諸県君、髪長媛、大日下皇子

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大日下皇子(大草香皇子)?~454年? 『古事記』の大日下皇子は『日本書紀』では大草香皇子 (おおくさかのみこ…

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コメント

  • [豊後国正税帳]に・
     [大領・外正七位上勲九等日下部連吉島・・『大日本古文書』2-40)
     とある
     ところで・この[日下部]こそ・日向の髪長媛の娘[若日下部王](雄略天皇妃)の部民なのである。
  • 雄略天皇
    『日本書紀』によると、大草香皇子の妹・幡梭皇子(仁徳天皇の皇女)を皇后とした。
    また葛城円大臣の娘・韓媛を妃とし、白髪武広国押稚日本根子天皇(後の第二十二代清寧天皇)、稚足姫皇女を生んだ。
    また吉備上道臣の娘・稚姫を娶って、磐城皇子、星川稚宮皇子を生んだ。
    また春日の和珥臣深目の娘、童女君を娶り、春日大娘皇女を生んだ。

    河内に幸行の時、天皇宮殿に似せた舎の志幾の大県主を服従させ、謝罪の品を若日下部王への妻問の結納の品とした。

    三輪川のほとりで衣を洗う美しい娘・引田部赤猪子に出会い、宮中に召すので他の男に嫁ぐなと言ったが、その後八十年経過した。 そこで赤猪子は多くの献上品をもって参内した。前言を忘れていた天皇は驚き四首の歌「志都歌」と歌った。
  • 日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。

    但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い。
    記紀は、神武天皇が、難波の海から船行して日下(くさか)の蓼津(たでつ)に上陸したと伝えるが、この「日下」とも関係あろうか? そこは現在の東大阪市日下町(生駒山の西麓)で、古代は大阪市から妃が東大阪市にかけて「草香江(くさかえ)」と呼ばれる広大な入り江になっていたそうで、中世まで「勿入渕(ないりそのふち)」として片鱗を留めていた。

    神武天皇が天児屋根命を祀らせたという枚岡神社(大阪府東大阪市出雲町)があり、春日大社が創祀される時、祭神を勧請したので「元春日」と呼ばれ、香取・鹿島(つまりは卜部・中臣・藤原氏)とも関係が深い。

    饒速日尊が生駒山の上空から遥かに日の下を見て、「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と名付けたという。
  • 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。

  •  肥後国の山部に関しては、『日本続記』に「益城郡人山稲主白亀を献ず」(宝亀元年=七七〇年)とみえ、益城郡に山部が置かれていたことが分かる、と井上辰雄筑波大教授は著書『火の国』に書いている。また『景行紀』には、景行天皇が葦北の小嶋に泊まったとき、山部阿弭古の祖少左が冷水をすすめようとしたが、島に水がなく、神に祈ったところ、崖から水がわいたといういわゆる「水島」伝説がある。しかし、この芦北・水俣地方にも現在、山部姓を名乗る家はない。

    「太古以来の大民族」である山部姓はなぜか今日、古代阿蘇君の故地にのみ集中しているというわけだが、阿蘇神社の禰宜、宮川正也さんは「実は社家の宮川一族も本当の姓は山部なんですよ。宮川は神官としての姓です」と驚くべきことを打ち明けた。宮川さんによれば、神武天皇の第一皇子日子八井命が九州へ派遣されるまで住んでいたところが、大和国の山辺郷で「山部姓もそこからきていると私たちは聞いていました」と言う。

     神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる
  • 播磨国に派遣された官吏の伊予来目部小楯が二王子を発見したということを述べたが、彼は伊予の出身で久米部であり、しかも山部連の先祖ということになっている。これはどうしたことか。久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。『国造本紀』に「久味国造ノ軽島豊明朝(応神朝)神魂尊十三世孫伊予主命定賜国造」とあるから、伊予主命は伊予久米部の先祖であろうと『地名辞書』は云っている。久味(クミ)、クマ、クメはたがいに通音である。松山市南部の農村地帯はかつて旧久米郡に属していた。今日の松山市北久米町及び南久米町は『日本地理志料』によると古代には久米郡久米郷に属し、この付近に久米郡を総括する郡家があったとされている。松山市南久米町の東隣の鷹子町に浄土寺がある。幕末に編纂された『愛媛面影』によると、久米の浄土寺の辺に播磨塚という古墳があったという。昔は石室があったが、今は野原にその残欠があるだけといわれている。伝承によると、この播磨塚は、清寧天皇の御世に伊予国人来目部小楯という人物が、播磨守として任地に赴き、役目をおえて伊予に帰り、館をつくって住んだとされるところで、播磨塚と称したという。久米部が久味国造となってからは、このあたりは国造の治所であったらしいことから、石室は国造家一族の墳墓であったと推定される。久米郡のとなりの浮穴郡も同族の浮穴直の発生した地とされている。またその西の喜多郡にも久米郷があるところを見ると、久米部の一族は広い地域を支配したことがうかがわれる。山部連の先祖であった来目部小楯が山部を管理していたことはたしかであるが、『日本書紀』にいうように大嘗(新嘗)の資金をとり立てる役というのは似つかわしくない。それもわざわざ播磨に派遣される必要があるとも思えない。とすれば、実際は二王子は山部によって播磨にかくまわれたというだけであったのではないか、という推測も成り立つ。

