摂津三島、高槻市の古代

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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淀川北岸に展開する三島古墳群は、邪馬台国時代の安満宮山古墳、三島の王墓・岡本山古墳や闘鶏山古墳、そして史跡今城…

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  • 長尾神社(葛城)

    延喜式神名帳に「葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗」と載る古社です
    三代実録に、「貞観元年己卯(875)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、今から千百年前には、この地にあったようです
     社伝によると、寛平9年(897)より弘安4年(1281)ま での間に九階進昇しています
     弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで進みました

    竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝に鎮座しています

    祭神;水光姫命、白雲別命 摂社;厳嶋神社(市杵嶋姫命・配祀 天児屋根命)

     祭神の水光姫命は、神武天皇東征の際に川上村井光へ巡幸の時、井戸の中から現れたとされます古事記や日本書紀では、光って尾が生じていたと記されてます
     新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であ り、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている

     社伝では「水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加 尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井の藤の花はそれである」とあります
     嘉吉3年(1443)の王寺町放光寺縁起に「長尾神社は放光寺の鎮守神で・・・。」とあり、長尾神社の名称の由来は、「城上郡(今の桜井市のあたり)の美女を嫁にされた神様があったが、一向 に姿を現されないので、嫁の父が、神様の着物のすそに、長い赤糸を取り付けて、そ の後をつけていった所、長尾宮には入った」といふ話があります
     水光姫命は、豊かな吉野川の水を守られる水神であり、井戸の神様でもあります

     【伝説】
    むかし、大和に大きな蛇が住み、三輪山を三重にとりまき、その尾は長尾までとどいた三輪明神(桜井市)が頭で、長尾神社はその尾にあたると言われている
    また、竜が住んでいたともされ 竜王社(大和高田市)が竜の頭であり、長尾神社は竜の尾にあたるとされている

    例祭;10月4日
    所在地;葛城市長尾471
  • May 2016 編集されました
    伊豆の三嶋神社の御祭神は三島大明神なのですが、この三島明神の本体
    については大山祇(おおやまずみ)神説と事代主(ことしろぬし)神説が昔からあって、結局現在三嶋大社はこの両神を併記しています。



    三宅島の三島大明神

    富賀神社
    祭神は、事代主命(三島大明神)、伊古奈比咩、阿米津和気命となっていました。
    三宅村の案内板によると。
    祭神は、三島大明神=事代主命(ことしろぬしのみこと)、その后の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)、王子の阿米津和気命(あめつわきのみこと)だ、とあります。
    また、伊豆七島の総鎮守で、静岡県三島神社の発祥地だとも書いてあります。
    『三宅記』によると、三島大明神が伊豆の島々を作るときに、丹波の翁と嫗が自分の男の子2人(若宮、剣)と女の子(見目)を共につけたそうです。
    それらが若宮宮、剣宮、見目宮ですね。

    そして壬生は、実はこの神社の宮司なんです。
    宮司の先祖が神として祀られているわけです。http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2012-07-02


    ◆富賀神社と三島大社との関係

    富賀神社は静岡県三島神社の発祥地ということになってましたね。

    宮司の壬生家に伝わる「三島大明神縁起」(通称「三宅記」)に三島明神のことが書かれているそうです。
    そこには、白浜に来た三島明神は伊古奈比咩と夫婦になって白浜に滞在し、7日7夜の間に伊豆に十の島を創って、そこに三島明神の8人の后神と27人の御子神を配置し、しばらく三宅島に住んで後、島々に后神や子神を残して、白浜に帰った、ということになっています。

    三島明神が「白浜に来た」っていうけど、どこから来たのか?
    そのことは後にして、まずは三宅島に来て以後のこと。

    富賀神社宮司の壬生明彦の解説によると、富賀神社から三島神社への経路は、次のようになっています。
    「伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、そのあと、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したという。」
  • この「三島大明神事」に対して三宅島の壬生家に伝わる通称「三宅記」
    別名「三島大明神縁起」という書があります。この書によれば、三島明神は
    薬師如来の申し子として天竺に生まれます。ところが七歳の時に母が亡くな
    ったあと、父の後妻とそりが合わず無実の罪に問われて追放になってしまい
    ます。そして唐・高麗を経て日本に渡ってきて、富士山の神に出会って一緒
    に島を作ろうということになりました。そして七日七夜の間に伊豆に十の島を創成。そこに三島明神の八人の妃神と二十七人の御子神を配置したのだと
    いいます。そして、その国作りの会議をしたのが神津島であるとされています。

