孝霊天皇、細姫、和知都美、百襲姫

January 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image孝霊天皇、細姫、和知都美、百襲姫

倭国香媛 磯城県主の和知都美の子 『書紀・旧事』倭国香媛またの名を紐某姉(はえいろね)、妹を紐某弟(はえいろと…

Read the full story here


«1

コメント

  • 考霊天皇は、兄、大吉備諸隅尊の子(古代は末子継承の習慣があり、兄はその後見役などの役目を担った)、稚武彦、弟稚武彦を伴い、賊の制圧に向かった。
    兵庫の佐多岬で軍を結集、神事を行った後、稚武彦軍を瀬戸内へ

    考霊天皇は、倭国香媛を娶り、第2第3婦人を置き、五十狭芹彦尊(末子.吉備津彦尊)等を儲け、自らは政務に就かず、孝元天皇(どうやら実子ではなく、今で言うちんば従兄弟に当たるようだ)に皇位を譲り、倭迹々日百襲媛を建てて院政を行なったようである。
    晩年、考霊天皇は、細媛の墓所吉備上つ道に隠遁、この地で生涯を終えたと思われる。
    考霊天皇亡き後五十狭芹彦尊は、崇神天皇の命により、四道将軍の一人として、同じ吉備上つ道へ派遣された
  • 阿蘇神社

     肥後国一の宮、官幣大社、式内社明神大の社格であり、楼門から宏壮な造り。社伝によれば、創建は考霊天皇9年(前281)、十三座が祀られているが、特に重く祀られているのが、一の宮の建磐龍命(たけいわたつのみこと・神武天皇の孫神)、二宮の阿蘇都姫命(あそつひめのみこと・一の宮御妃神)、十一の宮の國造速瓶玉命(くにのみやっこはやみかたまのみこと・阿蘇初代国造)。境内正面には社殿が三棟。真ん中が拝殿、一の神殿には祭神親族の男神五柱、二の神殿には女神五柱を祀る。
  • 竹生島

    考霊天皇の時、霜速彦命(シモハヤヒコノミコト)、気吹雄命(イブキオノミコト)、坂田姫命(サカタヒメノミコト)、浅井姫命(アザイヒメノミコト)という四人の神様が琵琶湖の北にいて、ある日、男勝りのアザイヒメノミコトはイブキオノミコトと力自慢をして負けてしまった。そして、アザイヒメノミコトは湖にツブツブという音と共に沈んで隠れてしまったのです。その時にできた泡が固まり、岩になり、島になり、そして最初に竹が生えて来たことと、ツブツブという音が重なってチクブシマと言うようになった、と言う話が残っている。
  • 三上山の麓にある御上神社

    三上山は近江富士とも呼ばれ、富士山型の美しいシルエットを持つ山で、神体山でもあった。境内の説明書きによれば、いまから2200年前の考霊天皇6年6月18日に、天照大神の孫である天之御影神が三上山に降臨したことから、御上祝(みかみのほうり)らがこの山を神体山として祀るようになった。その後、養老2年に麓の今の地に社殿を造営し、遷祀したという。
    以来、三上山の磐座(いわくら)を奥宮とし、山麓の本宮を里宮として祀っている。

    御神神社に祀られる天之御影神は忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰された。

    近くで大量の銅鐸が出土

    「御影」は「和名抄」に「霊」を「美太万・みたま」また「美加介・みかげ」という、とある。神霊、の意。この神は、近江の御上神社(滋賀県野洲郡野洲町三上)の祭神である。「延喜式」神名帳に、御上神社(近江国野洲郡)とある。

    第九代開化天皇の子、日子坐王が、この天之御影神の娘の息長の水依比売を妻にして、丹波の比古多々須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしおう)以下五子を生む。この系譜は天上界の神霊、息長川(今の大野川)や琵琶湖の水霊というように神秘的な素性でつながり、のち沙本毘古の謀叛の後段に、垂仁天皇に召されて後宮入りをする浄き民の父として美知能宇斯王(みちのうしおう)が存在している。「姓氏録」には「明立天御影命」の名が見え、額田部湯坐連の祖
  • 稚武彦命

