海部氏、凡海氏、凡直と瀬戸内水運

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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海部氏(あまべうじ)                               海部あまべを統率した伴造氏族…

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コメント

  • 海部氏系図
    同系図には、凡海嶋について「其の凡海と号くる所以は古老傳へて曰く往昔天下治しめすに當り大穴持神少彦名神と此地に至り坐しし時海中の大嶋小嶋を引集へ小嶋凡そ拾を以って壹の大嶋と成す故名づけて凡海と云う 當國の風土記にあり」とあり、籠神社の祭祀において、もともと出雲神族と関わりの深い場所だったのかもしれない。
  • 彦火明命のまたの名が天照国照彦天火明命櫛玉饒速日命すなわち饒速日命で、天磐船に乗り虚空に登りて凡河内国に降り、其の後大和国登鳥見白辻山に遷って登美屋彦の妹登美屋姫を娶って可美眞手命を生み、また天翔りて丹波国に遷り凡海の息津嶋に留ったことが記されている。時代が下って、大宝元年三月の大地震で凡海嶋が海中に没し、「漸く纔かに嶋中の高山二峯立岩神と海上に出で今常世嶋と号く 又俗に男嶋女嶋と稱す 嶋毎に神祠有り 祭らるるは彦火明命と日子郎女神なり 當國風土記に在り」と記されている。大地震によって「此の嶋一夜にして蒼茫変じて海と成る」という状態になったことから、「故爾に彦火明神佐手依姫命と共に養老三己未年三月廿二日籠宮に天降り給ふ」ということになった。籠神社の社伝では、養老元年以前には彦火明命の別名とも伝えられる彦火火出見命が主神とされていたが、彦火明命が主神となり、彦火火出見命は養老年間以後境内の別宮に祭られ現在に及んでいるという。
  • 先代宮司の海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』では、彦火明命と饒速日命は別神とされており、表面的に物部氏の立場に迎合して挿入されたとものといえる。ただ、海部氏に大和への降臨伝承がなかったわけではなく、ただそれは彦火明命の事跡ではなく、孫の天村雲命が大和へ天降ったのだという。海部穀定氏によれば、火明命・天香語山の大和降臨伝は、本来は、天村雲命をも加えて三代の降臨伝が変改されたもので、一考を要するのは、饒速日命と火明命についてではなく、饒速日命と天村雲命についてでなければならなく、「大和国に於て、古く、天神の御子の降臨伝が相続いて二度あった。その一つは、火明命、天香語山、及び、天村雲命の降臨伝であり、又、一つは、饒速日命の降臨伝であったと考えられ、天村雲命と饒速日命には、どちらにも降臨伝があったと考えられる」という。
  • 「火明命は本来は、特筆せられねばならぬ大和国の大祖神であるが、これを、饒速日命と習合同神とし、饒速日命の降臨伝をこれに付会して、天村雲命の本来の伝を抹消すると同時に、天村雲命を祖とする大和国開発の大氏族の発祥を厳秘としたもののようである。」とする。
  • 備中一宮吉備津神社。
    その本殿の外陣西南隅に、吉備海部直の祖が祀ら
    れている。

    櫛振(吉備海部直祖)
    小奇(同、女)
    真振(同、男)

    小奇と真振は、櫛振の子供とされる。
  • 内宮の禰宜に次ぐ重職である宇治大内人(玉串大内人)で、心御柱を造立するなどの伊勢神宮における内宮祭祀の中心的な役割を担っていた宇治土公氏は、天鈿女命と猿田彦の合体した系に連なる一族であることを確認した。

    『古事記』は宇治土公から分かれた猿女君である稗田氏の阿礼が誦していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太朝臣安萬侶が記録編纂し、和銅5年(712)、元明天皇に献上された。日本最古の書といわれている。

     その序文によると「和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せらかれましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました」 」現代語譯古事記武田祐吉訳 青空文庫
    とあり、天武帝の命によって選録が始められたものであることがわかる。

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    本居宣長訓『古訓古事記』

    『古事記』は本居宣長が門下に列する賀茂真淵以来、『古事記』成立が公の史書に記載がないことなどから偽書説を唱える向きもある。管見では大和岩雄氏の偽書説に触れたことがある程度である。猿女君が『古事記』成立後に朝廷で目立った活躍がみえないことから、その地位の低下が推定されるが、これは藤原氏が朝廷で絶大な権力を掌握していくことと関わりがあるものと思われる。天孫降臨に重大な役割を果たした各部族の苗裔たちの地位の低下とも連動しているようにも思われる。神祇を司る中臣氏や、忌部氏、猿女君に大きく影響したことを想像することは難しくない。伊勢の磯部氏にも大きな氏族の改編をもたらしたと考えられる。

