筑紫物部、磐井

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
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雄略天皇八年(464年)二月 雄略天皇が位に着かれてから、この年に至るまで、新羅がそむいて貢ぎを奉らないこと八…

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コメント

  • 平群氏の先祖はもと筑前国に居り(早良郡には平群郷がある)、実際には少彦名神族裔の筑紫国造家から分かれた氏族であって、塩屋連とも同族だったからである。筑紫国造の支族であった岡県主(福岡県遠賀郡地方におかれた県主)の祖の熊鰐は、仲哀天皇の御幸を迎えて魚塩の地(御料の魚や塩をとる区域)を献上している(『書紀』の仲哀八年正月条)。筑紫国造家から分岐した諸氏は、後世に武内宿祢を祖とする形の系譜のなかに再編成されるが、武内宿祢の後裔と称する氏族が宮廷の食膳奉仕に関与した傾向がうかがわれる(*18)。八世紀後葉の官人、平群朝臣清麻呂は、大膳亮に任じられており、平群氏の同族という味酒(うまさけ)首氏もその職掌に因るもので、蘇我一族にも職掌に由来した御炊(みかしぎ)朝臣氏がいた。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/sionokami/siokami1.htm
  • 物部氏族において、飛鳥期の大連、物部守屋は母姓を仮冒して弓削大連を称したという。その「弓削氏族」の存在が遠賀川中流域の田川に在る。後藤寺の春日神社は、氏神として弓削太神、「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」と呼ばれる高木神を祀る。

    英彦山の南麓には矢に纏わる「靱編連(ゆぎあみ)」の存在がある。豊後風土記に日田の靱編郷の日下部君等の祖が靱部(ゆきべ)として欽明朝に仕えたとある。「靭」とは矢を入れる容器。靱編連とは靭を作る氏族。また、下流域の浮羽は「的(いくは)」に由来し、ここも靱部とともに矢に拘わる域。

     日田の地名由来は「鷹」の飛来伝承であった。この地も「鷹」の神祇、高木神の信仰域。国造本紀などにある比多(ひた)国造は高木神の5世孫である剣根命(つるぎね)の後ともされる。

    洞海湾岸の八幡(やはた)で、鷹羽の神紋を掲げる「鷹見神社」群の存在がある。遠賀川流域では、直方の神奈備が「鷹取山」であり、鷹羽郡を古名とする田川では地主神を弓削太神なる高木神とする。

     香春の地主神は「鷹巣ノ森」の古宮に祀られ、九州の神祇の地、宇佐においても、八幡祖神は「鷹」の姿で駅館川の畔に現れたため、「鷹居社」にその神霊を祀り、宇佐八幡宮の創始譚に繋がる。


     英彦山の開基伝承では、英彦山の神を「鷹」の化身とし、この山を「鷹」の神祇の本地とする。
     英彦山南麓の日田の地名伝承が「日」と「鷹」の神祇、日高(ひたか)の神話であった。高良山においては、古名を「高牟礼(鷹群山)」とするなど、「鷹」の神祇が九州北半を縦断する。
  • http://lunabura.exblog.jp/22277202

    熱田神社の伝承、欽明天皇15年、西暦554年。

    百済の皇太子とともに籠城したのが「筑紫の軍勢」で、その軍勢にいた鞍橋君は「葛子の子」です。

    百済の皇太子の余昌は新羅に侵入してクダムラ城塞を作りましたが、戦が長引いてしまい、
    父の聖明王が援軍をみずから率いて向かう途中、佐知村(さちすき)の馬飼の奴婢に斬られてしまいます。

    そして自分たちも包囲されて身動きできなくなった余昌たち。その城内に筑紫国造がいて、敵将を狙って射殺したために敵は退却。余昌たちは城塞から脱出して助かります。このとき、余昌は「くらじ君」の名を与えました。

    倭国軍は百済と行動と共にしています。この話の前にも、百済王は何度も「筑紫」に援助を頼んでいます。

    磐井の死後27年が経っています。
  • May 2016 編集されました
    菊池川流域の舟形石棺が、矢部川流域の八女地方に入っていることがよくわかります。筑紫君磐井と火の中君は姻戚関係にあったと書かれている。
    出典
    http://tizudesiru.exblog.jp/21790518/
    家形石棺は宇土半島基部・菊池川流域に集中し、「妻入横口式石棺」は久留米地方・菊池川下流域・宇土半島基部あり、他には広がっていません。この三地方の強烈なつながりを示すのでしょう。 此処での結論は、「邪馬台国を滅ぼしたのは倭国である。倭国とは熊本の勢力で狗奴国と呼ばれた国である。狗奴国は南筑後から侵入して筑紫を豊かにし倭国と名乗り、首長は筑紫君と呼ばれたが、豊前と協力した肥後の一族内から謀反があり(いわゆる「磐井の乱」)、1年近く戦った筑紫君磐井は豊前に逃れて行方不明になり(風土記)、一族は衰退していった。」ということですが、この筑紫君の首長の墓制が妻入横口式石棺であれば、磐井の乱後には作られなくなる理由はここにあります。また、その家形石棺が、瀬戸内・吉備・畿内に伝播しているのです
  • 江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社)青柳種信著に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。
     「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」
     そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
  • May 2016 編集されました
    熊本県玉名郡天水町小天に小天 少彦名神社というのがありここで道君首名公の威徳をしのび、毎年10月15日の夕方から火祭りが行われているという。
    道君首名公が713年の9月初代国司として筑後に赴任早々に疱瘡(天然痘)の流行により死屍累々となった筑後の地にほど近い熊本県玉名の小天(おあま)で少彦名神を祭祀することによりこの伝染する疱瘡を平癒させた経緯が小天の天子宮に今なお伝えられ
    「綿々と祈願の火祭り神事が1300年の永きに渡り欠かすことなくこの地の氏子に継続しているという。
    参考:http://www1.bbiq.jp/sukunahikona/sukuna/sukuna.htm