    http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm
  • 仁徳天皇(第16代)の時代には、天皇の次妃であった日向之諸縣君牛諸の娘、髪長比売との間で生まれた兄の波多毘能大郎子 (大日下王)と、妹の波多毘能若郎女 (若日下部命)の兄妹が日下邑の地に住んでおられたようで、日下邑にはその御名代としてそれぞれ大日下部(草香部・草壁)・若日下部が設けられていました。

    しかし、第20代の安康天皇は、皇位継承のホープであった大日下王の妹、若日下王を妃として要請されたが、その際、信契として使者の根臣(ねのおみ)へ託した宝物の玉縵を横領着服され、大日下王が勅命に応じ無かったと報告されたため、天皇は逆鱗して王を滅ぼし、嫡妻の長田大郎女(おおいらつめ)まで奪って皇后として寵愛したという、無惨な物語が知られています。

    また、雄略天皇(第21代)の時代のこととして、天皇が日下邑の若日下王のもとへ妻乞いのため「日下之直越(ただごえ)道」で生駒山を越え、河内へ行幸された時、山の上から国見されると、堅魚木(かつおぎ)を上げた立派な舎家が見えたので、誰の家かと問われたところ、志幾の大県主(おおあがたぬし)の家であると答えた。

    大県主は、不遜を陳謝して謝罪の印に白犬を献上し、天皇はそれを若日下王に妻ごいの印として賜うた。この時、若日下王は、天皇が日を背にして幸でませるのは甚恐(かしこ)し、いずれ自ら参上仕奉ると答えたという話しも有名です。

    最も強大な権力を有していた應神~雄略天皇の時代に、日下と天皇家との密接な関係のある重要な地域、日下の地であったことが分ります。

    日下の真西には、草香江を隔てて大阪の上町台地には、御父の仁徳天皇の都、難波高津の宮が位置していました。
  • 第20代の安康天皇は、皇位継承のホープであった大日下王の妹、若日下王を妃として要請、されたが、その際、信契として使者の根臣(ねのおみ)へ託した宝物の玉縵を横領着服され、大日
    下王が勅命に応じ無かったと報告されたため、天皇は逆鱗して王を滅ぼし、嫡妻の長田大郎女(おおいらつめ)まで奪って皇后として寵愛したという、無惨な物語が知られています。

    また、雄略天皇(第21代)の時代のこととして、天皇が日下邑の若日下王のもとへ妻乞いのため「日下之直越(ただごえ)道」で生駒山を越え、河内へ行幸された時、山の上から国見されると、堅魚木(かつおぎ)を上げた立派な舎家が見えたので、誰の家かと問われたところ、志幾の大県主(おおあがたぬし)の家であると答えた。
    大県主は、不遜を陳謝して謝罪の印に白犬を献上し、天皇はそれを若日下王に妻ごいの印として賜うた。この時、若日下王は、天皇が日を背にして幸でませるのは甚恐(かしこ)し、いずれ自ら参上仕奉ると答えたという話しも有名です。

    最も強大な権力を有していた應神~雄略天皇の時代に、日下と天皇家との密接な関係のある重要な地域、日下の地であったことが分ります。
    日下の真西には、草香江を隔てて大阪の上町台地には、御父の仁徳天皇の都、難波高津の宮が
    位置していました。

    『古事記』には日下江の蓮を詠んだ歌も登場しますが、『万葉集』には、天平5年(733)に草香山を越える時に神社忌寸老麻呂が詠んだ歌
    「直超のこの道にしておしてるや難波の海と名づけけらしも」
    があり、奈良時代においても草香山を通る日下の直越道が、生駒山越の幹道となっていた。
  • 景行天皇12年、「熊襲」が背いて朝廷に貢ぎ物を差し出さないので、天皇は筑紫に入り、「碩田国(おほきたのくに)」から日向国に至り、行宮(かりのみや)を建てた。これを高屋宮(たかやのみや)という。
     そこで熊襲を討つことを謀り、13年5月に平定した。6年間高屋宮にとどまり、日向の佳人・御刀媛(みはかしひめ)を妃(きさき)とし、日向の国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子が生まれる。
     17年、子湯県(今の児湯郡)に旅して、そのとき「是の国は、直く(なお)日の出づる方に向けり」と言い、以来「日向(ひむか)」と称するようになった。その後、天皇は京をしのんで「思邦歌(くにしのびうた)」を残し、18年3月京に向かった。
     このとき初めて夷守を訪れた。「石瀬河」の辺りに多くの人が集まっているのを遠くから見つけた。左右の者に「あそこに集まっているのは何者だ。賊か」とたずね、兄夷守、弟夷守を遣わした。
     弟夷守が「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が大御食(おほみあへ=食事)を献上しようとして、その一族があのように集まっているところです」と報告。その後、天皇は「熊県(くまのあがた)」に向かった。ここに登場する夷守兄弟は、この地の豪族の者、泉媛は諸県君の一族であろうか。
     日本書紀によれば、景行4年に「日向髪長太田根(おおたね)」が天皇との間に日向襲津彦(そつひこ)を産む。そして御刀媛、さらに諸県君泉媛と日向に関係の深い女性が相次いで登場する。
  • 大分国造
     1)豊後国風土記:碩田(おおきた)国があり、今は大分と言う、と書かれている。
     2)津守郷羽田村字宮田に大分社があったという


