紀氏、日前神、国懸神

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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『日本書紀』巻一第七段一書第一 天照大神は天の岩屋に入り、磐戸を閉じたので、天下が真っ暗になった。そこで思兼神…

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コメント

  • 船玉神
    「紀国造の祀る神」で「志麻神、静火神、伊達神本社」の三つがあることを述べている。この志麻神は余り他には見当たらぬ神名で、はっきりしたことはわからない。静火神はホシズメ(鎮火祭の火鎮メと同じ)で敵の火難を避けしめる神であり、伊達の神は武力の神であったらしい。この三個の舟玉神が紀氏の斎き祀る神であったというから、これが紀氏の氏神とでもいうべきもので、恐らく紀国造は海人部の出自であり-この氏が早く宮廷に仕えて、天照大神を祀る日前国懸の両大社に奉仕していた。
  • 日前國懸神宮の起源は、神武天皇が天道根命を紀伊国造とし、宝鏡を御霊代に、天照大神を祀らせたのがはじまり・・・。

    『旧事』橿原朝 (神武天皇) の御世、神皇産霊命五世の孫、天道根命を紀の国造に定め賜う。 

    『高家神社』紀伊忌部氏祖の彦狹知命の子。
  •  紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。
    宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。
    この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。
    これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。
    これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。

  • 紀小弓宿禰(?-?)
    ①父;白城 母;不明
    ②子供;大磐宿禰
    ③日本書紀 21雄略天皇の巻 新羅征伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦いで、大伴談連と紀崗前来目が戦死、小弓は、病没。との記事。

    紀大磐宿禰(?-?)
    ①父;小弓 母;不明
    ②紀生磐宿禰とも記すらしいが、同一人物かはよく分からぬ。
    ③日本書紀 21雄略天皇の巻 父「小弓」の死を聞いて新羅に向かったが、蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還した。の記事。
    ④日本書紀 23顕宗天皇の巻 紀生磐が、任那をまたにかけて高句麗と通じ、三韓の王 となろうとし、宮殿を作り自らを「神聖王」と称し百済の軍と戦った。とある。
    半島に留まって夢を追った人物の一人。
     
    紀男麻呂宿禰(?-?)
    ①父;大磐? 母;不明
    ②日本書紀 29欽明天皇の巻 562年新羅が任那諸国を滅ぼしたので、修復のために、男麻呂 が、大将軍として派遣された。
    ③日本書紀 32崇峻天皇の巻 587年物部ー蘇我戦争で男麻呂は、蘇我側に付いた。また、591年馬子は、任那再建のため、紀男麻呂、巨勢猿臣、大伴咋、葛城烏奈良(オナラ) らを大将軍として、新羅を討つ べく2万の軍勢とともに筑紫に送った。32崇峻死亡 により、本計画は中断され、推古3年595年大和に帰還した。
     
  • 紀氏は和歌山県にある日前国懸両神宮の社家で、その歴史は気が遠くなるほど古い。紀氏は古代から紀伊国に威武をふるっていた出雲族の王家で『古事記』や『日本書紀』『古語拾遺』『紀伊続風土記』などの記録によると、神武天皇が近畿内平定ののち紀州の国王(国造)に封じられた天道根命の直系子孫である