    孝元天皇の皇子で長男の大彦と末子の開化天皇の間に少名日子名建猪心命(すくなひこなたけいごころのみこと、少彦男心命) がいる。
    原田常治著の上代日本正史の雀部臣系図には
    その名が少彦名許士尊となっている。
    まさに大彦命と少彦名神が兄弟であるような記載とも感じられる。大彦命の後胤の佐々貴山君も沙沙貴神社で少彦名神を氏神として祭祀している

    武内宿禰は第八代孝元天皇の孫とも云われているが、だとすると 武内宿禰は少名日子名建猪心命の子供である可能性がある。

    少名日子名建猪心命=屋主忍男武雄心命と同一人物かは不明
  • 道君首名(みちのきみおびとな)(662~718年)
    朝廷の官僚として「大宝律令」の選定に参加し、51歳の頃に新羅大使として1年ほど赴任します。 そして帰国した首名は筑後や肥後の施政を任され、果物や野菜の栽培、畜産を促進、灌漑対策など農政の改革を行います。 その際、規則を発布しそれに従わない者には罰則を科すような強引な施政を行い批判を買いますが、 その成果が表れだすと首名を指示する農民が増えたといわれます。 そしてその5年後には死去しますが筑後や肥後の人々はその功績を想い首名を祀ったといわれ、筑後や肥後には首名のものといわれる史跡が残っています。
  • 万葉集の空白、旧倭国
    http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin04/iki0401.html より
    福岡の深野治氏(記者、評論家)の示唆により、私は万葉集の歌枕(歌の素材)に筑後と大隅が皆無だと知ったのは八○年三月のことであった。
     よく調べてみると、『万葉集』の歌枕のない地方は筑後国、肥前南部、肥後北部であって、南北七十キロ、東西百キロにおよぶ。
     しかも、この地域は、杷木(はき)、帯隈山、おつぼ山、高良山、女山(ぞやま)という五神籠石群をふくんでいる。
     また、壁画古墳の密集する地域である。
     いまの地理でいえば、筑後川から有明海(筑紫海)、雲仙、阿蘇をつつみこむ。風光明眉な地方である。関西でいえば紀伊一国に当たろうか。
  • 527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

    磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

    これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただしそれらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったことと、乱の意義に着目した研究が続けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。

    1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。

    1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト王権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する見方は必ずしも一致していない。

    一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が判明するに従って、九州広域にわたって栄えていた特有の文化圏と磐井の乱とを関連づけるようになった。すなわち磐井の乱までのヤマト王権とは強い中央集権体制であったのか、それとも各地豪族の連合的政権であったのか、についての議論がなされている。
  • May 2018 編集されました
    筑紫君磐井までは断絶した武烈天皇とつながりがあった葛城氏にゆかりがあり、筑紫君葛子以下の子孫達は継体天皇以降とつながる蘇我氏にゆかりがあった。この葛城氏と蘇我氏は共に母系の海人族安曇氏に入婿した男達であった。

    筑紫君磐井について、宮地嶽神社では「葛子は安曇族だ」と伝えています。磐井は、粕屋郡の豪族の姫を娶って葛子が生まれた。葛子は宮地岳の麓に住む谷殿を娶って勝村・勝頼が生まれたと考えています。葛子の子「勝村・勝頼」が宮地嶽古墳に埋葬されていると伝えているのが、宮地嶽神社です

    古賀市の船原古墳から出土した漆塗りの馬具は宮地嶽古墳と同じものだった。福津市の宮地嶽神社周辺から古賀市は海人族安曇氏の地盤であった。

    宮地嶽古墳について、通説の被葬者の宗像君徳前とは埋葬時期も異なり、勝村・勝頼埋葬説の方が正しいか?

    船原古墳からガラス装飾馬具が出土した!奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳に次ぐもので、蘇我氏とのつながりが伺われる
  • 『儺の国の星拾遺』(眞鍋大覺)より(一部書き換え)

    「水城」は筑紫国造・磐井が雄略帝17(473)年から継体帝17(523)年の間に、築堤工事を開始したと伝えられる。
    この水が、現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して、百姓を潤す目的であった。
    その頃、神功皇后の治世(201~269)の間に作った用水路の裂田溝(さくたのうなで)の勢いは新開の那珂・板付あたりにおよぶべき水勢が減少していた。
    これを補給して、あの雄略帝17年(473)年の大洪水大氾濫よって、干潟が想像を絶して広がっていくのに対処すべく、水城が着工されたことになっている。
    しかし、万民の期待を集めた水城は敏達帝2年(573)年夏、五月の大風で徹底的に壊滅した。
    筥崎の砂浜の下に今も厚く堆積している博多の家屋、並びに調度の破片から推定すると、
    最小限で2万戸、最大限で10万戸が大水の犠牲となって、玄界灘に漂没したものと推定される。
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