    八王子神社
    大阪市東成区中本4-2-48
    祭神
    八王子大神、宇賀御魂神、素盞嗚命、奇稻田姫命、大己貴命
     摂社 八立竜王大明神、白竜大王、熊鷹稲荷神
    主祭神の八王子大神は人皇第七代考靈天皇の第八皇子稚武彦命で、第八王子であるところから、俗に八王子大神と敬められています
    稚武吉備津彦、吉備津彦のことのようだが、普通、八王子とは素盞嗚尊の御子達を指すことが多い。


    桃太郎神社. 熊野神社; 吉備津彦命の弟の稚武彦命が桃太郎のモデルだとする; 讃岐国守だった菅原道真が、稚武彦命による海賊退治の話を聞いておとぎ話にしたものが広まった
  • 孝霊神社

    蘆戸(いおと)神社。
    住所:磯城郡田原本町(たわらもとちょう)黒田
    祭神:孝霊天皇。 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦命(吉備津彦)、稚武彦命。

    孝霊帝、御墓山を参拝
    阿毘縁関を破り、出雲国に侵入
    弟稚武彦、粟谷(三刀屋町)に陣を構える。
    孝霊帝、稚武彦と殿之奥(比太神社)でイザナミ祭祀
    孝霊帝、佐々布久神社の地に陣を構え、出雲軍能義政庁を急襲
    弟稚武彦、木次で出雲軍と衝突し出雲振根を討ち取る(孝霊73年)
    孝霊帝、熊野大社に参内するもコトシロヌシとの交渉に失敗
    孝霊帝出雲軍の追撃を受け、黄泉津比良坂で対峙する。

  • 山科神社
    京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町1.
    主祭神, 日本武尊稚武王. 社格等, 式内社(名神大)・村社.
    創建, 寛平9年(897年).

    宮道神社
    当社は、宇治郡を本拠とした氏族宮道氏の祖神日本武尊、その子稚武王を祭神として、 寛平十年(898年)に創祀された。
  • 崇神天皇(男弟)─豊城入彦命(妹豊鍬入姫命[豊与。斎宮初代]、弟大入杵命[能登氏])─八綱田命─彦狭島命─御諸別命─大荒田別命(弟市入別命[播磨鴨国造]、弟鹿我別命[浮田国造])─韓矢田部現古(弟上毛野竹葉瀬、弟下毛野氏田道)─武額─布禰古─射狭(車持氏)。

    行方郡も宇多郡も元は毛野氏の浮田国造で一つ
    浮田国造等は崇神天皇の5世孫で加我別王と有り成務天皇の時代に設置した

    代旧事紀は物部氏に関係する者が記述したと言われるがこの中に福島県及び宮城県に国造が居た事が書かれているがこれら国造達は本当に朝廷から派遣された者達だったのだろうか

    大化改新以前(大化前代)の東北地方南部の地域は信夫国造・阿尺国造・白河国造・浮田国造・染羽国造・道尻岐閇国造・石城国造・道奥菊多国造・道閇岐国造など10前後の国造支配によって統治
  • 孝霊天皇は、倭国香媛と結婚して、倭迹々日百襲姫命と彦五十狭芹彦命と倭迹々稚屋姫命が生まれたとあります。又、別の妃との間に、彦狭島命と稚武彦命が生まれ、五人は、孝元天皇とは兄弟です

    榛名神社
    祭神は豊城入彦命(崇神天皇の皇子。上毛野国君・下毛野国君の始祖)、彦狭島命(豊城入彦命の孫)、御諸別命

    彦狭島命は孝霊天皇の皇子(伊予皇子)で吉備氏だが、豊城入彦命の孫にも同名の彦狭島命がおり、もし同一人物であれば、孝霊と崇神も同一人物になるが、いずれにせよ、豊城入彦命も彦狭島命も安倍氏ではない。

