宇佐神宮と八幡神

January 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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 宇佐神宮は神殿が三つ並ぶのであるが、二之御殿の前には四方を吹き放ちとした拝陣が設えてあり、二之御殿が主殿であ…

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  • 04/23編集されました
    宇佐神宮の主神が応神天皇になったのは、奈良時代の聖武天皇のときである。

    神功・応神という母子神に対して、大隅正八幡宮(鹿児島神宮・鹿児島県姶良郡隼人町)には別系統の母子神伝承がある。その伝承とは
     「震旦国陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)、七歳で御懐妊。父王怖畏をなして、汝未だ幼少也、誰人の子かありていに申すべしと仰せければ、我が夢に朝日が胸を覆ひ妊娠したと申し給えば、驚きて、ご誕生の皇子と共に空船(ウツボブネ)に乗せ、流れ着いた所を領とし給へと大海原に浮かべ奉る。日本大隅の岸に着き給ふ。其の太子を八幡と号す。此より船が着いた所を八幡浜と名づく。是継体天皇の御宇(6世紀初葉)也。大比留女、筑紫国若椙山へ飛入給ひし後、香椎聖母大菩薩と顕れ給へり。皇子大隅国に留まりて八幡宮と祀られ給へり」
    というもので、同じ八幡神の顕現伝承とはいっても宇佐とは異なっている。そのため、八幡宮の本家は宇佐なのか大隅なのか、また宇佐の八幡神と大隅のそれは同じ神かどうかなど争いがあったといわれ、今昔物語には、「大隅に八幡神が顕れ、その後、宇佐に現れた」と記すという。
     大隅伝承は、日の神に仕える巫女・ヒルメ(日女・日妻)が神の御子を生み、ウツボ船(密閉された箱船・卵のイメージをもつ)に乗って漂流し、漂着した処で神となったという典型的な“母子神伝承”だが、それは、朝鮮半島に残る新羅や加羅国などの建国神話(始祖王は卵=ウツボ船に入ってやってきたという)などに繋がるといわれ、正八幡宮縁起は新羅系の人々が伝えたものか、ともいう
  • June 2016 編集されました
     豊玉姫伝承の島、種子島
    鹿児島県大隅半島の沖に横たわる「種子島」です。
    「震旦国」は、「チン・タニ・国」すなわち「天・種子・国=沖縄・種子島・国」に対する当て字のうちの一つだったのです。
     種子島の南部、ロケット基地に近い南種子町茎永(くきなが)に、豊玉彦と豊玉姫の遺跡だという伝承のある「宝満(ほうまん)の池」と、田の中に、こんもりと盛り上がった古墳と、それに向かい合った鳥居と小さな桐(ほこら)しかない「宝満神社」があります。

    鹿児島神宮には、「二十二社註式」や、『惟賢比丘(いけんびく)筆記』などという古文献に記録された『大隅一の宮・正八幡縁起』と呼ばれる物語があります。

    『昔、震旦(しんたん)という国があり、<陳>という大王がいた。ところが、まだ7歳にしかならない幼い姫の「大比留女(オホヒルメ)」が妊娠していることがわかった。大王は驚き怒って「一体だれが相手なんだ?」と問いつめた。
    姫は「いいえ相手はいません。朝日の光りが胸にさした夢を見ただけです」と答えた。
    やがて男の子が生まれたので、大王は非常に不吉なことだと思って恐れたが、殺すこともできないので、あとは神の意思にまかせることにして、「着いたところを、お前たちの領地に与える。そこで暮らせ」といって、小さな母子を船に乗せて海へ流した。
    船は荒海を無事に乗りきって大隅の海岸に着いた。子供は後に「八幡(はちまん)」と名づけられたので、船の着いたところも八幡崎と呼ばれている。
    母の大比留女は、その後、筑前(福岡)の若杉山に移り「香椎聖母(かしいしょうも)大明神」と崇拝されたが、八幡はそのまま大隅に残って、
    今も「正八幡宮」として祭られている。
    この『縁起』でいくと鹿児島神宮の祭神は八幡です。ところが公式には彦火火出見尊になっています。

  •  宇佐神宮の由緒書きに「宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷と結びつき、国家神にまでになったと記されている様に、突如として躍り出た神である。

