須佐之男命、スサノオ

March 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image須佐之男命、スサノオ

須佐之男命、須佐神社 スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素…

Read the full story here


コメント

  •  「熊野権現垂迹縁起」は、現存する文献の上では熊野縁起最古のものであり、この中に熊野権現が九州から紀伊国に降臨した道筋が伝えられている。

    おそらく、この経路に準じた経路で紀伊国に達したと思われる。あらすじは以下のようなものである。

     「昔、唐の天台山の王子信の旧跡が、日本の九州の英彦山に天降った。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。
     次に、伊予国の石槌山にお渡りになった。次に、淡路国の諭鶴羽山にお渡りになった。次に、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。
     熊野新宮の南の神倉山にお降りになった。それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。
     本宮大斎原の一位木の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。
  • 熊野の名を持つ式内社は以下の通り。
    近江国高嶋郡 熊野神社[クマノ]初め水神彌都波乃売命を勧請。
    越中国婦負郡 熊野神社[クマノ]往古この地を開発した出雲民族が郷里において崇敬していた八雲の熊野大社の神を祀った
    丹後国熊野郡 熊野神社[クマノ]
    出雲国意宇郡 熊野坐神社[クマノ](名神大)
    紀伊国牟婁郡 熊野坐神社(名神大)
  • 古風土記(七三二年)によれぱ、「熊野山」の注記として、「いわゆる熊野大神の社が坐す」とある。この古文書においては、出雲の国の各郡にわたり、列挙される山の名は、計、五十六、そこに「神の社あり」(「神あり」等を含む。)との注記があるもの、計、十、そのうち、山の上または峰にありとされるもの五社、また、山の下にありとされるもの二社、したがって、その他の三社は、この熊野大社を含めて、山の上でも下でもなく、その山腹にあったと、解釈されうる。

    この「態野山」は、現在の天狗山(610.4m)である。この地方一帯(八束郡を含む旧「意宇郡」およびその以北)の最高峰である。
    また、現熊野大社が保存する文書にも、「此(この)山に神宮のありしより天宮と呼称(とな)へしを、後世に誤りて天狗山といふ」とあり、つづいて、この「山腹に、平面地、凡(およそ)数十町歩あり、俗に、天宮の平地と呼ぶ、是宮跡なり」とある。
  • 素盞嗚尊─①ヤシマジヌミ─②フハノモジクヌスヌ─③フカブチミズヤレハナ─④オミズヌ─⑤アメノフニギヌ─⑥オオクニヌシ─⑦トリナルミ─⑧クニオシドミ─⑨ハヤミカノタケサハヤジヌミ─⑩ミカヌシ─⑪タヒリキシマルミ─⑫ミロナミ─⑬ヌノシトリナルミ─⑭アメノヒベラオオシナドミ─⑮トオツヤマザキタラシ


    代数 王名 王妃名 王妃の父 王妃の祖父 よみ 推定没年
    1 八島士奴美 木花知流比賣 大山津見 ヤシマジヌミ BC95
    2 布波能母遅久奴須奴 日河比賣 淤迦美 フハノモジクヌスヌ BC67
    3 深淵之水夜禮花 天之都度閇知泥神 布怒豆怒 フカブチミズヤレハナ BC39
    4 淤美豆神 布帝耳神 刺国大 オミズヌ BC11
    5 天之冬衣神 刺国若比賣 アメノフニギヌ AD17
    6 大国主 鳥耳 八島牟遅 オオクニヌシ AD45
    7 鳥鳴海 日名照額田毘道男伊許知邇 トリナルミ AD73
    8 国忍富 葦那陀迦 クニオシドミ AD101
    9 佐波夜遅奴美 前玉比賣 天之甕主 ハヤミカノタケサハヤジヌミ AD129
    10 甕主日子 比那良志毘賣 淤加美 ミカヌシ AD157
    11 多比理岐志麻流美 活玉前玉比賣 比比良木之其花麻豆美 タヒリキシマルミ AD185
    12 美呂浪 青沼馬沼押比賣 敷山主 ミロナミ AD213
    13 布忍富鳥鳴海 若尽女 ヌノシトリナルミ AD241
    14 天日腹大科度美 遠津待根 天狭霧 大山津見神 アメノヒベラオオシナドミ AD269
    15 遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ AD297
  • 三国遺事のスサノオ、

    三国遺事では2世紀頃の話とされている

    新羅に降り立ったスサノオ命、日本書紀の一書では「ここには居たくない」と出雲に渡る

    スサノオ命の子の五十猛(いたける)命が木々の種を半島には植えず、今の日本に植える。温暖湿潤で木々の青々とした日本の気候風土の説話だろう。

    越(北陸)や新羅の国などから余った土地を引いてくる出雲風土記の国びき神話はよく知られている。実際日本海の対岸にあるのだから古くから交流があった

    大田市の五十猛(いそたけ)海岸にはスサノオ命が上陸した地という伝説がある

    古代のクニは集落とそれを囲む柵のような小規模なものを指すこともある。出典の三国遺事自体、邑(ゆう, むら)と考察しているようだ。

    稲作の伝播について現在は長江流域から直接日本に伝播したとする説が有力となっている

    2世紀頃といっても三国遺事の成立が13世紀で正史から漏れたものを採録しているそうなので、あまり意味がないかもしれない。


    古事記
    高天原を追放されたスサノオ命をオホゲツヒメ命がもてなすが、汚らわしいとスサノオ命は姫を斬り殺してしまう。すると遺骸から様々な穀物が芽生え、種を高天原に献上したという
    ここではスサノオ命は特に咎められていない。

