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山田寺跡 磐余道の南限に大化改新時の右大臣蘇我倉山田石川麻呂建立の大寺があった。中門塔・金堂・講堂と南から北へ…
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その中側室の中に、「遠智娘(おちのいらつめ)」 という妃がいます。
(おち)の字は、 「遠智」 とされていますが、 これは、 「越智」 だった可能性がとても高いです。
「遠智娘」には、別名があり、「造媛」、「美濃津子娘」 とも言われるともいいます。
「遠智娘」には、三人の子供がいたと考えられています。
三人の子供の名前は、
大田皇女(おおたのひめみこ)
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
建皇子(たけるのみこ)
このうちの、 皇女は、二人とも、天武天皇の妃となっています、。
大田皇女は、天武天皇との間に、二人の子供が生まれますが、天武天皇が即位する前に亡くなります。
そして、二番目の皇女 鸕野讃良皇女が 天武天皇の皇妃となり、後の持統天皇となるのです。
天武死後3603日目の記事です。「持統十年(六九六)七月庚戌【十日】後皇子尊薨」
後皇子尊という方が、高市皇子であることを書紀は明示しません。名前の後に「尊」が付せられる人物、それは後に天皇に叙せられる方に限ります(毛長姫尊、後の神功皇后の事例もありますが)。その表記も「名前」・皇子尊という具合に、必ず名前が明記されるのです。「後」という名の皇子は日本書紀には登場しません。
そこで、学者さんがたは、これを以下のように読み解いて来ました:高市皇子は死去の六年前、690年に草壁皇子の後を襲って、「太政大臣」に任ぜられた。同年10月29日に部下を伴って建設途上にある「藤原京」を視察している。以後四回ほど書紀に登場し、それらはいずれも加増、昇進関連である。これらを総合すると、高市皇子が、その死去直前まで順調に地位を高めてきており、持統天皇の後継者と目されていた。それが「尊」である。
万葉集一九九歌前半:原文
<挂>文 忌之伎鴨 [一云 由遊志計礼抒母] 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 [一云 <掃>賜而]
食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 [一云 掃部等] 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻R 吹響流 小角乃音母 [一云 笛之音波] 敵見有 虎可S吼登 諸人之 恊流麻R尓 [一云 聞<或>麻R] 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 [一云 冬木成 春野焼火乃] 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 [一云 由布乃林] 飃可毛 伊巻渡等 念麻R 聞之恐久 [一云 諸人 見<或>麻R尓] 引放 箭<之>繁計久 大雪乃 乱而来礼 [一云 霰成 曽知余里久礼婆] 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相<競>端尓 [一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓] 渡會乃 齋宮従 神風尓 伊吹<或>之 天雲乎 日之目毛不<令>見 常闇尓 覆賜而 定之 水穂之國乎 神随 太敷座而
天道親無し、惟善をのみ是れ輔くと。
と述べたという。天は公平であり、善行を積むものを必ず助けます。だから、大友皇子が徳を修める限り、皇位はかならず転がり込むでしょう、というのである。
ここにいう邪魔者とは、大海人皇子であり、中臣鎌足が大海人皇子の廃太子を願っていたことはまず間違いない。その中臣鎌足は壬申の乱の直前に亡くなるが、その子藤原不比等も、父にならって、大友皇子側についたからこそ、敗戦の憂き目にあったのだろう。
事実、藤原不比等は天武天皇在位中に、まったく日の目を見なかった
舒明天皇13年(641)3月15日建設を関始。
そして持統天皇が祖父の意志を受け継ぎ、天武14年(685)仏眼を点じ、伽藍の全体完成することとなる。
蘇我馬子の孫でありながら、蘇我宗家から外れた石川麻呂は密かに中大兄皇子と結び、乙巳の変のクーデターの首謀者の一人となる。
孝徳天皇の即位と同時に右大臣となる。
娘の越智娘は中大兄皇子の妃となり、鸕野讚良(後の持統天皇)を産む。
ところが、中大兄皇子と中臣鎌足が目指す天皇中心の中央主権国家の構築に対し
旧勢力の中心的存在であった石川麻呂との間には次第に溝ができる。
694年異母弟の蘇我日向(そがのひむか)が謀反の疑いありと讒言したことから、中大兄皇子の軍兵に攻められ,難波から大和の山田寺に逃れる。長子興志が兵を集めようとしたが許さず,完成途中の山田寺の仏殿の前で自殺した。
後に無実の罪だと分かり、蘇我日向は筑紫に追放されたものの、時既に遅く一族郎党の多くは後を追い、または処刑や流罪になり、特に特に娘である遠智娘は、悲しみのあまり狂死したと伝えらる
実の父を夫が無実の罪で滅ぼしたとなるとその心情が偲ばれる。
685年(天武天皇14)に完成した山田寺講堂本尊像の仏頭は数奇な運命をたどる。
飛鳥から遠く離れた南都興福寺(奈良市)の東金堂が修理された際に、須弥壇の下より頭部だけ発見されたのである(国宝)
平安時代に入り、妙楽寺(多武峰)が天台宗に属するようになると、南都興福寺はそれを怒り、1081年には多武峰を襲い、このとき以降両社の抗争は激しくなっていく。
(利権を巡る暴力団の抗争のようなことを昔の寺社は繰り広げていたのである)
当時、山田寺は多武峰の末寺となっていたと考えられ山田寺も興福寺に襲撃され、
1187年山田寺講堂薬師三尊像を興福寺僧が略奪し、このとき持ち去られた如来の仏頭ではないかといわれている。