    葦北(葦分)国造とは

    葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
    三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている
  • May 2016 編集されました
    景行天皇の戦い

    景行天皇がやってきて滅ぼした土蜘蛛族とは、ウガヤフキアエズ王朝そのものであり、犬爰〔うちさる〕、八田〔やた〕、國摩侶〔くにまろ〕こそ、ウガヤ王朝の重臣たちだったのです。
    奥豊後

    志加若宮神社
    志我神(しがのかみ)   
    ┗底津綿見神(そこつわたつみのかみ)   
    ┗中津綿見神(なかつわたつみのかみ)   
    ┗表津綿見神(うはつわたつみのかみ)

    つまり、志我神=綿津見神(わたつみのかみ)であるということです。
    ご存知のように、この神様は海の神様であり、伝説の竜宮城の主であり、豊玉姫の父上であり、初代・ウガヤフキアエズの命の祖父にあたります。
    志賀氏は、奥豊後では名門の家系であった訳です。 単なる地方豪族というよりは、奥豊後最大の権力者

    速津姫は神宝も何も出していない。どの豪族の系列かもわからない。だが、占った時にお祈りされた神に、志我神(しがかみ)・直入物部神・直入中臣神の三神がいたという。
  • 宮処野神社は,JR(豊肥本線)豊後竹田駅の北方,長湯温泉の西の仏原地区に鎮座する。
    この地の土蜘蛛を征伐した景行天皇の行宮の跡に,景行天皇と日本武尊を合祀したのが当社の発祥と伝えるが,その年代は不明である。
    また社伝によると,この地の膳臣廣雄の娘が容姿端麗で和歌と書をよくしたので,嵯峨天皇の釆女となって仕えた。天皇崩御(842年)の後,釆女は帰郷して尼となり,日々天皇を追慕した。兄が哀れんで仁寿三年(853)に景行宮の横に神宮を建てた。これが「嵯峨宮様」として崇敬を集めていたが,明治四年(1871)に社号を「宮処野神社」と改めた。


    行天皇12年(82年)10月、天皇が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に「直入縣(なほりのあがた)禰疑野(ねぎの)に住む打猿(うちざる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)」という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため來田見邑(くたみのむら)【朽網郷】に入り、行宮(かりみや)を設けて土蜘蛛を討つための議(はかりごと)をされ賊を討滅されたといいます。
    後世、村人がこの行宮の地に景行天皇の霊をお祀りしたことに始まると伝えられ、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊を合祀し、「景行宮」と称したといいます。

    弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった、直入郡擬大領の吉野廣雄の娘は、嵯峨天皇の采女となり宮中に召されました。承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後、來田見郷(くたみのさと)に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を現在の鎮座地の境内の玉垣の内(現:擬山陵)に鎮め奉り奉仕し天皇の冥福を祈られました。
    その後の仁寿3年(853年)嵯峨天皇の霊をお祀りしたことから「嵯峨宮さま」として親しまれるようになりましたが、明治4年(1871年)に「宮処野神社」と改称され現在にいたります。

    また、社号にもなっている宮処野神社が鎮座する「宮処野」という小字の地名は、景行天皇が土蜘蛛を征伐する時に、行宮(かりみや)が設けらたことに由来するそうです。
    宮處野 朽網郷所在之野 同天皇 爲征伐土蜘蛛之時 起行宮於此野 是以名曰宮處野
    ~宮處野(みやこの)、朽網郷(きたみのさと)の野(の)にあり。同(おな)じ天皇(すめらみこと)、土蜘蛛(つちぐも)を征伐(うた)む時(とき)に、行宮(かりみや)をこの野(の)に起(た)てたまひき。これをもちて名(な)を宮處野(みやこの)と曰(い)ふ。~
    (『豐後國風土記』より)