    そのようなことから、拙ブログは『古事記』偽書説にも興味がないではない。かつての朝廷における一族の栄光への復権を願い、書(偽書)によって正そうとしたのかもしれない。凋落する一族の復権を「偽書」によって成し遂げようとしたとして、『古事記』や物部氏による『先代旧事本紀』の成立に偽書説を唱える向きは少なくないようだ。偽書といっても、氏族伝承に基づくもので古事記偽書説は学界的には否定されているし、『先代旧事本紀』を積極的に取り上げる論者は増えている。

    『古事記』の場合、その氏族のうちに多氏(太、大、意、富、飯富、於保)があり、猿女君は多氏に関係している氏族なのかもしれない。拙ブログは阿倍氏が、この多氏や和邇氏や尾張氏と、どのように関係しているのかについて興味があるのだが、これらの氏族伝承は重なり合っていることが多いことにも気づかされている。

    陸奥の安倍氏に関わる伝承は、この氏族たちの影響がみられると考えているのだが、複雑にからまり、もつれた紐を解いて注釈をしていく作業は正直、身に過ぎたることを課しているので、根本的な誤謬がないかと懼れている。それでもやめられないのは、陸奥安倍氏の魅力のせいだ。日本古代史に遡り、日本国と天皇の歴史に関係する氏族伝承をもつ。安倍氏が祖とする大彦は皇族だが、ともすればそのアンチテーゼにもつながるナガスネ彦を始祖とする氏族伝承をどうどうと掲げている。どうしたことだろう。
    そうした安倍氏のひそやかなプライドの源泉をたどることがどんな意味をもつというのだろうか。とにかく興味はつきない。

    天武天皇は古代を画する日本国を国家たらしめた比べる者もない英雄だ。
    天武帝は諱を大海人皇子(おおあまのみこ)といった。それは天武天皇の殯(もがり)に、「是日、肇進奠卽誄之。第一大海宿禰荒蒲(おおあまのすくねあらかま)、誄壬生事。」(天武紀朱鳥元年條)とあって、海人族である大海宿禰が「壬生の事を誄した」とあるからである。(天武天皇は生年が明らかでなく、前半生に不明なところが多い。出生には謎が多く、さまざまな説がある。朱鳥元年9月9日686年10月1日没とされる) 
    もともと壬生は「御乳(みぶ)」で皇族皇子の養育を司っていたものとされ、大海人は凡海氏(大海部の伴造)に幼少期に養育を受けたとされているからだ。凡海(大海宿禰)麁鎌は大勢の弔辞の第一番に天皇の生い立ちを偲ぶ弔辞を読み上げたのだ。

    さらに、凡海麁鎌に関してはもうひとつ重要な記事が『続日本紀』にある。
    つぎのようなものだ。
    「追大肆忍海宿禰麁鎌を陸奥に遣はす、」 
    以上は太田亮の『姓氏家系大辞典』にある凡海、大海の記述によった。

    谷川健一は『青銅の神の足跡』で、故人の生前の思い出を死者の前で節をつけて歌うように述べるのは今日でも南島の宮古島などでおこなわれているとしているが、大海宿禰麁鎌は大海人皇子の幼少の砌を知っていたからにちがいないという。天武帝の大海人の名もその乳母が大海氏だったからだ。大海は摂津の海部の統率者だった。天武帝はその乳母のもとで養育された。

    先の記事「大肆忍海宿禰麁鎌を陸奥に遣はす」とは、『続日本紀』の大宝元年(701)三月にあるもので冶金のために陸奥に派遣されたものだ。谷川は、大海宿禰麁鎌は鉱山の採掘する技術者であり、「麁鎌」は金属に関連する人名ではないかと推定する。天武帝は海人族であり、金属精錬の技術にも通じた集団をかかえていたのだろうか。

    このときから、100年あまり以前の『日本書紀』敏達十年(581)に蝦夷があらわれる有名な記事がある。「蝦夷である魁帥(ひとごのかみ)綾糟アヤカスらが三輪山に向って泊瀬川の中で水をすすり誓った」という。この蝦夷、綾糟はどの地方を根拠地としていたか、記述がなくわからない。

