摂津 三島鴨神社 溝咋神社

March 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image摂津 三島鴨神社 溝咋神社

三島滞在中に鎌足はのちに孝徳天皇となる軽の皇子と食事などしているそうです。鎌足はここでかなりの人物に接触したよ…

Read the full story here


コメント

  • 神社本庁が行った全国神社祭祀祭礼総合調査では、全国には三島神社が411社あり、大山祗神社の地元である愛媛県に3分の1の111社、三嶋大社のある静岡県に36社、さらに福島県に35社、福岡県24社、高知県19社、神奈川県19社、大分県16社と続き、ほぼ全国に散らばっています。このうち、東日本では三嶋大社から勧請された神社がほとんどで、西日本では大山祇神社を本社とするものがほとんどです
  • 摂津国に当たる大阪の高槻市には、三島鴨神社が鎮座し、社伝では最古の三島神社であるとされることから、この三島鴨神社が最初に大山祗神が勧請されて置かれた場所の可能性が高そうです。また古くは、大山祇神社と三嶋大社に三島鴨神社を加えた三つの三島神社を総称して「三三島」と呼ばれていることから、この三社の関係が深かったことがうかがえます
  • 「三島鴨神社由緒略記」には、末社の項に、次のように書かれています。

    唐崎神社 大山祇神(三島鴨神社若宮)

     本社に大山祇神をまつり、若宮にも同じ神をまつるという表示は奇異というべきで、しかも、その若宮を「唐崎神社」と呼んでいます。社号の字面とは反対に、本社祭祀に対するに、その地の先住神を若宮や客人[まろうど]社などにまつる例はいくつもあり、ここもそうだとしますと、それがさらに唐崎神社と呼ばれていることはなにごとかです。
     京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内社・井上社(御手洗社)の神は、唐崎神の異称をもっていて、これは瀬織津姫神のことですし、淀川の水源である琵琶湖沿岸においても、この神を唐崎神としてまつる例は複数あります(高島市マキノ町の唐崎神社ほか)。
     三「三島」の一つ、大三島の大山祇神社においては、その境内合祭社(十七神社)のなかに「早瀬神社」の名でかろうじて瀬織津姫神の祭祀を残していましたが、三島鴨神社においては、現在、本殿に向かって右横に、「末社」レベル以上の社殿で唐崎神社をまつっています。
  •  三島神に奉仕していた「玉江の主」でもあった一族とは「三島王族」と呼ばれる人たちで、この一族については、次のように書かれています。

    三島鴨神社史

     玉江、玉川湖沼、安威川の流域は三島王族の根拠地でした。朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族は、当時の都や河内の朝廷をはじめとする大勢力が無視できないような大きな勢力をもっていました。それは「鴨族」とも呼ばれていました。
    ーー中略ーー
    社号になぜ「鴨」がついているのかは大きな謎なのですが、『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます
    ーー
    淀川河口の御島神=オオヤマツミ神が、勅命祭祀によるものだということに端的に表れているように、三島王族によって親しく祭祀される神でなかったらしい
  • 三島鴨神社の創建
     「創建年紀は不明なるも、初代神武天皇から第9代開化天皇(4世紀初め)までの奈良葛城王朝を支えた“鴨氏”によるとの伝承もあるが、伊予風土記では『仁徳天皇の頃、最初摂津国・御島の地に坐した』とあり、続日本紀によれば『摂津国嶋下郡の三島鴨神社なり』とある。即ち百済系の渡来人が、その頃創建したもので、・・・」
    オオヤマツミを祀る三島社としての由緒が記されている。

    伊予に遷されたのは三島神社であって鴨神社ではない、延喜式にいう三島鴨神社は“三島の鴨神社”のことで三島神社ではない。この三島鴨神社はかつて幾島明神(多くの島々の神か)と称し、郡内の赤大路字鴨森に鴨神社と称するものがある」(大阪府史蹟名勝天然記念物・1931、大意)
    とあるように、現三島鴨神社を式内・三島鴨神社とすることに疑義が呈されている。

    鴨神社の由緒には
     「当社からの分社の三島鴨神社の由緒では、“地所は、嶋上郡、嶋下郡の中間で三島藍の陵(継体天皇御陵)より巽方4町にあり、往古は小社に非ず”とある」
    と記し、現三島鴨神社は鴨神社の分社であって、鴨神社が式内・三島鴨神社であると主張しているようにみえる。
  • 京都府 人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。而して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと國名風土記に見えたり」とある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。
  • 古語拾遺(大同2年(807年)編集)に、
     神武天皇東征の年 「賀茂縣主遠祖八咫烏者 奉導宸駕 顯瑞菟田之徑」とあり、八咫烏を、賀茂縣主遠祖としています。

