新撰姓氏録、神別、地祇 、綿津見、宗形、海部、八重事代主

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image新撰姓氏録、神別、地祇 、綿津見、宗形、海部、八重事代主

本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている 筆頭にあ…

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コメント

  • 綿津見神社 (釜石市) - 岩手県釜石市鎮座
    綿津見神社 (相馬郡) - 福島県相馬郡飯舘村鎮座
    綿津見神社 (宇和島) - 愛媛県宇和島市津島町鎮座
    綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
    綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
    綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
    綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
    綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座
    綿積神社 - 福岡県糸島郡志摩町鎮座
    大綿津見神社 - 新潟県佐渡市小木鎮座
    吉田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区吉田鎮座
    新田綿都美神社 - 福岡県北九州市小倉南区新田鎮座
    手鎌綿積神社 - 福岡県大牟田市恵比須町鎮座


    海神社 (函館市) - 函館市栄町鎮座
    海神社 (紀の川市) - 和歌山県紀の川市鎮座
    海神社 (神戸市) - 兵庫県神戸市垂水区鎮座
    海神社 (豊岡市) - 兵庫県豊岡市鎮座
    海神社 (西ノ島町) - 島根県隠岐郡西ノ島町鎮座
    海神社 (壱岐市) - 長崎県壱岐市石田鎮座
    海神神社 - 長崎県対馬市峰町鎮座
    海津見神社 - 高知県高知市浦戸鎮座
    海津美神社 - 静岡県伊東市東松原鎮座
    海積神社 (函館市) - 北海道函館市古武井町鎮座
    海積神社 (岡崎市) - 愛知県岡崎市鎮座
    海積神社 (葛城市) - 奈良県葛城市太田鎮座
    七重浜海津見神社 - 北海道北斗市七重浜鎮座


    海童神社 (佐賀市) - 佐賀県佐賀市川副町鎮座
    海童神社 (新上五島町) - 長崎県新上五島町鎮座
    大海神社 - 大阪市住吉区鎮座
    大海祇神社 - 宮城県石巻市鮎川浜金華山鎮座


    少童神社 (岡山市)- 岡山県岡山市東区浦間鎮座
    少童神社 (福岡市)- 福岡県福岡市早良区鎮座


    和多都見神社 - 長崎県対馬市豊玉鎮座
    和多津美神社 (壱岐市) - 長崎県壱岐市郷ノ浦鎮座
    和多津美神社 (豊玉町) - 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮鎮座
    和多都美御子神社 - 長崎県対馬市豊玉町仁位字桜町鎮座
    和多都美神社 (峰町) - 長崎県対馬市峰町佐賀鎮座
    和多都美神社 (平戸市) - 長崎県平戸市辻町鎮座
    和立海神社 - 山口県防府市西浦鎮座
    王子和多津美神社 - 徳島県徳島市国府鎮座
    乙和多都美神社 - 長崎県対馬市厳原鎮座
  • 宗像郡は、出雲国意宇郡とともに、最初に郡司の三 等以上親の連任を認められたのであるが、これは、宗 像氏による地域支配が強固に行われていたことを前提 とした措置と考えられるであろう。中央政府(王権)の 側にとっては、そのような特別な措置をとることによ り、それぞれの奉斎する神(それはいずれも王権にとっ て特別重要な神である)に対する敬意を表すという 意味もあったのであろう。
  • May 2016 編集されました
    宗像氏についていえば、ウヂ名はいうまでもなく「ム ナカタ(」胸肩・胸形・胸方・宗形・宗像などと表記さ れる)であり、カバネは初め君であったが、その本宗 は、天武天皇13年(684)に朝臣を賜った。系譜につい ては、『新撰姓氏録』右京神別下の宗形朝臣条に「大神 朝臣同祖。吾田片隅命之後也」、同河内国神別の宗形 君条に「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とみえる

