総国=麻国、阿波と安房、忌部氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 関東
image総国=麻国、阿波と安房、忌部氏

『古語拾遺』によれば よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされ…

Read the full story here


タグ付けされた:

コメント

  • 忌部氏と麻

    忌部氏は天皇交代の儀式、古い天皇から新しい天皇に霊力を移す儀式を行うために、代々の天皇の大嘗祭に麻の織物を献上している。

    この麻織物(アラタエ)と蛇は関係があるといわれている。蛇は脱皮し、新しい生を得る。この脱皮のイメージが麻織物(アラタエ)には込められているのではないか?という説である。

    天村雲神社の背景には高越山があるが、高越山は昔、木綿麻山(ゆうまやま)と呼ばれていた。木綿は楮や梶のことで、神への至上の手向けとなる御幣をつくる楮・梶(木綿)がとれる山だったのだろう。楮の原名は「カカソ」であり、梶の原名は「カガヂ」である。古代日本においてカカは蛇を表す言葉であった。つまり蛇麻(カカソ)という意味である。禊祓を行う道具である御幣は脱皮し新しい生を得る蛇の皮の代用品なのかもしれない。
  • 天村雲神社 (山川町流)

    徳島県吉野川市(旧山川町)にある。
    JR山瀬駅の南東500mの流に鎮座。

    忌部山へ向かう車道から、少し南へ入った場所にあり、境内入口は西側、境内は南向きなので、横から入る。道は西側と北側にあり、周囲は民家と田圃。当社の北側は、雨宮という字だが、当社に由来するものだろう。

    境内入口の鳥居脇に、
    「式内小祀 忌部神社摂社 牟羅久毛神社」と記された社号標。拝殿と後方に、小さな本殿が附属している構造だ。

    創祀年代は不詳。由緒も不詳。

    忌部山にある忌部神社の境外摂社であり、
    式内社・天村雲神伊自波夜比賣神社二座の論社の一つ。

    祭神は、神名帳にも二座とあるように、天村雲命と伊自波夜比賣命。
    志賀剛によると、天村雲命は雨神、伊自波夜比賣命は出水神。
  •  『延喜式』に載る、トヨタマビメの名を冠した神社は、阿波の名方郡に和多津美豊玉比売神社と天石門別豊玉比売神社の2社がありますが、天石門別は忌部氏に関わる神名ですから、天石門別豊玉比売神社は忌部氏が祭祀する神社であったと考えられます。

    『延喜式』には、阿波国麻植郡の条に、忌部神社と天村雲神衣自波夜比売神社を載せています。
     忌部神社の祭神は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)で、天村雲神衣自波夜比売神社の祭神は天村雲神(アメノムラクモの神)と伊自波夜比売(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)とされていますが、アメノムラクモは、阿波忌部氏の祖アメノヒワシの父神ですが、同じアメノムラクモの御子神に、伊勢の度会神主の祖天日別命(アメノヒワケノミコト)でもあります。

     また、伊勢国造もアメノヒワシを始祖としていました。

     アメノヒワシとアメノヒワケは、その名前が酷似していることから同神とさる研究者もいますが、『先代旧辞本紀』では、アメノムラクモをホアカリの孫とし、尾張氏の祖オキツヨソの父神としているので、阿波忌部氏は尾張氏や度会神主と同族ということになります。
  •  阿波の忌部氏の本貫は阿波国麻植郡忌部郷ですが、伊勢の忌部氏の本貫は伊勢国員部郡(いんべ郡)で、信濃の伊那郡も、忌部からきたものと思われます。伊那郡には伊那部(いなべ)という地名もあります(現在の伊那市伊那部)。
     信濃の伊那郡の大領は、諏訪大社の下社大祝の金刺氏で、金刺氏は信濃国造でもありました。伊勢の船木氏も金刺氏と同族でした。

    このことは、『古事記』に、神武天皇の皇子神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の子孫たちを、
    神八井耳命は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑
    紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、
    道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、
    島田臣等の始祖。
    と、記していることで、これによれば太安万侶の太氏(意富臣)とも同族で
    した。
  • 伊勢麻積と倭氏