    先代旧事本紀(大(同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている)
     神代本紀に、「次,神皇產靈尊.亦云,神魂尊.兒,・・・次,天神玉命.葛野鴨縣主等祖」(神世七代の七代目に、天神玉命があげられ、これが葛野鴨縣主等祖とされています)
     天神本紀に、「天櫛玉命,鴨縣主等祖」、おなじく「天神魂命,葛野鴨縣主等祖.亦云,三統彥命.」(高皇產靈尊が「為防衛,天降供奉矣」した三十二人並のうちの一人として)があります。
     これからすると、「鴨縣主」の祖は天櫛玉命、「葛野鴨縣主」の祖は天神玉(魂)命となり、両者は別のものなります。なお、そこには三十二人の一人として、「天神玉命,三嶋縣主等祖」もあげられています(伊豆の三島・賀茂などを考える上で意味深長です、伊豆半島には葛城山まであります。)。
  • June 2016 編集されました
    奈良と出雲の賀茂氏
    天櫛玉命については、式内社に、「櫛玉命神社 大和国 高市郡」および「櫛玉比女命神社 大和国 広瀬郡」があります。「天神魂命(天神玉命)」については、同系統とおもわれる神社が、おなじく式内社に、「同社(筆者注:杵築大社)神魂御子神社」、「同社(筆者注:杵築大社)神魂伊能知奴志神社」、「同社(筆者注:阿須伎神社)神魂意保刀自神社、同社神魂(筆者注:伊努神社)伊豆乃売神社」、「同社(筆者注:伊努神社)神魂神社」(上五社出雲国出雲郡)、「同社(筆者注:比布智神社)坐神魂子角魂神社」(出雲国神門郡)があり、いずれも摂末社の扱いで、出雲国にのみ見られます。その他、神産魂命子午日命神社(出雲国神門郡)があります。
  • 京都の上賀茂・下鴨神社

     「上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主の後裔である」とされています。しかし、和名抄の山城国葛野郡には、賀茂郷は見当たりません。しかし、愛宕郡には、賀茂郷があり、そこには上にあげた「かも」の名に関係する式内社が六社あります。現在は、下上賀茂社にまとめられているようです。
     
    続日本紀に、文武二(698)年 「禁山背国賀茂祭日会衆騎射」とあり、「賀茂祭」は、「賀茂別雷神社」すなわち上賀茂社の祭りを指しているとされます。
     江戸時代の黒川道祐による、天和二年(1682年)から貞享三年(1686年)にあらわされた雍州府志(「雍州府志―近世京都案内 (上) 」(岩波文庫) )に、「上賀茂の社 白鳳年中、大己貴の命、下賀茂に来現したまう。その後、四月酉の日、瓊々杵の尊、大和の国、賀茂の社自り、上賀茂別雷山の麓、御生所の地に来現したまう。別雷の神と号す。大賀茂と称す」とあり、「下賀茂の社 高野川と賀茂川とこの社の南に於いて流を合す。故に、或いは川合の神と称す。また、御祖と称す。或いは謂う、丹塗の矢を祭る所と。然れども、実は大己貴の神を祭る所なり。」とあります。但し、補遺に、「上賀茂 一説に瓊々杵の尊、天孫として始めて斯の国に降臨し給う。故に是を地神となし、上賀茂に勧請し奉る」、「下賀茂 鵜の羽葺不合の尊、叔母、玉依姫を后となして、神武帝を産めり。是を人王の始となす。下賀茂の社、御祖の神と称し、玉依姫を勧請し奉るものなりと。」とあります。
  •  「山城国風土記」(逸文)によれば、賀茂建角身命は大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河と賀茂河が合流する地点を経由して「久我國の北の山基」に鎮まった事が書かれています。ここでは、
    そこには、丹塗矢の話も載っていますので、雍州府志にあるこの話は、この逸文を参考にして書いたものと思われますが、どこからかクレームが入って、補遺に言い訳のように天孫系の話を載せたのでしょう。ただ「白鳳年中」と「四月酉の日」の出典が分かりません。上賀茂神社のホームページにある由緒書きには、「神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営」とあります。

