山部、伊予来目部

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
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山部連の祖である伊予来目部小楯を播磨の明石に使わされ、雄略天皇によって殺害された市辺押磐皇子の子億計(おけ)弘…

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コメント

  • 猪石心足尼(いいしこり?のすくね)
    七拳脛命の孫。
    この方の子孫が久米氏の嫡流らしいが、系図が伝わっていない。

    那爾毛古比売(なにけこ?ひめ)
    七拳脛命の8世孫。
    七拳脛命の6世孫で、伊予来目部播磨国司の山部小楯の孫で、 中臣可多能古の妻となり、御食子(みけこ)と国子(くにこ)を産んでいる。つまり、中臣鎌子(藤原鎌足)の祖母である。

    山部比治(やまべのひじ)
    七拳脛命の9世孫。
    「播磨国風土記~穴禾(しさは)の郡~」に、「孝徳天皇(第36代天皇。在位645~654年)の御世に、揖保の郡を分割して穴禾の郡を作った時、山部比治(やまべのひじ)が任命されて里長となったので、この人の名前により、比治の里という。」という記事がある。比治の真名井は、籠神社の奥の宮、真名井神社が比定地の一つとされる、「天の羽衣伝説」の伝承地である。
  • May 2016 編集されました
    笠置峠古墳 西予市
    4世紀前半頃に築造された西南四国最古の前方後円墳です。前方後円墳は一般に平面形が鍵穴形をしているとされますが、笠置峠古墳は「しゃもじ形」とでもいうべき形をしています。東西に長く、全長約45mをはかります。また墳丘の斜面には地元産の石を用いた葺石が葺かれていました。後円部の墳頂部には、東西に軸を持つ長さ4.6m、幅0.7~0.9mの竪穴式石槨が設けられています。石槨は盗掘を受けていましたが、副葬品と思われる鉄製品や、石槨上に置かれたと思われる土器や土製品が出土しました。土器や土製品の存在から、飲食を伴うマツリが行われたと考えられます。
  • May 2018 編集されました
    市辺押磐皇子

    押歯(八重歯)で、『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、この名があるという。 安康天皇3年8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。

    清寧天皇3年、億計 ・弘計は宮中に迎えられ、顕宗天皇元年に弟の弘計王が即位。弘計は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。

    現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)はそれと伝えられ、宮内庁の管理下にあるが、かつては同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあった。

    佐伯仲子
    佐伯造(-みやつこ)は、『新撰姓氏録』右京神別上に見え、旧姓は「佐伯部」。『日本書紀』によれば、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の舎人、佐伯部仲子(さへきべのなかちこ)の後裔で、仁賢天皇5年2月5日条に、諸国の佐伯部を集めて管掌させたとある。
  • December 2018 編集されました
    『日本書紀』巻第十五によると、播磨国の長官で、伊予来目部小楯(いよ の くめべ の おだて)という豪族が、億計王(おけ の みこ)・弘計王(をけ の みこ)の二皇子を発見し、のちに山部連を継承する。『古事記』にもほとんど同じ物語があり、こちらは「意祁命」・「袁祁命」である。『播磨国風土記』にも同様の話が記述されており、「意奚・袁奚の天皇(すめらみこと)」とされている。

    また、法隆寺に飾られた命過幡(めいかばん)から、山部氏と法隆寺の関連性も指摘されている

    仁徳天皇は速総別命を仲人として,女鳥王に求婚したが、姉八田若郎女の処遇に心を痛めていた女鳥王は密かに速総別命と結婚し、さらには和歌を詠んで夫に仁徳天皇にとって代わることを示唆した。そのため、天皇の怒りを買った二人は軍勢に追われて宇陀の蘇邇(曽爾、(そに)、『日本書紀』では伊勢の蔣代野(こもしろのの)で殺されてしまった。

    この時、将軍の山部大楯連は、「女鳥王の御手に纒かせる玉釧」を自分の妻に与えた。のちに(新嘗祭の後の)豊明節会で妻は女鳥王のものだった玉釧を身につけて参内した。これを大后の石之日売命が気づいて、大楯の妻を退席させ、後で夫の大楯を呼び出して、こう告げた。

    「其(そ)の王(みこ)等(たち)、礼(ゐや)旡(な)きに因りて退(そ)け賜へる、是(こ)は異(け)しき事無くこそ。夫(そ)れの奴や、己が君の御手に纒かせる玉釧を膚も熅(あたた)けきに剥ぎ持ち来て、即ち己が妻(め)に与へたり」
    現代語訳:「女鳥王たちは不敬であったからしりぞけられたので、これは特に異常なことではないのだよ。けれども、こやつめ、自分の主君がお手に巻いておられた玉釧を死んでまだ膚にぬくもりがあるうちに剥ぎ取ってきて、おのれの妻にやったとは」(荻原浅男:訳)