     8月に、
    倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサヂハラマクワシヒメ)と、
    穂積臣の祖大水口宿禰(オオミクチノスクネ)と、
    伊勢麻績君(イセノオミの君)の3人が共に同じ夢を見て、天皇に、 

    「昨夜夢の中にひとりの貴人が現れまして、『オオタタネコノミコトをし
    て大物主大神を祀らせ、イチシノナガオチをして倭大国魂神を祀らせれば必
    ず天下は治まる』と申しました」 

    と、報告をした。と、あり、伊勢麻績君が関わっていたことを記しています。

    しかも、イチシノナガオチは、『日本書紀』の中で、倭氏の祖と記されていますが、『日本三代実録』には、

    「阿波国名方郡人従八位上海直豊宗。外少初位下海直千常等同族七人賜姓大和連」

    とあり、倭氏の一族も阿波の名方郡にいた、となっているのです。
  • 『古語拾遺』によれば、神武東征において橿原宮を造営した天富命が、より豊かな土地を求めて阿波の忌部氏を従え黒潮にのってこの地に移り住み、阿波忌部の居住地は阿波と名付けられたという。
    『高橋氏文』は、景行天皇東国巡狩の折、磐鹿六雁命が膳大伴部を賜わり、子孫を上総国・淡国(安房国)の長と定めたとする。また、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務天皇の御世に天穂日命の8世孫の彌都侶岐命の孫の大伴直大瀧を国造に定められたとされる。名称については『古語拾遺』の阿波の忌部の居住地に因むとの説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門に因むとする説もある。

    例えば、『日本書紀』に記載されていることは単なる伝承ではないとする立場から、神社伝承からの考証なども加えるべきとする崎元正教は、安房神社をはじめとする複数の神社にまたがる天富命に関する伝承がそれぞれ矛盾なく説明できることをあげ、その信憑性を評価し景行天皇東国巡狩については、神社伝承などの考証から、伊勢を経由し尾張から海路により房総に至ったとするなど、当地は黒潮と黒潮反流を利用した水上交通によって、律令制以前から、畿内など西国とのつながりが深かったとされている。尚、現在の徳島県や和歌山県と南房総に共通の地名が多いのは良く知られていることである。
  • May 2017 編集されました
     畑地域は豊房地区の奥、南房総市千倉町と白浜町に接する山間部に位置します。平家の落人伝説もある静かな集落ですが、平成22年4月に広域農道安房グリーンラインが開通し、光ケーブルのサービスの提供などのインフラ整備が進んでいます

    小田ノ台{おだのだい}エリア

    報恩碑 ※個人の墓地です。許可が必要です。

     畑地区開拓の歴史を伝える碑。古老から聞いた話では、今から1000年以上前に、新悟、萬悟、平作、野庄の4人がこの地を拓いた。野庄が石井家の先祖である。生れは遠く阿波国造{あわくにのみやつこ}大伴直{おおとものあたい}大瀧孫麻美知氏。明治29年(1896年)に石井金治が元長尾藩士で漢学者の恩田城山に撰文を、熊澤直見(旧長尾藩出身の書家)に篆額{てんがく}(題字)や文字を、俵光石に彫りを頼んで建立したとある。