    御諸別命が実際の毛野氏族の祖と考えられるが、その活躍年代が前述の標準世代でみて垂仁・景行世代(崇神世代の次の世代)にあたることから考えても、御諸別命が崇神天皇の皇子に置かれる豊城入彦命の曽孫とすることには極めて無理がある
    毛野氏族の姓氏・分布などから見て、大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族との関連性がかなり顕著であり、両毛地方の主要神社の祭神としての大己貴命の広範な存在もあって、毛野氏族の実際の系譜は、三輪氏族を含む海神族の東国分岐とみられる。
  • 第7代孝霊天皇』と
           ∥―――――――― 第8代孝元天皇
      ①「細比売」(十市県主の娘)
     
            ∥――――――――┌夜麻登登母母曾毘賣命(『百襲媛命』)
      ②「意富夜麻登玖迩阿礼比売」 ├日子刺肩別命
                     ├大吉備津日子命(『五十狹芹彦命』)
                     └倭飛羽矢若屋比賣

            ∥――――――――┌日子寤間命(『彦狹嶋命』)
      ③「蠅伊呂杼」       └若日子建吉備津日子命(『稚武彦命』)
  • 孝霊天皇という謚号は、倭国大乱時代の後漢の帝にきっちり合わされていて、これは偶然の一致では有り得ません。

    西暦57年 倭奴国王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を授かる。
      107年 倭国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献ずる。

     桓帝(146~167)霊帝(167~189)の間、倭国大乱。
      <『梁書』は霊帝の光和年間(178~184)とする>
     239年 倭の女王卑弥呼、魏に朝貢し、少帝から親魏倭王の称号と金印を授かる。
                         (神功紀39年の注に引用あり)
     248年 卑弥呼の宗女で13歳の台与、即位して倭の女王となる。

     421年(辛酉) 倭王讃、宋に朝貢し、武帝から除授の詔をうける。 
  • 気になる説
    http://omoshirosoki.com/dsoki1_2.html

    太真稚女あるいは大目・大間なる名前は同一人物のそれであった。太(大)氏の女である。したがってそこから生まれた考霊・考元は同母兄弟であった。 その考霊の后妃は倭国香とその弟に違いないが、余分な表記らしい「春日千乳早山香」は倭国香、ならびに「十市真舌媛」はその弟媛のこととみられる
  • 讃岐の引田の安戸

    小さい半島の、付け根に凹んだところがあります。これが「風待ち」の船泊です。
    二つの半島の間が、「安戸」(あど)という地区です。水主神社の説明板では「安堵の浦」(あとのうら)と記されています。倭迹々日百襲姫が上陸した地点です。
    大きな半島の向こう側が白鳥です。日本武尊が白鳥となって降り立ち、祀られているところです。

    引田城と生駒氏

    神功皇后が風待ちで寄港し、安堵したところとも云われる。

    城山といいその昔四宮氏が居城とした引田城の跡地です。豊臣秀吉の四国平定後に讃岐を与えられた生駒親正がここに入りましたがあまりに東に位置するために高松に移り、ここは廃城となりました。奥の半島部分は与治山、伝説によると平安時代の女流歌人清少納言が病による配流でこの地に流され、到着した時に「安堵した」と言ったのが麓の安戸(あど)の地名の起こりといわれています。清少納言を祭る祠が与治山山頂に残されています。
  • 但馬国朝来郡の粟鹿神社の社家には、粟鹿大名神元記という文書が残っております。
    和銅元年に粟鹿神社祭主の神部直根麻呂が勘注上申した竪系図で、京都九条家の秘庫に蔵
    されていたものを、昭和三十年に是澤恭三博士が発掘されたもので、現在宮内庁書陵部に
    保管されています。
    それによれば粟鹿神社の神主は、素戔鳴尊、大国主神の後裔である神(みわ)部氏であり、
    三輪氏と同族で、古事記における出雲神の系譜を持ちます。