    日本書紀では
    ほぼ同じ内容が月読命の神話として語られ、天照大神の怒りを買い日月離反となる
    比べてみて分かることもあるのだ。
  • 蘇民将来(備後国風土記の謎)  塚田敬章

    素戔鳴系の神社に「蘇民将来」という不思議な伝説があります。素戔烏神が一夜の宿を提供してくれた蘇民将来に対し、茅の輪を付けた一人の娘を残しただけですべて滅ぼしてしまったというものです。あまりにも理不尽なので、滅ぼされたのは弟の一族だなどと誤認されていますが、なぜ、このような理不尽な伝説が生まれたのか、その起源に切り込みます。

    二十二社註式 祇園社(群書類従)
     「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って、饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」

    備後国風土記逸文
     「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」

     二十二社註式では、蘇民将来の娘、子(子供)と婦(成人した娘)の二人を残して、皆、ことごとく殺し亡ぼしたとされていますが、備後国風土記逸文では、「蘇民の女子一人を置きて、皆、ことごとく殺し亡ぼしてき」と、残されたのは一人の女の子です。おそらく、二十二社註式の方が原型を伝えているでしょう。風土記逸文では、「汝の子孫その家に在りや?」という武塔神の問いに、「娘とこの婦(妻)がいる。」と答えており、問いの「子孫」と内容がずれています。須佐之男神は、宿を貸してくれなかった弟の巨旦将来一族ばかりでなく、貧しいなりに自分を接待してくれた恩義あるはずの蘇民将来まで殺したことになります。
  • 09/15編集されました
    島根県大田市五十猛町には須佐之男命が渡来、上陸したという伝説がある。和田珍味本店から見下ろす浜辺が神上(しんじょう)の浜と呼ばれており、ここから須佐之男命と息子の五十猛命(いたける、いそたけるのみこと)が上陸したとされる。

    韓神新羅神社 大田市五十猛町

    大浦漁港のある入江の西側に韓神新羅神社がある。日本書紀の一書では、新羅から須佐之男命が渡来したという伝説とは逆に、日本から新羅に出かけていく舟を作るための木を生み出す神話も採録されている。

    社伝によると、須佐之男命が五十猛命と大屋津姫命・抓津(つまつ)姫命を連れて新羅国に天降り、そこから埴舟に乗って日本に帰るとき、大浦海岸近くの神島に上陸、さらに須佐之男命のみがここに社を作って留まったが、のちに姫神二柱をも併せ祀ったという。

    日本書紀の記述だと大屋津姫命と抓津姫命も紀の国に入ったと解釈ができるようだ。実際、和歌山県和歌山市に大屋都姫神社がある。

    五十猛神社
     JR五十猛駅から東南に数百メートルのところに五十猛神社がある。
    五十猛神社は五十猛命と応神天皇を祀り、大屋津姫命と抓津姫命を配祀する。
    社伝によると、須佐之男命が五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命と朝鮮半島からの帰途、この地に上陸、五十猛命はここに残って木種を播き殖産につとめ、湊の宮山に祀られたという。また須佐之男命は大浦に留まって韓神新羅神社に祀られ、湊の近くの坂(神別れ坂)で須佐之男命と分かれた姫神二柱はそれぞれ造林や機織などの業をひろめ、大屋津姫命は大屋の大屋津姫命神社に、抓津姫命は川合の物部神社の境外社漢女(からめ)神社に祀られたという。

    「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」
  • 10/09編集されました
    大同五年(810)正月、嵯峨天皇は次の言葉を残しております。
    「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」

    愛知県津島神社に伝わる縁起
    このことから津島神社は、日本の総社の称号を得ている。
    スサノオこそ「倭国」建国の太祖です。
    津島神社は別名天王社といい、全国に三千の分社を持つ総本社ですが、
    津島神社の「津島」は、無論「対馬」のことです。

    「須佐之男命韓国に渡りましける時、
    その荒御魂(あらみたま)は尚出雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、
    又和御魂(にぎみたま)は、孝霊天皇の四十五年乙卯(前二四五)に。一旦西海の對馬州に鎮まりまし、

    欽明天皇の元年庚申(五四○)この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南(南参道居森社の地)に移らせ給ひ、
    聖武天皇の天平元年己巳(七五七)神託によりて北方柏森(境内栢森社の地)に移し奉り、
    嵯峨天皇の弘仁九年庚寅(八一〇)今の地に移り給ふた」とある

      「対馬」
    は海を隔て「馬韓」に対していたため、「対馬」と記されたものと考えられ、本来は寄港の島である「津島」であったと思われます
  • 10/09編集されました
    任那は新羅により滅ぼされる(562年)。
    欽明紀は記す「新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲がった爪で人民を虐げた。肝を割き足を切り、骨を曝し屍を焚き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に調理された」。読んで吐き気を催す凄惨さであるが、これが新羅人の本性なのである

    欽明朝において特筆すべきは対朝鮮問題である。この時期、新羅(しらぎ)はその国力の充実を背景に「任那(みまな)」諸国(加耶(かや))の有力国、南加羅(から)(金官(きんかん)国)の併合(532)、安羅(あら)(咸安(かんあん))、大加耶(おおかや)(高霊(こうれい))の併合(562)を推し進め、日本の権益ともかかわっていた「任那」諸国を完全に統属。この新羅に脅威を感じた日本と百済(くだら)とは同盟を強化、百済の聖明(せいめい)王からの「仏教公伝」、五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としている。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。