讃留霊王伝説、讃岐の大魚退治

03/20編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
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讃留霊王伝説については桂孝二氏が「讃留霊王伝説考」として『香川叢書』所載の讃留霊王伝説 について詳細なまとめを…

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  • 古事記
    この天皇(景行)、針間之伊那毘能大郎女を娶して生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命、次に倭根子命、次に神櫛王なり。
    神櫛王は、木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖なり。 櫛角別王は茨田の下の連らの祖なり。

    日本書紀
    次の妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生めり。(記は垂仁皇女の阿邪美都比売り命が稲瀬毘古王に嫁いだとする) その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。 弟の稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。(景行紀、四年の条より)

    天皇本紀
    またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。              [景行天皇の条]より
    五十河彦命は、讃岐直、五十河別の祖なり。
    大稲背別命は、御杖君の祖なり。
    櫛角別命は、茨田連の祖なり。

    国造本紀
    讃岐国造  応神天皇の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫、須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定められた。

    姓 氏 録
    讃岐公 (右京皇別)大足彦忍代別天皇(景行帝)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
    酒部公 (和泉国皇別) 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
    羽咋公 (右京皇別)垂仁天皇皇子、磐衝別命の後なり。亦名、神櫛別命なり。続日本紀に合えり。
  • 「五十日足彦命」は垂仁ではなく、その次の大王景行帝の息子だとされる「神櫛皇子=神櫛王=神櫛別命」と同じ人物で「櫛角別王、五十河彦命、五十香足彦」の別名も持っていた四国の讃岐を本拠地とする豪族の祖だった。
    垂仁帝の「娘婿」として帝室の一員となった稲瀬毘古王即ち「稲背入彦命の父親」に当る人物に他なりません。そして、彼にはもう一つ良く知られた別名もあったのです。

    垂仁帝と天津彦根命の後裔、山代氏の娘・綺戸辺との間に産まれたとされる「磐衝別命(イワツクワケ)=神櫛別命と同じ」がその亦の名で、先代旧事本紀は母親を丹波道主命の娘・真砥野媛だと伝えていますが、記紀も旧事本紀も同皇子が「三尾氏、羽咋氏らの祖」であると明記しており、三尾氏が六世紀初めに大和の実力者たちによって大王に推挙された継体帝の母親・振媛の実家であることは周知の通りです。

    出典
    http://www.ten-f.com/ishida-to-hatashi.html
  • イカタラシヒコ

    五十建速石別命は丹波道主王の孫なり。薊瓊入媛の子なり。兄を建速石別命という。速石里より貢奉る。弟を五十日足彦尊という。五十日里より貢を奉る。 [丹哥府志]
                        
    五十日足彦尊は、垂仁天皇と薊瓊入媛との皇子で、成務天皇の別名である。(中略)膽香足媛の「イカガ」は、今の五十河のことである。              [丹後旧事記]

    苅幡戸辺の父が山背大国不遅という名の人でしたから、その娘が産んだ皇子を祀る社が山城国内にあって当然です。そして、今、五十日足彦命を主祭神とし、大山咋命を配神として鎮座しているのが延喜式内社の石田(イワタ)神社である。
  • 垂仁帝と天津彦根命の後裔、山代氏の娘・綺戸辺との間に産まれたとされる
    「磐衝別命(イワツクワケ)=神櫛別命と同じ」

    羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。
    祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと)です。磐衝別命とも書きます。
     羽咋の地名の由来については、 「第11代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった」とあります。 これは羽咋神社「社記」にもとづいてのいい伝えです。

    垂仁天皇の皇子・石衝別(いわつくわけ)王、また『新撰姓氏録』によれば、羽咋神社の「社記」にも出てくる垂仁天皇の皇子・磐衝別命(いわつきわけのみこと)の後裔となっている。となると石衝別王と磐衝別命は同一人物の事を指しているのであろう。『古事記』や「国造本記」では、羽咋君は継体天皇擁立の際、重要な役割を果たした近江の三尾(みお)君と同祖の氏族と記されている。また『釈日本紀』所引の「上宮記」によれば、垂仁天皇の皇子・偉波都久和希(石衝別)の子孫が余奴臣(江沼臣)の祖を娶って、継体天皇の母、比布利比売命(振媛(ふりひめ))を生んだと記しており、継体天皇の出自伝承にも明記されていないが、羽咋君が影を落としている。しかし、羽咋君の動向に関する文献史料は少なく、不明な点が多い。
    出典
    http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/HakuiHistory.htm
  • 羽咋神社「社記」では、垂仁天皇の時代、石衝別命が勅命を受けて下向し、この地方の鎮撫にあたり、ついに没した。住民が御陵を築くとともに、その恩徳に報謝し石衝別命を祀ったのが本社の起源だといわれ、皇子の磐城別命をはじめ後裔は羽咋国造(はくいこくぞう)となった。
  • 古墳時代が終わった後,瓦を葺いた壮麗な建物が,浄願寺山の東麓に建てられました。そこは,坂田廃寺跡といわれており,付近からは,金銅誕生釈迦仏立像や,瓦を焼いた窯跡も発見されています。
     ところで,石清尾山の南麓は坂田郷といわれていました。その坂田出身の高僧「観賢(853~925)」は奏氏といわれています。観賢は,空海に弘法大師の称号を贈るよう運動を起こした人で,彼によって弘法大師信仰のいしずえが築かれたことは,忘れてはならない事柄でしょう。また,日本霊異記という古い書物には,石清尾山坂田の大富豪綾氏夫婦が,貧者に施しを与えた説話が残されています。

