古代の製鉄遺跡、鉄の氏族

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image古代の製鉄遺跡、鉄の氏族

鉄鉱石成分を持った花崗岩鉱床は吉備と近江にある。 多くの地域においては輸入された鉄斧型の鉄インゴットを使うしか…

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コメント

  • 徳島市の庄・蔵本遺跡でも弥生終末期後半(3世紀前半)の鞴(ふいご)の羽口発見。2002年調査
    庄・蔵本遺跡の西、鮎喰川西岸の矢野遺跡から同時期の鍛冶工房や200gの砂鉄の入った壺。


    同時期の九州
      博多遺跡群第59次調査(1989年)
    ・ 博多遺跡群第65次調査(1990年祇園町) 156次調査の報告文中に登場。
    ・ 纏向勝山古墳1次調査(1997年石野『纏向遺跡』)。

    ・福岡市西区今宿町大塚遺跡 弥生終末(3世紀)の鍛冶工房・かまど・朝鮮半島系土器など出土(2007)。
  • 作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神、天拔戸または天糠戸の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓神、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命と表記されている

    鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。鞴神社(大阪市天王寺区)、中山神社(岡山県津山市)、鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)、岩山神社(岡山県新見市)などに祀られる

    http://tokyox.matrix.jp/wordpress/鏡作、石凝姥命/

    第十代崇神天皇のころ、三種の神器 の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りす ることは畏れ多いとして、まず倭の笠 縫邑におし祀り(伊勢神宮の起源)、 更に別の鏡をおつくりになった。社伝 によると、「崇神天皇六年九月三日、 この地において日御像の鏡を鋳造し、 天照大神の御魂となす。今の内侍所の 神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられ た)像鏡を天照国照彦火明命として祀 れるもので、この地を号して鏡作と言 ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明 神として称えられていた。

    『延喜式神名帳』にある鏡作麻気神社、鏡作伊多神社については同じく社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。
  • 『古語拾遺』
    天照大神が岩戸から新殿に遷座したのち「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。
    『延喜式』神名帳
    宮中の神祇官西院において「御門巫祭神 八座」として、櫛石窓神・豊石窓神が4面の門に各1座ずつ祀られている。
  • 『古事記』によると、邇邇芸命は天降りされた折、三種の神器(玉・鏡・剣)を与えられ、 五伴緒神とともに思兼神・手力男神・天石門別神を従えた。
    天石門別神の亦の名を櫛石窓神、豊石窓神といい、御門の神である。

    『古語拾遺』によると、豊磐間戸命と櫛磐間戸命は太玉命の御子神とある。
  • 吉備

    備前国神名帳に「従二位 天津石門別大明神 坐三野郡」とある古社。ただし、三野郡(御野郡)には、石門別神社と称する式内社が二社あるので、当社のことかどうかは不明。

    古くは、石神宮・石神社と呼ばれ、中古には八幡宮とも称した神社だが、寛延三年、式内社再興による石門別神社と改称したという。

    境内の左手に南向きの稲荷社。眼病にご利益があるという。

    境内右手には、西向きの小祠が二つあり、本殿の右には、小さな石祠(末社)が四つ。境内案内によると、境内右手の小祠は、武甕槌命を祭神とする石神(右)と、「あしおうさん」と呼ばれる石神(左)のようだ。だが、特徴的な石は記憶に残っていない。祠の中にあるのだろうか。(その後、石祠(左)の前の平板が石神という情報をいただいた)

    ところで、古くは石神社と呼ばれていたということから、当時はこちらの小祠が当社の本体だったのではないだろうか。その後、八幡宮と呼ばれるようになった頃、境内社にされてしまったのかもしれない。

    とすると、式内社・石門別神社は、この境内社の方じゃないだろうか。などと想像しながらの参拝。

    また、小さな石祠は若宮・荒神社・注連神社・愛宕神社と思われる。

    石門別神社の由来
    この神社は、近世には石神宮・石神社と呼ばれていたが、寛延三年(一七五〇年)十二月大守肥後守を 中心とする 式内社再興運動が展開されたとき、この宮が古来から延喜式内社であり、祭神は従二位天 津石門別神であることから、当時の国司が岡山平野に石門別神社と改号し、こゝ田住と大供に祭られた と伝えられる。
     天孫降臨にあたり天岩屋に神こもりし天照大神を、天児屋命が神楽を奏し、天鈿女命が舞楽をなし、 天津石門別神や手力男命などがおつれ申したと伝えられる。また、元明天皇が和銅五年(七一二年)大 安麻呂に命じつくられた 我が国最古の古典「古事記」には、光華明彩・六合照徹と云われ、その御威 光は広大無辺で宇宙万物を生成化育する御本源であらせられる大日霎貴別名天照大神が天孫降臨に際し、 「 天津石門別神など 」の功績が記され、古くからの伝説にもされている。
  • 石見國那賀郡 大祭天石門彦神社
    御祭神
    天石門別命 (手力男命) 配祀 建御名方命
    島根県浜田市にある。

