜二つである。 
    同工異曲の話が応神紀と仁徳記とに重ねて述べられていると云うことは、本来の経緯は別の所にあり、磐之媛の嫉妬は取って着けたものに過ぎないことを、少なくとも示している。
  • August 2017 編集されました
    磐之媛が激しい拒絶感を抱いた八田皇女は、菟道稚郎子の同母妹である

    稚郎子と大鷦鷯とは皇位を譲り合う。稚郎子は兄である大鷦鷯が皇位を継ぐべきで、これは「弟(てい)」の道だと譲り、大鷦鷯は亡父の決めたことを破るのは「孝」の道に反すると譲り、三年たっても決着はつかなかった。そして、遂に、菟道稚郎子は「孝と弟」との板挟みの苦悩の末に自殺する。論語が「志人仁人は、生を求めて以って仁を害することなく、身を殺して以って仁を成すこと有り」と述べている道に従ったのである。臨終の床に駆けつけた大鷦鷯に稚郎子は、
    「同母妹の八田皇女のことだけが気がかりである。できれば、内廷ででも使って欲しい」
    と云い残した。そして、大鷦鷯はやむを得ず皇位を継いで仁徳天皇となった、と云うものである5)。
     以上が、その間の経緯の概略である。

    http://kntn.biz/hime/ohzin-keiz.GIF
  • 和邇(矢河姫ーウジワキノイラツコ、矢田皇女)と葛城(イワノヒメ)の一族の争いであろう。

    和珥氏は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)を始祖と仰ぐ古代豪族で、もともとの本拠地は奈良盆地の東縁の和爾の地、すなわち現在の天理市和爾、和爾下神社のある一帯である。やがて、本拠地を少し北の春日のあたりに置き春日氏を称する。
     このように、彼らの本拠地は奈良盆地の東北部の山麓の扇状地、すなわち、大和国の添上郡(現在の奈良市の東北部)の範囲であるが、彼らは早くから奈良坂を越えて南山城へ進出し、更に近江にも勢力を広げ、後には全国各地へ氏族を分散させるまでになっていった。
    かれらが最初に山城国へ進出したのは、四世紀の初め頃、崇神天皇の時である。記紀は、当時南山城に勢力を持っていた武埴安彦(たけはにやすひこ)が反逆を企てたので、崇神は伯父にあたる大彦と和珥臣の祖の彦国葺(ひこくにぶく)にこれを討たせ、輪韓河(わからがわ)(現在の木津川)の戦いでこれを誅殺したと述べている。
     これによって、南山城に橋頭堡を築いた和珥氏は、次第にその勢力を山城国に拡大してゆく。
     
    (1)大筒木真若(おおつつきまわか)王の母は和珥臣の祖「姥津(をけつ)」の妹「袁祁都媛(おけつひめ)」である。ここに大筒木は南山城の筒木(現在の綴喜郡)である。
    (2)加邇米雷(かにめいかづち)王はその大筒木真若王の子で、普賢寺谷の最奥の天王の森の山巓にある朱智神社の
    祭神である。加邇米雷の名は蟹幡(かにはた)郷(現在の山城町綺田(かばた))の名を負うものである。
    この南山城には早くから半島からの渡来人が多く住みついており、彼らはこの地で、蚕を飼い、「かにはた」(綺)と呼ばれる、模様を浮かせて織った薄い絹織物を織り出し また、鋳銅によって色々な金属製品を作り出していた。和珥氏はこうした渡来人を配下に収めて、その経済力を強大なものにした。
     
    やがて、南河内から応神が興り、大和の旧王朝に攻め入るに至ると、和珥氏は忽ち新王朝に組し、旧王朝最後の大王である忍熊(おしくま)王を宇治の渡りで破り、更に敗走する忍熊を近江の琵琶湖に追い詰めて入水自殺をさせてしまう。

    この時の和珥氏の族長の名を日本書紀は「和珥臣の祖武振熊(たけふるくま)」(記は建振熊)と記している。和珥氏の近江への進出は恐らくこの時から始まったのであろう。
  •  古墳時代中ごろの5世紀前半、反正(はんぜい)天皇が丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)で即位したと伝えています。大和王権の宮が、河内におかれた初めての出来事です。松原は、この丹比野の一角にあります。

     わが国で最も古い歴史書である『古事記』や『日本書紀』によると、反正は仁徳(にんとく)天皇の第3皇子で、兄履中(りちゅう)のあと、18代天皇となりました。この丹比柴籬宮が上田7丁目の柴籬神社のあたりにあったと伝承されています。同社は、反正天皇などを祭神としています。

     柴籬神社の南門に、「反正天皇柴籬宮址 昭和十九年一月 大阪府建立」の立派な石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられています。

     『古事記』の反正天皇の段には「水歯別命(みずはわけのみこと)(反正)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐(いま)しまして、天(あめ)の下治めたまひき。此の天皇、御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。…天皇の御年、陸拾歳(むそち)ぞ。御陵は毛受野(もずの)に在り」と記されています。
  • 淡路に難読地名が多いのは理由があるのだろうか。

