広瀬神社

January 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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創建 崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わ…

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コメント

  • 紀州の伊太祁曽神社も風の神であった。
    大和川を遡って大和に入った海人部が宮廷守護に当った際、その真西の入口に当る大和川の一地点に祀った風の神が名高い龍田神社だが、その地は「龍田の立野の小野」であった(龍田風神祭祝詞)。このタチノは雨風を起すタツ(竜)を主神としたからタツ野と言ったらしい
  • 奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、伊豆国・伊豆葛城山が見下ろす平野の大仁田京の地にもある。

    田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)である。

    「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所で在った。

    この田方広瀬神社の前身は下田市に在る白浜神社の地に在って、それ以前は三宅島の三宅島・富賀神社の地に在った事代主の神(田の神)である。

    そしてこの田京(たきょう/伊豆の国市 田京)の広瀬神社の事代主の神(田の神)が明神様として現在の三島市(伊豆国の国府跡)に移り三島大社に成って居る。
  • 長彦神社 (ながひこじんじゃ)
    主祭神
    志那津比古神(しなつひこのかみ)
    志那津比女神(しなつひめのかみ)


    岐阜県大垣市上石津町一之瀬2288番地の1
    由緒由来
    日本書紀天武天皇紀に「白鳳四年四月遣小柴美濃王小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野、遣小錦中間人連蓋大山中曽根韓太祠大忌神于廣瀬河曲」とあり、考ふるに、白鳳四年美濃王(壬申役に天武天皇に徴されて功ありし人、当國居住、橘諸兄公の父にして和銅四年歿)及び佐伯連廣足が勅命を奉ぜし縁故を以て其の後龍田の風神を当國牧田川の上流たる本村に祀り、長彦神社と称し、更に其の鎮座の地を倭に倣ひ立野と呼び、同時に廣瀬を同川の下流多岐村に祀りたるならむ。今現に当郡多芸村に式内多岐神社(祭神廣瀬大忌神)あり。是彼の大和の龍田廣瀬の地に擬し風神を上流に大忌神を下流に祀り、暴風の災なく、禾稼の豊饒を祈りしものと水量さる。和名類聚抄に美濃國多藝郡の御名中「立野」あり、此の立野たるや、一之瀬村の古名にして慶長十四年美濃國石津郡一之瀬村御縄打水帳には長彦神社近接の字名を「たつの」と記し、現在付近の田を「たつの田」と称す。三代実録及び類聚国史に「貞観十一年十二月五日授美濃國正六位上長孫神従五位下」とあり、又美濃國神名帳に「多藝郡従四位上長彦明神」とあり。以下略
  • 曽根氏(そねうじ)は日本各地に分布しているが、特に宮城県、静岡県、香川県に多く分布していて九州には少ない。

    宮城県では栗原市に多く、静岡県では藤枝市、島田市、焼津市に集中し、香川県では三豊市に多い。

    甲斐国の武家に清和源氏の一族と言う曽根氏があり、甲斐国八代郡曽根(現山梨県甲府市旧東八代郡中道町付近)発祥とし、伊豆の代官を務めた曽根氏もこの一族と言う。

    伊予国にも曽根氏があり、始め周防国熊毛郡曽根(現山口県熊毛郡平生町曽根)発祥で大内氏に仕えていたが、後に伊予へと移ったとされる。

    紀伊国の曽根氏は紀伊国牟婁郡曽根(現三重県尾鷲市曽根町)を発祥とし、宇多源氏佐々木氏の一族と言う。
    中曽根氏(なかそねうじ)についても甲斐国八代郡中曽根発祥と曽根氏とほとんど隣地から出ている。

  • 讃 岐 神 社
    奈良県北葛城郡広陵町三吉(ミツヨシ)
    祭神--大國魂命・倉稲魂命・大物主命

    ※由緒
     境内に当社由緒にかかわる案内なく、詳細不明(鳥居脇の案内は祭神・社殿のことのみ-下紀)

    大和志料(1914・大正3)には
    「(当社の古記録を転記した上で) 上記の記録により之を綜合すれば、舒明天皇其の御父押阪彦人皇子の遺命を以て高市皇子に勅して大國魂・倉稲魂・大物主の三神をここに祭らしめ、之を讃岐神社と称せるものなり。
    然れども大神分身類社抄(1265・鎌倉中葉、諸説あり)附尾に「讃岐神社一座大和国広瀬郡御井命」とあり、且広瀬神社の摂社に散吉社(サヌキ)あり今廃す、本と当社より勧請せしものなりと云ふ、