    創祀年代は不詳。

    社伝によると、阿波忌部氏の一族が当地に祀った神社。一説に、浜田市の西にある大麻山神社と同時期に祀られたとある。

    祭神は、天石門別命(手力男命)。配祀の建御名方命は、承和二年(835)十二月二十五日に信濃から勧請された神。

    社殿の後方に巨石があり、他に烏帽子岩があって、石信仰が本来の姿だろう。

    その後、諏訪神の勧請により、諏訪的性格を帯びた神社となったらしい。当社の特殊神事に、贄狩祭というものがあり、昔は、山狩りをして鹿を捕らえて供物にしていたようだ。現在でも、猪の肉を献じるという。

    境内の左手には、境内社である足王神社がある。猿田彦命を祭神とする神社で、旅の神。社殿には多くの草鞋が奉納されていた。

    神紋に関して。『式内社調査報告』には、亀甲に柏とあるが、『神国島根』には、亀甲のみ。『神社名鑑』には記載がない。
  • 石見の国三宮 大祭天石門彦神社

    御鎮座御由緒

    石見の国三宮にして創立年代不詳なるも阿波忌部族が第十 五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請と伝えら れ延喜式内社である建御名方命は仁明天皇の承和二年十二 月信濃国諏訪神社より勧請後鳥羽天皇文治年間に正一位三 宮大明神の称を許されている。
  • 天乃石立神社

    柳生戸岩谷の天乃石立神社は、延 喜式神名帳に記載されている式内社 である。延喜式は一千年前延長年間 に撰せられたもので、その神名帳には、 全国の官国幣社二一三二座を記載して いるが、戸岩谷の天乃石立神社も、 小社としてその中に加わっている。

     天乃石立神社の祭神は、天照大御神、豊磐門戸命、櫛磐門戸命、 天磐戸別命となっている

    神体は扉の形 をした巨岩(花崗岩)、前伏磐、前 立磐、後立磐の三つに割れている。 前立磐は高さ六メートル幅七・三メートル 厚さ一・二メートルあって、全体が扉の 形をしている。
     伝説によると、神代の昔、高天原 で手力雄命が天岩戸を引き開けたと き、力余ってその扉石が、虚空を飛来 し、この地に落ちたのだという。 虚岩信仰の好適例で、古来土地の人 達の信仰は深く強いものがあった。 正保二年(一六四五)但馬守宗矩は、 参道を修理して並木を植えているし、 宝永二年(一七〇五)柳生宗弘(のち 藩主俊方)は、能舞台を建て石燈籠 を寄進し、寛保二年(一七四一)藩主 俊平も、石燈籠を寄進している。

    -境内案内板-


    一刀岩
    この大きな岩は花崗岩ですが、 中央でみごとに割れています。
    一説によると柳生新陰流の始祖 柳生宗厳(石舟斎)が天狗を相手 に剣の修行をしていて、天狗と 思って切ったのがこの岩だったと 伝えられている。

    -境内案内板-
  • 厳島神社

    客神社を過ぎて、右手に曲がると本社がある。海中の大鳥居に向かって平舞台があり、中央に一段高い高舞台。平舞台の先に火焼前が突き出しており先端に燈籠、左右に門客神社がある。

