伊勢神宮、斎王

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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豊鍬入姫(とよすきいりひめ) 父: 崇神天皇 母: 遠津年魚眼妙媛 垂仁天皇の異母姉妹で、垂仁天皇とともに皇位…

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コメント

  • 猿田彦

    この神社は、伊勢神宮の摂社でも所管社でもありませんが、全国に二千もあるといわれる猿田彦大神を祀る神社の総本社といわれます。(三重県鈴鹿市の椿大神社が、総本社という説もある。Wikipedia「猿田彦神社」参照。)下記の由緒書にもあるように、全国の佐田神社、千勝(ちかつ)神社、白髭(しらひげ)神社は、このサルタヒコを祀る神社です。サルタヒコは、もともと「国つ神」(土着の神)である。


    猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
    猿田彦大神(さるたひこのおおみかみ)
    (境内社 佐瑠女神社 → 祭神:天宇受売命(あめのうずめのみこと)
    猿田彦大神は天孫降臨の時、天八街(あめのやちまた)に待ち迎えて、啓行(みちひらき)をされ、天孫を高千穂へと導かれてから、天宇受売命に送られて、伊勢の五十鈴の川上に来られ、ここを中心に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大神宮がこの地に鎮座されたのは天上からの幽契(ちかい)によると古書に伝えられております。

    垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が神宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、猿田彦大神の御裔の太田命(おおたのみこと)がお迎えして、大神以来守護して来た五十鈴の川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げました。大神と太田命との子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と云い以来長く玉串大内人と云う特殊な職承に任ぜられて代々奉仕してきました。

    御神徳高い大神は佐田神社、千勝大神、白髭神社、道祖神、さいの神、庚申さま等々として津々浦々にお祀りされますが、日本書紀にも伝えられている通り、大神本拠の地であり大神の末孫宇治土公家の累代奉祀する最も特色ある本社であります。

    境内社 佐瑠女神社

    俳優(わざおき)、神楽、技芸、鎮魂(たましずめ)の祖神と仰がれる、天宇受売命を奉祀。天照大御神が天岩窟(あめのいわや)に籠られ世の中が乱れたとき、天宇受売命がその前で神楽をされ、そこに集った八百萬(やおよろず)の神々が喜び笑い、天照大御神再び現れて平和な世になったと伝えられています。

    また天孫降臨に際して待ち迎えた猿田彦大神と最初に対面し、高千穂の峰に至る道を開かれ、その後本拠の地に赴かれる大神と共に伊勢に来られ、その功により「媛女君(さるめのきみ)」と称号を受けられました。

    ※参拝者用「猿田彦神社 御神徳略記」より
  • May 2016 編集されました

    倭姫命世記によれば宇治土公家こそサルタヒコの直系の子孫とされ、当社が内宮の近くにあることや、サルタヒコを祀る各地の神社で、椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから当社がサルタヒコを祀る神社の総本社とする見方も強い。

    サルタヒコに関して、二見浦に二見興玉神社がある。伊勢神宮の内宮域、内宮の御垣内に鎮座する興玉神があり、鈴鹿市には伊勢国一宮とされる都波岐神社、椿大神社があり、いずれもサルタヒコを祀る重要な神社であって、周辺一帯に展開している。
  • 宇治土公家は天津神を家の神として代々祭祀している。
    先頭で榊を持って、伊勢神宮の参拝の先導をしているのも、宇治土公神主である。伊勢神宮は朝廷によって、色々な立場に付いた神主が居ても、この参拝は変わらない。
    そして、神社本庁の長老であった。

    実は伊勢神宮の「猿田彦神社」は、宇治土公家に多くある高天原の神々と共に、屋敷内に祭祀されてきた神である。そして、数代前に創建された神社である。
    http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/bloghimk_kabuk/2009/09/nhknhk-9e07.html
  • 猿田彦大神の子孫である大田命(おおたのみこと)は、自分が治めていた地を譲り、そこに内宮が作られました。猿田彦神社には「猿田彦大神」とともに「大田命」も祭られています。

    倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。
     同時に邸内では御先祖である猿田彦大神をお祀りし、門前には全国から訪れる参拝希望者やお供えが絶えることはありませんでした。
  • 瀧川によれば、磯部を名乗る宇治土公(うぢどこ)が安曇族の猿田彦神を祖神とするに至ったのは、漁業の元祖としてこれを邸内の一隅に祀ったことに創まると考えられるという。


    宇治土公の姓の由来は臨川書店の神道大辞典には「『神宮典略』に大内人は古くより宇治の土地の神なる大土神社を祭れるより、やがて姓氏となりたるべし」とある。
    心の御柱を造立する役目は玉串大内人である、この一族のものだ

    太田亮の姓氏家系大辞典によると、『伊勢二所皇大神宮御鎮座傅記』に「猿田彦大神は宇治土公氏人遠祖の神也」 『皇大神宮儀式帳』には、「宇治土公の遠祖大田命」とあり、『倭姫命世記』には「猿田彦神の裔は宇治土公の祖大田命参り相ひき」とある。

    また、『大神宮諸雑事記』に「宇治土公遠祖大田命は當地の土神也。然して玉串大内人となる。」

    太田亮は神代記紀の天孫降臨の条にみえる有名な猿田彦神は「宇治の地の領主にして、天孫を迎へ奉ると云ふは、その裔と傅へらるる宇治土公大田命が斯く大神を迎へ奉りし事實を神話化せしにあらずやと考へらるべし」と結論付けている。
  • April 2016 編集されました
    志摩の国は職原抄に高橋氏が内膳守とあって、平安時代中期以降は天皇御膳を造る内膳司の長官は阿倍氏系譜の高橋氏が世襲した。しかし、奈良時代は伊勢国多気郡の有力者である外正五位下の敢磯部忍国(あえのいそべおしくに)を志摩守に任じたことが続紀、神護景雲2年2月癸巳条に見える。

    敢磯部忍国は敢臣(あえのおみ)なる姓を賜っているがアヘは饗(あへ)で、神前に供える調膳のことであり、敢磯部という姓は、これらの職を世職としたところから生じた氏姓である。

     忍国は太神宮に奉仕していた神人であり、敢磯部はまた、神磯部とも云ったのではないかとした。神磯部の姓は、続紀、天平勝宝三年正月戊戌条に 神磯部国麻呂外正五位下 とある。

     瀧川は伊勢の磯部は垂仁天皇の御代以来、伊勢神宮に奉仕する贄人であり、それは大変な勢力のあったものだというのである。大田亮が、「磯部は蓋(けだ)し海部と東西相対せしが如し。即ち海部漁民は安曇氏之を率い、本邦西部に多く、此れは専ら東部に活動せり。・・・後略」と述べていることから、西の安曇氏は安曇隼人族とでもいう種族であり、東の磯部氏とは、もともとは出自が違っていたが、伊勢神郡に住む磯部は贄を貢進するなかで安曇族と同化しつつ猿田彦神を取り込んで、ついに自らの祖神としたものとするのである。
    出典
    http://fujisakipr.blog136.fc2.com/blog-entry-296.html
  • 伊賀の敢國神社の略史
    当神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。

    創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。

    敢國神社の略史又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。

    又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。

    創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比咩命(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。敢國神社の略史

    その南宮山の金山比咩命が、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。

    ある日突然金山比咩命の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比咩命の遷座合祀が執り行われました。こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。

    少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。
  • 皇祖皇太神宮は
    神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

    この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。
  • 河内の高安
    天照大神高座神社は、古い記録には春日戸神社(かすかべ神社)と記されているので、
    元はこの名で呼ばれていたとみられます。春日戸というからには、祭祀氏族は春日戸村主(かすかべのすぐり)です。このことは、 南禅寺蔵の『大智度論』には河内国高安郡春日部村主広田という人名が登場することからもうかがえます。