    これは祭祀に関わった大神、辛嶋両氏のいち早い仏教との繋がりが奏功しているようだ。 加えて、九州南部の平定、大仏の造営に大きい寄与を果たした事によるものである。
     聖武天皇が大仏建立を決断しかねている時、宇佐八幡は託宣を下し、天神地祇を率い誘いて建立を成就せしめるであろうと、神々の先頭に立ったのである。 宇佐の地方神から南九州制圧で徐々に重きを持ってきたであろうが、多くの神々の先頭に立てたのは、仏教に帰依した最初の神であり、各神社も迷っていた事があったからであろう。 迷いのないものは強いのである。それこ加えて香春の銅と鋳造技術の提供と云う現実的手段を持ち合わせていたのがこの宇佐神宮であった。大神氏は赤染氏を押さえていたようである。
  • 辛嶋氏
     「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと云う


    大神氏
     大神氏は大和三輪の大神氏の出と渡来系とする二説がある。 弘仁12年の官符(「弘仁官符」とする)、「承和縁起」には 欽明(きんめい)天皇の御代(540~571) 馬城峯 に太上天皇( 応神(おうじん))の御霊が現れ、同29年(568) 大神比義(おおがのひぎ) が鷹居社(鷹居瀬社とも)を建てたという。
     また別の説では欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり大神比義が祈ると三才童児となり、 「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大 菩薩(ぼさつ)」と託宣があった。
     この縁起は『扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄』等にみえる。ここにみる聖地は「あられ宮」を指している。 更に別の説では『託宣集』五巻一書に欽明朝に菱形池辺 小倉山の麓に鍛冶翁が現れ、大神比義が 応神八幡神 として祀った。また同五巻一書では和銅2年まで社殿なし、同5年大神比義と辛嶋勝乙目(おとめ) が鷹居瀬社に社殿を造ったとある。
  • 八幡宇佐宮御託宣集に「古イニシヘ吾れは震旦国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ」 とある。震旦国とはチャイナを西方から呼ぶ名である。震旦国の霊神とは道教の最高神太一神、大元神を指す。日域とは日本である。大神とは道教の太上老君の意である。 聖武天皇の御代の託宣で、大仏建立が出来るのは宇佐八幡の神のみであるとの意である。 道士であった大神氏の発想の託宣であろうが、見事に宇佐の本来の神の御許山を乗っ取り、日本の神々のトップに立ち、文化の香り高いチャイナ風を靡かせ、かつ半島系の秦氏が出自を始皇帝に求めえる根拠をも与えようとする手の込んだ託宣である。
  • 白村江の戦い(663年)で辛島氏は倭軍として、新羅軍と戦うが、百済と倭の連合側は破れてしまう。
    「日本書紀~天智」10年11月10日、辛島勝裟婆・筑紫君薩野馬ら四人は、唐から来て、唐軍2000人が筑紫に向かっていると対馬国司に伝えた。白村江の戦い(663年)で倭軍が破れると、唐の捕虜となる。
  •  宇佐八幡神宮の祭祀氏族として宇佐氏は、東表国の流れで、秦王国からも大和朝廷からも独立性を保っていた。宇佐氏の伝承によれば、彼らは神武天皇の東征の途中、豊国に寄った時に一行を饗応したとされる莵狭津彦(うさつひこ)、莵狭津姫(うさつひめ)を祖とする。彼らは八幡信仰とは直接かかわりなかったが、地元の豪族勢力として、比売神を独自の祭神として、宇佐宮が宇佐八幡神宮となった後も、宮司などとして重要な地位を保っていた。
     秦氏は、古代豊国では白村江の戦い以降、渡来勢力は辛嶋氏として登場し、秦王国を創建して豊前地方を支配していたのであろう。もともとは辛国(秦国のことか)、すなわち新羅系(秦氏系)の渡来人とされ、豊前国田川郡の香春の産銅地を中心に生活し、鍛治、機織、陶工などの生産に従事していた。彼らの縁起によれば、辛嶋氏の八幡神は、宇佐郡辛国宇豆高島(うずたかしま)に天降ったが、大和からきた大神氏の神と争い、鷹居社を造ったとされる。
     しかし、実際は彼らの八幡神の創始は、豊前国(秦王国)の筑上郡の矢幡八幡宮と見られ、これが下毛郡を経由して宇佐の鷹居社や神宮に進出したのであろう。辛嶋氏が神宮の祭祀権のイニシャティヴを握ってからは、彼らが女禰宜(ねぎ)を務めるようになり、次々と神託を出している。辛嶋氏は弥勒寺を境内に建設して、神仏を習合させた。
  • 宇佐の比売大神とは   