    吾田片隅命は、『記『』紀』 にはみえない神名であるが、同じ『新撰姓氏録』の大和 国神別和仁古条に「大国主六世孫阿太賀田須命之後也」 とある「阿太賀田須命」と同神であり、阿太賀田須命は、
    『先代旧事本紀』地祇本紀に「阿田賀田須命。和邇君等 祖」とみえる
    このように、吾田片隅命は、『新撰姓氏 録』や『先代旧事本紀』の段階(平安前期)においては、 複数のウヂの祖とされているが、本来は、宗像氏が独 自に称えていた祖であった可能性も否定できない。し かしそうであったとしても、その吾田片隅命がいつ王 権のもとに形成された系譜体系に組み込まれた(位置 づけられた)かは、不明とせざるを得ない。
    また、宗像氏と同祖とされる大神朝臣(大三輪君・ 神君)は、『記』(崇神天皇段)のオホタタネコ(意富多多 泥古)伝承記事の分注に、「此意富多多泥古命者、神君、 鴨君之祖」とみえ、『紀』のオホタタネコ(大田田根子) 伝承記事においても、「大田田根子、今三輪君等之始 祖也」(崇神天皇8年12月乙卯条)と記されている。こ こに宗像氏の名はみえないのであり、宗像氏が大三輪 氏と同祖関係に位置づけられた時期も不明である
  • May 2016 編集されました
    8世紀に おいて、宗像郡大領による宗形神主兼帯が通例であっ たことは、次の延暦19年(800)12月4日の太政官符(『類 聚三代格』巻7)にも明らかである。
    応レ停三筑前国宗像郡大領兼二帯宗像神主一事 右得二大宰府解一偁、当郡大領補任之日、例兼二神 主一即叙二五位一。而今准二去延暦十七年三月十六日 勅一、譜第之選永従二停廃一、擢二用才能一、具有二條 目一。大領兼神主外従五位下宗像朝臣池作十七年 二月廿四日卒去。自レ爾以来頻闕二供祭一。歴二試才 能一未レ得二其人一。又案二神祇官去延暦七年二月廿 二日符一偁、自今以後簡下択彼氏之中潔清廉貞、堪二 祭事一者上、補二任神主一、限以二六年一相替者。然則 神主之任既有二其限一、仮使有四才堪三理レ郡兼二帯神
    主一、居二終身之職一兼二六年之任一、事不二穏便一。 謹請二官裁一者。右大臣宣偁、奉レ勅、郡司神主職 掌各別、莫レ令三郡司兼二帯神主一。
    これによれば、延暦7年2月22日の神祇官符により 宗像神主の6年任期制が定められたため、終身の職で ある大領がそれを兼帯することは禁止となったという のである。なお、『類聚国史』巻19神祇「神宮司」には、
    「桓武天皇延暦十七年正月乙巳。勅、掃レ社敬レ神、銷レ 禍致レ福。今聞、神宮司等、一任終身、侮黷不敬、祟 咎屡臻。宜下天下諸国神宮司、神主、神長等、択二氏中 清慎者一補レ之、六年相替上」とみえ、延暦7年に宗像神 主に対してとられた措置は、10年後の延暦17年には、 全国の神宮司・神主らを対象に拡大されたことが知ら れる