  • 三輪山の主、大物主神の妻となり身を捧げた巫女です。
    いわゆる、地元神の大物主神は、倭大国魂神であり、大国主神です。崇神天皇は三輪山の麓にはじめて進出しましたが、倭迹迹日百襲姫によって、やっと、地元の倭大国魂神を祭ることができたのです。
    崇神天皇はこうして地元にも受け入れられたのです。ただ、後年には大物主神は去り、倭迹迹日百襲姫も陰(ほと)を突き刺され辱めを受け、急死しています。後に、崇神天皇は神の扱いが粗雑で短命であったと次の垂仁紀で批判されています。
    こうして崇神天皇は、神々を祀り、災害も治まったとして、次の段取り、四道将軍、すなわち軍隊を地方の出立させるのです。
  • 2 世紀第 2 四半期頃に建設の始まる纒向遺跡の中心部に,墳丘長約 100 mのいわゆる「纒向型前
    方後円墳」が築造される。橋本輝彦の整理によれば,纒向石塚古墳が庄内 1 式,勝山古墳が庄内 2
    式,矢塚古墳が庄内 3 式,ホケノ山古墳と東田大塚古墳が布留 0 式という[橋本 2006]。それぞれ 14C 年代に照らせば,纒向石塚古墳が 2 世紀第 3 四半期,勝山古墳が 2 世紀第 4 四半期,矢塚古墳 が 3 世紀前葉,ホケノ山古墳と東田大塚古墳が 3 世紀中葉となる。纒向石塚古墳については,とく に庄内 1 式初頭としており,そうなると 2 世紀中頃となる。


    庄内式を 3 世紀前半を中心とする時期と考えてきた段階では,3 世紀初頭の倭王権形 成後のものとみられてきたが,矢塚古墳以降についてはそうなるが,纒向石塚古墳と勝山古墳は, 倭王権成立以前のヤマト国王墓に相当することになる。
  • May 2016 編集されました
    岡村秀典は,2 世紀前半の漢鏡 6 期に後続する漢鏡 7 期(2 世紀後半~ 3 世紀前葉)の鏡について 検討している。上方作系獣帯鏡などの第 1 段階の鏡(2 世紀後半)は,漢鏡 6 期鏡の分布域縮小か ら転じ,北部九州から瀬戸内,近畿から東日本に至るまで広範に分布する。続く第 2 段階の画文帯 神獣鏡(2 世紀後葉から 3 世紀前葉)になると,明確に畿内から東部瀬戸内に分布の集中域をもつ。北部九州を飛び越えての画文帯神獣鏡の分布に,楽浪郡を押さえた公孫氏政権との外交関係に もとづくヤマト国の直接入手に転じているとみて,倭王権の成立を読み取る[岡村 1999]。
    しかし,第 1 段階の鏡は多様であるが,例えば上方作系獣帯鏡でも径の大きい六像式は,瀬戸内 で結ばれる地域にまとまり,径の小さい四像式の分布域はより広い[岸本 2011]。画像鏡の分布も 六像式と同様ではないかと思われる。つまり 2 世紀後半の漢鏡第 1 段階の鏡についても,全体の分 布図では不明瞭ながら,比較的大型の優品は画文帯神獣鏡と同じような分布傾向にあるのである。 福永伸哉が想定するように,鏡種・径による格差付けをもつ分配行為が考えられる[福永 2000]。 前稿では,分布傾向を指摘したものの,近畿地方の勢力が倭国成立以前に楽浪郡から中国鏡を輸入 していたとは考えにくいという状況判断により,2 世紀後半の漢鏡 7 期第 1 段階の鏡も,倭王権成 立後の 3 世紀以降に輸入されたとみなした
    しかし、この問題は 2 世紀後半のヤマト国を考える上で無視できない。漢鏡 7 期の鏡は,鏡の分 布の中心が,北部九州から畿内へ移動する転換点にあたるが,2 世紀後半の漢鏡 7 期第 1 段階の鏡 について輸入時期を下げなければならない積極的な理由があるわけでない。纒向遺跡を形成した 2 世紀後半のヤマト国が,既に楽浪郡との外交関係を有し,鏡を入手していたのではないか。
  • ■ 狭義の纒向遺跡、すなわち古墳時代前期の巻向遺跡の原初的な形態を議論するときは、太田北、太田、箸中の三集落を対象としている。これらの集落の推定範囲は半端ではない。寺澤氏の試算によると、太田北集落は約24万平米、太田集落で約30万平米、箸中集落で約22.5万平米で、いずれも弥生時代最大とされる唐古・鍵遺跡の推定規模22万平米を上回る。