    観音菩薩と薬師如来の差はありますが、わりと似た話です。ところがこの三宅記の中で注目すべきなのは、ここに大三島の三島明神が訪問して「あの峰は面白いから私にくれませんか」と言って山をひとつもらう記述があることです。つまり三宅記は伊豆の三島明神と大三島の三島明神は別であるという立場に立っています。

    この三宅記の発見者が萩原正平(1838-1890)です。彼は平田篤胤を信奉して
    おり、その平田篤胤が実は三島明神の事代主神説派でした。
    出典
    http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo28.htm
  • 大山祇神社に残る、古文書には、 701年から大造営は始まり、716年に完成、そして、719年に正遷座と書かれてありますが、 この河野家のものには、 716年には、 遷宮はされたものの、称徳天皇(764)までは、磐境の四周に玉垣だけがあったとされているのです。

    そして、一番興味深いことは、
    716年、宮浦へ遷宮された時、「蓬莱(ほうらい)」・「方丈(ほうじょう)」・「瀛州(えいしゅう)」
    あの、3つ小島が出現された以外に、この時、この不老不死の山が出現し、そこから仙人が現れ、「苗字に (日)という字を加えよ」 とお告げがあったそうなのです。
    ということは、それまでは、 「おち」 は 「越知」 と書き、その下に 「日」の文字を加え 「越智」となったということなのです。
    「日」 とは、 「アマテラス」 の 「日」 という意味かもしれません。
    日本の神をアマテラスにすることと同時に、 名前に 「日」 を付けるよう命じられたということなのでしょうか。
  • May 2016 編集されました
    伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。通称は「白濱神社(白浜神社)」。
    この社名は、平安時代の『延喜式』神名帳に記載されるものである。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、江戸時代の慶長12年(1607年)の鰐口にある「伊古奈比咩命大明神」の銘が知られる。
  • 大倭神社の祭祀氏族は、倭氏ですが、『古事記』では、倭氏の
    祖槗根津日子(サオネツヒコ)は、海上を行く神武天皇の前に、
    亀の背に乗り釣りをしながらやって来た、と記します。
     そして、海上の道の案内をしたので神武天皇からサオネツヒコ
    の名を与えられたと『古事記』は記しますが、『日本書紀』では、
    椎根津彦(シイネツヒコ)と記し、神武天皇から名を与えるまで
    は珍子(ウヅシコ)という名であったとも記しています。

    谷重遠(秦山)の『土佐国式社考』は次の通り

    「伊都多神社 伊豆多坂の西鳴川谷高知山にあり、玉石二枚を以って神体となる。

    里人伝える当社は ふるく坂本川の高知山にあり、ここに何れの代に徒すか知らず、重遠請う、高知の字姑らく里人の語 に従う、河内と相近し、正説いまだ知らず、渡会氏いわく伊豆国伊古奈比■命神社、出雲国飯石神社、 出雲国風土記にいう、飯石郷伊毘志郡幣命天降り座す、けだし稲霊大御食都姫命、万物の始め人これ 天とする所なり」(原漢文)

    伝説と谷秦山の土佐国式社考によって大体の事情を考察することができるが、これらを裏付ける ものとして地名がある。

    坂本川高知山というのは、現在の神益(こうます)の山であろうと考えら れる。

    神益は神座(かみいます)で、すなわち神の鎮座するところという意味である。

    伊豆田神社は、千五百年~二千年ほど前、伊豆の国より加茂族の今の 下の加江地方に移ったと仮定して、そのとき、氏神の伊豆国賀茂郡白浜村(静岡県下田市)鎮座の 式内大社伊古奈比■命神社(いこなひめのみことじんじゃ)を勧請されたものではないかと考えられます。
  • いいしじんじゃ
    飯石神社
    出雲國風土記に、「飯石郷。郡家の正東一十二里なり。伊毘志都弊命(いひしつべのみこと)、天降り坐しし處なり。故、伊鼻志と云ふ。
    神亀三年に、字を飯石と改む。」とあり、当社の社名(祭神名)が、飯石郡の起源になります。
    かつては伊毘志と言われていたが、神亀三年、飯石と改めた土地です。
    飯石神社の境内には、イビシツベノミコトが天降ったとされる磐石が御神体として祀られています。