     梅原治夫氏の『国東半島の歴史と民俗』にもこう書かれている。
    宇佐の比売大神のことは、風土記逸文に「豊前国宇佐の郡。菱形山。広幡八幡の大神。郡家の東、馬城の峰の頂に坐す」とある。紀の宇佐島と風土記の馬城峰とは同じ山、現在宇佐神宮の奥ノ院である御許(おもと)山(大元山-630メートル)のことで、このお山に天降ったと伝承している。御許山を御神体としているが、それはこの山頂に三つの巨石があり、巨石を磐境としてはじめて影向され、ここに巨石崇拝の原始信仰が生れ、宇佐の祖神となった。

    「宇佐に参るなら御許に参れ、御許もと宮もと社……」このような俗謡がいまに伝えられているが、宇佐神宮の元宮である御許山の山頂こそ、本当の祖神は坐すのである、

    祖神の坐すところに参拝することこそ、祖神に対する儀礼だ、ということをこの俗謡は伝えている。つまり、その山頂の巨石を比売神の顕現としたようであるが、この比売大神は、さきの「原始八幡神創祀遺跡(学説)」でみた「辛島・長光・赤染等が斎き祀っていた」「辛国息長大姫大目命、豊比口羊」と同じものにほかならなかった。これは田川郡香春町の香春神社などに祭られた祭神で、それがさらにだんだんと、「豊国の王」ということであった豊日別(とよひわけ)がのちにその祭神となった京都郡(行橋市)の草場八幡宮などをのこしながら、築城(上)郡綾幡郷の矢幡宮へと南下したものだったのである。

    もちろん比売神の南下とは、香春岳の産銅などで大をなした秦氏族からの出である辛島氏らの発展・南下ということである・・・。 
  • 八幡神はまず辛嶋氏の神としてあらわれた。「承和縁起」には、大御神ははじめ宇佐郡辛国宇豆高島に天降りまします、とある。・・・辛嶋氏の伝承では、宇豆高島(稲積山)に天降りした神はそのあと宇佐の地域を転々と移動する。はじめ乙口羊(おとひめ)神社に祀られ、それから酒井泉社に移った。そのあと瀬社、鷹居社、小山田社に移り、最後に小倉山に鎮座した。大神氏が八幡神の奉斎に参与したのは鷹居社の頃からである。鷹居社は和銅五年に八幡大神の社殿を建立しているが、それ以前から小祠はあったと見られている。
  • 宇佐神宮では
    ニの御殿の比売大神が最も古くその出自だけが問題になるが、比売大神の脇殿に北辰殿が祀られていることに注意を払う必要がある。北辰殿は北極星を神として祀っている。「託宣集」を見ると、北辰神は天空から降りた神で、小倉山の地主神であった。小倉山は、現在宇佐神宮の鎮座する亀山の別名である。亀山の南東方およそ4kmのところに、御許山(馬城峯)があり、そこを奥宮と称しているが、宇佐神の発祥には関係がない。「託宣集」によると、八幡大神は小倉山にいた先住の地主神である北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかけたところ、北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡していると云った。香春大明神も八幡大神にむかって同じようなことを云った、とある。北極星を神格化した北辰神を、妙見菩薩といって鉱山に関係がある。北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだものである。香春には妙見金鉱山がある。この妙見金鉱山の近傍には比口羊神が祀られている。比口羊神が鉱山技術者の神であることから、香春では北辰信仰と比口羊神への信仰が一対として伝えられ、それがそのまま宇佐神宮の二の御殿の比売大神とその脇殿の北辰神との関係に置き換えられたと思われるふしがある。それでは北辰神と比口羊神とを宇佐の小倉山で斎祀したのは誰か、ということになるが、それは渡来氏族で、宇佐地方に誕生した辛嶋氏以外にない。
  • 八幡神

    創祀の地はおそらく今福岡県(豊前国)筑上郡椎田町綾幡に鎮座する矢幡八幡宮であって、ここに残る榊山神幸の行事は八幡神創祀の最も原始形態を留めた神事と考えられ、そこから原始八幡創祀の地たる意味が汲みとられるのである。

    辛嶋氏はやがて八幡神を下毛部に移したが、六世紀の終りになって大和国三輪のシャ-マン大神比義が宇佐に入り、わが古代の最有力君主とみられた応神天皇の神霊を持ちこみ、辛嶋氏との主導権闘争に勝って原始八幡神を皇室関係のものに転換せしめ、改めて鷹居社をつくって八幡神をここへ移した。