    延暦17年には、出雲国造が意宇郡大領を兼帯することも禁 じら れ て お り、延 暦17年3月29日 の 太 政 官 符
    (『類聚三代格』巻7)に次のようにある。 応レ任二出雲国意宇郡大領一事
    右被二大納言従三位神王宣一偁、奉レ勅、昔者国造 郡領職員有レ別、各守二其任一不二敢違越一。慶雲三 年以来、令三国造帯二郡領一、寄二言神事一動廃二公務一。 雖三則有二闕怠一、而不レ加二刑罰一。乃有二私門日益一 不レ利二公家一、民之父母還為二巨蠧一。自今以後、 宜下改二旧例一国造郡領分レ職任上レ之。
    ま た、延 暦17年10月11日 の 太 政 官 符(『類 聚 三 代 格』 巻1)には、次のようにみえる。
    禁下出雲国造託二神事一多娶二百姓女子一為上レ妾事 右被二右大臣宣一偁、奉レ勅、今聞、承前国造兼二帯 神主一、新任之日即棄二嫡妻一、仍多娶二百姓女子一 号為二神宮采女一、便娶為レ妾、莫レ知二限極一。此是 妄託二神事一、遂扇二淫風一。神道益レ世豈其然乎。 自レ今以後不レ得二更然一。若娶レ妾供二神事一不レ得レ 已者、宜レ令三国司注レ名密封卜二定一女一、不レ得二 多点一。如違二此制一随レ事科処。筑前国宗像神主准レ 此。
    これによれば、出雲国造の就任の際に行われていた 儀礼を「淫風」として禁ずる(制限する)とともに、宗像 神主もこれに准ずるとされている
  •  『新撰姓氏録』については佐伯有清氏の研究(『新撰姓氏録の研究』)が著名だが、本会関西例会(本年十月)において、三宅利喜男氏より画期的な研究報告がなされた(本号に掲載、「『新撰姓氏録』の証言」)。氏は『姓氏録』の皇別 において、歴代天皇を祖先とする氏族の数を天皇別に集計され、その結果、仁徳から武烈の十代の天皇を祖先とする氏族が皆無であることを示された。従来、いわゆる「倭の五王」に比定されてきた天皇を含む十代の天皇が祖先として「敬遠」されている史料事実の重要姓を指摘されたのである。そして、その理由として、『日本書紀』に記されたこれら十代の天皇は『日本書紀』編纂時の盗作か造作であり、実在しなかったため、このことを知っていた畿内の氏族はこれらの天皇を祖先としなかった、というものだ。
  • 『新撰姓氏録』は、延暦十八年(七九九)十二月、各氏族に「本系帳」の提出を命じた勅にもとづいて提出された諸氏族の本系帳を整理編纂したものとされている(『日本後紀』延暦十八年十二月条)。従って、七九四年の平安京遷都直後から編纂事業が開始されたことになる。
  • 吉備 赤穂市 宗形神社
    仁徳天皇が饗応を受けた、山方の名を持つ山方村は、吉井川上流の岡山県赤磐郡にあった村。
    また、饗応を受けた場所を、赤磐市是里にある宗形神社とする伝承もある


    岡山県赤磐市是里3235
    創立年代を詳らかにすることはできないが、神 社明細書(昭和二十七年)には「當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請にして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國 海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝 を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”や まかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬ しくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸 人擧て山方の大宮と稱する所以なり。當時、帝より宗形神 社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今 に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、 備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同九年検地の節、 本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治 四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四 位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。現今の社殿 は貞享四年八月廿八日著手、仝五年五月十六日落成(棟 札)の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當 時の國主池田綱政公より再建費として玄米拾石下賜せられ たり。往古、氏子は七十五ヶ村ありて、其區域西南は本郡 高月村大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。 故を以て古今古式祭には社家(當家)より神酒七十九樽・神 饌七十五膳・神餅七十五臺(河見社(當)より各四十、山方 社(當)より各三十五)、甘酒貳瓶を献供す。これ往古より の舊例にして年々欽行し、舊式を廢することなし。明治十 四年六月十五日郷社に、同年十二月二十二日縣肚に昇格せ らる。」と記してゐる。
  • 賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)
    建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命 ー 飯肩巣見命 ー 建甕尻命 ー 豊御気主ー大御気主ー建賀田須命(兄に阿田賀田須命)ー大田田根子命