    発展をみせるのは景行天皇の三年、天皇の命を受けて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国造莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰を始祖とする武内流紀氏が大和朝廷の中央貴族として根を張り枝を広げるようになった頃からである。
     以後、大和朝廷にあって、新羅との戦いに紀大磐らが活躍し、大磐は新羅と戦いながら、任那・高麗の地を股にかけて勢力を蓄え、ついには神聖王を称した。大磐の率いる軍は百済王の軍兵を打ち破り、大和政権からは謀叛と受け止められ、大磐は朝鮮半島でその生涯を終えたという
  • 中央の紀氏の本拠地を平群坐紀氏神社が鎮座している大和国平群に求める説がある。
      また、山城國に紀伊郡があり、紀朝臣の拠点ともされる。紀氏は秦氏を配下とし蘇我氏に使えたが、蘇我氏の衰亡とともに衰え、その後は秦氏が栄えた。
     藤森神社 紀氏の祖神を祀ると言う。現在は素盞嗚尊、武内宿禰等。京都市伏見区深草鳥居崎町609
      武内宿禰が紀伊国造宇豆彦の女宇乃媛を娶り角宿禰を産む。大和国平群県紀里に家す。
      平群坐紀氏神社 奈良県生駒郡平群町上庄字辻の宮
  • ・神産霊神三世孫の大矢女命が、スサノオと結ばれ、五十猛命を生む。
    ・スサノオの女、地道女命が、神産霊神四世孫の天御鳥命と結ばれ、天道根命(紀国造初代)を生む。
    ・天御鳥命の妹、天道日女命が、スサノオの子、天火明命と結ばれ、天香語山命を生む。
    ・神産霊神八世孫の紀国造智名曽の妹、中名草姫が、尾張氏(天香語山命後裔)建斗米命と結ばれ、建田背命(丹波大県主建諸隅命の父、竹野姫命の祖父)や建宇那比命(大海姫命の父、崇神皇女淳名城入姫命の祖父)等、六男一女を生む。
    ・神産霊神十世孫の紀荒河刀弁命の女、遠津年魚目目微比売命(とおつあゆまくわしひめ)が、崇神妃となり、豊鋤入媛命を生む。
    ・神産霊神十二世孫の紀国造宇遅彦命の妹、山下影日,売命が、武雄心命の妻となり、武内宿禰命を生む。
    ・紀国造宇遅彦命の女、宇之媛命が、武内宿禰の妻となり、紀角宿禰(紀臣、紀朝臣祖)を生む。
  • 日前國懸神宮の起源は、神武天皇が天道根命を紀伊国造とし、宝鏡を御霊代に、天照大神を祀らせたのがはじまり・・・。
    ★『旧事』橿原朝 (神武天皇) の御世、神皇産霊命五世の孫、天道根命を紀の国造に定め賜う。 
    ★『高家神社』紀伊忌部氏祖の彦狹知命の子。

      
    『丹生直家系図』 

    天道根命━知名曽命━比古麻命━蔭佐奈朝命━鬼刀弥命━┓
                              ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┃
     ┗荒川戸畔命━久志多麻命━大名草比古命━宇遅比古命┓
                              ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
     ┃
     ┗━舟木命
  • 紀直の家系
    ・神産霊神三世孫の大矢女命が、スサノオと結ばれ、
    五十猛命を生む。
    ・スサノオの女、地道女命が、神産霊神四世孫の天御鳥
    命と結ばれ、天道根命(紀国造初代)を生む。
    ・天御鳥命の妹、天道日女命が、スサノオの子、天火明
    命と結ばれ、天香語山命を生む。
    ・神産霊神八世孫の紀国造智名曽の妹、中名草姫が、
    尾張氏(天香語山命後裔)建斗米命と結ばれ、建田背
    命(丹波大県主建諸隅命の父、竹野姫命の祖父)や建
    宇那比命(大海姫命の父、崇神皇女淳名城入姫命の祖
    父)等、六男一女を生む。
    ・神産霊神十世孫の紀荒河刀弁命の女、遠津年魚目目
    微比売命(とおつあゆまくわしひめ・・何と艶めかしい
    名であろう)が、崇神妃となり、豊鋤入媛命を生む。
    ・神産霊神十二世孫の紀国造宇遅彦命の妹、山下影日
    売命が、武雄心命の妻となり、武内宿禰命を生む。
    ・紀国造宇遅彦命の女、宇之媛命が、武内宿禰の妻とな
    り、紀角宿禰(紀臣、紀朝臣祖)を生む。
  • 和歌山市六十谷に在る射矢止神社の祭神は、品陀別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、天香山命、一言主命、宇賀魂命です。

     社伝では、「天香山命、一言主神は、神代の昔、五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたまい云々。その後、神功皇后、三韓より御凱旋時、日御神・一言主神の御宣があり、矢を射させこの地に落ちたので、この矢を国家鎮護の御神として、射矢止八幡宮と斎き祀られた」(和歌山県神社誌)とあります。

     祭神の天香山命は大歳尊の長男、五十猛命は大歳尊の兄で、伊太祁曽神社の主祭神です。そして、一言主神は須佐之男尊の御子10)ですから、一言主神は大歳尊(饒速日尊)の別名です。

     大歳尊(饒速日尊)は大和に来てからか、その前かは不明ですが、御子天香山命を連れて兄の五十猛命と紀国に来たのでしょう。兄の五十猛命はその後、紀国で亡くなったと記され伊太祁曽神社に祀られています。
  • -391 紀氏、紀の川流域に勢力をはる紀角宿禰、半島に攻め込む
         「西の庄」巨大製塩遺跡