    高舞台と両脇に門客神社
    (右・櫛磐窓神、左・豊磐窓神)
  • 『続日本後紀』承和7年4月丙寅(21日)条

    奉レ授二肥後国従四位下勲五等健磐竜神従四位上一。余如レ故。筑前国従五位下竃門神。筑後国従五位下高良玉垂神並従五位上。又勲八等宗像神従五位下。余如レ故。

    『続日本後紀』承和7年9月癸未(21日)条

    大宰府言。在二肥後国阿蘇郡一健磐竜命神霊池。洪水大旱未二嘗増減一。而涸竭卌丈。


    『文徳天皇実録』嘉祥3年10月辛亥(7日)条(850)
    進二山城国稲荷神階一授二従四位上一。授二摂津国広田神従五位下一。進二大和国大和大国魂神階一授二従二位。石上神。及大神大物主神。葛木一言主神等並正三位。夜岐布山口神従五位下。河内国恩智大御食津彦命神。恩智大御食津姫命神等並正三位。丹比神従五位上。伊勢国阿耶賀神従五位上。尾張国熱田神正三位。越前国気比神正二位。筑前国宗像神従五位上。竃門神正五位上。筑後国高良玉垂命神従四位上。肥後国健磐竜命神正三位。伊豆国三島神従五位上
  • 『先代旧事本紀』の天糠戸

    饒速日命は十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとある。

    邇芸速日命に随伴して天降った三十二人の防衛の一人。石凝姥神の親神で鏡作の遠祖。

    『日本書紀』の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとある。

    平田篤胤は、天火明命の別名としている。

    天糠戸命 を祀る神社

    鏡作坐天照御魂神社 奈良県磯城郡田原本町大字八尾字ドウズ814
    鏡作麻氣神社 奈良県磯城郡田原本町大字小阪字里中244
    中山神社 岡山県津山市一宮695
    櫟原北代比古神社 石川県輪島市深見町40-60乙町
    大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
    神部神社 山梨県南アルプス市寺部2171
    日前國懸神宮 境内 日前宮末社 和歌山県和歌山市秋月365
  • 式内社 紀伊國名草郡 日前神社 名神大 月次相嘗新嘗
    式内社 紀伊國名草郡 國懸神社 名神大 月次相嘗新嘗
    紀伊國一宮 旧官幣大社


    御祭神
    日前神宮 國懸神宮
    日像鏡 を御霊代に、日前大神
    相殿 思兼命 石凝姥命
    日矛鏡 を御霊代に、國懸大神
    相殿 玉祖命 明立天御影命 鈿女命
    境内 式内社
    紀伊國名草郡 麻爲比賣神社
    境内末社菟佐神社
  • 田原本町八尾の鏡作坐天照御魂神社

    (祭神は火明命、石凝姥命、天児屋根命の三柱?)が在り、寺川を挟んだ東岸沿いの小坂には鏡作麻気神社が建てられています。後者が祀っている神様はイシコリドメではなく、彼女の父親である天糠戸命(アメノヌカド)という余り馴染みの無い名前の方です。前者については江戸中期、1712年頃に出版されたと思われる『和漢三才図会』巻之二十八大和国城下郡には「鏡作の社」として「八尾村」に在る社が記録されており、
    祭神は①鏡作麻気神=天糠戸命、②石凝姥命の二柱だと明記しているのです


    と註記していますが『神社覈録』が類社として山城国葛野郡の木嶋坐天照御魂神社(蚕の社がある神社)というので、

    三つの神殿にはそれぞれ、
      ① 天照国照彦火明命(ホアカリ?)  ② 石凝姥命  ③ 天糠戸命
    の可能性がある。
  • April 2016 編集されました
    『大倭神社註進状 裏書 斎部氏家牒』は鏡作神社三座の伝承を伝えています。

    「神名帳云、大和國城下郡鏡作坐天照御魂神社一座(中略)社伝云、中座天照大神之御魂也、傅聞、崇神天皇六年九月三日、於此地改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂、今之内侍所神鏡、即當社其像鏡奉齋、爾来号此地曰鏡作」
    「鏡作」という地名の由来を述べているのですが注目すべきは「改鑄日御象之鏡、為天照大神之御魂」とある箇所です。

    崇神天皇六年九月三日に、太陽を象った鏡をアマテラスの御魂に改鋳した それ以来この地を鏡作というとあります。


    後続の文章は「神名帳云、鏡作麻気神社一座、鏡作伊多神社一座、社伝云、左座麻気神者、天糠戸命、大山祇之子也、此神鑄作日之御鏡像鏡、今伊勢崇秘大神也、(中略)右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、此神鑄作日象之傹(鏡)、今紀伊国日前神是也」
  • 三種の神器のひとつである「八咫の鏡」は福岡県平原古墳出土の直径46.5cmの内行花文鏡であることを、昭和41年刊行の『実在した神話 発掘された「平原弥生古墳」』で考古学者原田大六氏が主張されました。氏曰く 後漢の学者許慎の『説文解字』に「咫 中婦人手長八寸謂之咫周尺也」とある。「咫」とは十人なみの婦人が両手の母指と食指を使ってリングを作った時の弧の長さを言うのではなかろうかとされました。