    奏氏と綾氏はいずれも,讃岐の渡来人としてよく知られており,石清尾山古墳群が造られた山の麓に,数百年後,渡来系の氏族が栄えたことは,間違いありません。
  •  神櫛王は、景行天皇の皇子で讃岐国造の祖といわれる。

     武殻王は、日本武尊の皇子で讃岐綾氏の祖であることは、古事記・日本書紀に載せられている。

     讃岐特有の伝説に、讃留霊王というのがあり、景行天皇二十三年南海の悪魚を征し『讃岐国』を守ったと『讃留霊記』・『讃留霊公胤記』が伝えている。

     しかし、『讃留霊王』は、すこぶる異論が多く、或いは『大碓命』、或いは『日本武尊』、或いは『神櫛王』、或いは『武殻王』とされている。讃岐の神社は、三者の密接な関係にあるからです。

     『神櫛王』を祀る神社
      綾歌郡県社   城山神社   仲多度郡象郷村郷社 櫛梨神社
      仲多度郡県社 大麻神社
        いずれも延喜式内社で、城山神社は名神大社です。
      仲多度郡與北村村社 皇美屋社 象郷村村社 大歳神社
          高篠村村社 富隈神社
      ◆いずれも悪魚征討を以って『神櫛王』としている。
        陵墓は、城山と櫛梨と王墓(木田郡牟礼)の三説がある。
        孫の須売保礼命は讃岐の国造りに任ぜられ、その子孫の多くは東讃に繁殖した。
        寒川・三木・山田三郡の戸主であった讃岐氏は、王の子孫で、後の寒川・高松・植田・三木・十河・三谷・神内・山田・由良の諸氏は皆その後裔という。

     『武殻王』を祀る神社
      綾歌郡陶村郷社  八幡宮   富熊村村社 八幡神社
         岡田村村社 岡田神社 等がある。
      ◆いずれも悪魚征討を以って『武殻王』としている

    『讃留霊王』については、当国史家の古くより論争するところで容易に決しがたい問題である。
        陵墓は、綾歌郡法勲寺村にあり讃留霊王神社がある。
        綾氏は多く西讃に発展し綾大領貞宣、三野大領綾高隼等が居て、三野氏・詫間氏等がその後裔といわれ、貞宣の子孫が後の讃岐藤氏です。
        讃留霊王並びに綾氏関係の神社
         綾歌郡栗熊村 村社 宇閇神社(延喜式内社)
         宇多津町   県社 宇夫階神社
         坂出町       横潮神社
         三豊郡    県社 大水上神社(延喜式内社 讃岐二ノ宮)
         三豊郡荘内村    三崎神社

                             -縣神社史より
  • 景行天皇
    垂仁天皇が死ぬと一転して景行天皇は自ら兵を率いて西国に赴き、反乱が随著で
    あった南九州の球磨族や北九州の囎唹族の鎮圧にあたった。

     この武力討伐による政策には景行の諸皇子らも総動員させ、日本武尊を東北岩手方面へ、
    御諸別王を東北山形方面へ、櫛別王を四国讃岐方面へ、武田凝別王を四国伊予方面へ、国
    乳別王を四国宇和島方面へとそれぞれの要地に派遣。天災や人災を祓う神社建立と地元の
    異族鎮定に当たらせている。この中で景行本人は専ら九州地方で活躍した。しかし日本武尊、
    御諸別王が逝去すると、後年、二皇子が治めていた関東・東北方面への巡察に赴いている。

     朝廷でもその政治的影響力は計りしれず、長期に渡って実質的な権力者の座にあり続け
    た。晩年までかなりの高齢に至っていたと推察できるが、この天皇の没年ははっきりしない。
    のち、山辺道上陵(現・奈良県天理市渋谷町)に葬られた。
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