高倉下、鞍手、鞍橋

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  • 猪石心足尼(いいしこり?のすくね)
    七拳脛命の孫。
    この方の子孫が久米氏の嫡流らしいが、系図が伝わっていない。

    那爾毛古比売(なにけこ?ひめ)
    七拳脛命の8世孫。
    七拳脛命の6世孫で、伊予来目部播磨国司の山部小楯の孫で、 中臣可多能古の妻となり、御食子(みけこ)と国子(くにこ)を産んでいる。つまり、中臣鎌子(藤原鎌足)の祖母である。

    山部比治(やまべのひじ)
    七拳脛命の9世孫。
    「播磨国風土記~穴禾(しさは)の郡~」に、「孝徳天皇(第36代天皇。在位645~654年)の御世に、揖保の郡を分割して穴禾の郡を作った時、山部比治(やまべのひじ)が任命されて里長となったので、この人の名前により、比治の里という。」という記事がある。比治の真名井は、籠神社の奥の宮、真名井神社が比定地の一つとされる、「天の羽衣伝説」の伝承地である。
  • 系図にすると下

    神皇産霊尊−○−○−○−大久米命−布理禰命−佐久刀禰命−味耳命−五十真手命−彦久米宇志命−押志岐毘古命−七掬脛命−爾久良支命−[久味国造]伊与主命−加志古乃造−忍毘登乃造−久米小楯(山部小楯)−山部歌子−山部伊加利子−山部比治−山部足島−山部赤人
  • 饒速日命が降臨時に鞍手町新北とその周辺(古遠賀湾)に率いて来たのが、天の物部二十五部衆であり、そのうちの贄田物部がここ新北(和名抄に云う新分)に住まいした。そこは剣岳の西麓でもある。
     「剣岳は蓋し物部氏の兵仗を祭る所にして、以て往時其の族党の住まいしと徴すべきものとす」(吉田東伍『大日本地名辞典』より)とあり、
  • 元々、宗像三女神は、アマテラスの勅命により、皇孫を守るために、この筑紫の地(福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳という山)に降り立ったとしている。そして、そのままこの地を統治したとされ、これが、地元航海民の古豪、宗像家の守り神とされ、宗像三女として、信仰を集める基盤が出来上がったとする。また、宗像家は、オオクニヌシの神裔ともされ、同じくスサノオを祖とする点では、非常に近い存在だったとも言える。そして、航海民を中心に、北九州、瀬戸内海を中心に信仰が伝搬していった。
  • 516年。
    新羅を襲った伴跛(はへ)国を討伐しようと、水軍を率いて滞沙(たさ)湊に着いた物部至至(ちち)連だが、戦う前に伴跛国に襲われて敗退した。

    一年後に百済に援けられて帰国する。送り届けた百済の将軍は、日本から己汶(こもん)を賜ったことの礼を言い、先年、献上した五経博士の交替を望み、受け入れられた。

    百済はさらにもう一人の将軍と「日本の斯那奴阿比多」を派遣してきた。高麗の使者・安定(あんてい)も挨拶のために一緒に来た。

    この「日本の斯那奴阿比多」に関しては諸説ある。科野(しなの)の字を当てるものもある。よく分からない。

    その後は平穏だったのか、『日本書紀』は523年に百済の武寧王が死んで、翌年に聖明王が即位したこと、また継体天皇が二度遷都したことなどを記す。

    百済は聖明王の時代になった。鞍橋君(くらじのきみ)と関連がある王が出て来た。

    そうして、三年後の527年。近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かい、新羅に破られた南加羅とトクコトンを奪い返して任那に合わせようとした。

    新羅がいつの間にか二つの土地を奪っていたのだ。『日本書紀』は、これに至る事情は全く書いていない。

    新羅と戦うために、日本から六万もの兵を送ろうとしていた。
    かなりの軍勢が海を渡ろうとしたのだろう。いったいどれだけの船が用意されたのだろうか。


    新羅攻撃の所に、筑紫国造磐井が出てくる。

    『日本書紀』によると、毛野臣が出発しても、国造磐井はひそかに反逆を謀りながら、ぐずぐずしていた。新羅がこれを知って毛野臣の軍を防ぐようにと磐井に賄賂を送って来た。