    そして、山部大楯は死刑になった
  • December 2018 編集されました
    斑鳩 山部の地

    岸俊男氏の研究によれば、斑鳩がある地は奈良時代は夜摩郷という地名で、もともとは山部氏に因んだ「山部郷」でした。桓武天皇になった山部親王の名を避け、奈良時代に「夜摩郷」と変名されました。

    山部氏は、顕宗天皇より山官の役を賜り、その後山部や山守部を管掌していました。法隆寺が天智紀に全焼し、その後の再建にこの山部氏が関わっていたことは、木の伐採という仕事上からも想像できます。山部氏は法隆寺の後山である平群山に本拠地を構えていました。また、法隆寺の所領地が播磨国にされた理由として、山部氏が雄略天皇時代から播磨国司で億計王・弘計王の発見などに関わっていたことが少なからず関係しているのではないかと考える説もあります。山部氏は創建法隆寺に木材を提供する氏族として貢献したと思われます

    斑鳩は、飛鳥と難波津の中間地点にあります。大和川を利用すれば飛鳥までの中継地となる交通の要所です。 大和川に沿って走る生駒山地と金剛山地の間を通ってのこの道は、水運を利用できるばかりでなく、防塞としても最適な地であったように感じます。 生駒山は642メートルその山頂からの眺望は見事です。山頂は奈良県と大阪府の県境になっており、生駒山は古代において重要な要塞の拠点となっていただろうことは容易に想像できます。斑鳩の法隆寺と生駒山の山頂の延長線上に難波津の四天王寺があります。

    生駒山から難波にかけては、物部氏の勢力地でした。蘇我馬子が物部氏と戦った背景

    聖徳太子は、物部氏の支配地であった所すなわち生駒山を越えた大和への入り口に「斑鳩宮」を建立し、そして、まるで仏教を興隆させるためのシンボルであるかのように、難波に「四天王寺」を建立しています

    太子道
    乙巳の変が起きた当時の天皇は皇極天皇ですが、その後重祚して斉明天皇になります。 斉明紀には、唐人に似た青い笠をかぶった怪しい人物が葛城山から生駒山に飛び去っていったことや、斉明天皇が鬼火に脅かされたことが書かれています。この「唐人に似た青い笠をかぶった奇怪な人物」を平安時代の書物『扶桑略紀』には「蘇我豊浦大臣の霊である」と書いてあります。
  • 嘉禎4年(1238)成立の『聖徳太子伝私記』(僧・顕真著)では、蘇莫者を次ぎのように伝えています。

    -聖徳太子は43歳の時、太子は法隆寺から四天王寺向かう道、椎坂にて笛を吹いているとき、【山神】が現れて太子の背後にて踊りを踊った。太子が不思議に思って振り返ると、【山神】は恐れて舌を出した。その舞う様子伝え聞い て四天王寺で舞うようになり、これを蘇莫者というようになった。-
  • December 2018 編集されました
    球磨の古代久米氏と山部との関係。

    記紀には熊縣(現在の球磨・人吉地方)の熊津彦と言う方の記述に「山部氏」の記述があります。
    日本書紀景行天皇18年紀 山部阿弭古と水嶋
    原文
    夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。

    ※時召山部阿弭古之祖小左

    山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、太田亮はそれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造(とものみやつこ)であるという。久米部は南九州の肥人であって『魏志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮かび上がる。
    ところで『出雲国風土記』意宇(おう)郡の条に記載された「久米社」の原注には「久未(くま)」とある。
    また『新撰姓氏禄』の一本には、久米都彦を久未(くま)都彦と記している。
    かくして「久米(くめ)」は久未(くま)とも表記されたことが分かる。久米は球磨(くま)である。
  • 伊予国一宮大山祇神社 宮司家の三島敦雄氏が昭和二年に書かれた著書
    『天孫人種六千年史の研究』をありがたい事に拝読する事が出来ました。
    三島敦雄氏はその著書『天孫人種六千年史の研究』の中で
    球磨の古代久米氏に関する事を記されています。
    『久米連・久米部のクメはスメル語のクメで武具の意、ベはベル(首長)、又はチアヌ語でベト雑人の義。
    奮説に久米は組で軍隊の総轄といい或はクマ(熊)の傳で肥人族(前印度モン・クメールで倭人)と為し
    神武天皇は東征に方りクメール族を率いて東上されたと為すのであるが・・
    以下、要約すると三島敦雄氏は肥人族(前印度モン・クメールで倭人)は温和なので大伴氏の配下であったのだろう・・と推測されていました。
    ※スメル語の「クメ」が付く球磨の肥人(こまびと)族(前印度モン・クメールで倭人)
    ※スメル語
    ※肥人(こまびと)族(前印度モン・クメールで倭人)
  • 大山祇神社の武具

    『久米連・久米部のクメはスメル語のクメで武具の意』
    武具と言う意味には納得しました。
    以前から書いていますが、私の球磨の調査、周囲には「矢」や「箙」(えびら)が頻繁に登場しています。
  • 山部(やまべ) または 山守部(やまもりべ) とは、朝廷直轄の山林の管理や産物を貢納する職業部(品部)。およびそれを管掌する氏族