    この春日戸村主が渡来系氏族だといわれていることです。

    社伝によれば、天照大神高座神社の祭神は、雄略天皇の時代に伊勢から当地に遷座したといいます。これと同じように、天照大神高座神社の祭神は伊勢津彦神で伊勢から高安に遷座したと
    伝えるものもあるようです。伊勢津彦は、「伊勢国風土記逸文」に、神武天皇より派遣された天日別命(アメノヒワケノミコト)の前に降伏し、伊勢から信濃へと遷っていった、とあります。
    それが社伝では雄略天皇の時代となっているのは、『日本書紀』に、雄略天皇十八年に、
    物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討たせた、とする
    記事があるためでしょう
    なお、この記事では、朝日郎が官軍と戦った場所を、伊賀の青墓と記します。ここにも青が
    登場します。
  • May 2016 編集されました
    日本書紀』の「安閑紀」には春日部采女

    「雄略紀」伝承
     栲幡姫皇女の伝承とは、湯人(ゆえ)の廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)が栲幡皇女を孕ませました、という虚偽の讒言があったため、自信にも禍が及ぶのを恐れた武彦の父廬城部連枳莒喩(いおきべのむらじきこゆ)に武彦は殺され、栲幡姫皇女も五十鈴川の川上で自害した、というものです。

    「安閑紀」にも
    廬城部連枳莒喩が登場する

    こちらの方は、枳莒喩の娘、幡媛(はたひめ)が、首飾りを安閑天皇の皇后、春日山田皇女に献上した首飾りが、実は幡媛が物部大連尾輿(もののべおおむらじおこし)から盗んだ物であることが露見し、枳莒喩は幡媛を采女として皇后に差し出した、これが春日部采女である、
    という伝承です。

    采女として献上された幡媛が春日部采女と呼ばれたのは、皇后の名、春日山田皇女から来たものでしょうが、ただ、この皇女の名も南河内に存在した石川郡山田村に関わるとする説があります。

    尾張国、つまり現在の愛知県には春部郡(かすかべ郡)が存在しました。春郡は後に春日井郡(かすがい郡)と改め、春日井郡が消滅した今日でも春日井市といったように名残をとどめています。

    河内国には春日戸村主の他に春井連(春日井連)がおり、後漢光武帝七世の孫、慎近王の子孫を称していたので、やはり渡来系の氏族です。

    『新撰姓氏録』には、山城国の氏族に春日部主寸の名が見えます。
    主寸とは「すぐり」と読み、つまりは村主のことです。ただ、この春日部主寸は『新撰姓氏録』には、津速魂命(ツハヤヒノミコト)の曾孫、大田諸命(オオタモロノミコト)の子孫とあります。
  • May 2016 編集されました
    葛城円とは、葛城の王であった。滅亡の悲劇

    履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

    稚足姫皇女(別名、栲幡姫皇女は雄略天皇と葛城韓媛の間に生まれた。母を同じくする弟に白髪皇子がいる。

    母・韓媛が死の床にある時、父・雄略は母の手を握り締めて約束した。「白髪を皇太子にする」と。その時、母はうっすらと微笑い、それを見た父は母の最期が安らかであろうことを確信したようだった。しかし、母は後で吐息のようにつぶやいた。
    「結局、あの方は何もわかってくださらなかったわ…。」
     韓媛の実家の葛城氏は、韓媛が入内する直前に、雄略その人によって滅ぼされた。韓媛を除く一族すべてが、あの美しい秋の夕焼けの中に焼亡したのだ。その時の胸の痛みはいつまでたっても消えなかった。折にふれるごとに思うのは、吾子たちにだけは自分のような苦しい想いをさせたくはないということだった。ことにも白髪皇子は白髪という異形で生まれてきた。静かな安らげる生活を…韓媛が心に掛けた子供たちの行く末はそのようなものだったのに、雄略は彼女の心を少しも理解していなかったのだ。
     白髪皇子は皇太子に立ち、稚足姫皇女は伊勢の斎王に立った。人に超越した立場にあって、どうして母・韓媛の望んだような平凡な生活が送れるはずがあろうか…
    以下をご参考に
    http://www.xiangs.com/Saigu/Kodai/saiou05.shtml
  • 毎年7月初旬、対岸の愛知県田原市(旧渥美町)から「お糸船(おいとぶね)」と呼ばれる一隻の船が伊勢湾を渡ってきます。
    神宮に奉献する絹糸を積み、奉献団の方々が乗った船です。

