日向、曽於国の玉壁

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image日向、曽於国の玉壁

宮崎県串間市王の山銭亀塚石棺 国宝・紀元前2世紀頃の完品 「中央に穴(孔)がある円形で直径が三十三・三センチメ…

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コメント

  • 日本書紀には、景行天皇について、日向髪長大田根を妃とし日向襲津彦皇子が生まれたこと、襲武媛を妃とし二人の子が生まれ、その弟豊戸別皇子が火国別の始祖となったこと、熊襲を平定するために九州に入り高屋宮に6年おられたこと、そのとき
    御刀媛(みはかしひめ)という美人を妃にされたこと、御刀媛がお生みになった豊国別皇子が日向国造の始祖となったことが書かれています。
    また、応神天皇については、日向泉長媛(鹿児島、出水の出身かもしれない)を妃としふたりの皇子が生まれたこと、仁徳天皇については、日向国諸県君牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)を妃とされたことが書かれています。
    日向系の妃が次々と登場する記紀の記述は、4~5世紀頃に、日向の豪族と大和国家の大王との間に、何らかの交流が行われていたことを反映しているのではないかと考えられます。
  • 諸県君牛諸井は応神天皇時代の日向の豪族

    「日向国に嬢子(おとめ)がいます。名を髪長媛といい諸県君牛諸井のむすめです。国色之秀者(かおすぐれたるひと)です」という者があった。応仁天皇は使いをやってこれを招き、桑津邑に住まわせた。やがて仁徳天皇が「その形の美麗(かおよき)」に感じて妃とする(日本書紀本文)。
     また、同書の一説によると、応神天皇に仕えていた牛諸井が年老いて帰国。朝廷の恩を忘れず、代わりに髪長媛を差し出した。媛には角付きのシカ皮を着た多くの人々を従わせた。船で着いたところが播磨(兵庫)の鹿子水門(かこのみなと)で、このことから船人を「かこ」、その出入り口を「港」と言うようになったという。媛はやがて仁徳天皇の后(きさき)になり、その子孫は朝廷に大きな影響を持つようになる。
     この諸県君の本拠地の考証も、考古学などの成果を交えて、神社の祭神や関係人物、地名などさまざまなかかわりで論じられている。祭神1つとっても、2人を祭神とする神社が県内には多くある。例えば、国富町本庄の四八塚古墳群を中心とした地域もそうだ。
     また、都城市・早水神社とその周辺をゆかりの1つとしたのは、鹿児島藩の白尾国柱(しらお・くにはしら)。早水神社(旧沖水神社)の祭神は髪長媛、応神天皇、牛諸井。周辺には霧島四十八池の1つとされる豊富な湧(ゆう)水源があり、霊験あらたかな雨ごいの神面を伝える。
  • May 2016 編集されました
    『季刊邪馬台国』の記事

    この四か所から出土した璧のうち、宮崎県串間市今町王の山から出土した璧は、わが国最大のもので、直径は、じつに33.3センチもあり、厚さ6ミリ、孔径6.5センチ、重さ1.6キロで、完全な形のものである。硬玉製で、一部褐色の部分もあるが、おおむねは、暗緑色をしている。この璧は、現在、国宝となっている。
    玉璧を納めた桐箱の、明治10年(1877)の紀年のある箱書きには、次のようにある。
    「文政元年(1818)の2月、日向の国那珂郡今町村農佐吉の所有地字王之山で掘り出した石棺の中から獲たところの古玉、鉄器三十余品の一つである。思うに日向には上古の遺跡が多い。いわゆる王之山も、また、必ず尋常の古塚ではない。」(石川恒太郎編『郷土史事典・宮崎県』昌平社。那珂郡今町村は、現在の串間市今町である)
    鉄器三十余品が、いっしょに出ていることも注目される。璧そのものに、鉄のさびが付着していて、鉄器をともなっていたことと、箱書きの記述が根拠のあることを裏づけている。
    この璧は、その後、幕末の探検家松浦武四郎のものとなり、さらに、加賀前田家を経て、現在では、東京の前田育徳会の所蔵となっている。
    これまでに、璧のでた場所は、いずれも、九州にある。その四つの地点を、地図上にプロットすれば、下図のようになる。
      考古学者、高倉洋彰氏は、王の山の玉璧のでたのは、「箱式石棺墓」とされ、前漢前~中期ごろにつくられた可能性をもつとされる。
    高倉氏は、およそ、つぎのように述べる。
    「文様は両面に彫りこまれ、それぞれ絡縄文帯で、三区に分けられている。内区には、波状のうねるように表わされた鳥文[夔鳳(きほう)文]三体、外区には双身獣面の夔竜(きりゅう)文五体が彫られ、それらに挟まれた中区には、穀粒文が整然と配されている。いわゆる穀璧である。この穀粒文よりもあとに、蒲文がでてくる。
    このような文様の特徴からみて、串間からでた璧は、前漢前~中期ごろにつくられた可能性をもつ。ただ、日本出土のガラス製の璧が、いずれも弥生時代中期後半ごろ(前漢後期にほぼ併行)に副葬され、いずれも穀粒文であることを考えれば、串間からでてきた璧は、もうすこし時期を下げてよいのかもしれない。
    (わが国での)璧出土遺跡の位置づけからみて、璧が『王』クラスの特定の人物にのみ所有されていたであろうことが理解される。したがって、璧の出土は、その墓の主の身分・地位を明らかにする。」(「弥生時代の璧」『季刊邪馬台国』30号)