  • 七ツ森古墳群
    古墳時代前期に造成された豊肥地区で最古の畿内(きない)型の古墳
    大分県竹田(たけた)市戸上にある古墳群。阿蘇外輪山の東麓にあたる菅生(すごう)台地に所在する。
    円墳2基と前方後円墳2基からなる前期古墳群で、1959年(昭和34)に国の史跡に指定された。
    古墳は西からA~Dまでの番号が付けられており、A号墳は直径20m、高さ4mの円墳で、割り竹形石棺が発見された。石棺は身の中央に長さ80cm、幅25cmの刳(く)り込みがあり、被葬者は生後間もない乳児であると考えられている。B号墳は全長47m、後円部の径24m、高さ6m、前方部の幅6m、高さ2.5mの前方部が細長い柄鏡(えかがみ)式の前方後円墳で、後円部の中央から箱式石棺1基が発見され、棺内には男女2体の遺骸が納められていた。B号墳・C号墳の2基の前方後円墳からは、副葬品として6枚の銅鏡、勾玉(まがたま)、碧玉製石釧(いしくしろ)、鹿角装刀子(とうす)などが出土。このうち、碧玉製石釧は、破砕されて遺骸付近に散布された状態で発見されたもので、九州では出土例が少ない。古墳の形式や石棺の構造や出土品などから、古墳時代前期に造成された豊肥地区で最古の畿内(きない)型の古墳と推定されている。

    JR豊肥本線豊後竹田駅から車で約20分。
  • 禰疑野神社 禰疑野大明神
    景行天皇の九州巡幸で各地の土蜘蛛討伐にて、壬年十二年に禰疑野の地に着き(現在の大分県竹田市今)、打ザル・八田・国摩侶の3人の土蜘蛛を討伐したのだが、その際に、景行天皇が兵士たち言葉をかけて労ったのが、禰疑野の地名の由来である。禰疑野神社付近には、鬼巌屋・土蜘蛛塚(土蜘蛛の墓)・血田といった、景行天皇の土蜘蛛討伐に縁のある遺跡が多く残されている。
    本社の創立は、城原八幡社、宮処野神社の創立より推測して、應神天皇の辛卯二年(紀元九三一年)とされており、景行天皇を祭り、健磐龍神を配し、禰疑野大明神を崇め敬う神社とされている。
    「日本書紀」 「豊後国風土記」 「竹田市史」 より

    碩田に到着した天皇は「速見邑(はやみむら)」で「速津媛(はやつひめ)」の出迎えを受けた。速津媛の言うには、山に「鼠石窟(しょせっくつ)」という大石窟があって、その石窟には二人の土蜘蛛が住み、一人を「青」、二人めを「白」という。 また、直入県(なおいりあがた・現竹田市)「禰疑野(ねぎの)」には三人の土蜘蛛いて、一人を「打猿(うちさる)」、二人めを「八田(やた)」、三人めを「国摩侶(くにまろ)」。この五人の人なりは皆猛々しく(強暴)で、其の 一族も多い。この者達が言うには「不従皇命」天皇の命令には従わないといっていると伝えた。天皇は、来田見邑に権興宮を設け逗留し土蜘蛛討伐にあたった。
    天皇は、山を穿ち草を払い土蜘蛛を山野、石窟に追い悉く殺戮した。天皇は城原(きばる:竹田市)へ返し、打猿、八田を禰疑野で征伐した。其の流れる血は稲葉川(大野川)を染、其の血の流れ着いた所を「血田(知田・豊後大野市緒方)という。天皇の直入県禰疑野の打猿、八田、国摩侶一族の退治には十月いっぱい費やしている。こののち景行天皇は、日向国へいり熊襲討伐にあたり。葦北、八代、阿蘇、筑紫 、浮羽と転戦した。

  • 臼塚古墳

    昭和23年9月10日指定 重要文化財 石甲 (昭和51年6月5日)指定

    臼塚古墳は、全長87メートル、後円部径45メートル、推定前方部幅45メートルの前方後円墳で、後円部から大小2基の石棺(全長2,8メートル、2,25メートル)が発見され、
    副葬品として「位至三公」の銘がある双竜鏡、獣帯鏡(両鏡とも伯載鏡)鉄剣、鉄刀、鉄鉾、短甲片、勾玉、貝輪が納められていた。
    古墳の形や副葬品から古墳時代前期(五世紀前半)に築造されたものと推定される。
    古墳のくびれた部分には、臼杵の古墳にしか見られない石甲(短甲形石人)が建てられている。
    臼杵市教育委員会

    石棺  
    この二基の石棺は、元、後円部に位置していたものである。大正時代、墳頂部にあった大木が倒れ、その際根によって地上に持ち上げられたことによって、露出したと言われている。昭和2年、調査が行われ、大きい方の石棺内部から二体分の人骨と、舶載鏡二面、(位至三公鏡、獣帯鏡)、鉄剣、鉄刀、短甲片などの副葬品が、小さいほうの石棺からは、人骨一体と鉄剣、鉄刀、短甲片などの副葬品が発見されている。
    二基の石棺は、凝灰岩製の舟形石棺である。両石棺とも身蓋部分をくりぬいて作っている。
    大きい方は全長2,85メートル、蓋身部長側面に三個の縄掛突起を有している。
    小さい方は、全長2,25メートルで長側面に二個の縄掛突起を持っている。
    また、蓋部表面には、4周を縁取りするため、その内側を一段掘り下げた押し縁の表現が施されている。