    そうです、年に二度、春秋に衣がえをなさる神様のために絹糸をつむぐのは、遠い昔から渥美をはじめ東三河の人々のならわしでした。

    これを受けて神宮は、機殿(はたどの)で和妙(にぎたえ)に織って神前に捧げるのです。
    さて、今年も今日4日お糸さんが奉献に来られます。』
  • 倭姫命世記』には佐美津彦・佐美津姫という対偶の形であらわれ、相参りて御塩浜御塩山を奉ったと記される。おそらく両者は夫婦であろう。名前につけられる「佐見(佐美)」とは地名で、「伊勢国二見浦なる大夫の松と云ふ大樹の生たる山が佐見の山にて今猶彼の山の麓に流るる小川を佐見河といふ」といい(『万葉集古義』)、また、「二見の浦に、佐美明神として古き神まします」(坂士仏の著といわれる『大神宮参詣記』)とも記される。佐見都日女は、皇大神宮の摂社で、二見町大字江村に鎮座する堅田神社の祭神でもある。
     宇治土公氏の一族磯部氏は、前掲の磯町一帯に居住していたとみられるが、その一族が居た志摩国答志郡伊雑郷の磯部邑(いま三重県志摩郡〔現志摩市〕磯部町一帯)には、皇大神宮別宮伊雑宮やその付属社としての佐美長神社がある。佐美長神社については、出口延経の『神名帳考証』は延喜式神名帳に掲げる粟島坐神乎多乃御子神社に比定していた。粟島神とは、少彦名神を指すことから、「佐美」がこの神に関係深い語であることが推される。また、因幡国巨濃郡の式内社に佐弥乃兵主神社(鳥取県岩美郡岩美町太田、もと佐弥屋敷という地に鎮座)があげられ、鳥取市街地の東北方十キロほどに位置している。この鎮座地は因幡国造(海神族系統で日下部同族)の領域に含まれていて、その一族が奉斎した神社と考えられる。
     以上の事情から、佐美都日女とは宇治土公の祖・大田命の近親であることは確かで、おそらく、その夫とみられる佐美津彦は大田命その人ではなかったろうか。
     宇治土公氏とは、伊勢神宮の宇治大内人(内宮大内人の上首で、祢宜に次ぐ重職であり、玉串大内人ともいう)を歴代世襲した家柄であり、遠祖の大田命が垂仁朝に玉串大内人として奉仕したと伝えられる(『大神宮諸雑事記』)。伊勢市街地南の浦田町千歳には猿田彦神社があり、もと宇治土公家の邸内に祀られていたのを明治に公認されて社殿を造営したものである。その東北ニキロほどの五十鈴川の北岸、楠部の地には大土御祖(おおつちみおや)神社があり、皇大神宮の摂社で宇治土公氏が奉斎した。『神道大辞典』では宇治土公(ウジトコー)を苗字のように扱い、元磯部姓であったが、後一条天皇の頃より宇治土公と称したと記すが、疑問がある。おそらく磯部(石部)姓の本宗が宇治土公という姓氏を称し、姓の公も含めて、そのまま苗字としたものではなかろうか。二見郷の二見氏は、宇治土公姓にして大田命の後裔と称す(「皇大神宮権祢宜家筋書」)といわれる。
     宇治土公氏の具体的な起源については、海神族系統の大和の磯城県主・三輪君の一族に出自しており、崇神朝の大田田根子の大叔父の久斯気主命について、伊勢ノ宇治土公・石辺公・狛人野等の祖と記される系図がある
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