    ■ 狭義の巻向遺跡は、巻向1式期に太田北集落を中心として突如として形成され、時を追ってより大きな生活空間を有する太田集落が主体化していくことで最盛期を迎え、箸墓古墳の造営がはじまる巻向3式期に箸中集落が盛行するが、その後は4式期を経て5式期には急激に衰頽していったと見なされている。

    ■ 他の地域から持ち込まれた外来系土器が、当時の他の集落に比べて異常に多い点である。弥生時代には日本各地との交流が行われており、いずれの遺跡でも外部から持ち込まれた土器は見つかっているが、纒向遺跡の場合、その比率は圧倒的である。調査地によって多少の違いはあるが出土土器のほぼ10%、場所によっては30%が外来土器であるという。しかも、西は九州から東は南関東まで広範な地域から持ち込まれている。
  • May 2016 編集されました
    出典
    http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/2013_07_28.htm
    纒向遺跡は纒向3式期(250~270年)に最盛期を迎えるが、その後は纒向4式期を経て纒向5式期には急激に衰頽していったと見なされている。 したがって、纒向遺跡が存続したのはせいぜい100年足らずの短い期間だったとのことだ。そして、纒向遺跡は人工的な運河の開削からスタートしたとしておられる。
    つまり、それまでは人が住んだ形跡がない場所に、計画的に都市を作ることを目的で各地から人が集められ、その子孫達が何世代かにわたってこの地に住み着いたという。

    ■ 寺澤説では、纒向遺跡は3世紀初めに突如として出現した巨大な計画都市であり、外来系土器を携えてこの地に移住してきた人びとは、各地方の首長クラスに近いランクの人間で掘立柱建物や高床住居を建てて住み着いた。その住居は、江戸時代の幕藩体制で各地の大名が江戸に構えた江戸屋敷のイメージでとらえることができるという。そして、江戸がそうであったように、この地は列島規模で人びとと物産が集積する物流・交通の要衝として栄えた初期ヤマト王権の宮都だったという。

    ■ ヤマト王権の象徴は前方後円墳である。青銅器の銅剣・銅矛・銅鐸などを用いたそれまでの弥生のマツリに終止符を打ち、器台を墳墓に祭る新しい王権祭祀が纒向の地から列島各地へ発信されるようになった。その前方後円墳だが、起源は吉備の楯築墳丘墓にあるとされる。この墳丘墓は、直径約50m、高さ5mの円丘部を中心にして、北東側と南西側に方形の突出部を備えた双方中円墳で、築造時期は2世紀末と想定されている。二つの方形突出部の一方を切り落としたものが前方後円墳の祖型であるという。しかも、楯築墳丘墓は後の埴輪の原形となる特殊器台・特殊壺を葬送儀礼に用いていた。