    安房国からは安房国一ノ宮安房神社の社家忌部氏の一族が勢力を振るい、神余(かなまり)氏・安西氏・東条氏などが分出します。

    徳島の石井町
    古墳時代
     古墳時代の文化は厚葬思想にもとづく大形古墳の出現によって代表される時代であるように、その文化の特徴や変遷も古墳の調査や研究によって確認される場合が多い。石井町には弥生時代にひきつづく前期古墳として内谷古墳・利包古墳、清成古墳がある。古墳には副葬品が多く築造にも時代・地域毎に若干の差異をもっていた。東から石井町の古墳を拾ってみると内谷古墳群・日枝古墳群・ひびき岩古墳群・尼寺古墳群・白島古墳群・利包古墳群・高良山古墳群・前山古墳群・東王寺古墳群・清成古墳群・曽我氏神社古墳群があり、いずれも20mから50mの尾根や山腹の見晴らしのよい処につくられており、生活の場は弥生時代からつづく低地であったと考える。稲作栽培技術は伝来以来次第に向上し、それを耕作するための共同体は血族集団から、地域集団となって水利権の確保や耕作管理のために近隣の集団を統合、吸収を繰り返しつつ次第に統治区域を広め、4世紀初頭には首長墓として古墳を築造することができるまでに経済力も統率力も強大になり、大和政権に吸収されるまでそれぞれ獨自の文化圏を持ち自治を行っていた。文化圏は川筋を中心として統一される場合が多かったと考えられている。水利権を確保する関係から生じたものであろう。石井町の東部は飯尾川下流と鮎喰川下流の接触点でもあり尼寺地区の古墳は鮎喰川に面し、他の古墳は飯尾川に面している。石井の文化圏を考えてみると、古墳時代の後期には飯尾川の上流に阿波忌部が代表する麻植文化圏があり、古墳時代の鮎喰川上流には遺跡は発見されていないが、神山町下分の左右山と東寺で銅剣が発見されており、それ以後も獨自の鮎喰川文化圏があったと考えられている。当時の人々は食糧として稲作の他に丘陵地や山間部では縄文時代からつづく焼畑農業を行っていた。生産様式の違いにもとづいて獨自の文化が成立したのではないかと考える。稲作を生産の主体としない社会では、共同作業の必要も少なく、権益の争奪もなく、階級制度が成立するのも遅かった。それが鮎喰川上流(神山町)に古墳を多く見ない原因であろう。石井町の文化は稲作文化圏である。したがって古墳を築造する文化であり、童学寺トンネルの西南方標高200mの山上にある神山町の長谷古墳も石井文化圏に属していたと考えてよいのではあるまいか。石井町の古墳は主として町の東半部に片寄り、気延山を中心として展開しているように見える。これは明らかに麻植文化圏ではなく、気延山を軸として石井・国府にひろがる穀倉地帯を掌握する気延山文化圏があったと考える。それは古墳の築造の上にも微妙な変化を見せている。前期の古墳があるのも麻植には見られない石井の特徴である。『徳島県博物館紀要第9集』第三章「後期古墳の地域性について」によれば吉野川流域の後期古墳をABCの3つに分類し、それを要約すると
  • May 2017 編集されました
    石井町諏訪には式内社阿波國名方郡 多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社が鎮座しております

    大粟神社が鎮座するのは名西郡。本来は阿波国 名東郡・名西郡の二郡は、一つの名方郡(なかたのこおり)であり、名方とは「建御 “名方” 命」という神名から取られたとてもありがたい地名であります。

    「阿府志」によれば高志国造の阿閇氏が名方郡諏訪に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った。
    社殿には信濃諏訪郡南方刀美神社(現 諏訪大社)は、奈良時代の宝亀10年(779年)、当社から移遷されたものだと伝承されている。つまり元諏訪なのである。


    大宜都比売命(大粟姫尊)を祭祀していた阿部氏は阿閇氏に繋がり、阿閇氏は建御名方神も祭祀していた伝承が残されているのです。

    諏訪大社の神紋「穀(かじ)の木」については、阿波剣山地に自生し、その皮は「大嘗祭」に際し「阿波」から貢進される「木綿(ゆう)」の原料になっていること、長野県では穀の木は育ちにくい木であるということで、こちらも阿波国より移遷された伝承を後押しする事例でございます。
    云々...
  • 阿府志に曰く…

    名西郡上浦村(浦方ト云)家有 当家元祖成務天皇朝 高志国造 阿閇臣祖屋主思命三世孫 市命 高志国造定賜 此地ノ郷名也。家始リ二千年ニ及フ「阿閇」ハ「阿部」也。今ハ「阿部」「阿倍」「安部」等同姓也。

    を見れば、同族として考えてまず問題はないでしょうね。
  • 伊勢の語源

    伊勢津彦は、『伊勢国風土記』逸文内に記述される国津神で風の神である。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、頑な断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って伊勢国としたと記述される。逸文の一説では別の地名由来が記述されている。