    『古事記』によると、「此の御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定め賜ひき」とある[2]。本居宣長の『古事記伝』はこの「山部」と「山守部」と同一のもので、併記は誤りである、と述べている。

    『日本書紀』巻第十にも、「諸国に令して、海人及び山守部を定む」とある。


    山部は、武具担当。山守部は材木と古墳担当⁈???
  • 山部一族は、法隆寺に献納された「命過幡」(めいかばん)との関連性が問われている

    「幡」(ばん)とは、仏の威徳を荘厳(しょうごん、かざりたてること)するための寺院内外に飾られる旗であり、「命過幡」とは臨終に際して浄土へ往生することを願って行われる命過幡燈法(めいかばんとうほう)のための供養の幡である。そこには、施入の年月日や姓入者、供養される人の名が記載されている。

    法隆寺の命過幡は20例ほど知られており、そのうちの4例に山部氏が携わっている。

    「辛酉年三月朔六日、山部殿の奴(やっこ)なる形見願ひのために幡を三宝のうちに進む」(斉明天皇7年、661年)
    「山部五十戸婦(やまべ の さと の ふ)」(天智天皇2年、663年)

    「山部、名は嶋弖古連(しまてこ の むらじ)の公(きみ)」(年紀不明)

    「山部連の公の奴(やっこ)加致(かち)の児、恵仙(けいせん)」(年紀不明)

    平城宮木簡の和銅5年5月10日(713年)にも、「山部宿禰東人(やまべ の すくね あずまんど)」の名が見える。これは大和の各郡から9人を集めるために用いられたものである。

    天平19年(747年)に作成された『法隆寺伽藍縁起 并(ならびに)流記(るき)資財帳』によると、山林丘嶋(おかしま)の記載があり、寺院の所領として大倭・河内・摂津・播磨の26ヶ所があげられている。大倭国では、平群郡屋部郷・坂戸郷、添下郡(そうのしもぐん)菅原郷の3ヶ所が見え、そのうち、「屋部」は「夜麻郷(夜摩郷、やまごう)」と『和名類聚抄』には記述されている。

    『日本霊異記』上巻には、聖徳太子が病気でなくなった乞食を、岡本村の法林寺の東北のすみにあたる「守部山」に葬り、「入木墓」(いりきのはか)と名づけた、という物語が載せられている[5]。守部山の位置は未詳であるが、「山守部」=「山部」のことと類推される。仁賢天皇と顕宗天皇は、この説話に現れる片岡山(傍丘磐杯陵、かたおかのいわつきのみささぎ)に葬られており、現在の香芝市あたりに比定されている。

    その他、『播磨国風土記』や藤原宮跡・平城宮跡から出土された木簡によると、宍粟郡(しさわぐん)の「山部」の存在が確認でき、 天平6年11月(734年)書写の石山寺所蔵の知識経からは、播磨国 賀茂郡の「山直(やまのあたい)上麻呂」・「山直乙知女」・「山直恵徳」の名が記載されている。 正倉院文書にも山直一族が 多加郡賀美(かみ)郷に住んでいたことが分かり、しばしば現れる写経生「山部宿禰針間麻呂(播磨麻呂、はりままろ)」の名前も示唆的である。さらに、上述の『法隆寺伽藍縁起 并流記資財帳』によると、法隆寺は播磨国揖保郡・印南郡(いなみぐん)・飾磨郡に併せて21ヶ所の所領を有している。
  • 稲葉、因幡の山部

    稲羽(いなば)の裸(あかはだ)の兎』の意味が分からなかった、のであった。

     出雲「日御崎神社のめかり神事」の様子をネット上で知って、『隠岐の島から、因幡の気多まで並ばされた海の和邇』の真相は『海上の橋となるべく横に繋ぎ並べられた舟』のこと、と悟ったのであった。

     そこで、『裸(あかはだ)の兎』は「生まれたてのアカンボ兎」を『小童・月の兎』に見立てての「かたりもの」かとしたが、いまいち、納得しがたいところがあった。

     今、「同じ地域」に『兎・鵜鷺』を思わせる地名があれば、神話『事代主命の鳥の遊び』の真相解明に繋がる、ノデハ と考える。

     詳しくは、いつかまとめたいが、とにかく、『膳夫(かしはで)と為りて、天の御饗(みあへ)を献る時、祷(ほ)ぎ白して、櫛八玉神 鵜に化(な)りて海の底に入り、底のはにを咋ひ出(い)でて、天の八十(やそ)びらかを作りて、海布(め)の柄(から)を鎌(か)りて燧臼(ひきりぎね)を作り、海蓴(こも)の柄(から)を以ちて燧杵(ひきりぎね)に作りて火を鑚(き)り出でて』云々との「古事記のかたり」がそれを思わせ、
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