    当時朝廷は対半島政策において任那日本府滅亡を含む重大な時期に当たっており、北九州の政治的強化を特に痛感していた。国内的には蘇我氏が帰化人と仏教文化によって保守勢力である物部氏を打倒するため半島と密接な関係にある豊前地方の八幡神を傘下に収めようとして神功・応神信仰を持つ大神比義を宇佐に送ったのであろう。比義が祝になった五八四年より二年後の用明二年には天皇の看病のため蘇我馬子は豊国法師を参内させ、反対派物部守屋を怒らせるに至った。この豊国法師は『新撰姓氏録』泉国神別天神の条に、巫部達の説明に関連して雄略天皇御病の時招かれた豊国奇巫とあるもの一同性格の人物とみられ、『続日本後紀』(承和十二、七、十四条)にも同様の記事があって、医療にもたずさわったシヤ-マンであったと思われる。
  • イスケヨリヒメ

    古事記では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。

    勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメである。ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライスキヒメと名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた。



    日本書紀第6の一書・先代旧事本紀

    『日本書紀』第6の一書では「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり事代主神が八尋鰐と化し三嶋溝樴姫あるいは玉櫛姫のもとに通い、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれたという記述がある。なお『先代旧事本紀』巻4地祇本紀にも「都味齒八重事代主神 化八尋熊鰐 通三島溝杭女 活玉依姬 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」
    と同様記述がある。
  •  宇佐の秦氏は銅の供出で大仏造顕に協力したばかりでなく、「我、天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身を草木に交えて障ることなくさん」との宇佐八幡の神託を発し、莫大な資金と資材と人夫を要するためこの国家事業を聖武天皇のわがままだと反発する朝廷貴族を押さえ込んだ。
     この褒美として、大仏開眼供養会の際には聖武上皇や孝謙天皇などとともに宇佐の八幡神が輿に乗って大仏殿に入御し、八幡神には封戸(ふこ)800と位田(いでん)60町が贈られ、後には東大寺のすぐ東の手向山に八幡神を分社して祀り、東大寺の守護神としたのである。
  • 日本書紀(720年編纂)・神代記・天安川誓約(ウケヒ)段に、
     「日神(アマテラス)が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に天降らせた」
    との一文(第3の一書)がある。
     三柱の女神とはタゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメを指し、一般には宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の祭神とされるが、宇佐では、宇佐神宮の東南に聳える宇佐嶋すなわち御許山(オモトヤマ、H=647m)に天降ったとする(安心院の地という説もある。「三女神社」参照)。
     また先代旧事本紀(平安初期に編された物部氏系史書)には、
     「ニニギ尊の天孫降臨の時、ニニギに従った神々の中の“天三降命”(アメノミクダリ)が豊前国宇佐国造(宇佐氏)の先祖」
    とあり、このアメノミクダリとは先の三女神の別名だとされている。

     この三女神すなわちアメノミクダリ命を以て、今、宇佐神宮・第二殿に祀られている『比売大神』(ヒメオオカミ)の原姿とするのが一般だが、異論もあり、はっきりしない。
     宇佐神宮由緒記(以下「由緒記」という)には、
     「二之御殿の祭神(比売大神)を、八幡さまの妻神とか大宮能売神(オオミヤノメ)という学者もあったが、社伝では、アマテラスとスサノヲのウケヒによって顕れた三柱の女神で、宇佐の国造らが奥宮の大元山(オオモト、御許山)を中心として祀ったものと伝えられている。そして、八幡さまが顕れる以前の古い神様で地主神であるとされている」
    とあり、三女神を比売大神の前姿としている。
  • June 2016 編集されました
    宇佐国造は宇佐(菟狭)国(現・大分県宇佐市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると神武天皇(初代)の時代、大伴氏の祖・高魂尊(たかむすびのみこと、高皇産霊尊)の裔孫である宇佐都彦命(うさつひこのみこと、菟狭津彦)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書紀によると、宇佐津彦と宇佐津姫(うさつひめ)の2人が祖とされ、また天神本紀(先代旧事本紀)によると、宇佐神話の中の3女神・天三降命(あめのみくだりのみこと)が祖とされている。国造氏族は宇佐君(うさのきみ)であり、宇佐氏の伝承では宇佐都彦命を祖とし、当初は大神氏と共に宮司に補せられてたが、大神氏が衰えた後は大宮司を世襲し、代々、宇佐八幡宮の神主家として存在したという。宇佐神宮は、分祀が全国に2万4千以上もある八幡社の総本社で、主祭神は応神天皇だという。