    福島町4号墳
    宮崎県串間市西方桑ノ木4066にあります。地元では剣城塚と呼ばれています。
    全長60m、 後円部径30m・高さ3.5m、 前方部幅20m・高さ2.7m 柄鏡式の前方後円墳です。築造時期ははっきりしていません。

    現在、後円部には明治戊辰の役の戦死者の石碑と社殿が建てられ、護国神社として祭られています。ちなみに前方部には、接するようにして保育園があります。
    明治8年12月5日、宮崎県の史跡に指定されています。

    串間市は宮崎県の最南端、太平洋(志布志湾)に面しています。野生馬で有名な都井岬があります。
    1818年(文政元年)、那珂郡今町に住む佐吉という農夫が、自分の所有する「王の山」から偶然石棺を見つけ、その中から鉄器や玉とともにガラス製の壁(へき)を発見しました。
    中国・漢の皇帝が諸国の王に与えたもので、日本では奴国の須玖と、伊都国の三雲の王墓から発見されているだけです。(合計3個)
    串間のものは、直径34cm、扁平な円形で、その中央に直径6cmの孔が開けられています。
    ほぼ完全な形で残っていて、国宝に指定されています。
    表面の内側に穀粒を並べたような凸起文様があることから、穀壁(こくへき)と言われています。
    なお「王の山」がどこなのかは不明です。

     串間市の中心を流れる福島川西岸の台地に分布する古墳のうち、前方後円墳3基・円墳15基・地下式横穴墓1基が福島町古墳として文化財指定を受けた。現在は前方後円墳3基(4・5・10号墳)と円墳4基が現存している。このうち3~5号と9・10号墳は、福島小学校や福島高校の周辺に点在している。3号墳(円墳)は長清見塚、4号墳(前方後円墳:全長60m)は剣城塚、5号墳(前方後円墳)は毘沙門塚、9号墳(円墳:直径35m)は霧島塚、10号墳(前方後円墳)は万多城塚と呼ばれている。
     なお、市街地近郊の善田原と称される台地上に「銭亀塚」古墳があり、昭和28年に発掘調査が行われた。竪穴式の石槨が確認され雁木玉等の遺物が出土している。
  • 日本出土の璧(へき)


    福岡県築上町峯遺跡 ガラス璧片円板は径三・八センチ、径三・五センチの二箇
    http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=207030

    福岡県前原市三雲南小路一号甕棺
    ガラス製壁8面分(断片)
    http://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/organization_2.html

    福岡県春日市須玖岡本支石墓下甕棺
    二個(破損断片)

    宮崎県串間市王の山銭亀塚石棺?
    伝世品
    国宝・紀元前2世紀頃の完品
    「中央に穴(孔)がある円形で直径が三十三・三センチメートル、中央の穴の直径が六・五センチメートル、厚みが〇・六センチメートル、重さ一六〇〇グラムの完全な玉器である。
     璧は、硬玉で鉄より硬いといわれる。
     この璧の表裏両面に見事な文様が施されている。
     この璧の表面には、同心円で三帯に区切られている。一番外側には五つの竜首文が配され、外周と内周の間に璧を識別する穀粒文が、整然と並んでおり、一番内側の内周には、三体の鳥文が波形状に彫刻されている。」
    http://www.city.kushima.miyazaki.jp/modules/contents03/index.php?content_id=21

  • 宮崎県串間市王の山銭亀塚石棺?
    伝世品
    国宝・紀元前2世紀頃の完品
    「中央に穴(孔)がある円形で直径が三十三・三センチメートル、中央の穴の直径が六・五センチメートル、厚みが〇・六センチメートル、重さ一六〇〇グラムの完全な玉器である。
     璧は、硬玉で鉄より硬いといわれる。
     この璧の表裏両面に見事な文様が施されている。
     この璧の表面には、同心円で三帯に区切られている。一番外側には五つの竜首文が配され、外周と内周の間に璧を識別する穀粒文が、整然と並んでおり、一番内側の内周には、三体の鳥文が波形状に彫刻されている。」
    http://www.city.kushima.miyazaki.jp/modules/contents03/index.php?content_id=21
    1818年に農夫・佐吉という人物が発見。玉壁ともに玉・鉄器があったとされるがそれは紛失。
    穀璧とも呼ばれる。
    明治時代に箱書きがそえられ、そこには
    「文政元年戊寅二月 日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺所獲古玉鉄器三十余品一蓋日向上古之遺跡多矣所謂王之山亦必非尋常古塚
    明治十年丁丑十二月
     湖山長愿題」
    大意 「文政元年戊寅(1818年つちのえとら)の二月宮崎県那珂郡今町(この頃は穂佐ケ原あたりまで今町といった)に住む農家の佐吉が自分の畑の字「王之山」を耕す時、ここから石で作った棺おけが出てきた。これを開けてみると宝物の古い球や鉄製品が三十余り出た。
     この宝の球もその中の一つである。
    思うに宮崎県は古い昔からのいろいろな器物などが今に至るまで残されていることが多い。世にいう「王之山」もまた間違いなく普通の古墳ではないのである。」

    箱書きした湖山とは
    湖山長愿(こざんちょうげん)
     「湖山は、小野湖山で近江の国(滋賀県)に生まれた。
     湖山は「号」で、長愿は氏名である。幕末より明治にかけて活躍した漢詩人である。明治十年十二月、加賀百万石(石川県)の旧藩主前田公爵家でこの品を見せられ公爵に頼まれて壁の由来を書いたものといわれる。
    箱の裏には、「多気志樓蔵」と書いてあることから前田家の所有となる前には、松浦武四郎の所蔵品であったことがわかる。」
    http://www.city.kushima.miyazaki.jp/modules/contents03/index.php?content_id=21
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