    鏡作神社の境内には「鏡池」があり、江戸時代にここから出土したという「鏡石」が置かれています。表面に円形の窪みがあり鏡面研磨の用具と推察されるとの表札があります
    この円形の凹面の直径はほぼ23cm。ちょうど一般的な三角縁神獣鏡のサイズです
  • 鏡作神社の歴史は、第10代崇神天皇の御代に遡ります。

    疫病が流行るなどして乱れる世の中。皇居に八咫鏡を祀るのは畏れ多いと、豊鍬入姫命に託された天照大神の八咫鏡は大和の笠縫邑に祀られることになります。その際に別の鏡を作ることとなり、試鋳された鏡を天照国照彦火明命と称え、ここに祀ったと伝えられます
  • 鏡作神社の正式名称を「鏡作坐天照御魂神社」
    その主祭神は天照国照彦火明命です。
    鏡作神社本殿。
    左側から天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、石凝姥命が並びます。三柱の神様を合わせ、鏡作三所大明神が丁重に祀られています。
    「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。

    第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
  • 天火明命と饒速日命

    物部氏の宇摩志麻治(うましまじ・可美眞手)は神武時代の人である。同じく『勘注系図』が三世孫とする、倭宿禰(やまとのすくね)も神武時代の人である。
    海部氏の始祖彦火明は倭宿禰の三世代前である。
    これに対し、物部氏の祖、天火明命、亦の名饒速日は宇摩志麻治の一世代前である。同一人物とするには無理がある。

    火明という名前は、『日本書紀』などでは天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)の子、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の兄と、瓊瓊杵尊の子の、二箇所に出てくる。

    籠神社に火明命が持ってきたとされる、息津鏡(おきつかがみ)、邊津鏡(へつかがみ)が伝わる。
    息津鏡は後漢時代の初め、おおよそ一世紀の中ごろの鏡とされる。邊津鏡はより古い、前漢時代の鏡である
  • 丹後は古代においては、製鉄で重要な地域であったようだ。

    弥栄町(現京丹後市)に遠所(えんじょ)遺跡という大規模な製鉄、鍛冶遺跡が発見されている。発掘調査によって、古いもので5世紀末から6世紀初頭の製鉄の跡があることが判明している。本格的な製鉄(大規模な製鉄)としては日本最古の遺跡である。

    遠所遺跡は製鉄から鉄製品の完成まで全ての作業ができるコンビナートであり、工人の住居や生活の跡、古墳まで揃った遺跡のようだ。

    ちなみに、丹後はこのような大製鉄遺跡があったり、伊勢神宮の前身があったように、古代では重要な地域だった。天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社には、代々極秘で伝えられていた系図がある
  • 金屋子神は、「鉄山秘書・金屋子祭文」によれば、金屋子神・金山彦神・天目一箇神の三神同一神とされるが、なかでも天目一箇神が隻眼の神として注目される。
    『古語拾遺』には「天目一箇神」をして、雑の刀・斧、および鉄鐸を作らしむ」とあるが、実際にタタラ作業では、炉の温度を炎の色で判断するため、数日間、炎を見つめつづけなければならない。炎の色は両眼では見えにくいので、自然と片方の目で見ることになり、目を悪くするといわれた。
  • April 2016 編集されました
    昭和52年(1977)、北九州の国東半島国東町の重藤遺跡から鉄剣が出土した。その年代を九州大学で測定した結果、紀元前695年プラスマイナス40年という数値が出たという。
    しかし