    平安時代に編纂(へんさん)された「和名抄(わみょうしょう)」には当時の「国、郡、郷」の名称が記載されている。淡路国には津名郡に「津名、志筑、賀茂、平安(あえか)(安乎)、物部、広田、都志、育波、来馬(久留麻)、郡家」の10郷、三原郡には「倭文、幡多、養宜(やぎ)、榎列、神稲(くましろ)(神代)、阿万、賀集(かしお)」の7郷(カッコ内は現代の地名)が記されている。
  • 兵庫県南あわじ市賀集(かしゅう)岡ノ前

    淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年-765年)の淡路陵(あわじのみささぎ)。

     淳仁天皇は40代天武天皇(622年頃-686年)の孫で、父は天武天皇の第7子舎人親王(とねりしんのう、676年-735年)。
     淳仁天皇は758年に即位する前は大炊王(おおいおう)と呼ばれ、藤原仲麻呂(706年-764年、恵美押勝)の長男・真従(まより)の未亡人・粟田諸姉を妃とした。

    淳仁天皇は藤原仲麻呂と関係が深かった。

     760年に太師(太政大臣)となった藤原仲麻呂は、764年に孝謙上皇(46代孝謙天皇、718年-770年、女帝)に叛乱を起こし、失敗して殺害される。藤原仲麻呂と関係が深かった淳仁天皇は、孝謙上皇により皇位を追われ、廃帝となって母親の当麻山背(たいまのやましろ)と数人のお供だけで淡路島に配流された。

     孝謙上皇は重祚して皇位に復帰し、48代称徳天皇となって弓削道鏡(700年-772年)と共に政治を行った。
     淳仁天皇は765年に淡路島で崩御、暗殺されたか。
  • 08/30編集されました
    竪穴式住居跡の半数から鉄器を制作した鍛冶炉などが出土した徳島県加茂宮の前遺跡。

     弥生時代の鍛冶炉は、徳島県内では、矢野遺跡(徳島市)名東遺跡(徳島市)光勝院寺内遺跡(鳴門市)に次いで4か所めの発見である。淡路島には1世紀から2世紀頃の鉄器生産工房跡の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡がある。五斗長垣内遺跡では発見された23棟のうちの12棟が鍛冶工房であり、最大の建物(写真右)は直径10.5mもあり、床面には複数の炉跡が発見された。

    五斗長垣内遺跡の説明板には、国内最大級の鍛冶工房遺跡と書かれている。加茂宮ノ前遺跡も、20棟のうちの半数が鍛冶工房建物であり最大のものは7mと、五斗長垣内遺跡にひけを取らない規模である。さらに、五斗長垣内遺跡より100年ほど遡ると推定される。
     弥生時代後期前半の1世紀から2世紀にかけては、57年の光武帝の倭奴国王への印綬、107年の倭国王帥升の朝貢など、積極的に大陸との関係を築こうとしていた様子がみられる。その後、国内では中国の歴史書に倭国大乱と記された戦乱の時代へと突入していく。鉄器はその戦いを左右する重要なアイテムとなった。

     加茂宮ノ前遺跡のある加茂谷は山間部といった印象を受けるが、弥生時代の海岸線は、現在よりもかなり内陸部にあったと考えられ、鉄器の材料は、加茂宮ノ前遺跡のある地点までは那賀川を遡って運ばれたと考えられる。この鉄器工房を掌握していた集団は、紀元前1世紀という時代にいち早く鉄器を導入し、周辺地域に大きな影響を与えたに違いない。「加茂」という地名から妄想を展開すると、鉄器という当時最先端の道具で大きな力を得た一族は、阿波から紀伊半島に渡り、紀ノ川を遡ってヤマトへ進出し、葛城地方で鴨一族として勢力をふるったのではないだろうか。鴨一族と葛城一族は同族と考えられている。葛城一族が阿波からヤマトへ進出したことは、阿波鳴門、和歌山、奈良大和と点在する葛城の地名がそれを示している。葛城氏は、同族であるのちの紀氏とともに、紀ノ川ルートの交易を独占し、ヤマト王権での基盤を固めていった。雄略天皇は、その交易ルートを手に入れるために、葛城氏を攻めたという説もある。
  • 記紀の記述や地名などに基づく「最古の官道は竹内街道」との定説に対し、近年の発掘成果を受けて見直すべきだとの論議が巻き起こっているためだ。

    見直し論者を代表する一人は柏原市立歴史資料館の安村俊史館長。安村さんは、このルート上で7世紀半ばより古い東西南北の道路遺構や寺院などが見当たらない点を挙げ、「竹内街道の整備は7世紀半ば」と主張する。

    では推古朝の大道はどこか。安村さんは四天王寺から南東に進み、大和川の沿岸を通って生駒山地を越え、斑鳩へ抜けるルートを想定する。大和川は古来、奈良への水運に利用されていたことに加え「沿線に7世紀前半、斑鳩寺(法隆寺)や渋川廃寺など次々と寺院が建立されている」ことなどが手掛かりだ。さらに聖徳太子ゆかりの地を結ぶことから「ルート設定は聖徳太子の意向では」と推察する。

    これに対し「論拠が不十分」など反論もあるが、「最新資料による再検討が必要」との認識は研究者に共通する。
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