阿曇連、

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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新撰姓氏禄 「阿曇宿禰 海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命の後 (すえ)なり」 日本書紀にみる安曇氏の系譜 1.神…

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コメント

  • アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

    この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

    10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。
  • December 2017 編集されました
    大場磐雄ほかによる

    ①筑前国 糟屋郡志珂郷、阿曇郷、志賀海(シカノアマ)神社
    ②壱岐・対馬 和多都美神社
    ③豊後国 戸为山部牛の妻阿曇部馬身賣(ウマミメ)他、海部郡
    ④長門国 下関市安園町富任 長門国豊浦團五十長凡海我孫 2
    大津郡向津具村 八木家所有の畑地から有柄銅剣 ⑤隠岐国 海部(アマ)郡 少領外従八位下阿曇三雄、海部郷
    ⑥伯耆国 會見(アツミ)郡安曇郷 西伯郡宇田川村 和名抄に安曇郷記載、石剣出土
    ⑦出雲国 簸川郡大社町杵築 海部が居住していた、銅戈が出土
    ⑧丹後国 熊野郡湊村函石濱 和名抄に安曇郷記載、石剣出土 與謝郡日置村 海部氏が奉斉する籠神社、石剣出土
    ⑨播磨国 揖保郡浦上里、石海 安曇連百足

    ⑩讃岐国 大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他
    ⑪阿波国 男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰、 和多都美豊玉比賣神社、海部郡
    ⑫淡路国 三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
    ⑬摂津国 安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
    ⑭河内国 阿曇連等の地
    ⑮山城国 阿曇宿禰等の地 ⑯近江国 伊香(イカコ)郡安曇郷(東北方湖辺の地であるが所在は明らかでない)
    ⑰美濃国 厚見郡、厚見郷
    ⑱三河国 渥美郡、渥美郷
    ⑲信濃国 更科郡氷鉋、斗賣郷 氷鉋斗賣神社 、埴科郡玉依比賣命神社
    ⑳信濃国 安曇郡 穂高神社 安曇部百鳥

    以上の他に、「信濃の安曇」(笹川尚紀『信濃第 55 巻第 7 号』平成 15 年)によると、肥前国、 周防国、備中国、伊予国にも安曇連、安曇部の存在があるという
  • December 2017 編集されました
    肥前風土記
    景行天皇が巡幸したとき供者の安曇連百足(あづみ
    みらじももたり)に命じて、近くの島を視察させたところ、二つの島に大耳、垂耳という土蜘蛛がいた。そこで安曇連百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすること約束したので、天皇は恩情をかけ、赦免したとある。その嶋は値嘉嶋と呼ばれ、そこに住む白水郎(あま)は牛や馬を多く所有しており、容貌は隼人ににており、いつも騎射を好み、言葉は俗人と異なっていると記述している。
  • 海神と潜水、入墨、住吉三神
    黄泉の国から帰った伊弉諾尊神が、日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)で禊祓った時、三柱の筒之男神(住吉三神)とともに化生した綿津見三神は、もとはこの一神であったと思われる。因みに、水底で漱いだ時に底津綿津見神、中ほどで漱いだ時に中津綿津見神、水の上で漱いだ時に上津綿津見神が化生した。この底・中・上の表現は、潜水・釣り・網のそれぞれの漁法を表しているという。また、猿田毘古神が漁の最中に、比良夫貝に手を挟まれて溺れた時に化生した、底どく御魂(海底に沈んだ時に化生)、粒立つ御魂(海中が泡立って化生)、泡咲く御魂(海面が泡立って化生)と、関係があるように思う。

    「天(海人)語歌」にもあるように、海人族は、物事を三段に分け、「三」を神聖な数字とする思想を持っている。天地開闢のはじめ、高天原にあらわれて万物を経営したという造化三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)など、記紀の天地開闢の神話には3セットの神が多いが、これは、海人族の思想が反映されているからだと思われる
  • 「古事記」は、綿津見三神の化生を述べたあと、「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命(穂高見命)の子孫なり」と伝える。また、「新撰姓氏録」には、「阿曇連、宇都斯奈賀(うつしなが)命の後也」とある。「日金」とか「奈賀」が、息長氏を連想させる。また、「柝」は拍子木のことで、芸能にも関係しそうである。