    -五世紀 紀ノ川河口古墳爆発的増加

    -五世紀央 鳴滝倉庫 紀氏半島と大いに関わる
          紀ノ川下流南岸の開発が進展

    -五世紀後半 紀ノ川北岸に大きい前方後円墳
           紀氏、ピークの時代に岩橋千塚古墳築かれ始める
           源流は高句麗

    -五世紀末 大谷古墳(馬冑)
          紀小弓新羅を攻める、その子紀生磐宿禰三韓の王位をねらう
    紀生磐宿禰(紀大磐)は朝鮮半島でその生涯を終えた


  • 日前神宮・國懸神宮

    紀伊国一之宮 日前神宮・國懸神宮

    神宮概略

    【日前神宮・國懸神宮 御鎮座略紀】  

    日前神宮(ひのくまじんぐう)
    祭神:日前大神(ひのくまのおおかみ)
    相殿:思兼命(おもいかねのみこと)
    石凝姥命(いしこりどめのみこと)



    【日前大神鳥居】  
    國懸神宮(くにかかすじんぐう)
    祭神:國懸大神(くにかかすのおおかみ)
    相殿:玉祖命(たまおやのみこと)
    明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
    鈿女命(うづめのみこと)
    國懸大神鳥居
    【ご由緒】

    創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。

    日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。

    神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。

    その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。

    天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。

    その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。

    爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
  • 紀氏の氏の名の起源は、
    1.紀国(木国、後の紀伊国<和歌山県>)に基づく説
    2.平群坐紀氏神社の神社名あるいは鎮座地(大倭国平群県紀里。現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近。)に基づく説
    がある。
    一説によると、蘇我馬子が物部氏に対抗して武内宿禰を持ち出し、蘇我派を結成して武内宿禰の子孫と称する二十七氏族を並び立てたのは、祖先に大臣伝承を持った氏族と言うことで「紀氏(紀臣氏)には大臣がいなかった」と言われても何かの間違いではと思うばかりなのだが、蘇我馬子が意図した「紀氏」は、おそらく、鎮座地(大倭国平群県紀里)に由来するものだったのではないか。一体に武内宿禰の子と称する人は、波多八代(大和国高市郡波多郷)、許勢小柄(大和国高市郡巨勢郷<奈良県御所市古瀬>)、蘇賀石河(葛城県蘇我里<奈良県橿原市曽我町>)、平群都久(大和国平群郡平群郷<奈良県生駒郡平群町>)、木角(大和国平群県紀里<奈良県生駒郡平群町上庄>)、久米能摩伊刀比賣、怒能伊呂比賣、葛城長江(大和国葛上郡<御所市名柄>)、若子(『古事記』にのみ記載がある。不明。)とあり、みんな奈良盆地南部の人と思われ、紀角(後世の紀氏)宿禰も現在の奈良県出身と思われる。従って、蘇我馬子の眼中にあったのは平群県紀里の紀氏であって紀国の紀氏(紀直)ではなかったと思われる。

    『記紀』で紀氏や武内宿禰が出てくるのは、
    『日本書紀』

    大日本根子彦國牽天皇  孝元天皇
    七年春二月 妃伊香色謎命 生彦太忍信命・・・彦太忍信命 是武内宿禰之祖父也

    大足彦忍代別天皇 景行天皇
    三年春二月 遣屋主忍男武雄心命・・・則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛 生武内宿禰
    第八代孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命が紀国造(菟道彦)の女「影媛」を妃として、その間に「武内宿禰」が産まれたと言う。但し、『古事記』では屋主忍男武雄心命は系譜にない。即ち、

    『古事記』中巻 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)

    又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建内宿禰 此建内宿禰之子并九【男七 女二】・・・次木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】
    『日本書紀』では紀角宿禰が武内宿禰の子かどうかは解らない。『古事記』では「木角宿禰者【木臣 都奴臣 坂本臣之祖】」となっているので、一応、「皇別の紀氏」は武内宿禰の子孫と言うことになる。
    「皇別の紀氏」が「紀」姓を名乗ったのは、武内宿禰の母が紀の国造家出身だったからと言う。紀臣氏と紀直氏は通婚関係にあったと思われる。
  • 皇別の紀氏