    結局、公式には鉄剣は古墳時代のものとされたとか、、

    以下 出典

    http://blog.goo.ne.jp/logos3/e/7376bbb85d612a3e11281ae3c70beba1

    国東半島には二万〜三万トンもの鉄鐸があり、かつてここでは世界的な規模で製鉄が行われていたことが推定できるというのである。
    宇佐神宮に近い国東半島のつけ根にあたる海岸には、奈多八幡宮(奈多宮)が鎮座する。重藤遺跡は奈多宮に隣接しているのだが、この奈多宮は、宇佐の比売大神の前住地といわれ、主神は比売大神である。そして、奈多宮の東に広がる海岸は良質の砂鉄地帯で、この宮に近い見立山の山麓一帯は古代の一大製鉄地帯だったのである。そこからは鉄滓や、タタラ址と見られるガラス状に焼けた炉壁が数多く出土している。
    古来、宇佐神宮の重要神事である「行幸会」にも触れておきたい。これは6年に一度、卯と酉の年に行われるもので、京の公家から神服・網宝が貢納され、宇佐宮側にある古いものと交換する儀式になっている。
    その年には、まず下毛郡大貞の薦神社の池で刈られた眞薦(水草)で、長さ一尺、径三寸の方舟の形をした薦枕を作る。それを御神体として神輿に乗せて担ぎ、宇佐八幡周辺の8つの摂社を巡り、本社に納める。古い神体は奈多八幡宮に移され、6年を経て今度は伊予(愛媛県)の矢幡八幡に移動、最後は海に流されるのだ。
    また、宇佐八幡では、1000余年にわたって「宇佐八幡宮に神鏡を奉納する」という「放生会」の儀式も行われてきた。
    まず、豊前の国司が勅使となって宇佐から直線距離で35キロほど北西にある香春の採銅所に行き、小川で禊をして宮柱の長光家で鏡の鋳造に参加する。
    神鏡ができあがると、ひとまず豊前仲津郡(福岡県行橋市)の草場地区にある豊日別神社に運ばれる。そこから鏡は神輿に乗せられ、氏子たちが行列を組み、7日がかりのリレーで宇佐の隼人塚(凶首塚)に運んで祭りを行い、約6キロ離れた和間浜の浮殿に出るのだ。
  • 六ケ岳には宗像の三女神が降臨したという伝承がのこっている。『筑前国風土記逸文』には次の記事がある。「西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまして、埼門山に居ましし時、青(に)の玉を以ちて奥津宮の表に置き、八尺(に)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三つの表を以ちて神のみ体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と日ふ。其の大海命の子孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々」ここにいう埼門山は、岩波古典文学大系(以下、岩波古典大系本)の『風土記』 の頭註に、福岡県宗像郡の北端、鐘ノ岬とされている。『地名辞書』にも、崎門山は鐘ケ崎(鐘崎) の古名であろうとしているが、『鞍手町誌』には六ケ岳を崎戸山に比定している。山麓の鞍手町室木にある六ケ岳神社の祭神は宗像三女神を祀り、土地の人は三柱様と呼んでいるそうである。
    宗像神社文安元年(一四四四)の縁起には「三処大菩薩最初御影向地の事、室貴六嶽に御著有り、神輿村に著き給ふ、この村において、はじめて天神威を輝かせらる」とある。室貴は今の室木のことである。また永禄九年(一五六六)の棟書に「宗像郡室木村第二宮云々、室木は初め宗像郡の内なり」とある。これによっても、室木がはじめは宗像郡に属していたことが分かり、六ケ岳と宗像女神の縁由がおしはかられる。
    この室木の里長に長田彦という者がいた。小狭田彦とも書く。「六ケ岳神社記」によると、筑紫国造の田道命の子孫の長田彦が、大神の神勅をこうむり、崎戸山上に神籬を建てたとある。その子孫はながく神官をつとめたといわれる。その長田彦(小狭田彦)について「香月文書」には、本名を常盤津彦命といい、ニギハヤヒの子の天照日尊の十五世の末裔としている。天照日尊と宗像の中津宮の市杵島姫命との間に生まれた御子神のあとといわれている。直方市大字下新入字亀丘の剣神社の祭神の倉師大明神を祀るのは、田道命の裔孫の長田彦と社伝にある。室木の六ケ岳神社は六ケ岳の西に位置し、下新入の剣神社は六ケ岳の東側に位置している。ところで「香月文書」をみると、ニギハヤヒを祖とする小狭田彦の系譜に可美日子とか忍坂埴生とか埴安とか椎日下とか、物部氏の系譜にあらわれる人名を思わせるものがあちこちにあらわれてくる。香月氏は木屋瀬の北にいた中世の豪族である。したがって、その文書をそのまま信ずるわけにはいかないにしても、古い伝承を反映している点もあると考えられる。とくに椎日下の名は物部氏が河内の日下に蟠踞していたことを示唆するものとして注目に値する。また「香月文書」には、小狭田彦の四代の孫の天賀那川王は新北ならびに室木の神官に任ぜられたが、別に香月家の本家を継ぎ、香月の君となったものがいる。その養嗣子の倭男人は磐井の乱のとき、物部鹿鹿火をたすけてたたかい、磐井町子の北磐津をとらえて奴僕にした、とある。
    この六ケ岳の南麓、犬鳴川に沿うあたりの鞍手郡宮田町大字磯光字儀長に天照神社が鎮座する。祭神は天照国照彦天火明櫛玉餞遠日尊、すなわちニギハヤヒの命である。ニギハヤヒを祀る天照御魂神社がこの鞍手郡の六ケ岳のふもとに鎮座していたことを現地で知ったのは、大きなおどろきであった。社伝によると、垂仁帝の十六年、鞍手郡宮田村の笠木山(現在宮田町の笠置山、四二五メートル) にニギハヤヒの神が降臨したという。 
  • 日田の会所山
    『豊後国風土記』の久津媛
    この山で景行天皇と久津媛は会われているのだが、「久津媛という神が人になり代わり」・・という

