出雲大社、国譲り、杵築大社

December 2018 編集されました カテゴリ: 出雲
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明治4年、杵築大社が出雲大社に 出雲大社は古来より、その地名に由来して杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおや…

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コメント

  • 神迎祭に当たり、全国から集まった神々が泊まられるのは、本殿の東西にある19社(計38社)とされています。
    ところが、その19社、東西で38社は『阿須伎神社』(本社)を残して、それ以外の出雲郡の「阿受伎社・阿受枳社」を集めたものではないかというものです。荻原千鶴先生は、・・・『以下28の阿受支社、および神祇官登載11の阿受支社のうち本社を除く10社、計38社は出雲大社境内に移されたともいうが、明らかでない。』・・・とされています。

  • 始祖=初代:天穂日命→2代武夷鳥命→櫛瓊命→津狭命→櫛瓺前命→櫛月命
                                                 ↓
       飯入根(いいりね)命←阿多命←毛呂須命←知理命←櫛田命←櫛瓺鳥海命 
          ↓
    12代 鵜濡渟(ウカツクヌ)(氏祖命)
    17代 出雲宮向()・・・・・・・・・・・・反正天皇4年に国造となり、出雲臣の姓を賜った。
    26代 出雲果安(はたやす)・・・・出雲国国司が、果安に出雲国風土記の編纂を委嘱した。
    27代 出雲廣島(ひろしま)・・・・・『出雲国風土記』を編纂した。
    54代 出雲孝時
    55代 出雲清孝
  • 659年(斉明天皇5年) 
    出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
    「この歳、出雲国造 名をもらせり、に命じて、神の宮を修り厳よそはしむ」(『日本書紀』)
    この時の出雲国造は意宇郡熊野大社にいたとされ、神之宮すなわち出雲大社とは熊野大社であるとする説も有る。

    698年(文武2年)  
    「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が発令された。 
    翌日には「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあるときは、必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ」と諸国の郡司を任命し発令。
    すなわち、筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司の件は特例であった事がわかる。

    706年(慶雲三年)
    出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したという説もあり。

    708年(和銅元年)
    元明女帝の御代、中央から派遣された正五位下「忌部宿禰子首」が出雲国司に着任。

    716年 
    第26代出雲国造菓安が、「出雲国造神賀詞」を奏上。
    この時に出雲国造は熊野から意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)に移ったとする説と、杵築(現出雲市)に移ったとする説がある。

    721年(養老五年)
    出雲臣廣嶋が第二十七代出雲国造を継承。

    733年
    27代出雲廣島が「出雲国風土記」を編纂し聖武天皇に奏上。

    796年(延暦17年)
    出雲国造の意宇郡大領の連任という政治関与が終わり、以後、出雲国造は祭祀にのみ関わる事になった。この時に出雲国造は意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)から杵築に移ったとする説がある。
  • 智伊神社
    御祭神 高皇産靈神
    合祀 埴安姫神
    境内社
    比布智神社(式内社) 御祭神 神魂子 角魂神
    稲荷神社 御祭神 倉稲魂神
    春日・琴平神社(合祀) 御祭神 武甕槌神・経津主命・天兒屋根命・比賣大神
    合祭神 大物主神・崇徳天皇
    大山神社 御祭神 大己貴神
    大三輪神社 御祭神 大物主神
    智伊神社の由緒・沿革
    当社は延喜式神名帳(九二七年)に智伊神社、出雲風土記 (七三三年)に知乃社とある。創立年間は不詳であるが三代実録 清和天皇貞観十年(八六九年)九月二十一日辛亥出雲国正六位 智伊神社授・・・以下、よく読めない部分が多いので割愛。
    -境内案内板-