    逸文内一説の記述によれば、出雲の神(大国主命)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦」であり、またの名を「櫛玉命」というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。
    それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(キ)を造っていたが、
    阿倍志彦(アヘシヒコ)の神(『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神=アヘノクニツカミと見られる)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、それに(石城=イシキ、またはイワキの音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。(一部Wikipediaより引用)
  • 千葉氏と妙見信仰

    北辰妙見は北極星の神である。
    同時に宇宙創成をなした男女和合・生殖をつかさどるともされた。

    これは妙見の乗り物である玄武神獣が亀と蛇という生殖と関係する生き物の合体した姿であることにも表れています。しかしあまりの流行振りに風紀の乱れを懸念した朝廷は、北辰祭を延暦15(796)年に禁止してしまいます。
    妙見信仰も一旦は廃れました。
    これがふたたび息を吹き返したのは、桓武天皇の子孫であり、千葉氏第一代の祖・平良文によるとされます。桓武天皇の庶子・葛原親王の孫である高望王(たかもちおう)が平姓を賜って上総介として昌泰元年(898)東国に下り、息子等とともに上総、下総、常陸一帯を治めるようになります。延長元年(923)、高望とともに関東に下らなかった五男、良文が下総に下りました。「千葉伝考記」によれば、良文が後の千葉氏の第一代となります。やがて兄である常陸大掾国香、上総の良正らと、良文・甥の将門の不和が勃発、国香と結んだ源家をふくめての一族同士との戦いに突入していきます。後にこれは朝廷を震え上がらせた平将門の乱(天慶の乱)へと発展していくのですが、それ以前の戦いで、窮地に陥った良文を助けたのが、童子に姿を変えた北斗七星妙見菩薩であった、と伝えられます。
    以来良文は妙見菩薩を信仰し、もともとこの地にあった八幡神とも習合して、 武士団・千葉一族の守護神となっていきました。
  • October 2018 編集されました
    下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)、千葉県南房総市にある神社。

    同名社が旧白浜町と旧千倉町に2社ある。いずれも*天日鷲命を主祭神とし、式内社「安房国朝夷郡 下立松原神社」の後裔社を称している。長らく論争となっていたが、結局どちらにも決め手がなく、そのままとなっている。
    どちらの社伝でも、天富命とともに安房に渡り当地を開拓した天日鷲命の孫の由布津主命が、神武天皇元年に天日鷲命を祀ったのに始まると伝えている。

    南房総市白浜町の下立松原神社は、天日鷲命・天太玉命・天富命・伊弉諾命・伊弉册命を主祭神とし、阿八別彦命・須佐之男命を配祀する。
    南房総市千倉町の下立松原神社は、天日鷲命・木花開耶姫命・月夜見命を主祭神とする。

    一方で、阿波(徳島)の伝承では、

    斎主命は由布津主命、そして阿波和気比古命(あわわけひこ)でしたね。「阿波を分けたもうた男神」の意味です。阿波から安房をわけた功績者として称えた御名なのです。

    阿波国の斎主命こと由布津主命、天富命が安房に行き来して天日鷲命を祭祀していたという。
    通説である天富命が安房から阿波に来たのではなく、友内山一帯を拠点として阿波から安房へ広がっていったという。

    「端山郷土史編纂要項」なる古書の「児宮神社本暦」の記載には、
    「家賀道上に鎮座している児宮神社。祭神は「斎主命(いわいぬしのみこと)」という。天照皇大神、天児屋根命、猿田彦大神、武雷槌命、斎主命が祭神ともされています。これは「児宮五社大明神」の祭神を指しています。本来斎主命だけの祭祀であった児宮神社である。」

    児宮神社の北側にある西福寺の境内には神明大神宮なる祠が存在していました。祭神は天照皇大神、天児屋根命、猿田彦大神、武雷槌命の四柱。これら祠を含めて西福寺は火災に遭い、児宮一座 斎主命に神明大神宮の四座を合祀して現在の五座祭神に至るという。

    「伝わるところ斎主命は津咋見命(大麻彦命)、后比女(?)を父母に持つ天日鷲命の正統直系です。父母二神は木綿麻山に、斎主命自身は山を降りて宮殿を造ったとされ、宮殿を造営するにあたり下調べした場所を見定、宮殿の造営地は宮久保という地名が残されています。また斎主命は宮殿の近くに忌部太祖 天太玉命を祭祀した千田神社(千陀)を作り、忌部氏の繁栄を願うことも忘れませんでした。」