                          臼杵市教育委員会  ママ
  • May 2016 編集されました
    日名子は珍しい苗字
    日奈子・日奈古・日那子・雛子・日子とも書き、管見に入ったところでは豊前・豊後及び肥後だけに見られます。『姓氏家系大辞典』では肥後だけをあげ、「葦北郡日奈久邑(注:現熊本県八代市日奈久)より起こりしか」というとして、恵良惟澄申状に「日名子兄弟」の名前が見えると記します。一方、豊前・豊後のほうは豊前国築城郡日奈古(現福岡県築上郡椎田町日奈古)か豊後国速見郡別府辺りに起った苗字とみられま

    国前国造の祖は、景行紀十二年九月条に見える国前臣祖菟名手で、景行天皇に仕え熊襲親征の時に随行して功績があり、その子の乎左自命(一に午左自命)が志賀高穴穂朝(景行の子の成務天皇の時代)に国前国造を賜ったとされます。菟名手は吉備氏族日子刺肩別命の子とされております。

    豊国国造の領域に豊前の日名子があり、葦北国造の領域に肥後の日奈久があって、両地ともに日名子氏が起こり、また大分国造の領域の別府辺りに紀姓とも称する日名子氏が居住したことが理解されます。

    菟名手命の後裔の黒麻呂は難波朝廷(仁徳朝)に仕えて日子臣姓を賜り、その玄孫長谷部彦(泊瀬部彦)は継体天皇朝に奉仕して日子直姓を賜った。この長谷部彦には、叔父の砥並仙人に依り仙方を伝え、豊州の処々に温泉を創るという所伝も別書にあり、肥後の日奈久温泉も想起されて興味深いものがある。
        長谷部彦の子孫は日子県主・日子郡領を世襲し、初め日子、後に日名子を苗字とした。すなわち、日子太郎次郎清国は鎌倉将軍家に仕え、その子小次郎清治は大友氏に仕えて豊後別府に住み、その子の日名子太郎左衛門尉清元は国東臣と号し大友大炊助頼泰を主として温泉奉行となり弘安年中に死去した。清元の後は、その子の「清輔(勘兵衛)-清豊(太郎左衛門)-清成(勘兵衛)-清三(勘助)-清船(官三)」と室町前期の人々まで見えており、清輔の弟又八郎清行の孫の太郎清秀は菊池氏に仕えた。
  • May 2016 編集されました
    九州で吉備一族の三井根子命ないし菟名手命(両者は同人か)の後裔と称する国前国造及び葦分(葦北)国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して各地に移遷したものか。これらは、多氏族と称する火国造などや宇佐氏族とも系譜的に密接な関係を有した。

    日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古、日子〕-豊後国別府に居住。国前〔国崎〕-豊前の宇佐宮貫首

    日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられます。具体的には、中田憲信編『諸系譜』第三三冊に「日子姓系図」が所収され、孝霊天皇その子日子刺肩別尊に始まる吉備氏族とされています


    金富神社

     「ヤハタノカミ」の国魂として古代宮址の神社。大分県宇佐市の「宇佐八幡宮」の元宮、原始八幡神顕現の霊地という。 宇佐八幡宮は全国八幡宮の総本社で、本殿は国宝に指定されている。その宇佐神宮の元宮たる金富神社は、八幡神(ハチマンシン、ヤハタノカミ、ヤワタノカミ)の歴史研究上も貴重なお宮である。金富神社の神幸祭では、田楽・田植祭が行われる。ここでいただいたシデ(御幣)を田や家にまつり、豊作祈願をする。



    妙見葛城神社
    周辺の四つの地名

    奈古、日奈古、佐敷、坂本

     狭い地域から拾い出したこれらの地名が、奈古(鹿児島県出水市米ノ津の名護港)、日奈古(熊本県八代市の日奈久温泉)、佐敷(熊本県芦北町の佐敷)、坂本(熊本県八代市坂本町=球磨川下流部)のように全て鹿児島県、熊本県南部の不知火海沿岸=熊襲の領域の地名と対応しているのです。
  • May 2016 編集されました
    金富神社(きんとみじんじゃ)は福岡県築上郡築上町にある八幡神を祀る神社である。