    『日本書紀』卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇 九年五月「・・・汝大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣」(同國近隣之人の意味は紀伊の紀臣に対し和泉の大伴連が近隣の人を意味するらしい。紀角宿禰の子孫の坂本臣(和泉国和泉郡坂本郷)とか根使主(和泉国日根郡日根里)の本貫が和泉国にあるようなので和泉国で大伴氏と紀氏が近隣だったか、と思ったが、違うようである。)と符合するものか。ほかの紀臣氏の同族は角臣氏であるが、『日本書紀』には周防国都濃郡が本貫とある。小鹿火宿禰は紀角宿禰の子孫なのか。一説に、紀小弓の子、紀大磐の弟とある。ほかに紀角宿禰に関係する土地として、津野神社(滋賀県高島市今津町北仰・近江国高島郡角野郷)、角刺神社(奈良県葛城市忍海、但し、祭神は飯豊青命)などがある。しかし、紀角宿禰の実在を疑う見解もある。
    紀臣氏の『記紀』に見られる功労者としては、応神・仁徳朝の紀角宿禰、雄略朝の紀小弓宿禰、雄略・顕宗朝の紀大磐宿禰、欽明・崇峻朝の紀男麻呂宿禰などが散見する。主に朝鮮半島での軍事・外交において活躍が著しい。特に、『日本書紀』巻第十 誉田天皇 応神天皇 三年「是歳 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无禮状 由是 百濟國殺辰斯王以謝之 紀角宿禰等 便立阿花爲王而歸」とあり、これを『好太王碑文』の「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391)來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」の記事のこととする説がある。但し、前述したように紀角宿禰のように実在が疑われる人物もいる。また、顕宗朝の大磐、欽明朝の男麻呂などは蘇我氏の全盛期と重なっている。従って、紀臣氏が大臣に就かなかったと言うことは考えづらいことではある。あまりに大伴氏よりだったためか。しかし、紀臣氏の本業は吉野山から材木を吉野川、紀ノ川を経て紀ノ川河口まで送り、そこで船を造る現今で言う林業、造船業ではなかったか。当時の船は未だ丸木舟や準構造船で兵員の大量輸送には適さなかったが、小型とは言え朝鮮半島へ渡るには船が必要で造船業者であった紀臣氏には一日の長があったのではないか。
  • 日前国縣神社 由緒 によれば、宮井川の豪族
    紀ノ川南岸平野を潤す宮井川(名草溝)の初期の開発時(多分古墳時代前期)の取水口が神社に隣接しており、水利分配を司る神社の要素もあった。この宮井川を切り開き、名草平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。  今日でも、日前宮には農耕や水にかかわる祭りが多い。
    紀(紀伊)国造家=日前国縣両宮神職家
          神皇産霊尊ー天道根尊(紀=紀伊)国造
      孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男命ー武雄心命
                        ∥
                        ∥──武内宿禰(神功皇后の側近として有名)
                        ∥
            紀国造の祖(紀直)菟道彦の娘 影媛(山下影日売)
    紀角宿禰(キノツノノスクネ):応神、仁徳朝に対朝鮮外交で活躍した紀氏同族の祖。
       実在したかは未詳。応神三年、百済に辰斯王が立ち、倭国に礼を失したので、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木莵宿禰らとともに遣わされて、無礼の状を責めて殺し、阿花王を立てて帰国した。仁徳41年3月にも百済へ遣わされ、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。この時、百済王の同族酒君の無礼を責めると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛し、葛城襲津彦に付して日本に送ったという。
    紀氏一族の根拠地:
       紀伊、和泉、讃岐、阿波、伊予、周防、豊前を瀬戸内海の海上交通で結ぶ
    大和朝廷の支配浸透し、日本軍出兵、百済、新羅を服属(好太王碑)       紀氏一門は船材を提供し、水軍の拠点として活躍した。
    487年 紀生磐 任那に叛す
    紀米多臣 周芳国より讃岐国に遷り、その後佐婆部首となった。            紀朝臣牛養の祖先。
    541-7 紀臣弥麻沙 日系韓人 父:紀臣 母:韓婦 百済に留まり、百済の官位16品の第6位に。百済は弥麻沙を安羅に遣わし任那の執事を召して任那を建てることを謀らしめた。
    562-7 紀男麻呂宿禰 新羅を責める大将軍       (562 任那日本政府 新羅に滅ぼされる)
    583-7 紀国造押勝 火茸北国造阿利斯登の子日羅を迎えるために百済に派遣        されたが実現せず。       
    587-7 紀男麻呂宿禰 物部弓削、守屋大連の往討軍に加わる       ・591-11 紀男麻呂宿禰 任那再興の大将軍に       ・592 紀男麻呂宿禰 任那再興中止
    595-7 紀男麻呂宿禰 筑紫から帰国
    628-9 紀臣塩手 宮人 山背大兄を推した
    645-8 紀臣麻利耆 官人 東国の国司 毛野国慈に派遣されたグループの長官       ・646-3 罪を犯したが他の国司とともに罪を許された       ・650-2 中庭から殿の前まで白雉の輿を執って進んだ
    668-9 紀大人臣 藤原鎌足を山階寺に葬った時、使いとして送終の辞をのべた
    669-11 天智天皇重態の時、大友皇子を随い蘇我赤兄、中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣と心を同じく、天皇の詔を奉ずることを誓った
    671-1 紀臣大音 任申の乱に吉野軍に属し、大和、河内の界燿坂の道を守った
    天武の時代 672-7 紀臣阿閇麿 壬申の功臣 東道将軍
    686-9 紀朝臣弓張 直広肆 天武天皇が崩じた時、殯庭に民官の事をしのびごとをした
    692-3 持統天皇 伊勢行幸の時、留守官
    693-6 紀朝臣麻呂 直広肆 中務郷(701-3-21 授位 大納言 正従三位)
    697-8 紀朝臣竈門娘 文武天皇の嬪 
    713-11-15 嬪号を除かれる(藤原不比等が首皇子=聖武天皇を擁立する為との説がある)
    701 紀大臣道成 日高郡に道成寺を創建
    705-7-19 紀朝臣麻呂 正従三位 大納言 46歳歿(659-705)父:紀大人臣
    705-7-19 紀朝臣古麻呂 正五位上 騎兵大将軍 式部大輔 新羅使い         ・紀大人の子、紀飯麻呂の父
    709 紀朝臣橡姫(懐姫)光仁天皇を生む
                        紀朝臣宮子 従三位 
     施基皇子(天智天皇の皇子)     ∥
         ∥             ┌ 白壁王(光仁天皇)→桓武天皇
         ∥─────────────│
         ∥             └ 難波内親王 2品 774歿
        紀朝臣橡姫(紀朝臣諸人の娘)
    709-3-5 紀朝臣諸人 蝦夷副将軍
    711-9-4 紀朝臣諸人 平城宮の造営の将軍
    714-2-10 紀朝臣清人 従六位下→従六位上 天皇は国史を撰修させた 帝記、日本記30巻 系図等の国史編纂に携わる721-1-23 首皇子の宮に伺候した 746 武蔵守
    720 紀朝臣清人「日本書紀」として完成
    717-7-24 紀伴人 安房国郡司 平群郡八幡 八幡社 宇佐八幡を勧誘する
  • 中央の紀氏 紀朝臣 紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
      紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。
      紀氏の非公開系図には、素盞嗚尊を祖としている。この場合には五十猛命と続くものと思われる。ヤハタの神を祀った辛島氏と同じルーツではなかったか。筑紫紀氏とでも言える。
      江戸時代の「熱田旧記」には紀氏は出雲の大国主の子孫とある。出雲紀氏と言える。