    延喜式神名帳に智伊神社出雲風土記に 知乃社創立年間不詳なり。三代実録清和天皇貞観十 年九月二十一日辛亥出雲國正六位智伊神社授従五 位下同十三年十一月十日壬午出雲国従五位下智伊 神社授従五位上とあり。雲陽誌に依れば祭神 高皇産霊神也元禄年中本社炎上して縁起神書悉紛失、創立 年月不詳慶長十七年の棟札あり。古者年中七度の神 事あり是を七祭と云う今は二季の祭祀なり。古六月 十五日には神行田植獅子舞花馬等の神事ありたり。 本社傍に神石あり三尺四方に神宝を納む修造の時 と雖も之を動かす事不能。社後に影向石弓懸の松飛 礫石あり由来不詳。元現社東北八町字東原にあり。 宝暦五年現社地に移転す。往昔出雲大社と如何な る由縁ありしや大社造営の節は旧社の拝字を智伊 に社司に下玉い社殿造営せりと、國主堀尾家に至 迄然りと云う。寛文年中大社造営以後この事なし。
  • 旧暦10月。日本中の多くの神々が出雲大社に集まることから「神無月」ではなく「神在月」と呼ぶのが出雲地方だ。
    旧暦の10日10日夜、龍蛇神の先導の元、出雲大社へとお越しになる神々をお迎えする神迎神事(かみむかえしんじ)が行われる。場所は古代から神聖な場所とされている稲佐の浜。厳かな神事が終わると、龍蛇と神々が宿った二本の神籬(ひもろぎ)を先頭に「神迎の道」を出雲大社へ向けて行進していく。その後、出雲大社神楽殿にて「神迎祭」が行われ、供の方には「神迎御幣」が授けられる。

    一年に一度!神々が集う出雲大社で神秘体験を!
    「神迎祭」の翌日旧暦10月11日から17日まで、神々達は出雲大社摂社上宮で神議(かむはかり:会議)を行い、人生諸般の事柄や縁結びなどについて決めると言われている。全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」までの間、出雲大社御本殿では神在祭や人々の更なる幸縁(こうえん)結びを祈る縁結大祭が、出雲大社神楽殿では龍蛇神講大祭などが開催。また神在祭期間中毎夜、夜神楽祈祷も行われる。
  • 出雲に行かない留守神には恵比須神(えびすしん)、金毘羅神(こんぴらしん)、竈神(かまどしん)、道祖神(どうそじん)などがいます。
  • 神無月(かんなづき)(旧暦10月)には,日本中の神々が出雲の出雲大社に集まるという伝えが平安時代からあるが,そのとき留守居をするという神がある。
    一般には,オカマサマあるいは荒神(こうじん),恵比須,大黒,亥子(いのこ)の神を留守神としているところが多く,これらの神は,家屋に定着した家の神である点で共通する。
    武蔵の総社である六所明神(大国魂神社)や信濃の諏訪明神(諏訪大社)など,各地の大社には,神の本体が蛇なので出雲に行かないという伝えがある。
  • 世紀前半、大和朝廷で一連の動きがあった頃出雲国造は現在の松江市大庭に住んでいました。
     
    出雲国庁で政治と祭祀の両方のまつりごとを行っていた。神魂神社の参道の脇に出雲国造居住地跡が残っています。
     
    そして神魂神社はその敷地内にあり熊野大社の逢拝所だったと思われます。
     
    神魂神社が延喜式神名帳(927年)にその名を残さないのは、出雲国造のいわば邸内社だったからです。
  • 出雲風土記に
    「天の下所造らしし大神、大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還り坐しし時に、長江山に来坐して詔りたまひしく、『我が造り坐して命らす国は、皇御孫の命、平らけく世所知らせと依さし奉らむ。但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ』と詔りたまひき。」

    と伝えています。

    これは、私が平定した土地は皇孫に渡すが、出雲だけは自分が守る、と主張した「大穴持命」の言葉です。
  • 日御崎神社の神主家は、天冬衣命を祖としており、富家と同じ出雲臣族の系譜です。
    神門郡から移住した日置臣の神社というのが本来の姿ではないでしょうか。