    豊前綾幡郷の郷社であり、宇佐八幡宮の元宮とする説がある。
    創建当初は単に「やはた」「やばた」と呼ばれていたと伝えられる。神仏習合が始まる9世紀頃から「八幡」を「はちまん」と読むようになったことから、「やはた」に相当する名称を「矢幡」と書き、「矢幡八幡宮(やはたたちまんぐう)」になったと推定される。「絹富八幡」「金富八幡」へと変遷したのは、備前国(?豊前国の誤記か?かわかつ記)各地に散在する国衙領であった「絹富名(きぬとみみょう)」の遺称に由来すると考えられている。明治に入って現社名となり、現在に至る。
    神亀元年(724年)宇佐に八幡神を祀る神殿(宇佐神宮)を造営するにあたり、神託により当地で斧立神事を行った。その際に仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の3神を勧請して創建されたと伝えられるが、それ以前から宇佐八幡宮の元宮、若しくは霊地であったという説もある。 天平3年(731年)に宇佐神宮へ官幣が奉献されて以来、官幣は当社で仮宿奉安することが慣わしになった。

    京都郡にあった辛島族は、南部の山国族と接触し融合、共同の祭神として”ヤハタノ神”を創祈したその地は、綾幡郷(椎田町)の中央に あり、ヤバトヨ、ヤバタ、ヤハタと呼ばれた。  この社が、矢幡八幡宮であり、この金富八幡宮は、その古代宮址である
  • 刳抜式の家形石棺は、畿内を中心に岡山県・広島県東部の古代吉備の地域や、北中部九州の周防灘沿岸地域など瀬戸内地方、また東海から関東、その他鳥取県でも数例が確認されていますが、瀬戸内沿岸でも四国では一例も確認されていません。一方6世紀中頃に成立した組合式の家形石棺では、長辺側の石材を短辺側に挟み込む構造をしていますので、同じ組合せ式石棺である長持型石棺とは異なる構造をしています。

  •  竹田で土蜘蛛退治が終わった景行天皇一行は、稱疑野神社の地を出発し大野川に沿って下り海に出た。海を南下し、保戸島を経由し、延岡市西階の川辺駅跡に滞在した。そこからさらに、南下し、高鍋町蚊口浦より上陸し鵜戸神社で戦勝祈願した。さらに南下し一ッ瀬川河口より遡り、西都市荒武に着いた。景行12年11月のことである。ここに高屋宮を作り、長期(半年暦で3年・現行暦で1年半)滞在したのである。

     高屋宮に長期滞在した理由は何であろうか。熊襲を討つだけなら3年も滞在する必要がない。日本書紀には、日向に美人の聞こえ高い御刀媛を召して、妃とし、妃は日向国造の始祖である豊国別皇子を産んだとされている。景行天皇は自らの皇子70人ほどを各地の国造に任命している。日向国の国造を任命するのが目的ではなかったかと思われる。

     日向国は大和朝廷成立時、出雲と共に自治が認められていた土地である。日子穂々出見尊の子孫が西都原を拠点として統治していたと思われる。倭の大乱後大和朝廷に自治を返上したが、国造は日子穂々出見尊の子孫がそのまま継承していた。景行天皇は日向国国造に自らの血を入れようとしたが、神武天皇の故郷である日向という国柄により、日子穂々出見尊の系統を無視することができなかったのであろう。そのために、景行天皇自身が日子穂々出見尊の子孫の娘を妃とし、その間に生まれた子を日向国造とするのが目的だったと考えられる。
  • 日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古、日子〕-豊後国別府に居住。

  • 八綱田(八ツ並)と考えられ、この八綱田が垂仁天皇時に福岡県嘉穂郡稲築町で起きた『狭穂彦王(嘉穂彦)の乱』を鎮めます。

    その子が『彦狭嶋命』とされており、日本武尊の没(景行43年)後、近畿纏向日代宮に居られた景行天皇から東山道15国の支配を命じられて、中津宇佐から本州に赴く途中の春日の穴咋邑(あなくひむら)にて病死(景行55年)をしています。(春日の穴咋邑の場所が不明であります。)

    このお方が中津宇佐(由布院を含む)にて『宇佐都臣命(宇佐稚屋)』・『御諸別命』を生んでいると考えられます。(宇佐公康さまの伝承では弥山にて生まれた事になっています。この弥山は『母なる山』と呼ばれています『箭山ややま』別名『八面山』とも考えられます。)

    亦、第7代孝霊天皇の皇子としても、伊予・越智氏の祖として『彦狭嶋命』は記入されており、この二人の『彦狭嶋命』をどの様に解釈するかも考えさせられます。
  •   草香部吉士(草壁吉士、日下部吉士)、日下部忌寸、難波吉士(岸-河内、信濃に住。白藤、北風〔喜多風〕-摂州兵庫に住で、孝元天皇の孫彦也須命の後と伝う)、難波忌寸(録・河内)、難波(録・河内)、難波連、難波宿祢、吉志(吉士、吉師。録・摂津)、三宅吉士、三宅忌寸、三宅人(三家人。録・摂津)、三家人首(三家首。若狭国遠敷郡人)、三宅連(星野-越後国古志郡三宅神社祠官。三宅、三明、平岡-同上族、越後人。なお、若狭から出たという河内国交野郡の安見〔保見〕氏も同族か)、吉志宿祢、壬生吉志(三田、谷保-武蔵国多摩郡人。原島、小泉-同州大里郡人。勝田-同州比企郡人)、飛鳥部吉士(久米川-同州橘樹郡人)、調吉士、岐弥吉士、大国忌寸(摂津国西成郡)、大国宿祢。
      系統不詳の阿倍宿祢・阿倍連はこの吉士の流れか
  • 豊国別命は何者