     三輪高宮家系譜に言代主が二代続いている。他の系図との比較によりこの系譜だけが1世多い。また、大国主命と都美波八重事代主命が共に大物主の別名を持っている。

    建速素盞嗚命、紀伊国熊野大神、八束水臣津野命

    大国主、和魂大物主、荒魂大国主、葦原醜男命、八千矛神
    母は奇稲田姫

    都美波八重事代主命 、又 名 猿田彦、大物主神
    母は神屋楯比売命 、大和国宇奈堤坐事代主神、、摂津国矢部郡長田大神

    天事代主籖入彦命 、 又名 事代主神 、玉櫛彦命
    母は三島溝咋耳命女玉櫛姫、大和国添上郡率川阿波神

    奇日方天日方命、一名武日方、櫛御方命、阿多都久志尼命
    母は大陶祇命女活玉依姫

    比売蹈鞴五十鈴媛と五十鈴依媛と奇日方天日方命は、同母兄弟


    三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』には、
    大陶祇命とあり、娘の活玉依比売命は 天事代籤入彦命(事代主神)の妃で、天日方奇日方命の母。
  • May 2016 編集されました
    オオゲツヒメの死体からは、頭から蚕が生れ、両目から稲種が生れ、
    両耳から粟が生れ、鼻から小豆が生れ、陰部から麦が生れ、尻から大豆が生
    れました。
    神産巣日御祖神はこれを取り、五穀の種にしたのです。

    カミムスヒは『出雲国風土記』では「神魂命」として登場し、「カモスの神」とも呼ばれます。『出雲国風土記』でのカミムスヒには御子神が、男神3柱、女神4柱の、合わせて7柱いる。
    この4柱の女神のうち
    真玉著玉邑日女命(マタマツクタマノムラヒメノミコト)
    綾戸日女命(アヤトヒメノミコト)
    にオオナモチが妻問しています。
    あとの2柱の女神ですが、ともに、嶋根郡に項に登場します。
    加賀の郷(有名な加賀の潜戸があるところです)の項に支佐加比売命(キサカヒメノミコト)、法吉(ほうき)の郷の項に宇武加比売命(ウムカヒメノミコト)の神話が記されています。
    この2柱の女神は、『古事記』の中で、八十神に殺されたオオナムチを生き返らせたサキガイヒメとウムギヒメと同神と考えられています。

    加賀の郷。佐太の大神の生まれしところなり。御祖神魂命の御子キサカヒメノミコト、 「暗い岩屋だな」と、のたまい、金弓をもちて射給う時に、光り輝きき。ゆえに加加(加賀)という。

    と、あり、話の前後から「御祖神魂命」とは、「神産巣日御祖神」の意味ではなく「佐太の大神の母神は、神魂命の御子キサカヒメノミコトである」という意味だと思われ、そうしますと、出雲の四大神の一柱佐太大神はカミムスヒの
    孫ということになります。
  • 比那神社   島根県出雲市姫原町394  
    当社は出雲風土記(七三三年)及び延喜式に所載の 古社にして御祭神は比那鳥命。別名を 武夷鳥命、武日照命とも申し日本書紀に明らかなり 即ち 天照大神の御子天之穂日命を父神として天孫降臨に先立ち この出雲国に降りて 大国主命に対し国土奉献の使者の任務を平和裡に遂行された軍使の神で後、此処比那原の地に宮造りし鎮座し給う 。   案内板より

    飯石神社  飯石郡三刀屋町大字多久和1065
     出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、出雲国風土記に飯石郡の条に「飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。」また「郡家の正東12里なり。伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故伊毘志と云ふ。」(神亀3年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐石が御神体となっているので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態をそのままの姿で現在に伝えている。又、この地を命の降臨の聖地として、古来注連縄を用いないのも特殊の習慣である。明治44年8月の遷宮工事の際、御霊代の本殿磐石のかたわら境内の字迫から、古墳時代の祭祀用遺品とみられる高坏、壷などの須恵器類が出土した。御祭神伊毘志都幣命は天照大神の第二の御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、国譲りに際して三穂之崎に事代主神を尋ね国土奉還の大業を成就された神であるとされている。その時に使用された船を熊野諸手船という。伊毘志都幣命は、出雲国造家の祖神にあたるため、古来正遷座祭には出雲国造御参向のうえ、奉幣を奉られる習わしであったが、近年(昭和42年以降)に至り、例祭にも国造御参向が慣習となっている。
                 <平成祭データ>
  • 『倭成す、大物主』を祭る主となった大田田根子は勿論、事代主命直系の後裔ですから磯城氏とも極近い関係にあったはずです。
  • June 2016 編集されました
    賀茂建角身命の妻、伊可古夜日女(いかこやひめ)。
    姫は、丹波国神野の国神。
    賀茂建角身命に嫁ぎ、玉依比古命(賀茂県主となる)、玉依比売命の二子を生む。
    祀る神社
    賀茂御祖神社 境内 三井社 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
    賀茂御祖神社 参道 河合神社 境内 三井社 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
    賀茂神社 福井県福井市加茂町7-1
    宮川神社 京都府亀岡市宮前町字宮川神尾山2
  • 神門臣家からの分家だった宗像ムナカタ家・和邇ワニ氏