     その逸文の最後に可茂建角身命、丹波伊可古夜日女、玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐すとあります。「蓼倉」は和名抄にある 山城国愛宕郡蓼倉郷で、現在の京都市左京区下鴨蓼倉町にあたり、下賀茂神社と隣接したところとなっています。三井の社は、式内社三井神社で、「三井」は『三身』で、先の三柱をさします。現在は、下賀茂社の境内摂社として鎮まっています。そこでは、可茂建角身命、丹波伊可古夜日女は、玉依日女の両親です。
     その賀茂建角身命の移動経路は
      日向曾峯(天降り)⇒大倭葛木山の峯⇒山代國岡田の賀茂⇒葛野河と賀茂河の會所⇒久我國の北の山基
    で、その最終の地を「賀茂」となづけたということになっています。
  • 日本書記
    ・神代上:一書曰 又曰、事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也
    ・神武天皇庚申年秋八月癸丑朔戊辰: 三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛
    ・雄略天皇 九年春二月甲子朔: 三嶋郡藍原(岩波文庫「日本書紀」 摂津の国、現在の大阪府吹田市田の辺)
    ・安閑天皇 元年閏十二月己卯朔壬午: 行幸於三嶋・・・・三嶋竹村屯倉者、以河內縣部曲爲
    田部之元於是乎起(「岩波文庫 「日本書紀」 大阪府三島郡)
    ・欽明天皇 廿三年冬十一月: 攝津國三嶋郡埴廬新羅人之先祖也。
    ・皇極天皇 三年春正月乙亥朔: 稱疾退居三嶋。(岩波文庫 「日本書紀」大阪府三島郡)
    欽明天皇 廿三年は、西暦562年、皇極天皇三年は、西暦646年。

    ★古事記
    ・神武天皇  大久米命曰「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。・・・」
    ・淸寧天皇  天皇御年、肆拾參歲。丁未年四月九日崩也。御陵者、三嶋之藍御陵也

    ★『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)・大同元年牒(806)
      神封部
        合四千八百七十六戸
         (略)
        伊豆三島神 十三戸 伊豆国。宝字二年(758)十月二日九戸。同十二月四戸。
         (略)

    ★日本後紀
    《卷四十逸文(『釋日本紀』十五述義)天長九年(832)五月癸丑【廿二】》: 
     ○癸丑、「伊豆國言上。三嶋神・伊古奈比売神、二前預名神。此神塞深谷摧高巌、平造之地、二千町許。作神宮二院、池三處。神異之事、不可勝計。」

    ★續日本後紀《卷九承和七年(840)九月乙未【廿三】》
     ○乙未。伊豆國言。賀茂郡有造作嶋。本名上津嶋。此嶋坐阿波神。是三嶋大社本后也。又坐物忌奈乃命。即前社御子神也。・・・・
     ・・・・阿波神者。三嶋大社本后。五子相生。而後后授賜冠位。我本后未預其色。
        (筆者注:上津嶋は今の神津島であろう。)
    《卷九承和七年(840)十月丙辰【十四】》
     ○丙辰。奉授无位阿波神。物忌奈乃命並從五位下。以伊豆國造嶋靈驗也。
        (筆者注: 三島神の本后  :阿波神
                 御子神     :物忌奈乃命
                後后       :伊古奈比売神(推定) という図式に)

    ★延喜式 3巻:27条:【名神祭二百八十五座】
      三嶋神社一座  伊古奈比怡命神社一座  物忌奈命神社一座
      阿波命神社一座  楊原神社一座〈已上伊豆國〉
         (筆者注:上は名神祭二百八十五座の内伊豆国分)
    ★延喜式 延喜式神名帳 『延喜式』の巻九・十 (伊豆国名神大5座のみ記)
      伊豆国賀茂郡    伊豆三嶋神社  名神大。月次新嘗。
      伊豆国賀茂郡 伊古奈比咩命神社 名神大
      伊豆国賀茂郡 物忌奈命神社   名神大
      伊豆国賀茂郡 阿波神社       名神大
      伊豆国田方郡 楊原神社       名神大
      (筆者注:阿波命神社、物忌奈命神社 は神津島のそれぞれに当てられることが多い)
  • 『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます。
  • June 2016 編集されました
    神社昇格願