    母は日向之美波迦斯毘売
    母子ともに日向に残り、日向君となり、日向地方の治めることになったらしい
    「豊国別」という名は、九州が四ヶ国時代に
    豊国から別れた日向国を治める皇子という意味らしい

    豊国別から数代の系図(宮永氏系図)はこのようになる

    豊国別─国富彦(久邇止美比古)─老男主男─牛諸井

    豊国別の曾孫の牛諸井の娘が髪長比売
    髪長比売は、仁徳の妃となり、大日下王を(波多毘能大郎子)を産む

    応神妃の日向の泉長比売の関係は不明

    景行紀十八年の条に諸県君泉媛あり
    旧事本紀の国造本紀に軽島豊明朝(応神)御世、豊国別皇子三世孫老男、定賜国造。

    こんな系図もある。

    久邇止美比古┬老男主男─牛諸井─髪長媛
    ++++++└泉長媛

    これだと泉長媛は、老男の妹となる。髪長媛と関係を考えると
    牛諸井の妹と思うが・・・
  • 04/01編集されました
    福岡の草香江

    「越境としての古代」の「神武は、筑豊に東征した」より

     従来説のように、九州から出て大阪の難波に上陸して敗戦したとすると、その後の神武には帰還する場所が無く、軍備も再編成する機会がない。それなのに、兵を補充できなかったはずの神武軍は、後段において敵の大軍と堂々と会戦さえしているのである。矛盾というより他はない。いわゆる奈良県「大和の国」に神武は断じて来ていない。
     したがって、「乃ち軍を引きて還る。虜も亦敢て逼まらず。却りて草香之津に至り、盾を植ゑて雄誥爲す。因りて改め其の津を號けて盾津と曰ふ。」は、リアルな記述であり、この「草香之津」は、福岡市住吉神社に伝わる古図に鎌倉期まで「草香江」のあった ことが示してあり、そこを指していよう。神武は正しく「草香之津」に「軍を引きて還った」のである。
    ※ 長髄彦と交戦し敗れる。兄の五瀬命が矢にあたり負傷し、博多湾の草香津へ帰還は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の115年三月です。

    https://hanzan-hiruandon.jimdo.com/九州王朝/⑳福岡市/草香江/

    草香江は韓半島の民と「狗呉」の族が交わる地でもあった。古く、大和王権の黎明期に、この草香江の支配氏族として「神功皇后、三韓征伐より帰朝の時、御餞を奉りし鳥飼氏。」とされる鳥飼氏族の存在がある。

     鳥飼氏は古く、草香江西岸に在ったとされる鳥飼八幡宮を奉祭した。その境内の黒殿社に武内宿禰とともに氏族の始祖、「鳥飼黒主」を祀る。和名類聚抄によると、早良郡は平群(へぐり)や曽我(蘇我)などの郷名を残し、武内宿禰氏族との拘わりをみせる。

     武内宿禰が「黒い神」とされていた。筑前、粕屋の黒男山(くろどんさん)の麓、黒男神社にはじまる、「黒」の名を纏う神社群。大野城や春日で、武内宿禰を祀る黒男神社。豊前では、宇佐神宮に黒男神社、中津の薦神社摂社の黒人社、国東の黒雄神社、筑後にも、田主丸の黒島神社など、すべて武内宿禰を祭神とする。

     豊前、吉富の八幡古表神社と中津の古要神社の宇佐神宮放生会に奉納される「傀儡子の神相撲」は養老三年(719)の日向、大隈の隼人の反乱で征討された隼人の怨魂を慰める。神相撲では劣勢だった西方が「住吉大神」の活躍で挽回して勝利し、住吉大神の偉大さが謳われる。この住吉大神の傀儡子は他の神々よりも小さく黒い。隼人の霊を慰めるためのこの黒い住吉大神に武内宿禰が重なる。

     宇佐神宮では武内宿禰の黒男神社は、神域の外に鎮座させられ、忌避された痕跡をみせる。はたして、隼人の中枢、鹿児島神宮も黒く塗られる。神殿の柱などは赤であるが壁は黒。反乱に拘わる隼人の宮として中央王権に忌避され、黒く塗られたものか。