    宇佐氏は『記紀』にみえる菟狭津彦(うさつひこのみこと)を家祖とし、宇佐国造を世襲したといわれるが、これは疑わしいとされ、実際は下毛郡・宇佐郡の土豪(海人族)が出自と推測されている。

    奈良時代に八幡神に朝廷の権力が及ぶと、宇佐八幡宮にも神宮司が設置された[2]。当初は大宮司職は和人の大神氏(おおが)が、祭祀は渡来系氏族の辛嶋氏(からしま)が掌握していたが、道鏡事件が起こると宇佐池守が台頭して宮司に任じられ、宇佐氏の掌握するところとなった。

    平安時代では、大神氏が大宮司、宇佐氏が少宮司と定められたが、岩清水八幡宮の勧請の後に朝廷の力が薄れると、宇佐氏が大神氏との抗争に勝利して大宮司となった。

    平安時代末期には宇佐公則が現れ、平氏と結んでその社領は九州全域に及んだ[2]。宇佐公道は清盛の娘を娶り平氏との繋がりが深かったので、壇ノ浦前に自宅を安徳帝の仮御所にして迎え入れた。鎌倉時代も宇佐氏による大宮司独占が続き、南北朝時代には宇佐公敦、次いでその弟の宇佐公連が大宮司となったが、公連は南朝に属して独立し、南北朝の争いが宇佐八幡宮にも及んだ。
  • June 2016 編集されました
    「比売大神」は天照大御神と素戔鳴尊の誓約によって現れ、素戔鳴尊の剣を物実(ものざね)とした三柱の比売神。筑紫の宇佐嶋に天降った神とされ、宇佐の国造らが御許山に祀ったいう。八幡神が現れる以前の宇佐の古い地主神とされる。と、宇佐神宮の由緒は比売大神を「宗像三女神」としている。
     宗像三女神は「道主貴」となって宗像三社に祀られる田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命のこととする。
     が、比売大神の出自については、「宇佐八幡宮御託宣集」による「玉依比売」や「豊比売」、国東、姫島の比売許曽神「阿加流比売」、八幡神示現以前からの宇佐の地主神など諸説あり、九州古代史の大きな謎のひとつとなっている。

    薦神社の神紋は「一つ巴」である。「三つ巴」の宇佐神宮に対する「祖宮」の意味であろうか。それとも宇佐神宮の比売大神とされる「宗像三女神」の中の一人の比売神を祀るという意味であろうか。

    豊比咩命は「豊」の地主神ともいえる名。闇無浜神社の祭神のひとり「豊日別国魂神」は、香春に在った辛嶋氏によって中津に齎された「豊比咩命」。宇佐以前は中津平野が最も繁栄していたという。香春の「豊比咩命」は中津で「豊の国魂」となった。

    宇佐氏が最も古く奉斎した神は、宇佐神宮の祖宮とされる中津の「薦(こも)神社」であったらしい。薦神社は境内の「御澄池」を神体とする。伝承では「池守」として御澄池を奉斎した「佐知彦命」は宇佐氏の祖とされ、「菟狭(うさ)津彦」と同神とされる。
     その薦神社に、香春に在った「辛嶋氏」が豊前で示現した八幡(やはた)神の信仰を持ち込んだようである。辛嶋氏も「薦神社」の神官であったと伝承される。
     後に、辛嶋氏は宇佐の辛嶋郷に在って「稲積神社」「乙咩神社」「酒井泉神社」「郡瀬神社」「鷹居社」とその祭祀を移す。八世紀の初頭、和銅期に辛嶋勝乙目が祝、意布売が禰宜となって栄えたという。
     この間、宇佐氏は八幡宮の祭祀に拘わっていない。八幡神を示現したのは辛嶋勝乙目か大神比義とされ、八幡神を小椋山に移したのは辛嶋氏である。
     託宣集によれば、八幡神が示現したのは六世紀後半の欽明期、朝廷の奉幣に預かったのは八世紀の初頭、現在の社地に移ったのは八世紀前半とされる。