    穂高見命の弟の振魂命は、倭氏・津守氏・尾張氏の遠祖にあたり、同族といえるだろう。
  • 阿曇連百足(あずみのむらじももたり)
    穂高見命の9世孫にあたる。
    「風土記」によれば、「肥前国~松浦郡・値嘉の郷~」に、息長氏系の12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場し、値嘉島へ偵察に出るなど活躍を見せる。
    阿波国の阿曇系の海人部によって伝承されたとされる「天(海人)語歌」は、「纏向の日代の宮は…」で始まるが、これは12代景行天皇の宮殿のことである。景行天皇は「書紀」によれば、襲国の隼人を平定した天皇であり、「海幸山幸」の神話によるところの、阿曇氏(綿津見豊玉彦命・海神)が、隼人(海幸彦・火照命)を天孫(山幸・火遠理命)に服従させる手助けをする物語と、景行天皇の「御付人」として、百足が隼人の平定に協力する姿は見事に合致する。海神は百足を象徴した姿なのか?
    「播磨国風土記~揖保の郡・石海の里~」にも、36代孝徳天皇朝に、「阿曇連百足がこの里に生えた百枝の稲を天皇に献上し、天皇が、それならばその里に田を作るがよいと、石見の人夫達を召して開墾させたので、この野の名を百便(ももたり)、村の名を石海(いわみ)という。」とあるが、時代的に、斉明~天智朝に、我が国と新羅・百済間をたびたび往復したという、阿曇連頬垂(つらたり)の誤記であろう。
  • 宗像大社に伝わる「宗像大菩薩御縁起」には、

    神功皇后の三韓出征の時、亀に乗った磯良が現われて加勢したとある。神武天皇東征の際に亀に乗って現れて水先案内した大倭氏の祖、宇豆毘古と非常に役割が似通っており、宇豆毘古は綿津見豊玉彦命の子、振魂命の後裔なので同族であり、同一人物の可能性があると言えるだろう。

    「八幡宮御縁起」には、「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」とあり、「琉球神道記・鹿嶋明神事」には、「筑前の鹿の嶋の明神、和州貸すが明神、此、鹿嶋、同磯良の変化也」とある。太占(ふとまに)の聖獣「鹿」と、壱岐・対馬の卜部氏との関係が窺えるが、高良大社(福岡県久留米市御井町)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説もある。確かに玉垂命は芸能の祖神とあるが、磯良というのは、何と謎の多い神であろう。

    従属儀礼を写した「磯良舞(細男舞)」が、伝統芸能として、奈良春日大社の摂社、若宮神社の例祭「おん祭」など、各地に伝承されている。磯良は常陸国の鹿嶋明神で、大和の春日明神でもあるという根拠は、ここにあるのかもしれない
  • December 2017 編集されました
    大浜宿禰(おおはまのすくね)
    15代応神朝に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。

    阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)
    17代履中天皇の即位前紀、淡路の野島の漁師を率いて、履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に荷担。因みに、倭直吾子籠も住吉仲皇子に荷担している。同母(葛城磐之媛)というが、住吉というだけあって、海人系の皇子だったのだろう。吾子籠は妹を履中の采女に差し出し、浜子は死罪を免れて、目の縁に入墨をされた。時の人はそれを阿曇目(あずみめ)といったという。