    御祭神 伊毘志都幣命(イヒシツベノミコト)
    南北に流れる川沿いにある社殿は西向きです。
    本殿はなく、幣殿後方、玉垣内の石を御神体としています。

    式内社・飯石神社に比定されている古社です。

    『神国島根』によると、
    伊毘志都幣命は、天照大神の御子・天穂日命の御子神で、出雲国造家の租にして、出雲伊波比神とも称される神です。

    境内社の託和神社も、出雲国風土記に記載されている社です。
    中野、六重、神代、深野、上山、曽木、川手七ケ村の惣社であったが、明治四十四年十月、境内に遷座されたものです。
  • この三島明神の本体については大山祇(おおやまずみ)神説と事代主(ことしろぬし)神説が昔からあって、結局現在三嶋大社はこの両神を併記しています。

    大山祇神説は神道集(室町時代初期)に収められた「三島大明神事」の記述が有名です。これは、子宝の恵まれない伊予の長者の所に産まれた観音菩薩の申し子がいろいろな経験の後、瀬戸内海大三島の三島明神として顕れ、更にその後、伊豆へ鎮座するまでの物語です。更に古くは鎌倉時代の東関紀行でも大山祇神説が採られています。伴信友もこの「神名帳考」でこの説を採っています。

    さて、この「三島大明神事」に対して三宅島の壬生家に伝わる通称「三宅記」別名「三島大明神縁起」という書があります。この書によれば、三島明神は薬師如来の申し子として天竺に生まれます。ところが七歳の時に母が亡くなったあと、父の後妻とそりが合わず無実の罪に問われて追放になってしまいます。そして唐・高麗を経て日本に渡ってきて、富士山の神に出会って一緒に島を作ろうということになりました。そして七日七夜の間に伊豆に十の島を創成。そこに三島明神の八人の妃神と二十七人の御子神を配置したのだといいます。そして、その国作りの会議をしたのが神津島であるとされています。
  • 闘鶏山(つげやま)古墳は、淀川北岸地域に展開する三島古墳群のなかにあって、極めて良好な状態を保つ古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳です。古墳は奈佐原丘陵先端の尾根筋の標高84mの地点にほぼ南向きに築造されています。闘鶏の名称は、『日本書紀』の仁徳62年の記事にある「闘鶏野氷室」に由来します。いまも古墳のすぐ南側には「闘鶏野神社」が鎮座し、丘陵の裾野には氷室の集落があり、古代のツゲノ遺跡がひろがっています。
     副葬品にみられる三角縁神獣鏡や方格規矩四神鏡は、いずれも中国からもたらされたものとみられ、闘鶏山古墳の被葬者は大和王権と政治的に深いつながりをもちながら、三島を統治していた人物であったと考えられます。
     三島古墳群における首長墓は、邪馬台国時代の安満宮山古墳(3世紀中頃)からはじまり、古墳時代初期の岡本山古墳(3世紀後半)、弁天山古墳(3世紀末~4世紀初頭)へと変転していきます。今回、確認された闘鶏山古墳(4世紀前半)の存在は、王権がその後の弁天山Cl号墳(4世紀中頃~後半)から郡家車塚古墳(4世紀末)へ引き継がれたことを明確にしました。とりわけ蹄鶏山古墳が立地する丘陵は、西方に展開する安威川流域まで見通す位置にあって、あらたな地域支配の拡大とともに、王権そのものの伸長がうかがえます。やがてこの三島の王権は、新池埴輪製作遺跡(5世紀中頃~6世紀中頃)と太田茶臼山古墳(現継体陵・5世紀中頃)の造営に象徴されるように、大和王権との結び付きを一層強固なものとし、今城塚古墳(6世紀前半)の段階では全国統治の頂点に立つという歴史的な展開をみせることになります。
     さらに闘鶏山古墳の完全な遺存状態にある埋葬施設の発見は、前期古墳における葬送儀礼の復元において極めて重要な資料となるものです
  • June 2016 編集されました
    安満宮山古墳(あまみややまこふん)は大阪府高槻市安満御所の町にある高槻市の公園墓地内にある古墳時代初期の遺跡。墓地を拡張するために事前に行った発掘調査によって、下記の貴重な出土品があり、現在「青龍三年の丘」として復元整備され一般に公開されている。