    ■ 箸墓古墳の築造時期に関して、寺澤氏は興味深い話をされた。箸墓古墳は陵墓参考値のため調査できないが、墳丘以外は宮内庁の管轄外にある。墳丘の北にある大池を修復するとき、寺澤氏が発掘を担当されたが、その時存在が明らかになった周濠の最下層の土器は纒向3式の新相のものだった。周濠が完成したと思われる時期に出土した土器も同様だった.寺澤氏は纒向3式の新相を独自に布留0式の呼称で呼んでおられ、布留1式期(280~340年)より少し前においておられる。つまり、箸墓古墳が280年頃に築造されたとすれば、いわゆる卑弥呼の死亡時期とはかなり隔たることになる。
  • 寺澤氏によれば、2世紀のヤマト盆地にはまだ3ツの勢力が分立していて一つの国ではなかったようだ。盆地の北の層富(そふ)地域(後の佐保川流域)にいた勢力と盆地の西南部カツラギにいた勢力、そしてヤマト地域(現在の磯城郡を中心として山辺、十市、高市あたり)にいた勢力である。

    このヤマト地域にいた勢力が発展して、2世紀の末に纒向の地に王都を築こうとしたのだろうか。突然巨大な都市が出現というが、、、
  • May 2016 編集されました
    纒向とは
    ・草川微高地には未調査ながら草川と大豆越(まめごし)の二つの推定居住地があり、前期前方後円墳の柳本大塚古墳がある。
    ・太田北微高地には、東半に初期の神社建築かと推定される柵で囲まれた建物と祭器用具を納めた土坑群があり、西半には3基の前期前方後円墳がある。これらの古墳に間で、少なくとも二つの河川を連絡する直線的な人工水路=大溝が二本合流している。
    ・太田微高地は都市巻向の中心的な位置を占め、東方に居住地と周溝墓を中心とする墓地があり、西方には東田大塚古墳がある。
    ・箸中微高地には箸中山古墳を中心とする古墳群がある。この高地は墓地であり、居住地ではないかもしれない。

    纏向は大市、交易都市か?
    土器、鉄、鏡、麻

    纒向で稲作
    農耕は行われていない




  • 特殊器台形埴輪
    ■ 今までの調査によって、出土遺物に明確な傾向があることが分かった。特殊器台形埴輪、特殊器台、特殊壺は後円部の最上段付近から、また、二重口縁壺、二重口縁壺形埴輪は前方部の最高所付近から、それぞれ集中的に採集されているという。

    ■ 特殊器台形埴輪は、都月型と呼ばれるもので、三角形と巴形の透孔を有し、蕨手文や斜線文が描かれている。採集されたのは、15cm以上の比較的大きな破片だが、全体像を復元できるような個体は存在しない。この都月型特殊器台形埴輪は、岡山の特殊器台を祖型とする最古形式の埴輪で、箸墓古墳が古墳時代の最古段階のものであることを示している。  

    国立歴史民俗博物館(歴博)教授の坂本稔氏は、「炭素14年代法は何を明らかにしたのか?」という基調講演で、まず「炭素年代法」の概要を素人にも理解できるように懇切丁寧に話された。その後、2009年5月に歴博年代測定研究グループが炭素14年代測定法を用いて箸墓古墳の築造年代を西暦240~260年ごろと判定した経緯に言及された。実は、この測定結果が、その年の5月31日に開催された日本考古学協会総会の研究発表会の直前に「朝日新聞』の朝刊一面でスクープされ大きな話題になった。 従来350年頃と推定されていた箸墓古墳の築造時期を一気に100年早め、卑弥呼の死期と重なったためである。

    ■ 測定に使用された試料は、第7次調査で前方部北側の落ち込みの最下層から出土した布留0式土器の付着物と、第11次調査で後円部南東側の周濠から見つかった、やはり布留0式土器の付着物である。研究グループの報告では、これらの試料の測定結果から、箸墓古墳築造直後の年代を西暦240~260年と判断している。

    ■ しかし、試料となった土器の解釈に不安定な部分があることなどから、慎重に評価すべきとの意見もある。考古学的な編年の物差しである土器の付着炭化物(こげ、すす)を測定する方法は、1990年代に開発された。歴博が箸墓の年代推定に用いたのもこの方法だが、何によってできた炭化物かわかりにくいという難点があるという。また、歴博は年代推定に用いた日本樹木年輪による日本版データベースを公開していない。
  • 孝霊天皇(太瓊尊)-彦狭島命(孝霊第三皇子)-小千御子(天狭貫王)-天狭介-

    粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高縄


    彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った

    系譜である事が分かります。
    蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名のルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます
  • 富家の認識では、磯城県主とは富家の倭の分家である磯城家のことであり、

    祖は磯城津彦玉手見尊で、その子が和知都美命ということになります。

    この磯城家の分家には、登美家があり、その分家には和仁家があります。

    和仁家の系譜は、


    事代主命~玉手見命-和知都美-蠅伊呂杼


    彦狭島命~①越智家


    事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-
  • May 2016 編集されました
    「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて
    但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあるように、但馬国から三河国に祭祀が移動したことが考えられます。

    但馬の赤淵宮の祭祀氏族は、但馬国造の分家であるため、

    事代主命~阿太賀田須命-和仁古-姥津媛命-日子坐王(粟鹿神社社家)-丹波道主王-朝廷別王(砥鹿神社社家/草鹿砥家祖)

    にあたります。但馬続風土記の伝承は、祭祀氏族の移動と合致しており、偽書と言われている

    和名類聚抄には、トガの地名として、但馬国朝来郡東河(とが)郷もあります。砥鹿(とが)の名称も、但馬の東河(とが)という地名から移ったと考えられます。

    静岡県清水市の砥鹿神社ですが、砥鹿神社の鎮座地は律令制以前は、庵原国と呼ばれていました。


    庵原国造の末裔という庵原氏は、現在草ヶ谷姓を名乗っております。
    庵原国造家の古墳とも伝わる、三池平古墳の直下にある砥鹿神社は明治七年に砥神神社と名
    を改めたが、元々は庵原氏の氏神であったと言われます。
    寛永諸家系図伝によれば、庵原氏は彦狭島命を祖とする越智姓です
  • 富家の伝承では、吉備氏族は、南九州から移動した物部連の軍隊に破れ、吉備に退いた後、
    出雲に攻め入ったと言われており、特に飯石郡や神門郡には、その痕跡が神社や伝承として残っています。
    砥鹿神は、出雲に同化した吉備氏族と、飯石郡の神門臣家が祀っていた大名持命と考えられます。

    次に、三河国の猿投神についてですが、足助八幡宮縁起には、天智天皇の御宇三河国宝飯郡の
    大深山に猿形、鹿形、鬼体の3つが出現し、猿形は石舟に乗って西へ飛び猿投大明神となり、鹿形はそこにどどまり砥鹿大菩薩となった と言われ、猿投神と粟鹿神は同時に鎮座した事が伺えます。
  • 式内社調査報告によると、但馬国朝来郡の佐嚢神(さなが)と、足鹿神(あしか)は出雲国飯石郡の同名社(狭長社と葦鹿社)との関係性があると指摘されています。

    出雲国風土記の飯石郡の官社ではない神社に、狭長社と葦鹿社という2社があります。
  • May 2016 編集されました
    小千御子(天狭貫(さぬき)王)です。越智氏の祖神として愛媛県今治市の矢矧神社で祀られています。
    矢矧八幡宮のご祭神
    p天峡貫王(あまさぬきのおう)
    誉田別命(ほむだわけのみこと)
    武内宿禰(たけうちのすくね)

    社伝によると、二名の州の主で越智氏の祖、小千の天狭貫王の廟として祀られ、往古には朝倉宋廟本社と号していた。斉明天皇(37代天皇)朝倉へ御幸の時ご参拝あってその時に朝倉の宮と改める。

    弘仁11年(820)八幡宮を御勧請、その後、清和天皇(56代天皇)の御代に朝倉宋廟八幡宮と改められる。
     
     以前は八幡ヶ窪に御鎮座、社地八丁四方を有し(本郷・宮の窪・立丁・新田等の地名が残る)高縄山城主河野公の祈願所となり祭礼も盛大に行われていたが、天正10年(1582)の戦乱の被害により古文書等損失、社殿も荒廃して維持が困難になり慶長18年(1613)現鎮座地に奉移、八幡ヶ窪も元禄6年(1693)田地となる。