      中央の紀氏の本拠地を平群坐紀氏神社が鎮座している大和国平群に求める説がある。
      また、山城國に紀伊郡があり、紀朝臣の拠点ともされる。紀氏は秦氏を配下とし蘇我氏に使えたが、蘇我氏の衰亡とともに衰え、その後は秦氏が栄えた。
    藤森神社 紀氏の祖神を祀ると言う。現在は素盞嗚尊、武内宿禰等。京都市伏見区深草鳥居崎町609
      
    武内宿禰が紀伊国造宇豆彦の女宇乃媛を娶り角宿禰を産む。大和国平群県紀里に家す。
         平群坐紀氏神社 奈良県生駒郡平群町上庄字辻の宮
  • 石清水八幡宮は男山八幡宮とも呼ばれるように、男山の丘陵上に鎮座する。貞観元年(859)奈良大安寺の僧行教が、宇佐八幡宮に参籠して「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、同二年、誉田別命・比口羊大神・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めである。
     古来より、我朝の太祖、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟と称せられ、皇室より国民に至るまで尊崇特に篤い。なかでも皇室では、歴代天皇の崇敬が深く、行幸啓・奉幣はしばしばで、行幸は永祚元年(989)正月二十一日の円融法皇の御参詣を初めとし、明治十年、明治天皇の行幸に至るまで天皇・上皇の行幸や美幸は二百四十度にも及ぶ。
  • 紀氏とは、日本列島にいる和邇氏から、金管伽耶(大成洞)に派遣されていた宰(みこともち)であったので、

    金管伽耶または任那日本府・・・・紀氏(吉氏)。しかし世襲ではない(任期制)ので、長官経験者は複数存在したと仮定。伽耶の成立から滅亡まで、一貫して紀氏の派遣の記事がある。これは、任那に関してはこの氏族の管轄だったと推定する事ができる。