    所在地:大阪府高槻市安満御所の町(高槻市公園墓地内)
    埋葬者:不明
    築造時期:古墳時代前期初頭
    墳 形:長方形墳
    規 模:全長約20m
    埋葬部:構築墓抗(箱形木棺を盛土で積み上げた墓式。)
    出土遺物:
    青銅鏡5面(魏の年号「青龍三年(235年)」銘鏡・三角縁神獣鏡をふくむ)
    ガラス小玉1600個余り
    鉄製品(鉄刀・鉄斧)
    出土品は一括して国の重要文化財に指定されている。

    出土品の中に青龍三年の銘鏡及び三角縁神獣鏡が出土したことから、それらの銅鏡が邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部とする説もある。

    古墳は南北21メートル、東西18メートルの小さな方墳で、埴輪や葺石といった古墳の表面を飾るものはありませんでした。外見からすると、古墳と呼ぶことさえ躊躇するようなつくりです。ところが、ここに5面もの鏡が納められていたのです
    安満宮山古墳の鏡群ですが、青龍三年銘の方格規矩四神鏡(2号鏡)、三角縁神獣鏡(1・3号鏡)、斜縁神獣鏡(4号鏡)、同向式神獣鏡(5号鏡)で構成されています。
    よく知られるように、三角縁神獣鏡は、中国の魏で作ったとする説と、魏の隣国呉の工人が日本に渡来して製作したとする説が対立しています。
    しかし、2号鏡については、魏鏡とすることにほとんど異論がありません。この鏡は、主に後漢代に流行した方格規矩四神鏡を忠実に模倣したものですが、L字や四神の位置が逆転しているという特徴があります。

    青龍三年銘(225年)方格規矩鏡-京丹後市、太田南5号墳出土鏡と同型鏡-2号鏡、1面
    現在その出土跡地は復元整備され「青龍三年の丘」として一般公開されている。この鏡は魏よりもたらされたものと思われ、この古墳は3世紀の後半に築造されたものと考えられるが、土器の出土が少ないために断定できない状態。大田南5号墳が4世紀中葉とされていることから、この鏡の存在意義を巡って論争がいまも続いている。翌平成10年には天理市柳本町の黒塚古墳で33面もの三角縁神獣鏡が出土している。

    現在特に注目されているのは「5号三角縁神獣鏡」でこの鏡は群馬県高崎市の「蟹沢古墳出土鏡-正始元年・240年銘鏡」と内区図像の特徴がきわめて類似しているとされる。これらの鏡が魏より直接もたらされたと断定できないにしても、3世紀の後半代には存在した可能性は高いと思われる。

    この古墳の南には弥生時代の集落・墳墓遺跡である安満遺跡が所在する。またこの地は三島野古墳群の東端に位置し、古墳時代に入ると紫金山古墳、太田茶臼山古墳、今城塚古墳と、日本を代表する古墳が次々と築かれる地域でもある。

    これらの古墳群のうち特に注目されるのは紫金山古墳で、この古墳から出土した鏡のうち、一面は丹波市の中央部に位置する「北野親王塚古墳」と同型(同笵)鏡とされている。

    3世紀の丹波、高崎市との関係は、????
  • June 2016 編集されました
    安滿山麓の遺跡と二つの神社。春日神社の荘園であった関係の神社と言われている。
    安滿遺跡
    住居のまわりに濠をめぐらした環濠集落と用水 路 を そ な え た 水 田 、墓 地 か ら 当 時 の 土 地 利 用 が 明 らかになった貴重な遺跡で、三島地方ではじめて米 作りを行ったムラです。環濠からは多数の弥生土器 とともに、青銅製のやじりや木製の農具、珍しい朱 漆塗りのかんざしなどの装身具も見つかりました
    磐手杜神社