    ちなみに斎主命は一般的には経津主命(ふつぬしのみこと)と同神とされている神です。

    忌部氏が吉良の御所平に移ったとき旧跡となった木綿麻山(友内山)に天日鷲命を祭祀しました。それが友内神社の前身となります。そして忌部 津咋見命(大麻彦命)と天富命が東国の総ノ国に至り、阿波忌部族が四郡を置き阿波を改め安房としたとあります。こちらの旧跡ともいえる場所が現在の安房神社です。(安房神社は千葉県館山市大神にある神社。安房国一宮で天太玉命を主祭神とする神社である。)

    この古書には
    安房国安房郡滝口村 松原神社神主 高山上総介忌部宿禰義陳系図(写)が記録されております。

    天日鷲命(あめのひわしのみこと)
    后神言筥女命(いいちめのみこと)

    大麻比古命 別名:津咋見命(つくいみのみこと)、溝杭耳命(みぞくいみみのみこと)

    天白羽鳥命(あめのしらはとりのみこと) 別名:長白羽命(ながしらはのみこと)

    天羽雷槌命(あめのはいかづちのみこと)別名:武羽槌命(あけはづちのみこと)

    千鹿江比賣命(ちかえひめのみこと)別名:今云 千見大明神 是ナリ
  • October 2018 編集されました
    春日(かすが)神社
    鎮座地 徳島県美馬市脇町拝原2599

    御祭神 天児屋根(あめのこやね)命 武甕槌(たけみかづち)命 斎主(いわいぬし)命 比売大神

    当社の斎主命とは、経津主神(ふつぬしのかみ)の別名である。
    神産みにおいて、伊邪那岐(イザナギ)命が、伊邪那美(イザナミ)命の死因となった迦具土(カグツチ)神の首を切り落とした際、十束剣(とつかのつるぎ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱が武甕槌命である。

    その十束剣を、天之尾羽張(あめのおはばり)別名、伊都之尾羽張(いつのおはばり)という。「イツ」が阿波の古地名とも

    阿波市に鎮座する日本唯一の式内社「建布都神社」の御祭神は建御雷神(武甕槌命)であり、この地には武甕槌命の父である伊都之尾羽張(いつのおわばり)神と同じく、「尾開(おわばり)」という地名が残っていること。
  • October 2018 編集されました
    阿波の忌部氏の中心地は社地の西南種野山の平地で、南北朝時代には武士として活躍しており、三木氏を称していた。三木はおそらく御調(ミツキ)の意であろう。この三木氏の一部が、吉野川をさらに遡った美馬郡の、貞光川という支流の流域に移った。鎌倉時代の初期の頃と思われ、そこの端山の吉良というところに忌部神社を分祀し、忌部庄の名が生れた。
     ところで、忌部神社の祠官は、代々阿波忌部氏が務めた。忌部氏は上記のように天太玉命の後裔である。『古代氏族系譜集成』などの忌部氏系図によると、天玉太命の玄孫にあたる飯長媛命に斎主と注記され、神魂命の後裔にあたる由布津主命と夫婦となり、その間に堅田主命が生れている。そしてその子孫が、阿波忌部・安房忌部氏とに分かれている。
     阿波忌部玉淵に至って、麻植郡大領となり併せて忌部大祭主を務めるようになった。以後、玉淵の子孫が代々忌部神社の大祭主を務
    めたとある。