    仲哀天皇は熊襲を討てず、武内宿禰に従属関係を迫られて死んだともされる。そして、武内宿禰は誉田別尊を担ぎ上げて東征する。それは神武東征の伝説を生み、「神武」とは神功の「神」と武内宿禰の「武」とする説もある。が、のちに武内宿禰は隼人に拘わる黒い神とされて忌避されている。草香江の鳥飼氏の祖も黒殿社に祀られる「鳥飼黒主」。鳥飼氏も黒い神として忌避された狗呉の氏族ともみえる。

     草香江の東を流れる金屑川には「鯰神」が住むとされる。阿蘇や、肥前の川上の神話に鯰をトーテムとする先住氏族の姿がみえ、後漢書倭伝に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とある鯰をトーテムとする民が、鯰の冠を被る句呉の裔とみえていた。

    阿蘇の山部氏は在地の古い神祀氏族。阿蘇神話によると、阿蘇祖神の「草部吉見(くさかべよしみ)神」は神武天皇の皇子、日子八井命であった。山部氏はその裔とされ、阿蘇大宮司家に従い、阿蘇の神祇を司る氏族とされた。

     そして、阿蘇神社の権大宮司は20社家の山部氏族より選ばれて「草部(くさかべ、日下部)」を名乗るとされる。鯰をトーテムとする阿蘇の古い氏族が日下部氏であった。貝原益軒は筑前国続風土記で、草香江の名は「日下(くさか)江」であろうとしている。


     草香江の深部、長尾の枝村に「隈(くま)村」が在り、草香江周辺には七隈、干隈、田隈と「隈」地名が密集。また、草香江の首長墓とされる田島の4世紀の前方後円墳が「京の隈古墳(きょうのくま)」であった。「隈(くま)」とは隅(すみ)、端のほうの意とも、曲がった「角(すみ)」の意とも、また、七隈が多くの丘陵を指すという説もある。

     古層の「隈」地名を「熊襲(くまそ)」と結びつける説がある。熊襲は九州中南部に拠とし、大和王権に抵抗したとされる氏族。「球磨曽於」とも記され、肥後の球磨から大隅の曽於あたりを出自とする縄文由来の民。魏志倭人伝中の狗奴国がそれであるとも
  • 難波に同名の草香江がある。貝原益軒は筑前国続風土記で「摂津の草香江と当国の草香江、同名異所なるにや。」として難波の草香江と、筑紫の草香江が何らかの拘わりがあろうことを匂わせている。そして、草香江の「鳥飼氏」の痕跡が難波の草香江にみえる。

     難波の草香江の北岸ともされる大阪府茨木市に「鳥飼」地名を残し、そこの「佐和良義神社(さわらぎ)」の祭神は神名帳考証は「平群都久宿禰」、神社覈録では「早良臣神歟」の名を示す。新撰姓氏禄に「河内国皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也。」 とあり「平群都久宿禰」は早良臣の祖とされる。

     旧、早良郡に平群(へぐり)の郷名を残し、佐和良(早良、さわら)臣が平群氏の祖、平群都久宿禰の裔とされることで筑紫の草香江と難波の草香江との拘わりをみせる。また、和名類聚抄によると旧、早良郡の平群、額田、田部、曽我(蘇我)などの郷名が、かつて、草香江に流入していたとされる大和川流域に見られ、片江、柏原、太平寺など、ふたつの草香江沿岸に地名の共通をみせる。これらの事象が意味するものとは氏族の移動。

    日下部氏は第9代、開化天皇の皇子の日子坐命の子、狭穂彦に始まる但馬国造の日下部君の後裔であるとも。兄妹で叛乱を起こす、垂仁天皇の皇后、狭穂姫の氏族である。他にも、吉備氏系や、16代仁徳天皇の皇子、大草香、若草香王の御名代部とも、21代雄略天皇の皇后、若日下皇女の御名代部ともする。混乱ともみえるほどその系譜は解りにくい。

     九州の日下部氏族はいずれも古代の要地に拠点を置く。前述の阿蘇神社の神官群、草部吉見氏族が日下部とされる。そして、筑後の高良大社の神官家の日下部(草壁)氏。そして、邑阿自を祖とする日田の靱編連の日下部氏など。

     「日」に纏わる祭祀は大陸の神仙思想にみられる。そして、銅鏡が「日」に纏わる祭祀の象徴とされる。松浦の日下部君の祖、「佐用姫」が大伴狭手彦から鏡を贈られ、「日」を纏う日向は青銅器文化が無いとされるが銅鏡だけは10面ほど出土している。

     日田の日下部氏の墳墓とされるダンワラ古墳からは、中国王朝の象徴ともされる「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土した。日田には三隈三山と呼ばれる三つの残丘が日隈、月隈、星隈と呼ばれ、古い農耕天文学に纏わる痕跡ともされる。この日田の日下部氏領域や筑後には装飾古墳が散在する。吉井の「日の岡古墳」などで、赤色で描かれた同心円文は、殊に「日」に纏わる祭祀を思わせる
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