    安満山の南西麓にあり、桧尾川に面してもとは安満神社といいました。
    12世紀頃に春日神社に改めて、タケミカヅチノミコト・フツヌシノミコトなどを祭神とし、明治44年(1911)に現在の社名になりました。春日を冠したのは、当時安満一帯が奈良春日神社の荘園となって、村の鎮守に春日大名神を勧請(かんじょう)したためとみられています。
    建久6年(1195)、後鳥羽天皇がこの地を訪れた当時、社殿は壮大で美しかったが、天正年間に高山氏の兵火によって焼失し、元和8年(1622)になって現在の社殿が建てられたと伝えられています。

    春日神社(かすがじんじゃ)
    大阪府高槻市成合北の町に鎮座する神社。

    祭神 天児屋根命・経津主命・武甕槌命・天照大神

    社伝によれば、岩・日下部の両氏が兵庫浦よりご神体を供奉し、高取山の瑞光石に鎮祭。 その後、神勅によってこの地に遷座。一夜にして忽然と樹木が生じたので不植森という。 宮寺悉檀寺が奉仕し、成合・安満・古曽部の75郷の春日社の本社として大いに栄えた。

    春日神社<かすがじんじゃ>
    神社は檜尾川右岸に鎮座しています。入り口は17号線脇にあり、根巻鳥居を潜って境内に入ると、左右に山車庫が配され、正面石段上に造られた境内奥に寛政4年生まれの浪速狛犬に護られた豪華な唐破風が付いている神殿、右奥に境内社・松倉大明神が建立されています。
    高槻市東天川1
    天児屋根の命を祭神とする。12世紀頃、藤原摂関家が安満庄を領有していたことから、藤原氏の氏神となる。江戸時代の文化・文政期には、壇尻(だんじり)が繰り出しての盛大な祭りが行われ、現在の秋祭りにも伝統は引き継がれている。
    境内社:松倉大明神 

    日吉神社(ひよし) 高槻市萩之庄2-4-1
    本殿  祭神:天津日高彦番能邇々藝命(あまつひだかひこほのににぎ)・天児屋根命(あめのこやね)

    いかにも藤原氏が祀る神々 ばかり
  • 岡本山古墳、弁天山古墳
    南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳です。
    岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を利用してつくられ、後円部径70m、全長120mをはかります。一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳と同じ70mという特徴をもっています。これまでの踏査では、両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、また弁天山古墳では土器片があるものの、埴輪は並べられていないことがわかっています。この事実から、岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と考えられています。
  • 三島の採鉄
    採鉄。上垣外憲一氏は著書「古代日本謎の四世紀」で詳しく述べています。安威川の上流は鉄分を含んだ地。安威川の右岸にある溝昨(みぞくい)神社付近の沼地にたまった沼鉄鉱=イスズを製鉄した。神武天皇の皇后ホトタタライススキヒメは、三島の溝昨耳(ミゾクイミミ)の娘に事代主が通ってい生まれた五十鈴姫であるという。五十鈴姫は茨木市五十鈴町の溝昨神社辺りに住んでいた。神話が投影している史実は神武天皇を崇神天皇(ミマキイリヒコ)と考えれば、淀川の左岸(南)のミマキの地は武埴安彦(タケハニヤス王)から崇神天皇が奪った地。その後「四道将軍」の派遣(各地への進攻)が始まる。崇神天皇の皇后ミマキ姫はミマキの五十鈴姫で、ミマキの五十鈴姫に入り婿となってミマキイリヒコイニエになったと上垣外氏は推測しています。鉄を治めていたから昨耳は運河(溝掘り)を開き淀川の水利を抑えた。
  • 高槻の地名の由来は、2つの説がある。

    『古事記』や『日本書紀』にある神武東征の時に、大和で長髄彦一族に苦しめられた。そこで道臣命と可美真手命を東征軍の長に任じ、征伐に成功したことから天皇は三島の土地を与えた。その軍隊の旗印が月をかたどっていたので、褒美に貰った土地を高月と呼ぶようになったという説。
    山裾には大小500基以上の古墳を有する三島古墳群が拡がり、古代・山陽道(西国街道)が市内中央部を東西に通り、交通の要所として街道沿いに発展し、郡衙や宿場などが作られた。古代・河内湾により高槻付近まで海が迫っていたことから、津之江の地名が残り、筑紫津が作られ、九州へ出発する港が整備されていた。
  • 茨木市、高槻市、摂津市、吹田市、豊中市、そして万博で開発された千里丘陵・・・これら広大な湿地と平野のすべてが三島郡であった。
    ここに順次、多くの氏族が入るのは、ここが陵墓地となる前から墓地だったからだろう。