    宇佐氏の祖、「菟狭津彦」は高皇産霊尊から出た「天三降命」の裔という。天三降命は饒速日尊に従って天降った神である。
     天三降命は宇佐に天降り、宇佐の産土神とされた。御許山などの三つの巨石として現れたのは、天三降命が「三女神」であることを意味する。「天三降命」自体が宇佐神話に基づいて創られた神であるのかもしれない。

    辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられますが、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられます。豊前の宇佐周辺には辛島・酒井・桑原など多くの勝姓の氏が見られますが、この勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられます

    辛島氏では、欽明朝に大神比義とともに八幡神を祀る宇佐八幡宮の祝になったという乙目をはじめとして、奈良時代頃までは波豆米や与曽女などが祢宜に任じたと史料に見えますから、その有勢ぶりがうかがわれます。ところが、宝亀三年(772)の阿古米が祢宜補任、その翌年の解任を最後に辛島氏の祢宜は終わり、その後も祝や惣検校などの神官としてあったものの、中世までには辛島氏は絶えた模様で、宇佐神官には見えなくなります。宇佐郡辛島郷にはその後、漆島氏(宿祢姓で、樋田などの苗字がある)が居住したため、両氏は一般によく混同されますが、本来別氏で、漆島氏は皇別で多臣一族と称した大分国造大分君の一族です。
     こうした諸事情もあってか、その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残しております。五十猛神からつながる辛島氏の系譜は、宇佐関係史料や大分県史料集などに見えますが、祢宜に任じた女性を主体とする氏族のようで、系図の良本は伝わりません。現在に残るのはきわめて不完全であり、豊都彦・宇豆彦などの歴代の名前や続柄に様々な問題があるものの、それでも、その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられます。
  • June 2016 編集されました
    天三降(あめのみくだり)
    ①父:母:
    ②子供:菟狭津彦
    ③旧事紀・天神本紀:宇佐国造祖。
    ④天孫日向に天降ります時、供奉。勅に依りて菟狭川上に住み宇佐明神を斎き奉る。
    ⑤日本書紀神代:即ち日神の生まれまする三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋*に降り
    居さしむ。今海の北の道の中に存す。号けて道主貴と白す。(宗像三女神のこと)
    *豊前国宇佐郷にある御許(おもと)山(647m)であるとされている。異説もある。宇佐氏の墳墓の地であり、宇佐明神、比売大神を祀ってあるとされる。頂上には3柱の巨石の磐座があり禁足地とされている。

    日本書紀には、九州以北で朝廷の命令に背いて従わなかった豪族達が四つ上げられています。その一つが、「鼻垂」で、豊後の国兎狭川の上流で「矢部」という地名が付いています。二つ目が「耳垂」で、筑後の国御木川上流でここには矢部川があり矢部村があり、矢部峠もあります。三つ目は「麻剥」です。これは高羽川上流と書いてありますが現在のどこなのかわかりません。そして、四つ目が「土折・猪折」で肥後の国緑野川上に住んでいました。四つの豪族のうち三つまでがその周辺に「矢部」の地名があるというのも謎が深まります

    日本書紀
     夏磯姫は「悪い賊たちがいます。鼻垂という賊は、みだりに君主の名を僭称して山谷に人を集め、菟狭の川上(駅館川)にいます。耳垂という賊は、損なっては貪り、民を掠めています。これは御木の川上(山国川)にいます。麻剥という賊は、徒党を集めて 高羽(田川)の川上にいます。土折猪折という賊は、 緑野(北九州市紫川)の川上に隠れ住み、山川の険しいのをたのみに多くの民を掠めています。この四人のいる所はそれぞれ要害の地です。各々が仲間を集めて一所の長となっていて、皇命には従わないと言っています。どうか急ぎ討伐して下さい」と言った。武諸木らはまず麻剥を誘った。赤衣・褌や様々な珍品を送り、従わない三人もおびき出した。それぞれ仲間を連れてやってきたところを捕らえて殺した。
  •  「宅部」とは「家部」のことで、大化改新(645)前に存在した部民制(皇室や豪族に直属の職能集団(品部→しなべ)や私有民(部曲→かきべ))の一つです。 古代大和朝廷は、氏姓制度と呼ばれる支配体制を取っており、地方の有力豪族は「君」と呼ばれていました。北には「阿蘇の君」がおり、南には「火の君」がおり、その間に楔を打ち込むために大和朝廷は矢部郷に「家部」を置いたとも云われています
  • 宇佐・菟狭・宇沙。
    豊前国宇佐郡。大分県北部。周防灘に面する。宇佐神宮がある。