    伊豆三島神社伊豫大山積神社摂津三島鴨神社此三社ハ御祭神同一神ニ坐マス則チ伊豫風土記ニ仁徳帝ノ時自百済帰来坐津国御島坐云々トアリ因テ推ルニ当神社創祀ノ年代不詳ナレトモ右ハ仁徳帝ノ御宇此神ヲ津国ニ奉祀セラレタルヲ謂ヘルモノニシテ此神此島ニ住マレ給ヒシニハ非ジ此御代ハ難波高津宮ニ遷都シ給ヒシ御代ナレバ其上流タル淀川ノ川中島タル此神島ニ奉祀シタルモノナルベシ蓋シ同帝ノ最モ叡慮ヲ垂レ給ヒシハ淀川ノ氾濫ニシテ浸水ハ帝都及ビ難波国ノ一大恐怖タリシナリ而シテ堤防守護ノ神トシテハ此大山祇神ニ越シタル神ハ坐サズサレバ此神ヲ淀川川中島ニ奉祀シタルニテ大水上ノ神ニ坐セバ河身奉祀ノ意義モ合理ニ坐セリ

     一般に流布する『伊予国風土記』(逸文)は、大山積神は百済からやってきて津(摂津)の御島にいると書かれています。しかし、「神社昇格願」の文章は、風土記の異本でもあって参照したものか、あるいは意図的な改竄なのかは分明ではありませんが、「自百済帰来坐津国御島坐」、つまり、百済よりやってきた(渡来した)のではなく「帰り来て」云々としています。おそらく、「神社昇格願」の作者は、自社祭神を百済よりの渡来神、つまり異国の神と認めたくなかったというのが実態なのでしょう。

    三島鴨神社祭神・大山祇命は)御一名ヲ大山積御祖神トモ崇メ又海上守護神トシテ御名ヲ和多志大神トモ草莱ノ開拓水利山林造酒等ノ御神徳ニヨリテ大水主神トモ大里神山神酒解神トモ申ス御名ノ多キハ語原ノ功業ト謂フ義ナルガ如ク全ク御神徳ノ極メテ偉大ナルニヨレリ

    三島鴨神社の「神社昇格願」はけっきょく却下され、戦前は「郷社」のままでした
  • 大和岩雄氏は下鴨神社の祭神について、大山咋とする説があることをあげ、それに同意していた。日吉大社の東本宮系には氏神神社に鴨建角身命、樹下神社に鴨玉依姫神、樹下若宮に鴨玉依彦神、産屋神社に鴨別雷神などカモの神が祀られており、鴨別雷神にとって鴨玉依姫神は母、鴨玉依彦神は伯父、鴨建角身命は祖父、東本宮の大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦で、4月の山王祭では、午の神事(12日)に、八王子山から二基(大山咋神荒魂、鴨玉依姫命)の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置され、婚儀、「尻つなぎの神事」の後、翌13日の神輿入れ神事では、御生れ祭りにより若宮(別雷神)が生まれる「宵宮落とし」が行われるという(http://everkyoto.web.fc2.com/report478.html)。
  •  古代日本で活躍した賀茂氏であるが、伝承を検討すると三系統あるらしい。
    第一の系統が味鋤高彦根命を始祖とする
      味鋤高彦根命-天八現津彦命→都佐・長国造
    第二の系統が事代主命を始祖とする
      事代主-天日方奇日方命→賀茂・三輪君
    第三の系統が賀茂建角身命を始祖とする
     賀茂建角身命-玉依彦-生玉兄日子命→賀茂・鴨県主
    である。この三系統の共通点はいずれも葛城山麓に住んでいたということである。

     この中で味鋤高彦根命=賀茂建角身命であることが判明しており、事代主は賀茂建角身命の娘玉依姫の夫である。よって、三系統の賀茂氏は一つにまとまる。
  •       大山祇神━三島溝咋耳命━三島溝杙姫━━┓
              (賀茂建角身命)(活玉依姫) ┣━姫鞴五十鈴姫
                       事代主神━━┛
     大阪府の三島鴨神社では上のような系図が伝えられている。「大山祇神は九州から上陸したと伝えられており、大山祇神と饒速日尊は同世代と考えられ、また、事代主命は饒速日尊の子なので、饒速日尊の子と孫が結婚したというおかしな系図となる。鹿児島県加世田の大山祇神社の神は明らかに饒速日尊ではなく縄文人のようである。また、素盞嗚尊の妻となった稲田姫の祖父も大山祇神であるが、これは、土地の人物のようである。このように大山祇神はさまざまな人物の姿を併せ持っている神である。
  • 賀茂一族と呼ばれているのは、賀茂建角身命の娘玉依姫と事代主の子天日方奇日方命の子孫、及び玉依姫の兄の玉依彦の子孫及び味耜高彦根命の子孫である。また、大神神社で大物主神を祭祀した大田田根子は天日方奇日方命と呼ばれており、かつ、始祖は味耜高彦根命といわれている。味耜高彦根命と鴨一族はどのような関係にあるのであろうか。