    さらに遡ると、ヤマトタケルは景行紀43年に虜にした蝦夷等を伊勢神宮に献上したとされ、景行紀51年には蝦夷等は昼夜喧嘩をして、出入りに礼を欠いたので三諸山のほとりに置いたが神山の木をことごとく伐ってしまう。里に出ては大声で叫び人民を脅かすので景行天皇はその本のところに獣心があって、中国(うちつくに)には住まわせがたい。それゆえに邦畿之国(とつくに畿外)に分かち住まわせよとして、これが今、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国にいる佐伯部の祖である、といわれている。
  • 03/14編集されました
    粟国造粟凡直 粟飯原氏系図

    伊邪那岐神・伊邪那美神 - 撞賢木厳之御魂天疎向津比賣命 - 月夜見命 - 八嶋士奴美神 - 天之冬衣神 - 大国主神 - 積羽八重事代主神・大宜都比賣神 - 若室神 - 天磐門主神 - 健豊神 - 健忍方神 - 多久理比古神 - 八倉主神 - 宇賀主神 - 畠多神 - 佐人 - 賀由比古 - 於志翁 - 屋那男 - 岩肩比古 - 豊長比古 - 里利夫 - 興利比古 - 田茂理 - 豊茂理 - 豊成 - 兼諸 - 経宗 - 忠成 - 忠宗 - 宗長 - 宗信 - 宗國 - 宗広 - 宗堅 - 宗親 - 宗昌 - 宗時 - 宗行 - 宗成 - 明宗 - 満胤

    粟飯原家は昔より「上山の三日月」といえば国内にだれも知らない者がない家柄。代々当主となるべき者には体の一部に三日月の痣が現れていたと。またその者達は阿波の祖神である大宜都比売命の子孫であり、代々国造として名西山分を支配し、一宮大粟神社の神官をしていたという
  • 続日本紀 延暦二年十二月甲辰阿波人正六位上粟凡直豊穂任國造トアリ、粟国造ノ本姓 粟凡直ナル事ヲ知ル可シ。此「豊穂 」ハ「豊茂理」亦ハ「豊成」ナトノ事ニヤ。
    『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。(Wikipediaより)
  • 伊予
    凡直は国造の系譜をもっており、また同郡にこれ以外の有力豪族を見出すことができないことからみて、郡司であった可能性が強い。
     桑村郡の初見は天平八年(七三六)の正税出挙帳である(正倉院文書・一)。これによれば、大領に凡直広田、主政に大伴首大山の名がみえる。ここには桑村郡と記されていないが、郡司の定員からみて小郡であることは明らかである。ともあれ、桑村郡の郡司は凡直であった。
  • 伊予の桑村郡の大久米
    播磨国司山部連の先祖伊予来目部小楯が播磨国赤石郡縮見屯倉で億計・弘計の二王子を探し出し、天皇として迎えた記事があり、また、同書顕宗前紀には、小楯が郡県を巡行して田祖を収取したと記されている。さらに、『古事記』にも同様の内容が伝えられている。ただ、これらの記事は多分に伝承的であるため、そのまま史実とみなすわけにはいかない。しかし、小楯の職が「国司」あるいは「国の宰」とされていることから、律令的な国司制成立の過渡期にあたる時代を反映したものと考えることができる。
     ところで、この記事から伊予の久米部の性格をある程度推測することが可能である。つまり、伊予来目部小楯は山部連の先祖とされているが、山部連は古くより山人集団を形成し、大和政権の軍事的役割を担っていた。それは、大化前代より宮城の門を警衛することを職掌としていたとされる宮廷一二門号氏族の中に山氏が含まれており、待賢門にその門号が付されていることからも明らかである。その山氏は山部連と同族である。
    したがって、伊予の久米部がこのような門号氏族である山部連と結びつく伝承を有することは、伊予国が古代において大和政権の重要な軍事的拠点であったことを示すとともに、久米部そのものも、このような軍事的氏族と結びつくことが自然であるような性格を有していたと考えられる。
     さらに、このような性格を示す記事として、伊予国の人、浮穴直千継らの先祖が大久米であるとする史料がある(続日本紀)。これによって、浮穴直と久米直とが同族関係をもっていたことがわかる。ところで、この浮穴直は移受牟受比命の後裔であり、一方、大和政権の軍事に深くかかわった氏族である門部連は安牟須比命の後裔とされる。両者は同じ神と考えられることから、浮穴直と門部連とは同族関係をもつことになる。したがって、久米直は浮穴直を介して門部連と結びつくのである。このように、久米直は山部連・門部連など古代の代表的な軍事的氏族と関わりをもっており、そこに久米直・久米部の氏族的性格があったといえよう。
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