    広瀬川合神社(広瀬大社)略本記に、
     散吉神社三座 当殿は廊外にて河曲の西北の岡にあり、本は当国当郷散吉郷の讃岐に坐す、俗に南河合神社と云う官社也
     御井神 木俣神(御井神の別名)
      此の神は大己貴命の子にして母は因幡国の八上姫也、讃岐国より神格をなす、仍りて讃岐神社と云、奴の字を略して散吉と呼ぶ也
     大嵩神(オオタカ) 大己貴命 此の神は大己貴命の子にして母は奇稲田姫也
     井精神(イセイ) 粟井水神(アハイノミズノカミ) 
    と見ゆ。

    広瀬大社の旧摂社に、当社からの勧請と伝える讃岐神社(祭神:御井神、散吉神社とも記す)があり(今は廃絶している)、この讃岐の神(御井神)は、もともと讃岐国苅田郡に鎮座する粟井神社(香川県観音寺市)からの勧請で、讃岐国から当地へ移住した人々が祀ったものであろうという。
     当社の社名が讃岐(散吉)であること、当地が古く散吉郷(サヌキ)と呼ばれたこと、近くに同郷の式内・於神社(ウヘ・ウエ、広陵町大塚、讃岐国に同名の神社あり)があることなどからみて、当地に移住した讃岐の人々が故郷の神を祀ったのはあり得るとはいえる。

     ただ、当社の元社といわれる讃岐の式内・粟井神社(香川県観音寺市粟井町)は古代氏族・忌部氏(讃岐忌部氏)にかかわる神社で、現在の祭神は、忌部氏の祖神・天太玉命であって御井神ではなく、又、忌部氏と当地との関係も不明。

     一方、讃岐国を本貫とする古代氏族に讃岐公氏(サヌキノキミ)がある。この讃岐氏(延暦10年-791-讃岐公氏と改姓)は、後世中央にも進出したといわれ、
     ・新撰姓氏録(815)に
       「右京皇別  讃岐公
                大足彦忍代別天皇(景行天皇)皇子五十香彦命(イカヒコ)[亦名・神櫛別命(カミクシワケ)]之後也」
    とあるように、忌部氏(神別氏族)とは出自を異にする氏族(皇別氏族)で、
     ・先代旧事本紀(国造本記、9世記前半頃)には
       「応神帝の御世、景行天皇の子・神櫛王の三世孫・須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定む」
    とあり、讃岐公氏が讃岐国造家の後裔氏族であることから、当社とも何らかの関係があったと思われるが確証はない。

     ただ、社頭に掲げる“かぐや姫”案内には
      「竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統・文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国の氏族齊部氏(忌部氏)が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしいてる」
    と、讃岐忌部氏の流れをひくものとしているが、忌部氏は天太玉命を祖とする神別氏族で、姓氏録にいう讃岐公氏は神櫛別皇子の後裔(皇別氏族)であって、両者の出自は異なっている。

     なお、奈良県史(1989)には
     「三吉(ミツヨシ)の北の巣山古墳西南に鎮座する社を、式内讃岐神社にあてられている。三吉は和名抄での広瀬郡散吉郷に比定される。
     祭神は、社伝によると元来大国魂命・大物主命・倉稲魂命であったが、後に広瀬神社の若宇加乃売命を勧請したので、当社を南川合明神と称するようになったという。
     広瀬神社社記には、広瀬神社の旧摂社散吉社(今廃絶)は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神・井精神・大己貴神を祭神としているし、一説に讃岐国から御井神を勧請して、社名を讃岐神社として祀ったという、詳かでない。
     大和志に三代実録元慶7年12月従五位下を授けられ、済恩寺・赤部二村界にあり、二村の笠村・古寺・寺戸・中村共に祭祀に預かるとある」
    とある。

     これらからみて、当社の創建由緒は諸説混沌としていて不詳だが、讃岐からの勧請というのが史実に近いかもしれない。ただ、その元社が讃岐の粟井神社かどうかは不明。
  • 神武天皇第二皇子神八井耳命は神饒速日命の曾孫饒田命の女御井姫を妃とし、伊予の國造家を継ぎ給う。 「伊予旧蹟抄」.