    及二軽島明宮御宇誉田天皇三年、一処々海人、訕之不レ従レ命。乃、遣二安曇連祖大浜宿禰一平レ 之。因、為二海人之宰。一 是、安曇氏、預二奉御膳一之由也。又、安曇宿禰等款云、御間城入 彦五十瓊殖天皇御世、己等遠祖大栲成、吹レ火始奉二御膳一者。
  • 男狭磯(おさし)
    阿波国長邑の海人。19代允恭天皇紀、天皇が淡路島で狩をしたが、島の神(伊弉諾尊)の祟りで全く獲物が獲れなかった。明石の海の底の大真珠を供えればよいとの託宣があったので、方々の海人を集めたが獲れない。そこで男狭磯が呼ばれ、海底から大鮑を抱き取って浮上するが、海上で息絶えてしまった。その時、男狭磯が腰に巻いていた綱は、六十尋(一尋は大人が両手を広げた長さ)もあったという。大鮑から出て来た桃の実程の大きさの真珠を供えると、猟は大成功しが、天皇は男狭磯の死を悲しんで、墓を作って厚く葬った。
  •  
    始祖 綿積豊玉彦命 海神宮の主。初代神武天皇の外祖父。

    1 宇都志日金折命
    (穂高見命) --豊玉毘売命 --玉依毘売命 --振魂命
      ↓   ↓
    2 多久置命 大倭国造へ
      ↓
    3 穂己都久命
      ↓
    4 摩幣区利命
      ↓
    5 意伎布利根命
      ↓
    6 小栲梨命
      ↓
    7 麻曽杵命
      ↓
    8 大栲成吹命
      ↓
    9 百足足尼命 12代景行天皇
      ↓
    10 大浜宿禰 ------ --小浜宿禰 大浜宿禰
    15代応神朝に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。
     
  • 日本書紀
    応神天皇三年十一月条には、各地の海人が天皇の命に従わなかったので、 阿曇連の祖である大浜宿禰を遣わして平定し、大浜宿禰を「海人之宰」に任じたとあり、履中 天皇即位前紀から元年条にかけては、住吉仲皇子(履中天皇の同母弟)の反乱に加担して捕え られた阿曇連浜子が、罰として顔面に入れ墨を施され、時の人は、それを「阿曇目」といった という記事がみえる
  • 及二軽島明宮御宇誉田天皇三年、一処々海人、訕之不レ従レ命。乃、遣二安曇連祖大浜宿禰一平レ 之。因、為二海人之宰。一 是、安曇氏、預二奉御膳一之由也。又、安曇宿禰等款云、御間城入 彦五十瓊殖天皇御世、己等遠祖大栲成、吹レ火始奉二御膳一者。
  • 阿波の名方郡に安曇氏の一族がいた
    その『日本三代実録』貞観六年八月八日の記事には、
     「阿波国名方郡の人安曇部正六位上安曇部粟麻呂、部の字を去りて宿禰を賜う。自ら言う、
    安曇百足の苗裔なり」
    と、あります。
     内容は前回にふれたように、名方郡の安曇部粟麻呂が宿禰の姓を賜わった、という記事ですが、それに続いて、安曇部粟麻呂が安曇百足の子孫を称していたというこも記されています。

    安曇百足は『播磨国風土記』揖保郡浦上の里の条に、
    「浦上と名づけられたのは、昔、安曇連百足らが、はじめ難波の浦上にいたものを、後に
    この浦上に移って来た時に、元いた土地の名を付けたものである」
    と、書かれています。

    そして、この記事によれば、安曇氏の本宗である安曇連が難波(なにわ)の地にいたことに
    なるのです。
     難波は言うまでもなく現在の大阪市のことですが、この当時の大阪市は、上町台地をのぞいて大阪湾の海の下にあり、それが徐々に陸地化していく時期にありました。『播磨国風土記』にある難波の浦上が現在のどの場所であるのかよくわかりませんが、大阪市の東横堀川沿いの旧地名に安曇江があり、それと、かつて難波には安曇寺が存在しました。
    安曇寺の所在地についても諸説ありますが、そのひとつが高麗橋です。東横堀川も高麗橋も大阪城の西側にあり、つまり、この周辺が難波における安曇氏の拠点に
    推定されることになります。