    磐井は火の国と豊の国に勢力を伸ばして職務を遂行しなかった。外では海路を封鎖して高麗、百済、新羅、任那の年毎の朝貢船を自分の所に誘導し、内では任那に派遣される毛野臣の軍を遮った。

    そして、無礼にも、「今こそ使者になっているが、昔は我が友として同じ釜の飯を食った仲ではないか。急に使者となって、お前に従えというのか」
    と言い争って命令を受け付けなかった。

    磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は遮られて留まった。『日本書紀』

    毛野臣と磐井は過去に共に過ごした時代があったということになる。

    近江毛野臣をネットで調べると、武内宿禰の後裔で波多氏の支族とある。それなら物部系だ。
    (武内宿禰の名は物部保連)


    毛野臣は近江とはあるが、近江国では伝承が見つからないらしい。筑豊の多賀神社付近は淡海と言っていたので、本貫地を筑豊に探してみたくなった。

    こちらは物部がわんさといる。大軍勢を持っている点からも、筑豊の物部系ではないか。

    五万の兵が近畿から派遣されていたとすると、既に船で本州から渡って来たことになるので、
    磐井が拒否しても、自ら渡海すればよいだけの話だ。

    ちなみに、百済、新羅、高麗が朝貢船を停泊する湊は門司にある。地名が、百済浜は葛葉、新羅崎は白木崎、高麗入江は小森江となったと伝えている。
    (『神功皇后伝承を歩く』99甲宗八幡宮)

    これは仲哀天皇の皇居が豊浦宮にあったためで、外洋船はこれ以上、瀬戸内海に入れなかったためだろう。そして、すぐ近くの和布刈神社は安曇磯良が祀られている。
    安曇族の拠点だ。

    毛野臣は住吉族の船を利用したのだろうか。秦姓は宇佐を中心に今も分布する。


    『日本書紀』を読んでいると、その物部が出てくる。一人は穂積押山大連であり、一人は物部至至連だった。これに加えて毛野臣だ。
    彼らは古墳時代に海を何度も渡っていた。物部像が形を取り始めていた。

    遠賀水軍にも物部氏の名前がずらりと出てくる。『日本書紀』に出ている人物もいれば、神社縁起から出て来た名前もある。
  • 久我宮

    ここは神社ではなく、「宮」と主張しているようです。しかし、由緒には「久我神社」と書かれています。鳥居の左後ろの由緒を読んでみましょう。
    神社創建時期は不詳であるが、社伝によれば、神功皇后征韓の途次、筑紫岡湊(おかのみなと)に御滞在の折、当古賀村に三神鎮座を聞召し、今の字、惣仙洞にて釣り上げられた鱸(スズキ)を蓼(タデ)の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られたとある。この遺風が穂蓼の神事である。これは神前において蓼の葉を刻みて顔面に塗り皮膚への滲み具合によって、其歳の豊凶を占う神事であるが、現在は途絶えている。
    この神社は中古の御世 古賀・朳(えぶり)・頃末(ころすえ) の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主麻生氏の出城が久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊に厚く郡中七大社の一つであった。当時本社は区の南方久我嶽の麓にあったが、落石による社殿の破壊度々なるをもって三村に分祀される事となり、頃末には元亀二年(1571)に、朳には天正十六年(1588)社殿が設けられた。同時に本社も字 亀の甲に御遷座申し上げた。又、宝暦九年(1758)、それまで伊豆神社と称していたのを久我神社と改めた。明治四十三年本社を今の地に御遷座併せて、豊前坊山にあった高住神社(旧 豊日別神社)及び相殿疫神斎、字 京原鎮座の多賀神社 字 惣仙洞鎮座の貴船神社及び各神社の境内社を合倂合祀した。
  • 久我神社

    賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社で、賀茂氏の祖神賀茂建角身命をお祀りする。御祭神は神武天皇御東征の砌、八咫烏(やたがらす)と化して皇軍を大和へお導きになり、その功によってこの地方を賜り、一族を率いて移住、国土の開発に努められた。
    当初は当神社の付近に御祭神の墳墓があったと伝えられ、また当神社を「大宮」と称した為、その前通りを大宮通という。
    八咫烏の故事に因んで航空安全、交通安全守護の神として信仰を集めている。
  • November 2018 編集されました
    遠賀川流域は天照大神の子孫である神々「天孫」と関わりが深い地域だ。神話の始まりであるイザナギノミコト、イザナミノミコトを祭神とする神社も多い。

     英彦山神宮(添田町)にはアメノオシホミミノミコト(天照大神の子)が、遠賀川源流近くの馬見神社(嘉麻市)には天照大神の孫のニニギノミコトと妻コノハナサクヤヒメが、遠賀川と彦山川の合流点付近の多賀神社(直方市)にはイザナギとイザナミが、それぞれ祭られている

    飯塚市、嘉麻市には神武天皇の「滞在」「通過」を伝える神社や地名が計14カ所もある。

     神功皇后の伝承はより具体的だ。新羅から帰還後に皇子を出産したのが宇美町の「宇美」(生み)。皇子をかご(しょうけ)に入れて越えた峠が「ショウケ峠」として今に残る。

     熊本県辺りに勢力を持っていたという熊襲(くまそ)を征討した景行天皇が戦勝祈願した伝説も、嘉麻市の射手引神社などに残っている。


    天村雲尊は英彦山神宮の上宮に祭られ、伊弉諾尊は多賀神社や日少宮など筑豊の各神社に祭られている。素戔烏尊も須佐神社や祇園社に、天照大神尊も実は、宮若市磯光の天照宮や飯塚市の天照神社をはじめ、遠賀川水系や彦山川水系の各神社に広く祭られる。正哉吾勝速日天押穂耳尊は田川の神である。天彦尊(=瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))は嘉麻市の馬見神社などに祭られ、宮若市の六ケ岳がその陵だとの伝承も残る。
  • November 2018 編集されました
    984年、日本国の僧〓然(ちょうねん)が宋の太宗に「王年代紀」を献上した。平安時代の東大寺に伝わっていたようだが、現在は失われ、中国の「宋史日本国伝」に残されていた。記紀と異なり「初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰う、其の後は皆尊(みこと)を以て号と為す」として、天八重雲(あめのやえくも)、伊弉諾(いざなぎ)、素戔烏(すさのお)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、正哉吾勝速日天押穂耳(まさかあかつはやひあめのおしほみみ)、天彦(あまつひこ)、彦瀲(ひこなぎさ)など21人の尊を連ね、「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮(ひむかしのみや)に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と号す」と記している。大胆に「万世一系」の系譜と、神武に直結する二十三世の王(神)が記されている。
    王年代記に記された二十三世の王(神)

    1.天御中主(あめのみなかぬし)
    2.天村雲尊(あめのむらくものみこと)
    3.天八重雲尊(あめのやえくものみこと)
    4.天弥聞尊(あめのににぎのみこと)
    5.天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)
    6.瞻波尊(みなみのみこと)
    7.萬魂尊(よろずむすひのみこと)
    8.利利魂尊(ととむすひのみこと)
    9.國狭槌尊(くにさづちのみこと)
    10.角龔魂尊(つのそむすひのみこと)
    11.汲津丹尊(くみつにのみこと)
    12.面垂見尊(おもだるみのみこと)
    13.國常立尊(くにとこたちのみこと)
    14.天鑑尊(あめのかがみのみこと)
    15.天萬尊(あめのよろずのみこと)
    16.沫名杵尊(あわなぎのみこと)
    17.伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
    18.素戔烏尊(すさのおのみこと)
    19.天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)
    20.正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)
    21.天彦尊(あまつひこのみこと)
    22.炎尊(ほむらのみこと)
    23.彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)

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