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4から6世紀末までの古墳分布 琵琶湖の湖北地方にはわかっているだけでも40基を超える前方後円墳があり、そのうち…
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かつて「東成郡」に属していた喜連村の項には旧家に伝わる一つの「家記」が紹介されているのですが、書かれている具体的内容は先に見た楯原神社の由緒書や近隣の地で語られる口碑とも奇妙に一致しており、編集者の井上も『其の記する処を見るに、口碑の伝ふる所に符合し、口碑は此の家記より出しにはあらざるかと思はしむ』と述べています。
武御雷男の子孫が国の名を「大々杼国」、郷の名を「大々杼郷」と名づけたが、神武帝から大々杼の姓を賜った。
神八井耳命と孝元帝が、大々杼彦仁の時、行幸された。此の折、孝元帝の像を彫刻し天神社にお祀りした。
崇神七年、大々杼名黒が帝の詔を受け、新たに二つの社を建てた。その一つが祖神・楯之御前社である。名黒が祖宗以来領有している所は、南は多治比、北は浪速、東は味原までに及ぶ。
仲哀帝は、大々杼黒城に嗣子の無いことを聞き及び、日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を黒城の娘・黒姫に配せしめられたが、二人の間には杭俣長日子王が産まれ、田別王は狭山池の水を引いて田を作り、息長河を掘って水を淀川に注がしめた。
皇后摂政11年、皇太子品陀和気命は武内大臣、依羅吾彦などを引きつれ皇后と共に行幸され、息長の姓を与えられた。
皇后摂政51年、杭俣長日子王の娘・息長真若中女が皇太子妃となり、56年、若沼毛二俣王が産まれた。
応神8年、杭俣長日子王の求めに応じ若沼毛二俣王が婿入りし、弟女真若伊呂弁王と息長の家を継いだ。二人の間には、 大郎子(大々杼王)、忍坂大中女命、沙禰王、琴節郎女(衣通姫)など七人の子宝に恵まれた。
長子の大々杼王は仁徳帝の勅命を奉じて淡海の息長氏となり、弟・沙禰王が息長家を相続した。
允恭帝の頃、沙禰王の娘・真若郎女を淡海の大々杼王の子・彦主人に嫁がせ、同帝39年、大々杼命が河内の産殿で産まれた。この王子は、産まれて後も河内で育てられ、8年を経た雄略帝元年、淡海の父親の許に送られた。
ところが実母の真若郎女が早世したため「異母」福井振姫に随い成長し、越前三国の君と号した。この王子は後、天下を治めた。
出典
http://www.ten-f.com/kawachi-to-okinaga.htm
兵庫県たつの市誉田
祭神
神功皇后、應神天皇、玉依姫命 配祀 息長日子王
由緒 式内小社。
『播磨鑑』は、広山の郷阿宗村にあり、古老曰わく、今の広山村の八幡がこれで、上代には立岡山にあった。祭神は阿宗親王を祭る由伝える、とする。
現在の阿宗神社は式内阿宗神社と八幡宮が合体したもので、本来の祭神は息長日子王である阿宗神、息長帯比売の弟と云う。針間阿宗君の祖である。
また御食を五十狭沙別大神イササワケノオオカミに奉る。故にこの地を気比浦と云う。のち五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎き祀る(式内気比神社)。
皇后の御船が水門を出でんとする時、黄沼前県主、賀都日方武田背命は、その子武身主命を皇后に従わせ嚮導(水先案内人)を為さしむ。故に武身主命を名づけて水先主命と云う。