     ① 手足がわなないて當芸志美美を殺せなかった兄の神八井耳命は、弟(綏靖)を扶けて「忌人」となって仕えた=都祁直は、その子孫である。神武の二人の息子が「八井」という名称を持っている。又、綏靖も「沼河耳」という名で、いずれも「井」「河」=水との関わりを示唆しているのが興味深い。

     ② 仲哀帝の息子である香坂王と忍熊王は、神功皇后と応神帝に刃向ったため滅ぼされた。
    その応神帝の孫娘・忍坂大中姫に不敬を働いた闘鶏国造が稲置の姓に貶められ、一命だけは何とか取り留めた。

     ③ 天皇の命に背いて、弟(仁徳)を殺して天下を獲ようとした大山守皇子は宇治川の流れに沈んで亡くなった。土方君、榛原君、日置朝臣は大山守皇子の子孫である。=兄の額田大中彦皇子の子孫は知られていない(額田部氏は天津彦根命の後裔)。

     ④ 凡河内直味張は安閑帝の皇后の屯倉に相応しい田を差し出すように求められたが、己の田が惜しくて良田は無いと嘘をついて逃れようとした。後、この虚偽の申告が明るみに出て、味張は公職を解かれそうになり、多くの田と労働力を提供することになった。
  • 都祁山口神社

    当社は古代闘鶏(つげ)の国鎮守として奉祀され、大和の国の14所山口神(又は13、畝傍・耳成を入れず甘樫)
    の一つで、都祁村の山霊を祀る。
    天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」、大同元年(808)牒(新抄格勅符抄)
    「都祁山口神一戸大和」とあり、当社をさす。
     同所に祀られていた都祁水分神社は、天禄2年(981)9月25日に友田の阪窪山に移され祀られている。
     当社神主職は神八井耳命の子孫都祁直の末裔と伝え、貞観年間より藤原氏を称した。以来父子相継ぎ、
    小山戸殿とも称せられ、暦応年中(1338ー42)の伊勢の北畠氏に属して北と改姓、
    大乗院小山戸庄の下司職をも兼帯したという。
     戦国の争乱によって神社は衰退したが、北左京之進が寛永年中(1624ー44)に郷民を勧めて社殿を造立した。
    延喜式にも、国が祭りを司る神社として記録されている。
    天理市杣之内町にも都祁山口神社がある。

  • 都祁山口神社 天理市


    集落の東方山麓に鎮座の旧指定村社。
    『大和志』には都祁山口神社として『延喜式』神名帳登載の大社に列し、月次、新嘗の官幣に預かり、貞観元年(859)正月正五位下に叙とある。因みに山辺郡都祁村小山戸にも同名の社があり、式内大社として二説ある。
    江戸期には白山権現と称し、若宮を牛頭天皇と呼んだ。現境内に素戔嗚神社があるところから、当社は旧名を白山権現と称したとも見られる。当社安政二年(1855)の宮座文書の『白山大権現立願状』に神宮寺の記事がある。『大和志』には水口明神と称すとあり、明治十年の調書にも同じ記事がみえる外、「但神殿無之」とある。都祁山口神社へは天平二年(730)神戸租稲百四十六束を祭紳料に充てられ(正倉院文書)、大同元年(806)紳封一戸を充てられている。
         -奈良県史(神社)より-

    杣之内町集落の東方山麓に鎮座し、大山祇命・久久廼知命・波爾屋須命を祀る。旧村社。『大和志』は「貞観元年正月授正五位下、在山口村、今称水口明神」とみえ、『延喜式』神名帳の山辺郡「都祁山口神社(大 月次新嘗)」にあてるが、奈良県都祁村小山戸にも同名社があり、式内社については両説ある。江戸時代の座帳(宮座文書)によると、当地山口村の氏神は白山権現とあり、若宮は牛頭天王と記す。当社の境内社に素戔嗚神社(牛頭天王)がある所から、白山権現は当社の旧名と考えられる。安政二年(1855)の白山大権現立願状(同文書)に神宮寺の記載があり、宮寺の存在もうかがえる。『大和志』にみえる水口明神については不明。当社南西約600メートルに小字大水口がある。なお参道脇にある薬師堂(旧内山唯心院持仏堂)には大水口の北隣小字焼戸畑にあった薬師堂の本尊薬師如来像を安置される。同像は火災で焼けてはいるが平安後期のもの。
         -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-
  • 坂東千年王国:水の神の系譜 より
    「天武が祭っ竜田越の広瀬の水神は、同時に祭られた風神に比して、何故か大忌神と呼ばれる。この大忌神、よく広瀬神社とされるが、元の水神は西にある讃岐神社である。広瀬神社の祭神が櫛玉媛命・和加宇加之売命・水穂雷神という農耕神であるのに対して、ここの祭神は御井神木俣命・大己貴命・井精粟井水神とされ、大己貴命の他は歴とした水神である。
    この讃岐神社はその名の通り讃岐国、四国香川県から勧請された。『延喜式』神名帳の讃岐国苅田郡に栗井神社を挙げ、観音寺市粟井町に現存もする。
    ところが、讃岐の栗井神社の祭神は本座を天太玉命とする。斎部宿禰広成の奏上した『古語拾遺』は讃岐国忌部の祖を手置帆負命とした。讃岐の忌部らが忌部の天富命が立てた房総半島の安房社を奉還したという。『先代旧事本紀』巻七に、天富命が忌部の祖神天太玉命社を立て、これを安房社というとある。
    讃岐の忌部は麻を繁殖させたから、一名大麻神とも呼ばれる。いうまでもなく、麻は水辺の植物である。してみると、讃岐の栗井神社から勧請された広瀬の水神が大忌神と呼ばれたのも、それが忌部氏の祖神を祭る神社であってみりば、当然のことであろう。
    斎部氏が『古語拾遺』を奏上したころの神祀のことは中臣氏の独占状態になりはじめていたが、天武が広瀬の水神を祭ったときは両者は肩を並べていた。中臣氏が東の伊勢に天照大神を祭るのに対して、忌部氏は西の広瀬に水神を祭った。
    『古語拾遺』によると忌部は各地にいたらしい。上に挙げた他に、天日鷲命を祖とする阿波国の忌部、彦狭知命を祖とする紀伊国忌部、櫛明玉命を祖とする出雲国の忌部玉造、そして天目一箇命を祖とする筑紫と伊勢両国の忌部があるという。」
  • 建築の神 手置帆負命神と大和の天富命を祀る天太玉神社