    富家の伝承によると野城大神とは佐比売神の事であるという
  • 金屋子神
    金屋子神は、高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。
    しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。
    各地で、金屋子神は、自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。
  • 金屋子神
    金屋子神は、高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。
    しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。
    各地で、金屋子神は、自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。
  • 出雲風土記(733年)には出雲四大神が記載されています。

    四大神とは、どの神様でしょうかか?
    ○ 熊野大神(くまのおおかみ)=スサノオノミコト
    ○ 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)=大国主命
    ○ 佐太大神(さだのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載なし=サルタ
       ヒコノミコトとされる
    ○ 野城大神(のぎのおおかみ)=神様の別名は風土記には記載なし=アメホ
       ヒノミコトとされる
    そして、733年当時 四大神を祀った社として 熊野大社、杵築大社、野城社、佐太御子社があり
    現在まで続いています。

    さて、その四大神の野城大神を祀っている現在の能義神社ですが
    安来市内に流れる飯梨川の東岸にあります。

    能義神社
    本殿と拝殿がつながっていません。
    現在の主祭神は天照大神の第二子、天穂日命(アメノホヒノミコト)です。
    天穂日命は大国主大神の国譲りの際高天原からの使者として派遣された
    出雲国造家(千家家・北島家)の祖神です。

    室町時代末期(一五六三年)に天災で焼失しています。
    現在の本殿は、慶長十八年(一六一三年)
    初代松江藩主、堀尾吉晴公の孫に当たる堀尾忠晴公が再建したもので、
    以来十一回の御造営を経たものだそうな。

    本殿の裏手には円墳を中心とする能義神社奥の院古墳群が
    ある。
  • 佐太大神社
     「当社は出雲國風土記に『カンナビヤマの麓に座す』佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、延喜式(えんぎしき)には出雲國二ノ宮と称され、出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに『佐陀大社』と称えられた御社です。

     中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を『神在の社』(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。 江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。

     また、旧暦8月24日・25日の御座替祭(ござがえさい)にはこの佐陀触下の神職・巫女が参集奉仕する慣わしで、この祭で舞われる神事舞が出雲國内をはじめ他の里神楽に大きな影響を与えたとされ「出雲神楽の源流」とも云われています。
  •  佐太神社(サタノカミノヤシロ)の元々は、神名火山(神奈備山)の朝日山(342m)の麓に鎮座している由緒ある古社で、古来より出雲大社に次ぐ出雲国の二の宮と崇められてきた。出雲国風土記における中核神であり、元出雲、原出雲時代に於ける地位が非常に高かったことを示唆していると思われる。現在の所在地は島根県松江市(八束郡)鹿島町佐陀宮内73。

     秋鹿郡佐田大社之記は垂仁54年の創建伝承を記している。1684(天和4)年の「秋鹿郡佐田大社之記」に「神記いわゆる比婆山者蓋この處哉乎。然る後垂仁天皇五十四年乙酉四月、始合祭伊弉諾尊為二座」とある。別の「御由緒記」に「その後養老元年、太政官符の命によりて再建し、その制貞享四年の造営迄継続せり」とあり、717(養老元)年に創建されたとしている。これが創立縁起となっている。