    古事記
    岐比佐都美=別名は来日田穂維命(古事記)とあり日田との関連を考えてしまう。

    『古事記』には、垂仁天皇の王子、本牟智和気ほんむちわけ王が、出雲の大神の崇りで口がきけなくなり、出雲の大神に参拝して帰る途中、斐伊川の仮宮で口がきけきるようになったという説話がある。
    出雲国造の祖岐比佐都美(きひさつみ)が、川下に青葉の山のような飾りを造り、食事を献上したとき王子は口をきき、
    「川下に青葉の山のように見えるのは、石いはくまの曾宮そのみやに坐す葦原色許男大神を祭る神職の祭場ではないか」と言ったという。

    ここにきて『古事記』は、葦原色許男大神(大穴持大神=大国主神)が、杵築大社ではなく、曾宮に祭られていたのを認めているのである
  • 「国造本紀」に比多国造は志賀高穴穂朝(成務天皇)御世、葛城国造止波足尼を国造に定め賜う。とあり、すなわち、比多(日高)国があったことが紹介してある。

    「延喜式」に豊後國荒田(ありた)驛あり、名の義は荒田直の住めりし処などにて負わせたるべし。「姓氏録」に荒田直は高魂命5世孫剣根命の後なり、と有て、その剣根命と云うは、葛城国造、比多国造等の祖なる事、「神武天皇紀」「国造本紀」らによって知らる。

    「風土記」 日田郡靫編郷、欽明天皇の御世、日下部君等祖、邑阿自、靫部に奉仕し、此村に宅を造り、之に住む、斯に因み、靫負村、後人改めて曰く、靫編村云々。「姓氏録」に日下部は開化天皇9皇子彦坐命ノ子狭穂彦命後(☆「開化記」サホ彦とサホ姫は日子坐王とサホノオオクラミトメ【その母は春日建国勝戸売】の間に生まれたとしている。)に出ず。日田郡石井郷に昔、日下部春里という富豪の者あるは、蓋し、その後かとあり《※ 『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”との記載もある》。

    「姓氏録」に天孫ににぎの命が日向高千穂峯に降臨する際、天押日命、大来目部が背に天磐靫を負い手に天杷弓・天羽羽矢をとり、天孫の前に立って降りていった。以、大来目部を靫負部となす云々。
  •  「天孫本紀」にはまた物部阿遅古連の姉妹として、物部連公布都姫夫人、字は御井夫人、また石上夫人と註記されている人物の名が記されている。布都とか石上とかの名が物部氏に関連することは明らかである。字を御井夫人というからには、筑後の御井とゆかりのある名前であろう。そこからとうぜん高良山との関係が推定される

    物部阿遅古と同一の人物ではないかと想像されている珂是古という名前が、『肥前国風土記』の基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見える。

    それによると姫社の郷の中に山道(やまじ)川が流れて、筑後川と合体しているが、昔はこの川の西に荒ぶる神がいて、通行する旅人を殺害していた。そこで神託をあおぐと筑前の宗像郡の人の珂是古に自分の神社を祀らせよと託宣が出た。珂是吉は幡をささげて神に析り、この幡が風に吹かれてとんでいき、落ちたところが自分を求める神の所在地であるときめた。するとその幡は御原(みはら)郡の姫社の森に落ちた。そこで珂是吉はそこに神が住んでいることを知った。その夜の夢に、糸くり道具が出てきて舞い、珂是古をおどろかしたので、その神が女神であることが分かった。やがて社殿をたて女神を祀った。それ以来、通行人も殺されなくなった。珂是古が社殿をたてて女神をまつったのは鳥栖市(佐賀県)の姫方(ひめかた)にある姫古曾神社であるとされているが、幡が風にふかれて落ちたところはそこから東方2キロのところにある福岡県の小郡市大崎という。この大崎にはいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がある。祭神は媛社神と織女神である。ところでこの神社の嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている

  • 肥前風土記 亘理(わたり)郷記に景行天皇筑紫巡狩のとき、御井川が巨大な湿地帯を為し、人畜渡りがたしを、生葉の山を船山となし、高羅の山を梶(鍛治)山とし、船を造り人々の便宜を図ったとあります。

    大分県竹田市

    景行天皇12年(82年)10月、天皇が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に「直入縣(なほりのあがた)禰疑野(ねぎの)に住む打猿(うちざる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)」という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため來田見邑(くたみのむら)【朽網郷】に入り、行宮(かりみや)を設けて土蜘蛛を討つための議(はかりごと)をされ賊を討滅されたといいます。
    後世、村人がこの行宮の地に景行天皇の霊をお祀りしたことに始まると伝えられ、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊を合祀し、「景行宮」と称したといいます。

    弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった、直入郡擬大領の吉野廣雄の娘は、嵯峨天皇の采女となり宮中に召されました。承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後、來田見郷(くたみのさと)に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を現在の鎮座地の境内の玉垣の内(現:擬山陵)に鎮め奉り奉仕し天皇の冥福を祈られました。
    その後の仁寿3年(853年)嵯峨天皇の霊をお祀りしたことから「嵯峨宮さま」として親しまれるようになりましたが、明治4年(1871年)に「宮処野神社」と改称され現在にいたります。

    また、社号にもなっている宮処野神社が鎮座する「宮処野」という小字の地名は、景行天皇が土蜘蛛を征伐する時に、行宮(かりみや)が設けらたことに由来するそうです。
  • 『日本書紀 卷第七』によると。。。
    景行天皇12年(82年)10月、天皇が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に 『 速見邑の鼠石窟(ねずみのいはや)に住む青(あを)と白(しろ) 』 、『 直入縣(なほりのあがた)禰疑野(ねぎの)に住む打猿(うちざる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)』という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため來田見邑(くたみのむら)【朽網郷】に入り、行宮(かりみや)を設けて群臣(まへつきみたち)と土蜘蛛を討つための議(はかりごと)をされました。そして、賊を討とうと、次に柏峽大野(かしはをのおほの)を訪れて、そこにあった長さ六尺、廣さ三尺、厚さ一尺五寸の石に、天皇は祈って仰せになられました。「もし私が土蜘蛛を滅ぼすことができるならば、この石を踏むと柏葉のように舞い上がれ」と。
    そうして石を蹶むと柏葉のように大虚(おほぞら)に舞い上がりました。それで、この石は蹈石(ほみし)と名付けられました。この時に祈った神は志我神(しがのかみ)・直入物部神(なほりもののべのかみ)・直入中臣神(なほりなかとみのかみ)の三神であると記されています。

  • この祖母山(姥が岳)には嫗岳伝説と呼ばれる伝承が幾つかの書物に残されています。
    それは蛇の子供が英雄(豪族の始祖)となる伝説です。水俣出身の民族学者、谷川健一氏は、“豊後と肥後の阿蘇と日向の境の地の姥が岳伝説に、倭の水人の後裔である緒方一族の蛇の鱗の伝承を付け足して、それが多氏一族によって信濃に持ち込まれ、小泉小太郎伝説となった。” と、九州、伊予、信州に伝わる伝承を提示しながら述べています(谷川健一、日本の地名)。すなわち、このことも神武天皇の次男、神八井耳命を祖とする多氏の一族が九州(火の国、大分、阿蘇)の地から信濃へと移住した痕跡という訳です。