    古語拾遺にある八百竹の貢進の話
    讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる『古語拾遺』(807)には、[大和で矛竿を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた]と書かれています。大和と讃岐にいた手置帆負命神(讃岐国造、建築の神様)。天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を造営しました。
    これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原の千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日です。

    式内社 大和國高市郡 太玉命神社四座 並名神大

    御祭神 天太玉命 大宮賣命 豊石窗命 櫛石窗命
    本殿は、四柱配祀の形態、つまり扉が4つ。
    本殿横の説明では、左の祠は、玉依姫命神社(玉依姫命)。
    右の祠は、春日神社(天児屋根命)。

    創祀年代は不詳。忌部氏の祖神を祀る神社で、式内社・太玉命神社四座に比定されている古社。
    現在の四座は、天太玉命、大宮賣命、豊石窗命、櫛石窗命だが
    『五郡神社記』では、第一殿に天太玉命・大宮賣命、第二殿には天富命・大比乃理咩命を祀っているとある。

    『古語拾遺』によると、大宮賣命、豊石窗命、櫛石窗命は、みな天太玉命の御子。

    『五郡神社記』によると、「忌部神社並石門別神社」に当ると してをり、次の様に見えてゐる。
    帳云、太玉神社四座、在二雲梯郷忌部村一、忌部氏記録曰、 天太玉命神社四座、
    第一天太玉神 第二大宮乃賣神 第 三忌部祖太玉命 第四天比乃理咩命、
    -『式内社調査報告』-
  • 天富命は天太玉命の孫。

    神武天皇建都の折り、手置帆負神、彦狭知神の二神の孫を率いて、 斎斧・斎鉏をして山の材を採り、宮殿を造営し、 斎部の諸氏を率いて神宝や鏡玉矛楯木綿等を造った。

    阿波国の忌部を率いて、東国(安房)を開拓した。
  • 粟井神社 あわいじんじゃ
    香川県観音寺市粟井町1716  
    境内の左には境内社が並ぶ。
    須賀神社、杉尾神社、稲荷神社、龍王神社、荒魂神社、
    與禮神社、飛羅岐神社、地神社、藤目宮、天満宮。

    飛羅岐神社は、忌部氏が当地を開拓した時に、餉器を開いたことから名付けられた神社。

    御祭神 天太玉命
    相殿  天照大神 月読命 保食神
    由緒  上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。
    この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。
    社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
    古くは現在の鎮座地より南方約六百米位の処に祀られていましたが、天火にかかりて今の処に遷座せられたと語り伝えられています。
    古記録で明らかなものをたどれば、『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭式』の名神祭二百八十五座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。
  • 賀茂建角身命は、鴨系神社の社伝や新撰姓氏録において、八咫烏・金鵄、と同一人物であると確認できます。

    そして、その金鵄とは、天加奈止美命(あめのかなとびのみこと)の別名を持つ天日鷲命のこと、と平田篤胤、『大日本神名辞書』等が指摘しています。

    従って、賀茂建角身命=天日鷲命。

    『三輪叢書』高宮系図において、事代主命の別名が猿田彦神と書かれています。

    阿波国は忌部国。阿波国式内大社三社は、天石門別八倉比売神社・忌部神社・大麻比古神社ですが、全て忌部系の神社です。

    天石門別八倉比売神社は、延久二年(1070)の太政官符で「八倉比賣神の祈年月次祭は日本国の大典であるからしっかり執り行え」と国司を叱っていますが、その太政官符には八倉比賣神を「忌部神」と記しています。