    宮内庁が継体天皇陵と指定する太田茶臼山古墳と多くの考古学者が継体陵墓と仮定する今城塚古墳はこの砂州から入ったところに並んでいる。
    茶臼山古墳は今城塚古墳より大きさが小さいが、立派な環濠をもった前方後円墳である。こちらは当然、発掘ができない。今城塚古墳は摂津最大の300メートル以上の巨大古墳で、さきの阪神大地震でかなり内部が壊れている。例の阿蘇ピンク石の出た石室も相当破壊されているらしい。もともと盗掘でかなりの遺物が紛失しているのだろう。しかしトレンチの結果、家型埴輪や衣笠などさまざまな埴輪が出た。さらにレントゲン調査では石室が3つあるらしいことも言われている。
    そこで、継体大王とその息子二人の墓で間ちがいなしという方もおられる。
    しかし・・・。

    継体大王は実はあまり大和に受け入れられなかった大王であった。なかなか大和へ入れず、54歳でようやく戴冠し楠葉宮に入るが、そこから筒城宮へ移りようやく大和へ一歩近づいたと思うと、すぐにまた淀川対岸の弟国宮(乙訓、今の長岡京)へあとずさり。
  • 『三島市誌』

    伊豆三島神こそが富士山を中心とする山祇の祖であって、伊豫三島神なり摂津三島神なりは伊豆のそれから分祀されたものか、いずれ伊豆より後に成立したものであるという部分があるというが?

    何故平田篤胤の事代主神説が紛れ込み、それが現在の祭神にも併記されているのでしょうか。

    同市誌によると、『東関紀行』や『源平盛衰記』などの記述が、伊豆の大山祇命が伊豫大三島から遷祀を受けたるがごとき錯覚を与え、史上の眼を覆った、とのことで、明治四年に官幣大社に列せられた後、元韮山県神社調査係の萩原正平が「二十二社本縁」説を提唱し、祭神八重積羽事代主命たるべきを教務省に上願し、受理されたようです。

     その後、大正時代に至って再び祭神考究の議が起ったため、内務省神社局も旧来の大山祇命説を容認せざるを得なくなり、第二次大戦後の昭和二十二年、大山祇命説を支持する伊豆三嶋大社の矢田部盛枝宮司が旧祭神大山祇命を以て現祭神事代主神と二座主神の祭祀を営みたき旨の伺書を宮内省および神社庁に提出したようです。もとより異議のあるはずのない当局はそれを許可した、という顛末があったようです。

    平田篤胤ら江戸時代の国学者による事代主説が正当な座まで浮上したのは伊豫神人の僭称を払拭せんがための萩原先覚の崇高なる祭祀精神の賜物であったようなのですが、、、、

    「三嶋」は、一般に伊豆諸島を指す「御島(みしま)」に由来するといいますが、山人による自然崇拝を主張する『三島市誌』はその海島的な由来は「採るに足らない妄説」として、富士山を中心に山神大山祇を祀る旧相模の三つの州(さと)、すなわち、
    「安思我良(あしがら)」、「珠流河(するが)」、「賀茂(かも)」
    なり、
    「伊豆」、「相模」、「駿河」、の「三州(みしま)」
    こそが正しいとしております。

    当然ながら、事代主神に縁のある摂津国の三島ないし三島氏に由来するものであるはずはなく、それらに結びつけようとするのは江戸時代以降の事代主神説を唱える者のこじつけとも言われます。

     『三島市誌』が挙げた三つの州(さと)の内には「賀茂」という地名もありますが、賀茂も事代主神と密接な言霊です。
    他でもない『延喜式神名帳』には伊豆国“賀茂郡”の三島神とあるのであり、平田篤胤の事代主神説のはるか以前の延喜年間(901~923)には既に賀茂という地名があったわけです。

    また、楽寿園内に鎮座する式内論社の広瀬神社と同名の大和盆地の廣瀬大社は、いうなれば畿内における事代主神信仰の地盤ともいうべき葛城の勢力圏に鎮座する名神大社です。
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