     出雲国風土記の「秋鹿郡の神名火山の条」に「郡家東北九里四十歩、高二百三十丈、周十四里、いわゆる佐太大神の社は即ち彼の山の下也」とある。ここでいう「彼の山」とは神名火山(神奈備山)の朝日山のことであり、その麓に鎮座していたと考えられる。この地は出雲でも相当早い時期に集落化された所で、縄文早期の佐太講武貝塚や弥生期の古浦砂丘遺跡がある。1974(昭和49)年、朝日山の山容を仰ぎ見る地である鹿島町太宇佐陀本郷宇志谷奥の山中から銅剣六口と銅鐸二口とが重層して同時に出土している。出雲の銅鐸で出土が明確なものの一つである。この時代より佐太神社が重要な役割を負っていたと思われる。
  • 出雲大社の祭神は、創建から奈良時代末までは大穴持神、平安初期から延宝七年(1679年)頃までは素盞嗚尊、その後は大穴持神に戻った。
    出雲大社の名称は、明治五年に出雲大社、それまでは杵築大社、杵築宮などであった。しかし、雲太との言葉があるように、出雲の大社と呼んだ場合もあるかも。
  • 天穂日命を主祭神とする芦屋神社があり、また磐座のほぼ南方向の神戸市東灘区に、天穂日命とその子孫、菅原道真をまつる綱敷天満宮が位置しています。因幡方面から移住してきた人たちが祭祀を担っていた、と芦屋神社に伝承が残っています。
    国譲りの後に大己貴命に代わって山陰地方統治の使命を帯びた天穂日命は、晩年にこの六甲山へお越しになって、そこで神上がられた(逝去された)のではないでしょうか。その場所の決定に関しては、瀬織津姫の御陵をお守りする御意志があったものと思われます。実は『ホツマツタエ』によれば、瀬織津姫は、天穂日命の育ての母親であること、そして天穂日命は天照大神の第一子で、実の母親は伊弉諾命の親族のモチコ姫という方であることも記録されています。
  • 曾枳能夜神社 旧郷社
    簸川郡斐川村神氷 山陰本線 直江駅より三粁
    祭神 伎比佐加美高日子命 例祭 一○月一九日
    本殿 大鳥造一坪 境内 一○三九坪 末社 三社
    神事と芸能 獅子舞
    由緒沿革 延喜式内及び出雲風土記所載の古社にして、明治五年二月郷社に列せらる。
    -『神社名鑑』-

    御由緒略記
    曾枳能夜神社
     御祭神 伎比佐加美高日子命
     当社は、延喜式内社で、出雲風土記に「神名火山(中略)曾 枳能夜社に坐す伎比佐加美高日子命社、即ちこの山の嶺 に在り。故れ神名火山と云ふ」と記されてあります。
     御祭神はこの地方(キヒサの里)一帯を守ります首長神 であり、出雲大神の祭り主でありました。
     古事記垂仁天皇の条に見られます「出雲国造の祖、伎比佐都美」は当社の御祭神であり、同条「石硐の曾の宮」とは 当社であると考えられます。
     明治五年二月郷社に列せられています。
     例祭日 十月十九日

    合殿 熊野神社
     御祭神 伊弉册命・速玉男命・豫母都事解男命
     当社は天正年間広島甲田城主宍戸隆家が熊野より勧請せし社 であります。修験者(山伏)による「延命長寿、極楽往生」を祈願 する道場でありました。
     元神氷字宮谷にありましたのを、明治四十四年四月九日に 本社に合祀されました。
     例祭日 四月九日

    韓國伊太氐奉神社
     御祭神 素戔嗚命・五十猛命
     当社は、延喜式内社で、出雲国内六社の中の一社であり 出雲風土記には、審伎乃夜社と記されています。
     御祭神は植林・殖産興業の神であり、「韓国」の名称や 「からのそほりの命」との別名は、古代出雲と韓国との間の深い交流 を知ることができます。
     元神氷字宮谷に在りましたのを明治四十四年四月九日、本社 境内に遷座されました。
     例祭日 旧二月六日

    その他、境内には岩神(神魂伊能知奴志命)、若宮社(土租神)、支比佐社(伎比佐加美長依彦命)が在ります。
    -案内板より-
  • June 2016 編集されました
    古代出雲の4大神
     『風土記』には、「大神(オオカミ)」が4柱ある。野城大神、佐太大神、熊野大神、所造天下(天の下造らしし)大神大穴持命(出雲大神)だ。
     大社、大神の称号は、ヤマト政権からは簡単には地方の神社には与えられなかった。『風土記』に記載されている大神は、出雲国の祭祀を専管した国造が、何らかの宗教的構想に基づいて国造の判断で指定したのだ。その構想を『風土記』に記して明確化しようとした意図は何か。
     ここで、これら4大神を地図上に落としてみると、野城・佐太・熊野の3大神は出雲東部に集中している。意宇郡家の位置からみると、3大神はほぼ東・北・南の方角に10kmほど隔てた地に所在している。他方、出雲大神は意宇郡家かのはるか真西30kmの地に位置している。