    安羅伽耶・・・・去勢氏。韓半島で最後まで任那奪還を試みていたのは紀氏と去勢氏。歴史的事実からすると安羅である。御所市の語源ともなったと思われる去勢山近辺の去勢古墳群は、後期伽耶連盟が崩壊した561年以降(6世紀後半)の遺物が多い。よって、去勢氏が安羅からの渡来と考える。
  • 蘇我 韓子(そがの からこ、生年未詳 - 465年5月)は、古墳時代の豪族。蘇我満智の子(尊卑分脈・公卿補任)で、子に蘇我高麗、弟名子媛(穂積押山妻)がいる。「韓子」は母が韓人である子の通称名か。
    『日本書紀』によると、蘇我韓子は、465年3月(雄略9年3月条)、雄略天皇の命で紀小弓(紀角の孫・新羅で戦病死・5月条で大伴室屋と同国近隣の人)、大伴談(=語かたり。室屋の子、金村の父。後裔に佐伯氏)、小鹿火宿禰(紀小弓の子、紀大磐の弟7000傑、後、角氏へ)とともに大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害しはじめたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の息子紀大磐(紀小鹿火の兄?)だが、大磐は父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河でおぼれ死んだ、とされる。wiki
  • 紀角宿禰と津之郷

    周防灘沿岸のツノ地方が、さらにヤマト政権の朝鮮出兵過程において、中継的な役割を果たした。
    『日本書紀』雄略九年条に記述する角国(つのくに)・角臣(つのおみ)伝承から知られる。

    五世紀の後半の事件として、ヤマト政権は、朝鮮の新羅を伐つため、紀小弓・紀小鹿火(おかひ)・蘇我韓子(大臣稲目の祖父)・大伴談(かたり)(大連室屋の子)らの軍を派遣した。
    小弓は朝鮮東南部の洛東江中流域の㖨己呑(とくことん)(慶尚北道慶山)を平定後、病死した。
    子の大磐(おおいわ)は父の死を聞いて新羅に渡り、派遣軍を掌握したが、内紛を生じ、百済の王都、漢城(ソウル)に進むことができず、小鹿火とともに帰国の途についた。ところが小鹿火は出兵が不首尾に終わり、天朝に仕えるに堪えないといって、角国に留まることを請い、大連大伴室屋は雄略大王にこれを奏して許された。紀臣らは角国に定住することになって、角臣と改姓した、と記している。

    雄略朝にかけられたこの角臣伝承が、史実としてそのまま信じがたいのは、いうまでもない。しかしそれにしても、古代における朝鮮派遣の兵船は、四国北岸沖のコースと山陽南岸沿いのコースをとった。
    前者は主として、紀伊半島を起点に鳴門海峡・讃岐沖・備後灘・来島海峡を通過する航路で、のちに七世紀の六〇年代、百済救援軍を派遣したときの斉明女帝らの一行がたどった船跡と後半一致する。
    とくに朝鮮外征にあたって主導的役割を演じた有力豪族、紀氏とその同族の分布地をつなぐ沖合いコースであった。
     紀
    氏関係者は、瀬戸内海沿岸地方で、文献上、讃岐国板野郡・寒川郡・刈田郡、伊予国越智郡や周防国玖珂郡と佐波郡に居住したのが分かる。そればかりでなく、じつは、周防国ツノ地方において、紀氏の存在を伝える史料がある。『防長風土注進案』の都濃郡金峯村(現鹿野町・徳山市)の須万(現徳山市)に関し、「往古は当地、須々万・中須一郷ニ而、文治・建久之比迄は紀ノ村と唱へ来候処、中納言雅頼之御子秋月丸、父を慕ひ赤間ケ関江下り尋ね玉ふに、父入水と聞、力を落し、詮方無、兎や角やとさまよひ給ひし所、平家の落人周防国ニ多人数住るよし伝へ聞候、当地江来り落人を便りニ住玉ひ、故郷なつかし迚(とて)、須万と改めたる」とある。

    近世の伝承ではあるが、さきの『日本書紀』雄略九年条にみえる紀臣を改姓した角臣の居住といい、八世紀、紀角臣を名のる氏が存在したことといい、紀氏一族がツノ地方に居住し、その地を紀村と称するにいたったとの所伝は、まったく付会の産物とはみなしがたい。
     