    一方、大朝比古神社の祭神は、一説に猿田彦命というが、大麻比古すなわち天富命の父津咋見命の別名という説の方が正しいかと思われる。大麻の名からしてやはり忌部氏奉斎の神社であろう
  • 1 観松彦色止命を私は懿徳天皇(シキツヒコタマテミ)の子
    孝昭天皇(みまつひこかえしね)の兄弟と推測しています。
    日本書紀では母弟(いろど)武石彦奇友背命をのせている
    古事記では多芸志比古命をのせている。
    この人が観松彦色止命だという記述はない。
    武石彦=多芸志比古なのでしょう
    旧事紀では懿徳天皇兄弟に手研彦奇友背命とし、父努別等の祖としている
    古事記では多芸志比古が血沼の別、多遅麻の竹の別、葦井の稲置の祖としている
    2 日本書紀ではミマツヒコの母親は、鴨王の女となっており、
    三嶋溝杭耳の系譜を強く感じます。
    都佐国造のところで長阿比古は、長氏は徳島の那賀、長国造と関係していると思う。
    また土佐は高鴨神社もある。
    3 姓氏録の和泉神別の長公が事代主の後裔となっている
    4 加茂の探求者としては、天韓襲命を鴨系としたいです
    奈良県高市郡波多郡の事代主命の一族の移住地と推測しております
    高知坐神社が祭神事代主です。
    幡多郡内に加茂神社もあります。
    5 阿遅須枳高日子-天八現津彦-観松彦という説もあるらしい
  • 意岐国造
    15応神 島根県隠岐 隠岐国
    観松彦伊呂止命の五世孫
    十揆彦命 観松彦色止命
    不明?

    長国造
    13成務 徳島県那賀 阿波国那賀
    観松彦色止命の九世孫
    韓背足尼

    都佐国造
    13成務 高知県 土佐国
    長阿比古の同祖
    三嶋溝杭命の九世孫
    小立足尼
    古事記
    大物主
    三島溝咋女勢夜陀多良比売
    日本書紀
    事代主
    三嶋溝杭耳女玉櫛媛

    波多国造
    10崇神 高知県幡多 土佐国
    天韓襲命を神教示に依て
  • 御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)は、徳島県名東郡佐那河内村にある神社。御朱印の有無は不明。

    『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 名方郡「御間都比古神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では無格社。

    創祀年代は不詳。御祭神は社名通り御間都比古色止命(みまつひこかえしねのみこと)で、第5代孝昭天皇のこと。

    孝昭天皇の和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。

    「欠史八代」として、実在が疑われる天皇の一人であり、孝昭天皇の原像を「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神などとする説もある。

    どちらにしろ、佐那河内の開拓神とされ、第13代成務天皇の頃、その九世孫である韓背足尼が国造となり、長峯の中腹(現在の下中峰)に奉祀したのが始まりとされる。

    観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)と表記されることもあり、長の国の祖神だという。『新撰姓氏録』には、「長公大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」とある。

    長の国の事代主命といえば、阿波には現在の勝浦郡勝浦町沼江に生夷神社がある。

    以降、『延喜式神名帳』にその名が見えるだけで、その前後の由緒は伝わらない。戦国時代に一度破壊され、その後、旧跡に形ばかりの小社を建て、細々と祭祀が続いていたという。

    江戸時代になり、古書には下記のようにある。
    『阿波志』
    御間都比古祠延喜式亦小祠と為す。中辺村にあり、今中峰また三木松と称す。即ち観松彦色止命、蓋し、遠孫韓脊宿弥之を祀る也

    『阿府志』
    御間都比古神社、同郡佐那河内村中峰にあり、俗に中峰とも云う、三木松ノ神 神主 井開伊予
    その後期の天保11年(1840年)5月、社殿の改築が行われた。明治になり、その初期の公文書に社名が見え、絵図もある。
  • November 2018 編集されました
    磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。このように、長髄彦を一介の賊酋や土蜘蛛の類だったと考えるべきではない。とすれば、長髄彦の「長」は蛇を意味する「ナーガ」にあたるが、「スネ」はソネ(曽祢)かスワ(諏訪)にも関係するものか。
    大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであったが、添下郡のほうも無縁ではなく、長髄彦の勢力範囲であった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
    同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
    長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。
    「観松彦」とか「天八現津彦」とかいう呼称は、大和の支配者の美称にふさわしい。大和朝廷第五代の天皇である孝昭天皇の和風諡号が観松彦香殖稲尊とされることも想起される。観松彦の下の「イロト(色止・伊呂止)」が弟を意味する語であることで、長髄彦が事代主神の後継者であっても実際には子ではなかったとすると、兄・事代主神に対する「弟」の意味で妥当か
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。