     これら問題点をすべて解決する等式は賀茂建角身命=味耜高彦根命である。

     賀茂氏を系図上で遡って行くとその共通の始祖は賀茂建角身命である。この人物が味耜高彦根命であるとすれば、味耜高彦根命が加毛大御神との尊称を持つことが理解できる。賀茂建角身命は飛騨王家の系統の人物である。このことは、味耜高彦根命も飛騨王家の系統の人物となる。その人物の幼少時の伝承が、なぜ出雲に集中しているのであろうか。
  • 大田田根子

    『日本書紀』崇神天皇七年八月の条で、大田田根子(おおたたねこ)に大物主の大神を祀らせた話が記されています。大田田根子は、茅渟の県(ちぬのあがた。和泉の国一帯の古称です)の「陶邑」(すえむら)の人です。

    「陶邑」は和泉の国大鳥郡陶器荘の地で、今の大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域です。現在でいえば、堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市の一帯です。このあたりから多数の須恵器が出土していることから、古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。
    陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)は日本三大古窯の一つです。

    大田田根子の父は大物主の大神、母は活玉依毘売(いくたまよりびめ)で陶津耳(すえつみみ)の娘であります。陶津耳は陶という地名または陶器をつくる職業集団のリーダーという意味であると思います。

    陶邑では崇神天皇の時代にすでに須恵器が作られていたと考えてもよいでしょう。
    崇神天皇は4世紀の半ばから後半に活躍したと考えられることから、日本の一部の地域では須恵器は4世紀の後半に作られていたと判断できます。

    崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされています。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたと記載があります。
    その結果、疫病が収まり、国内はようやく鎮まり、五穀がよく稔るようになったということです。その大田田根子は現在、二の鳥居の左側を入ったところにある若宮社で祭神として祀られています。
    いったん取り上げた祭祀権を返還して、出雲族の大田田根子に大物主神を祀らせることにした、というのが本当の話ではないかと思います。
  • 太田神社(おおだじんじゃ/おおたじんじゃ[1])は、大阪府茨木市太田にある神社。式内社で、旧社格は村社。
    現在の祭神は次の3柱。

    天照皇大神
    速素盞鳴尊
    豊受皇大神
    祭神の別説として、『神社覈録』では猿田彦大神、『摂陽群談』では伊勢・八幡・住吉の3神とする

    『播磨国風土記』揖保郡大田里条には「呉の勝(くれのすぐり)が韓国より紀伊国名草郡大田村に移り、分かれて摂津国三島賀美郡大田村に移った」という記述がある。当地は通説では島下郡の所属と見られ、三島賀美郡(島上郡)の記述には反するが、「勝(すぐり)」のカバネを有することから百済からの移住と考えられている
  • 御蔭神社

    この社地は、大古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生(みあれ)山と呼ばれており、東山三十六峰第二番目の山である。
    さらにまた、太陽のたた射す所、即ち、御蔭山とも呼ばれそれに因んで社名ともなった。
    御祭神は、御本社賀茂御祖神社の御祭神の玉依媛命、賀茂建角身命、二柱の荒魂を奉祀されている。
    現在の社殿は、元禄6年(19693)御本宮遷宮の際に造替された。それまでは、現在の本宮北東の麓に鎮座されていたが、地震等の災害に依って殿舎が埋没したため現在の地に御動座になった。
    天武天皇6年(677)山背国司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社であろうとの説があるとおり、この地は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する。
    毎年、賀茂祭(葵祭)に先立って5月12日には、御蔭際(御生神事)が当神社で行われる。当日は神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、弓、楯などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。
    数多くの供奉者は葵、桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に遷御になる。途中総社における路次祭、御本宮切芝の神事が行われる。
    朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されるなど鴨社創祀の祭とされてきた。
    また、神馬の御神前で行われる三台塩(三台詠)を中心とする神事芸能は、わが国最古の祭儀式を伝えるものとされ、行粧もまた最古の神事列と伝えられており、葵祭と並ぶ優雅な行粧として名高く、室町時代にはいると数々の資料に登場する。
    現今、道中は交通煩雑のため、やむなく自動車列とはなったが、当神社並びに御本社糺の森での神事は古儀に依って厳粛に行われている。
    賀茂御祖神社
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。