    ただし、『新撰姓氏録』では、摂津に安曇連と安曇宿禰の名は見えず、代わりに安曇犬飼連が載っているので、難波にいたのは安曇氏ではなく安曇犬飼氏だった可能性もあります。
  • December 2017 編集されました
    住吉大社の祭祀氏族は津守氏で、大海神社の祭祀氏族もまた津守氏とされていますが、津守氏は、天火明命を始祖とする氏族です。

    綿津見命を祖とするのは安曇氏であり、安曇氏がいた阿波国名方郡には和多津美豊玉比売神社が
    鎮座します。
    ただ、しかし、住之江に拠点を置きながら、津守氏がスミノエノナカツ皇子に味方したというような
    記事は、『日本書紀』には何も記されていないのです。
    津守氏がスミノエノナカツ皇子に加担しなかった。
    神戸と大阪の競争か。

    スミノエノナカツ皇子の反乱は、『古事記』、『日本書紀』がともに伝えるところですが、ただ、この乱に関して、『古事記』にはない場面が『日本書紀』に見られます。
    それは、安曇連浜子(あずみのむらじはまこ)と倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)の両名がスミノエノナカツ皇子に味方したことが『日本書紀』には記されているのです。


    日本書紀』では、「住吉仲皇子」と表記されています。
    この人物は16第仁徳天皇と葛城の曾都毘古(ソツビコ)の娘石之日売(イワノヒメ)との間に生まれた御子で、同母兄に17第履中天皇、同母弟に18代反正天皇と19代允恭天皇がいます。
    スミノエノナカツ皇子の反乱とは、長兄の履中天皇の殺害を目論んで天皇のいる難波宮を襲った
    事件です。もっとも、履中天皇は倭漢直の祖阿知直(あちのあたい)によって窮地を脱し、スミノエノナカツ皇子は弟のミズハワケノミコト(後の反正天皇)に謀殺されて乱は終わります。
  • December 2017 編集されました
    住吉の祭神筒男三神は、神功皇后の三韓征伐のとき神功皇后をたてたと伝えられ、古来海路を守る神として尊仰され、摂津住吉大社は遣唐使出発の際には、当社に参拝するのを常としていた。
    『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、筒男三神を住吉に鎮座した際、津守連の祖、田裳見宿禰(たもみのすくね)を神主として祭らしめたという。
    境内には神宮寺として、新羅寺があった。『摂津名所図会』巻一によると、住吉神宮寺旧号新羅寺は天台宗東叡山に属し、天平二年(730)孝謙天皇の建立という。

    『新撰姓氏録』摂津国神別 津守宿禰条では、この津守氏に関して火明命(天火明命)八世孫の大御日足尼の後裔とし、尾張宿禰(尾張氏)と同祖とする
  • December 2017 編集されました
    『古事記』のトヨタマヒメ神話では、海神の娘トヨタマビメは「八尋和邇(やひろわに)」の姿になり、海神の国に帰るが、トヨタマビメの父の海神は、応神(昆支・武)の霊、イタケルの後身である。

    ワニ氏は『古事記』ではすべて「丸邇」、『日本書紀』ではすべて「和珥」と書かれているが、その他の文献史料では「和邇(爾)」が多く用いられている(岸俊男『日本古代政治史研究』。19頁)。これは、倭王倭武が『古事記』ではすべて「倭建」、『日本書紀』ではすべて「日本武」と書かれているのと同じである。ワニノ臣(春日臣)を憎む藤原不比等が、708年の新神祇制度施行によって、ワニノ臣(春日臣)の祖を海神ワタツミともしたと考えられる。『新撰姓氏録』大和国神別、和仁古(わにこ)の条に「大国主の六世の孫、阿太賀田須(あたかたす)命の後なり」とあるのも、不比等のこの企みの証拠である。