    ●【平家物語】【大神氏系図】嫗岳伝説
    豊後(或いは日向)の夫なき(或いは塩田太夫の)娘の元に通う謎の男、その正体を知ろうとして、針に長い糸をつけて男の衣服に刺しておくと、その糸の先は姥岳の岩屋にとどいていた。岩屋の中にいた大蛇が男の正体の嫗岳(高千穂)大明神。生まれた男の子は偉丈夫で、アカガリ太夫とよばれた。
    惟榮の先祖に、あかがり太夫と称せられた大神惟基がいる。惟基は海賊の棟梁として有名な藤原純友の副大将であり、佐伯を根拠地として東九州の水軍を率いた。天慶4年純友が捕らえられたその年に、大神惟基もつかまった。
    尾方三郎惟義(榮)はアカガリ太夫の子孫で、身に蛇の尾の形と鱗があれば、尾形という。惟榮は壇ノ浦の戦いのとき宇佐八幡宮に火を放ち、また、義経の九州亡命を船を出して迎え入れようとしたかどで咎めを受け、上州利根郡に流された。そこで一子惟泰をもうけたが、惟泰は沼田氏を称し、沼田城にいた。その子孫は脇の下に蛇の鱗があったという。

    ●【魏志倭人伝】対馬、倭の水人の伝承
    倭の水人は、体に蛇の入墨をしていた。宗像は胸の部分に、尾形は尻の部分に蛇の入墨をしていたことから起こった名である(金関丈夫の説)。対馬の豊玉村の仁位に鎮座するわたづみ神社(安曇磯良の墓と称するもの有)の祀管の長岡家は安曇氏の系統の家柄とされるが、代々身に鱗のある人間が生まれるとの伝承があった。
  • ●【和名抄】信濃のアソ郷
    信濃国小県郡安宗郷(『地名辞書』今の東塩田村、西塩田村、別所村及び富士山村にあたる。総名塩田原ともいう、東塩田に古安曾の地名残る)
    塩田はかつての塩田庄で、上田市の南西にあたり、塩田平の全域が含まれる(信濃国塩田庄は安宗郷の後身とされる)。その本郷が現在の上田市大字本郷で、そこが信濃国造の所在地に比定される。信濃国造と同族とされる多氏の祖の神八井耳命の子孫に小子部連があり、国造所在地は小県郡・上田市域とほぼ同域と考えられる。平安末期に成立した小泉庄は上田市に含まれる。
    ●信濃の姥ケ岳伝承・小泉小太郎伝説【柳田國男『桃太郎の誕生』(小県郡史余篇)】
    小県西塩田村の山頂に寺があった。そこに毎夜美しい女が通ってくる。その正体を知ろうとして、針に長い糸をつけて女の衣服に刺しておくと、その糸の先は産川の宿屋にとどいていた。女は大蛇であって、赤子を産んで自分は死んだ。大蛇の産み落とした子供は、下流の泉田村大字小泉の老婆に拾われ育てられ、その名を小泉小太郎と呼ばれた。小太郎は小男であったが、十六の時大変な力を見せた。小太郎の子孫は代々横腹に蛇の斑紋がある。
    ●【生島足島神社】長野県上田市にあるこの神社は安宗郷に鎮座する式内社
    その神社の神職の一族は、かって神社の池の鯉を食べたかどで、体に鱗のあるものが出てきたので、鯉をたべないという。鎮座当初は多氏、ついで同族の金刺氏、他田氏が社家をつとめた。この神社は多氏が信濃国造として入国したとき、国府の置かれた地に国魂の神として勧進したものとされる。
    ●信濃の安曇(倭の水人の末裔)【中山太郎】
    長野県の南安曇郡穂高町の穂高神社は、海神穂高見命を安曇氏が奉斎した神社。神官は21日間の水垢離をして、穂高岳に登り蛇を見つけて帰社し、盛大な祭典をいとなむ。そして、氏子にはかならず、脇の下に鱗のあるものが生まれるという伝承がある
  • 代々身に鱗のある人間が生まれる
    祖母山 緒方郡 緒方一族 尾方三郎惟義(榮)
    大蛇の子、身に蛇の尾の形と鱗があった

    肥後阿蘇 多氏(火の君)鯰を食べない

    肥前杵島郡 籾岳 多氏(火の君)子授祈願で蛇の子を授かる

    伊予 河野一族. 河野通清
    大蛇と人間の女の間に生まれ、その顔面と両脇に鱗のようなものがあった

    信州 小県郡安宗郷. (小)泉小太郎. 大蛇の子、子孫は代々横腹に蛇の斑紋

    信州 生島足島神社. 安宗郷. 多氏(金刺、他田氏)
    かつて鯉を食べて鱗ができた。
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