    相殿の矢番大明神は、元岡氏が上総国箕島より迎えて祀ると云う。

     延宝5年(1677)矢矧神社と改め今治城主松平公の祈願所となる。】
  •  矢作神社の由緒碑
      矢作神社
      鎮座地 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵壱番地
      祭 神 素蓋鳴尊 豊受大神 ①保食神
      例 祭 十月二日
      由 緒
    第十二代景行天皇の御代に日本武尊(推定72~113頃)が東夷御征伐の時、軍神として②素蓋鳴尊をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため③社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。④永保三年(一○八三)源義家が陸奥守として奥州へ征伐に行く途中日本武尊の故事にならって参拝されたと伝えられている。その後⑤建武二年乙亥(一三三五)新田義貞が足利尊氏との戦いで戦勝を神前に祈願した折社畔の石が鳴動した。これは神のご加護があると信じて大いに戦い遂に勝ちを収めたといわれている。伝えて「うなり石」として拝殿の西南に在る。⑥天文年中(一五三二-五四)岡崎城主松平廣忠は祀田二十石を置いたが当社は中古より矢作橋改築毎に城主及普請奉行から奉弊寄進するのが例であったという。第一次世界大戦後帝国軍艦矢矧艦長以下船員一同の崇敬篤く艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行し又兵員一同正式参拝も行われ軍艦矢矧の模型を奉納されている。中古牛頭天王と称したが⑦維新後旧名の矢作神社に復した。⑧明治五年九月十七日郷社となり明治四十年十月には神饌幣帛料供進神社に指定せられた。秋葉神社には迦具土命を奉祀す。

    創建は明らかではありませんが矢矧神社の歴史は古く、1928年(昭和3年)に刊行された『矢作町誌』によりますと、当社の由緒は315年、第12代・景行天皇の時代、倭建命の東征の頃までさかのぼるとされています。

    御祭神は素戔嗚尊・豊受大神・保食神

    倭建命が東征の旅の途中、この三河国蓬里(よもぎさと)に着いたとき、この里の民が「此の川の東に聳える高石山に賊が群がり人々を悩ます」といい、倭建命はこれを討たんとここに素戔嗚尊をお祀りしたのが由緒となっています。


    その際に矢作部(やつくりべ)達が一晩で一万本の矢を作り、これにより賊の群れを討ったことから社号を矢作神社と称え、この辺りの地名を矢作と呼びならわすようになりました。

    ちなみに矢の仕上げの段階で3枚の羽を3等分に矢の本体に接着し、筈、羽の両端に糸を巻き塗料で固め一定の形に切り揃えることを、「矧ぎつけ(はぎつけ)」と言い、そのことから古くは矢作を「矢矧」と表していました。
  • 朝廷別王を祭神とする神社
    三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社
    三河宝飯(形原町)の形原神社

    姫神
     「海部氏勘注系図」の九世孫「意富那比命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「倭トト日百襲姫命」「千々速日女命」「日神」「神大市姫命」であるという。
     また、十一世孫「子登與命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「小豊姫命」「豊秋津姫命」「宮ズ姫命」「日神荒魂命」「玉依姫命」とある。
     このことから、九世孫の「日女命」が卑弥呼であり、十一世孫の「日女命」がトヨであると結論付けている。
     十一世孫の小登與命は、尾張氏の族長であり、その妹の「日女命」は亦の名「宮ズ姫命」である。つまり熱田神宮付近を拠点としていた人々ではないか。
     熱田神宮の大宮司は、東三河の豊津付近に居住地をもっていたといい、その近くにアマテラス伝承がある。

    宮道天神社:愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路

    参考:http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/yama/miya.htm

    御祭神 建貝児王命(日本武尊第三皇子 宮路別族の祖)、大山咋神、草壁皇子命(天武・持統天皇御長子)
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。