    佐太神社の本来の祭神は猿田彦神ではない。神社の起源は出雲国風土記の秋鹿郡(あいか)条にある佐太御子社とされる。佐太御子とは、やはり出雲国風土記に登場する佐太大神のことと考えられている。
    出雲国風土記には沢山の神が記されるが、「大神」と記される神は四柱しかない。大国主命である所造天下大神(あめのしたつくりししおおかみ)、出雲国造と関係の深い熊野大社の熊野大神、現在は表記が変っているが能義神社(のぎ)に祀られる野城大神、そして、この佐太大神。
  • 『出雲国風土記』に載っている、「杵築」という地名

    その地名起源は、・・・『地名「杵築」の由来については、出雲国風土記出雲郡杵築郷の條に「(前略)八束水臣津野命之国引給之後、所造天下大神之宮、將造奉而、諸皇神等、参集宮處、杵築、故云寸付、」と記しているように、諸皇神達がこの大社(現出雲大社)をキヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。そして神亀三年(726)に社名の示す「杵築」に字を攻めたという。以来、この大社を「杵築大社」と称するようになった。』・・・とされています。

    そして、この大社は、その他にも、・・・『天日隅宮(日本書紀)・天日栖宮(出雲国風土記)・出雲石同之曾宮(古事記)・杵築宮(釋日本紀)・出雲宮(八雲御抄)・嚴神之宮(日本書紀)・出雲大神宮(日本書紀)・杵築大神宮(和漢三才円會)・所造天下大神宮(出雲国風土記)』・・・などと呼ばれていたとされています。
  • June 2016 編集されました
    大穴持命というより、オオクニヌシノミコトとして古来から民衆に親しまれたこの神について上田正昭氏は、『(出雲国)風土記』で「所造天下大神命」(八例)「所造天下大神大穴持命」(七例)「所造天下大穴持命」(一例)「所造天下大神」(十一例)というように、「所造天下」の「大神」として特筆し、記・紀神話のようにひたすら屈服し服属する姿勢は物語られていない、と紹介されている。(「論究・古代史と東アジア」古代出雲の研究課題)』

    『古事記』ではオオクニヌシ、オオナムチ、アシハラシコオ、ヤチホコ、ウツシクニタマと五つの神名を持ち、『日本書紀』ではさらにオオモノヌシ、オオクニタマの二神名を加えて、七つの名を記している。』

    「造天下大神」という肩書きは出てきません。ただ、『日本書紀』では「国作大己貴命」というものが、それに近いものとして出てきます。


    意宇郡の郷の解説の初っ端に来るのが、母理郷(もりごう)。
    『郡家の東南三十九里百九十歩の所にある。
    所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持命(おおなむちのみこと)が、高志(こし)の八口(やぐち)を平定なさってお帰りになる時、長江山においでになっておっしゃられたことには、
    「わたしが国作りをして治めている国は、皇御孫命(すめみまのみこと)が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げる、ただ八雲立つ出雲国は、わたしが鎮座する国として、青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう。」
    とおっしゃられた。だから文理という。神亀三年(726)に字を母理に改めた。』

    これが、所造天下大神がおっしゃったことである。意宇郡を作って治めたのが大神である。

    『出雲国風土記』に堂々と登場した「野城大神」が、後世には信仰圏を失い能義(野城)神社には、高天原から出雲の国譲りのために派遣された「天穂日(アメノホヒ)命」が主祭神として祀られていることです。さらに、驚くべきことに野城大神は、祀られる神社さえ失っているのです。
  • 杵築の宮は国譲りの代償として造られたとか、垂仁天皇の皇子が杵築大神のおかげで物が話せるようになった、という話の杵築大神とは、
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