    国常立(クナト)大神−八島篠−布葉之文字巧為−八束水臣津野−吾田片隅アタカタスミ(阿多とも書き、=木花之佐久夜毘売が有名、邇邇芸(崇神天皇=物部印恵)の后)−多紀理姫タキリヒメ・多岐津姫タキツヒメ・市杵島姫イツキシマヒメ(宗像3女神。)

    はてさて?
    ※多紀理姫は、向家の天之冬衣の后(八重波津身=事代主神の母神。)で、多岐津姫は、八千矛(大穴持・大国主神)の后で、市杵島姫が、饒速日(物部始祖)の后。
  • 根の堅州国

    執拗な八十神(ヤソガミ)たちの追撃を退け、何とか根の堅州国へと逃げ込んだ大己貴神(オホナムチ)は、素戔男尊(スサノヲ)の家にまで来ます。そうです。スサノヲは、根の堅州国の王となっていたのです。以前より母恋しさに、根の堅州国へ行く事を所望し続けたスサノヲですが、初志貫徹、願い叶って、根の堅州国へとやって来ていたようです。そこで、スサノヲは、無事、母神である伊邪那美神に会うことが出来たのかどうかは分かりませんが、巡り巡って、スサノヲの6代末裔にあたるオホナムチが、このスサノヲの元に訪れたのでした。

    そして、そこで、オホナムチは、スサノヲの娘である須勢理毘売命(スセリビメ)と出会います。両神は、見つめ合うやいなや心が通じ合い、スセリビメは、オホナムチに一目惚れをしてしまいます。そして、スセリビメは、スサノヲに、「とても立派な神が現れました」といって、紹介をし、オホナムチのことを、「まさに、葦原色許男神(アシハラシコヲ)、つまり、日本の屈強な男だ」と称えました。
  • 宗像氏の祖、吾田片隅命

    吾田について。
     「古事記」では、
    ・邇邇芸命が笠沙御前で「神阿多都比賣」(別名 木花佐久夜毘賣)を娶る。
     「書紀」正文では、
    ・「鹿葦津姫」(別名 神吾田津姫 あるいは、木花開耶姫)を娶る。
     一書第五では、
    ・「吾田鹿葦津姫」を娶る。

    阿多と吾田は「アタ」の音に当てた文字であり、同一の地名、

    吾田片隅の片隅とは
    カタスミと読むべきか、カタスと読むべきか。
    「姓氏録」は二通りの表記をしている。
    ・和仁古
      大國主六世孫阿太賀田須命之後也
    ・宗形君
      大國主命六世孫吾田片隅命之後也

     このことからカタスと読むべきもののようにも思われる。

    大神神社摂社の神坐日向神社(みわにますひむかい神社)の祭神の一に、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)が祀られていて、カタスミの神名もあり難しいところだ

    1.かたす‐くに【堅州国】-日本国語大辞典
    〔名〕(片隅の国の意)地下の遠い隅にあって、現世と容易に交通することができないと考えられた、観念上の国。根之堅州国(ねのかたすくに)。
  • 武甕槌について『古事記』と『先代旧事本紀』に興味深い系図が載っている。『先代旧事本紀』に素戔烏尊―大己貴神―都味歯八重事代主神―天日方奇方命―健飯勝命―健甕尻命亦名健甕槌命という系図が記されており、『古事記』にも意富多多泥古の祖先として大物主神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命とある。
    経津主・武甕槌両神は天太玉命の孫又は曾孫とする説もあるらしい
    http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb2ktr.htm
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