    オホアマ(大海)神は「偉大な海神」であるばかりではなく、「偉大な軍神」であった。第7章で詳しく説明するように、ワニ氏(後の春日氏)は前期百済系倭国時代以来、「杖刀人首(軍総司令官)」で、三輪山の崇神(大彦)の霊を祭る最高位の神主だったので、ワニ氏が最高位の神主として大軍神のオホアマ(大海)神を大津(住吉津)で祭っていたと考えられる。

    日下雅義(『古代景観の復原』)によると、「神功紀」摂政元年(201。辛巳年)2月条にみえる「大津」は住吉津(すみのえのつ)であり、仁徳30年(342。壬寅年)9月条にみえる「大津」は堀江開削によって新設された難波津(なにはのつ。現在の大阪市中央区の高麗付近)を指すという。

    http://ryuchan60.seesaa.net/article/441108658.html
  • December 2017 編集されました
    神功皇后
    於是、從軍神、表筒男・中筒男・底筒男三神、誨皇后曰「我荒魂、令祭於穴門山田邑也。」時穴門直之祖踐立・津守連之祖田裳見宿禰、啓于皇后曰「神欲居之地、必宜奉定。」則以踐立爲祭荒魂之神主、仍祠立於穴門山田邑。

    田蓑神社
    祭  神:表筒之男命 底筒之男命 中筒之男命 神功皇后   
    説  明:創建は、貞観十一年(西暦869年)九月十五日。
    栞には、
    「住吉大神は昔、日向の橘の小門の憶原というところに、お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の表筒之男命・底筒之男命・中筒之男命の三柱でございます。伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当られる神様です。神功皇后が三韓征討の時に皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、進まれ、遂に三韓の王等を降伏、国におもどりに成る途中、この田蓑嶋に立ち寄られ、勝ち戦を祝われ、三神を奉られ後に、神功皇后も加わり四柱となる。これを住吉四柱の大神という。時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀されている。」

    「天正十四年(西暦1586年)、徳川家康公がこの地に立ち寄られ、多田の廟(現在、池田市多田神社)に参詣の時、田蓑嶋漁夫 等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には、『全国どこで漁をしても良し、又、税はいらない』という特別の褒美をいただき、漁業の一方、田も作れと命じられ、その意をもって田蓑嶋を佃と改め、後、寛永八年(西暦1631年)田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった」と記載されています。
      住  所:大阪市西淀川区佃1丁目18-14
  • December 2017 編集されました
    住吉の元宮
    現人神社あらひとじんじゃ
    福岡県筑紫郡那珂川町仲
    現人神社(住吉三神総本宮)略誌
    御祭神 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
    御由緒 並びに御神徳
    伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
    摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。

    この住吉三神は海の神と共に生まれました。三神は、神功皇后が香椎宮や小山田の斎宮で神託を得た時に現れた神々で、皇后の身を守り、戦いを勝利に導く約束をしてくれました。

    そして、神の約束通り戦いに勝つと、皇后はこの地でお礼参りをして、伏見宮の前から水を引いた裂田溝に水を通し、神田を潤し、藤原朝臣佐伯宿禰を祭祀の祀官としました。
    そして、海岸線が遠くなったのでしょう、三神は博多の住吉神社へ分霊されました。
  • December 2017 編集されました
    安曇氏と住吉元宮

    佐伯宿禰は、室屋大連公の後裔とある。
    神武東征神話 熊野から宇陀へ 八咫烏が飛んでいくのを追いかけて熊野の山中を宇陀まで導いたので道臣の名を賜ったとする。道案内は土地勘のある人間の仕事、大伴氏は紀の国の住人だったのか。

    『古屋家家譜』甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。
    高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)-
    天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦-

    佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後

    大伴連談(カタリ)(???-雄略9年)
    ①父;大伴室屋 母;不明
    ②子供;「金村」 「歌」(佐伯氏祖ーーー9代後 僧「空海」)
    ③21雄略9年 紀小弓、蘇我韓子らと共に新羅討伐を命じられ遠征。現地で戦死。
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