    さらに奈良時代の歴史を記録した『続日本紀(しょくにほんぎ)』の七九一年(延暦十)十二月条のつぎの記事は、紀氏の分布と山陽側から南海地方への移動を物語っている。
    讃岐国寒川郡人佐波部首牛養は、紀田島宿禰から出たもので、田島宿禰の孫米多臣が仁徳朝周芳(すおう)国から讃岐国に遷り、やがて佐波部首を名のったが、いま寒川郡岡田村に居住するので、居地によって岡田臣の姓を賜わりたいと願い、許されたとある。佐波部首は讃岐移住後の改姓というが、じつはむしろ逆で、もとサバ地方に住み、しかも自分の祖を紀田島宿禰と述べているから、ツノ地方の西に接するサバ地方にも、紀氏の一族が居住したことの証拠となる。
  • 都怒国造は「難波高津宮朝(仁徳)、紀臣同祖都怒足尼(すくね)ノ児、男嶋足尼、国造ニ定メ賜ウ」とあり、男嶋は、前述の紀田島宿禰と同一人のようにみえ、八世紀末の佐波部首牛養の言上の拠りどころがツノ国造家の伝承にあったと推定することもできる。いずれにせよ、仁徳朝設置は仮託にすぎないものの、ツノ国造の管轄する領域は、単に末武川・富田川流域を中心とする、のもの都濃郡域にとどまらず、西方は佐波郡地方にも及んだのが、これによって分かる。ツノ地方をはじめとする周辺の民衆は、ヤマト政権の部民に編成され、ツノ国造を通じて各種の貢納物を納入し、あるいは労役を負担した。ただツノ国造の氏姓は、現存史料によっては、なおうかがい知ることができない。
  • October 2018 編集されました
    紀男麿宿禰は大和時代後期の武将で、欽明23(562)年、新羅に侵された任那回復のため大将軍として渡鮮している。

    のち、蘇我馬子に従って物部守屋を攻める。没年不詳とあるが、別の資料では吉仲麻呂が598年に崩御、調月次いで卒す。とあることから、600年代前半に亡くなったものと見られる。

    日本書紀(欽明天皇23年 新羅への派兵)に、「治世23年7月、大将軍紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)を遣わして、兵を率いさせ哆(口+多)唎(口+利)(たり)から出発させた」(「哆唎:たり」は、全羅南道栄山江東海岸か)とあり、

    「・・・紀男麻呂は、勝ったときにも負ける時を警戒し、安泰なときも緊急に備えるというのは、古の良い教えである。今いるこの場所は、山犬と狼の交わっているような猛悪の者が住む恐ろしいところである。軽率に行動して、後の禍にならぬようにすることを忘れてはならぬ。平安の時にも太刀や矛を身から離さぬ君子の武備を怠ってはならぬ。慎み戒めて、この注意を励行せよ」とあり、また「士卒らはみな服従した。
    河辺臣瓊缶は、ひとり前進しよく戦った。向かうところ敵なしの有様であった。新羅は白旗を揚げ、武器を捨てて降伏してきた」と記されている。

     用明天皇没後、穴穂部皇子を奉じ仏教排斥を唱えた物部守屋を討つ蘇我氏の戦いで厩戸皇子(後の聖徳太子)の馬方を務めている
  • 『日本書紀』卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇
    三年二月 紀直遠祖菟道彦