    忌部神社は、延喜式神名帳に、「天日鷲神」また「麻植神」と書かれています。

    大麻比古神社の御祭神は、古来から猿田彦神です。

    大麻比古命は、斎部氏系図に天日鷲命の子と書かれている
  • June 2016 編集されました
    『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現・京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である

    菟道稚郎子

    『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である

    応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。

    なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
  • 広瀬王
    天武天皇10年(681年)川島皇子・忍壁皇子らと『帝紀』や上古諸事(『本辞』・『旧辞』など)の編修を命じられる
    天武天皇13年(684年)大伴安麻呂とともに畿内に派遣され新都造営に相応しい地を視察し占う(この時の冠位は浄広肆)

    持統天皇6年(692年)持統天皇による伊勢行幸が行われた際、留守官を勤める。大宝2年(702年)持統上皇の崩御に際して、造大殿垣司および御装司副を勤めた(このときの位階は従四位下)。

    その後、和銅元年(708年)大蔵卿、養老2年(718年)正四位下に叙任されている。養老6年(722年)1月28日卒去。最終官位は散位正四位下。

    子孫は臣籍降下し香山真人姓を名乗った。

    日本書紀、天武天皇に
     「十三年春・・・二十八日、浄広肆広瀬王・小錦中 大伴連安麻呂および判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣わして、都を造るのに適当な所を視察し、占わせた。この日、三野王・小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして、地形を視察させられた。この地に都を造ろうとされるのであろうか」
     「閏四月・・・・十一日、三野王らが信濃国の図面をたてまつった。・・・」
     「十四年春・・・・三月・・・・。この月、信濃国に灰が降って草木がみな枯れた。・・・・」
     「冬十月・・・十日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣わし、行宮つくりを命じられた。おそらく束間温湯(浅間温泉か)においでになろうとしたのであろうか。・・・・」
  • 『竹取物語』の冒頭に「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」とあります。つまり竹取翁の名前は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれていますことから、『竹取物語』のおじいさんは讃岐村の長であることがわかります。
     古代では、地名というものはその土地の豪族の名前をつけたと言われています。更に地名は千年過ぎても一割変わったらいいほうだと言われています。すると、「讃岐造」とは讃岐村の長で、讃岐村を治めていたのは讃岐氏であったことも想像できます。では、古代に「讃岐」なる姓をもった人が存在していたかを調べてみますと、我が国の最も古い歴史書と認められている『古事記上巻』に、第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることが出来ます。更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つける事が出来ます。讃岐なる名前の人の姓は、『古事記』の記録に記載されているから存在していた実証となります。そして更にこの迦具夜比売は十一代垂仁天皇の妃となり、その子の袁邪弁王なる御子の名も歴史の中に記載されています。
  • 大筒木垂根王の娘、迦具夜比売は、垂仁天皇の妃となり、袁邪弁(おざべの)王を生む。

    ただ他の文献やウイキを見ると、垂仁天皇の場合の妃と皇子は
    ①皇后(前):狭穂姫命(さほびめのみこと。彦坐王の女)---垂仁5年に焼死、誉津別命(ほむつわけのみこと、本牟智和気御子)

    ②皇后(後):日葉酢媛命(ひばすひめのみこと。丹波道主王の女)、----五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)
    大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)、大中姫命(おおなかつひめのみこと、古事記には大中津日子命)、倭姫命(やまとひめのみこと)---斎宮、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)

    ③妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)----鐸石別命(ぬてしわけのみこと)---和気氏の祖(→和気清麻呂)、胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)

    ④妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
    ⑤妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)----息速別命(いこはやわけのみこと、池速別命)、稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)

    ⑥妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女) かぐや姫のモデル?----袁那弁王(おなべのみこ、古事記のみ)
    ⑦妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)-----磐撞別命(いわつくわけのみこと、磐衝別命)--- 三尾氏の祖、両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)---日本武尊の妃、仲哀天皇の母

    ⑧妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁。弟苅羽田刀弁の姉)----祖別命(おおちわけのみこと、落別王・意知別命) 伊賀国造・小槻氏の祖、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)---五十嵐氏の祖、新潟県五十嵐神社に祭られている。
    胆武別命(いたけるわけのみこと、伊登志別王)

    9母親未詳-----円目王(つぶらめのみこ、令集解に見える)
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