銅鐸

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image銅鐸

鐸の舞 種まきや収穫の祭器として使われたものと考える。 魏志東夷伝 馬韓 常以五月下種訖、祭鬼神、群聚歌舞、飲…

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コメント

  • 出雲の勢力

    ・荒神谷・賀茂岩倉遺跡から発見された青銅器の同氾の青銅器が、

     京都・奈良・和歌山・岡山・兵庫・徳島・福井・岐阜から発見される。

    ・九州北部で多く出土する広形銅矛や近畿・東海で多く出土する銅鐸は出土ていない。

    ・弥生後期、四隅突出型墳丘墓が出現。

     この型の古墳は、丹後を除く、山陰、北陸の日本海側だけに作られる。

    ・大型のものは、出雲西部の西谷古墳群と出雲東部の塩津山古墳群

    ・西谷墳丘群3号(わが国屈指の規模)からは、吉備・北陸産の土器が出土。

    ・弥生後期になると時期を追うごとに山陰系土器が山陽側に広がり、

     後期には広島・岡山南部を除く地域まで到達する。

    ・弥生後期以降の出雲の鉄器は大陸産の鉄器と共通点があり、

     出土量は瀬戸内・近畿地方を凌駕する。
  • 唐古・鍵遺跡に銅鐸片や鋳型の出土があり、この銅鐸片と出雲の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸は、成分が極めて類似するという。物部氏族の根拠地域たる天理市石上町からも、突線鈕式の銅鐸二個が出た。出雲では、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から銅鐸の大量出土(両遺跡で合計四五個)があり、物部氏祖先が出雲に居た場合の居住地とみられる島根半島でも、佐太神社近隣から銅鐸二個の出土があった。銅鐸の関係氏族としては、尾張氏族の伊福部連をあげる説もあるが、これは局限的のように思われる。銅鐸は、総じて海神族系統の祭祀に関係したものであり、これと連合的に政治活動した物部氏などの天孫族系鍛冶部族も製作に関与したものではなかろうか。
     銅鐸絡みで越前国丹生郡にはもう一つ注目すべき古社がある。それは、丹生郡から分かれた今立郡にあり、須波阿須疑神社という名であり、その論社(今立郡池田町稲荷に鎮座)の祭神のなかに大野手比売命があげられ、当地開発の祖神とされることである。この「野手」〔ヌデ〕が鐸すなわち銅鐸の意とみられる。もともと大野手比売は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の神で島内でも祀られているが、なぜか越前でも祀られる。
  • 大野手比売と大鐸

    小豆島の大鐸

    古事記の国産みで「次に小豆嶋(あづきしま)を産む。またの名は大野手比売といふ」
    現在よく言われているのは「大野手比売の名が変化し大鐸という地名として残った」という

    元々「大鐸姫」ではないだろうか。

    古事記の顕宗天皇記に「鐸」は「奴弓(ヌテ)」と言い、紐を引いて鳴らし合図に用いたと書かれている。古事記には銅鐸に関することは一切書かれていないのだが、合図に使われた「鐸(ヌテ)」とは銅鐸のことではないだろうか?また、それを使ったのが天皇であるということも興味深い。
    こう考えると「大鐸(オオヌデ)」とは「大きな銅鐸」という意味で、「大野手比売」は、巨大な銅鐸を所有する権力を持った女性ということになる。
    昭和4年に安田の三五郎池西側で採石中に、石の下から銅鐸が出土した。3年後には同所から銅剣が、更に昭和45年には土器と共に銅剣の破片が見つかっていて極ヶ谷牛飼場遺跡と呼ばれている。
  • September 2016 編集されました
    菱環鈕式銅鐸の分布
    菱環鈕式の分布

    菱環鈕式の出土例は極めて少なく、出土地不明鐸を含めて全部で7鐸しかありません。内訳は、1式が3鐸(淡路島洲本、荒神谷、出土地不明)、2式が4鐸です。

    数が少ないので、分布についてどうこうはいえませんが、外縁付鈕式・扁平鈕式という、いわゆる“聞く銅鐸”の分布範囲とほぼ重なりそうではあります。畿内からは1例も出土していません。銅鐸出土数2位と3位の阿波・紀伊からも出土していません。銅鐸祭祀がまだ伝播していない、と見るべきでしょうか。また、淡路島からも出土しています。淡路島は、突線鈕1式まで、“聞く銅鐸”はそれなりの数が出土します。

    2004年には、濃尾平野の朝日遺跡で菱環鈕1式とみられる銅鐸鋳型片が朝日式の土器とともに出土しました(現地説明会報告)。出土の状況から考えて、個人的には銅鐸の鋳造開始年代についてはこれでほぼ決着したとみています。また、搬入品であるかどうかの検討がまだ残されているとはいえ、この鋳型片は、近畿中央部以外でもごく初期から銅鐸を鋳造していた可能性を強く示唆しています。


    外縁付鈕式

    外縁付鈕銅鐸の分布
    外縁付鈕式の分布
    外縁付鈕式は爆発的といっていいくらい数がふえ、134鐸が出土しています。この内、1式が63鐸、2式が57鐸で、細別不明他が14鐸あります。

    分布は山陰と畿内(摂津・河内・大和)に集中しているのが目立ちます。扁平鈕式と似ていますが、吉備、南安房、南紀にはまだあまり多く入っていません。濃尾以東の東海地区は扁平鈕式も含めて、出土はしていますが数はさほど多くありません。南紀、南安房は扁平鈕式以降、ある程度の数の銅鐸を出土しますから、この二つの地区では銅鐸祭祀は外縁付鈕の頃にはまだ行われていなかったと見ていいのではないでしょうか。吉備も同様でいいと思います。播磨はなぜか出土数がゼロです。この理由はよくわかりません。瀬戸内最西端にある愛媛県の1鐸は伝伊予国出土なので、実際にここで出土したかどうかは若干疑問の余地があります。淡路からは5鐸出土しています。
  • 古文献神代期の条で「鐸」について触れているのは『古語拾遺』齋部広成著、807年と『先代旧事本紀』。後者は前者を参考にしている可能性があります。 日神の石窟幽居の段に、「天目一箇神をして鉄の鐸(古語に佐那伎という)を作らしむ。」とあります
  • 参考:
    http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/05/2-6d59.html
    小銅鐸
    50件には到りませんが、33件の資料が集りました。
     静岡、千葉、福岡が、断然多いです。この3つの県には、共通のものがあるはずです。

     小銅鐸一覧のページから「戻る」をクリックして頂きますと、まだ、完成していませんが、大きな銅鐸の一覧表を掲載しています。 大きな銅鐸は、全部で500個近くあるそうです。現在、136個ですから、まだ、利用できませんが、静岡、千葉、福岡には一致しません。
     と云うことは、小銅鐸と普通の銅鐸は、別のものだと考える必要があるように思います。
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