    『日本書紀』卷第九 息長足姫尊 神功皇后
    摂政元年二月 紀直祖豊耳

    『日本書紀』巻第二十 敏達天皇
    十二年七月 紀國造押勝與吉備海部直羽嶋
    十二年十月、紀國造押勝等還自百濟

  • 紀国造(くにのみやつこ)。敏達(びだつ)天皇12年(583),百済(くだら)(朝鮮)王朝につかえていた日羅(にちら)を召喚するため,吉備海部羽嶋(きびのあまの-はしま)とともに派遣されたが,威徳王に拒否されて帰還した。同年羽嶋が再度つかわされ,日羅をつれて帰国。名は忍勝ともかく
  • 『日本書紀』雄略九年条に記述する角国(つのくに)・角臣(つのおみ)伝承から知られる。五世紀の後半の事件として、ヤマト政権は、朝鮮の新羅を伐つため、紀小弓・紀小鹿火(おかひ)・蘇我韓子(大臣稲目の祖父)・大伴談(かたり)(大連室屋の子)らの軍を派遣した。小弓は朝鮮東南部の洛東江中流域の㖨己呑(とくことん)(慶尚北道慶山)を平定後、病死した。子の大磐(おおいわ)は父の死を聞いて新羅に渡り、派遣軍を掌握したが、内紛を生じ、百済の王都、漢城(ソウル)に進むことができず、小鹿火とともに帰国の途についた。ところが小鹿火は出兵が不首尾に終わり、天朝に仕えるに堪えないといって、角国に留まることを請い、大連大伴室屋は雄略大王にこれを奏して許された。紀臣らは角国に定住することになって、角臣と改姓した、と記している。
     雄略朝にかけられたこの角臣伝承が、史実としてそのまま信じがたいのは、いうまでもない。しかしそれにしても、古代における朝鮮派遣の兵船は、瀬戸内海を西に進み、関門海峡から対馬海峡を乗り切った。しかも内海航路は、通常、四国北岸沖のコースと山陽南岸沿いのコースをとった。前者は主として、紀伊半島を起点に鳴門海峡・讃岐沖・備後灘・来島海峡を通過する航路で、のちに七世紀の六〇年代、百済救援軍を派遣したときの斉明女帝らの一行がたどった船跡と後半一致する。とくに朝鮮外征にあたって主導的役割を演じた有力豪族、紀氏とその同族の分布地をつなぐ沖合いコースであった。
     紀氏関係者は、瀬戸内海沿岸地方で、文献上、讃岐国板野郡・寒川郡・刈田郡、伊予国越智郡や周防国玖珂郡と佐波郡に居住したのが分かる。そればかりでなく、じつは、周防国ツノ地方において、紀氏の存在を伝える史料がある。『防長風土注進案』の都濃郡金峯(みたけ)村(現鹿野町・徳山市)の須万(現徳山市)に関し、「往古は当地、須々万・中須一郷ニ而、文治・建久之比迄は紀ノ村と唱へ来候処、中納言雅頼之御子秋月丸、父を慕ひ赤間ケ関江下り尋ね玉ふに、父入水と聞、力を落し、詮方無、兎や角やとさまよひ給ひし所、平家の落人周防国ニ多人数住るよし伝へ聞候、当地江来り落人を便りニ住玉ひ、故郷なつかし迚(とて)、須万と改めたる」とある。近世の伝承ではあるが、さきの『日本書紀』雄略九年条にみえる紀臣を改姓した角臣の居住といい、八世紀、紀角臣を名のる氏が存在したことといい、紀氏一族がツノ地方に居住し、その地を紀村と称するにいたったとの所伝は、まったく付会の産物とはみなしがたい
  • November 2018 編集されました
    都怒国造は「難波高津宮朝(仁徳)、紀臣同祖都怒足尼(すくね)ノ児、男嶋足尼、国造ニ定メ賜ウ」とあり、男嶋は、紀田島宿禰と同一人のようにみえ、八世紀末の佐波部首牛養の言上の拠りどころがツノ国造家の伝承にあったと推定することもできる。いずれにせよ、仁徳朝設置は仮託にすぎないものの、ツノ国造の管轄する領域は、単に末武川・富田川流域を中心とする、のもの都濃郡域にとどまらず、西方は佐波郡地方にも及んだのが、これによって分かる。ツノ地方をはじめとする周辺の民衆は、ヤマト政権の部民に編成され、ツノ国造を通じて各種の貢納物を納入し、あるいは労役を負担した。ただツノ国造の氏姓は、現存史料によっては、なおうかがい知ることができない。
     国造制は、さらに六世紀後半、行政的な領域区分に対する支配という性格も、一段と強めてきた。とりわけ瀬戸内海沿岸地方は、朝鮮の新羅との緊張が高まったのに対応し、地域支配の強化と海外出兵のための航路の確保を目的に、国造領内の民衆に対する地域的再編が、いわゆる凡直(おおしのあたい)国造制の支配を実現せしめた。国造の姓に凡直を付すのは、諸国のうち、内海域の周芳以下、穴門・安芸・淡路・阿波・伊予・讃岐・土佐の各国造だけに限られる。凡の字義は、より広範囲の地域を総轄するの謂で、従来の国造を二次的に改編した広域国造を指す。『国造本紀』の大嶋・波久岐・都怒といった小国造は、下松地方に東接する島田川中下流域も勢力基盤とする大国造の周防(芳)国造、すなわち周芳凡直氏に統轄されることになったといえる
  • 讃岐国寒川郡人佐波部首牛養は、紀田島宿禰から出たもので、田島宿禰の孫米多臣が仁徳朝周芳(すおう)国から讃岐国に遷り、やがて佐波部首を名のったが、いま寒川郡岡田村に居住するので、居地によって岡田臣の姓を賜わりたいと願い、許されたとある。佐波部首は讃岐移住後の改姓というが、じつはむしろ逆で、もとサバ地方に住み、しかも自分の祖を紀田島宿禰と述べているから、ツノ地方の西に接するサバ地方にも、紀氏の一族が居住したことの証拠となる。
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