    ・ホオテミがツクシで開墾事業を行っていた頃、稲苗の植付け後の五月の十五日にハヱ葉・ユツリ葉・餅飯をウケ神に供え、豊作祈願の歌を歌うという祭をウサの県で始めたところ、トヨの国に広がり、またツクシ全土で流行るようになった。今でも正月に門松・ハヱ葉・ユツリ葉を飾るのはこれが本となっている。

    ・神武東征軍はハヤスヒドから宇佐に到着し、ウサツヒコからヒトアガリ屋で御饗を受ける。ウサツヒコの娘のウサコ姫をタネコの妻に貰い受け、タネコをツクシ勅使として残し、安芸のチノ宮に向かう
  • ウサツヒコ ウサツヒメの祖先伝承を持つ宇佐国造の本拠は、宇佐のどこにあったのであろうか。そこで注目されるのが駅館川東岸の台地上にある 川部 高森古墳群 である。この古墳群には、九州最古の 前方後円墳 とされる 赤塚古墳 をはじめとして 免ヵ平(めんがひら)古墳 、 福勝寺古墳 、 車坂古墳 、 角房古墳 、 鶴見古墳 と計6基の前方後円墳がある。このうち最も古い赤塚古墳が4世紀はじめごろ、最も新しい古墳である鶴見古墳が6世紀中ころ、つまり4世紀から6世紀にかけての有力古墳が集中しているわけである。宇佐地方では、この川部 高森古墳群のほかに駅館川左岸の平野に 葛原(くずわら)古墳 という大きな古墳があるが、これは現状で見るかぎり前方後円墳ではない。6基の前方後円墳が集中する川部 高森古墳群は、その意味で 宇佐平野 でも傑出した首長の存在を示しているのである。しかも、ここでは少なくとも2世紀半以上の長い間、1か所に集中して古墳がつくられている。この古墳群の被葬者たちは、ある特定の一族であった可能性が考えられ、かれらの宇佐地方を代表する首長としての地位は、半ば譜代化して永く継承されたと思われる。したがってこの川部 高森古墳群の被葬者の一族からやがて宇佐国造が出た可能性は十分考えられるであろう。
  • 吉備の鶴山丸山古墳[傍の南の山には前方後円墳「長尾山古墳」がある] 神獣鏡が出土した。
    奈良で即位された神武天皇のお妃に、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタ ライスズヒメ)命を差し出した。媛蹈鞴五十鈴媛命は摂津国三島 に居た。三島は大阪府旧三島郡(現在の高槻市・茨木市)内だ。 三島郡は南北に分かれるが、島下郡の宿久郷(現茨木市)の丘 陵に「紫金山古墳」(前期古墳)がある。そこからも三角縁神獣 鏡が10面出土した。その中の1面に「鶴山丸山古墳」出土の 三角縁神獣鏡との同笵鏡があった。もう1面、前方後円墳の「花光寺山古墳」の三角縁神獣鏡との同笵鏡もあった。円墳の「鶴山丸山古墳」の被葬者が、前方後円墳の 「花光寺山古墳」の被葬者と同一グループであるで あることが理解できた。それだけではない。「紫金山古墳」から出土した3ケの貝輪には全て「直弧文」 が刻んであった。「千束古墳」の石障で、目に焼き付けられた模様だ。

    花光寺山古墳の築造されている場所は、今は瀬戸内市服部地区だが、備前市新庄に道一つで接している。鶴山丸山古墳の山を中心にして、西鶴山と東鶴山とに分かれている。東鶴山は備前市鶴見・佐山を囲むが、西鶴山には新庄・坂根・福田・畠田が含まれる。丸山古墳のある鶴山がその後のこの地区の中心地であったことはいがめない。

    その「鶴山丸山古墳」出土の三角縁神獣鏡の同笵鏡を出土する別の地区の古墳。
    大分県宇佐の前方後円墳の「赤塚古墳」と徳島市国府町の前方後円墳の「宮谷古墳」だ。
    大分の「赤塚古墳」からは、数多くの三角縁神獣鏡を出土した京都府南部・綺田(カバタ)にある「椿井(ツバイ)大塚山古墳」の三角縁神獣鏡との同笵鏡が出土している。「赤塚古墳」の周 辺の地名には畠田と字は違うが「 田(ハタケダ)」がある。
    紫金山古墳の貝輪の直弧文
  • 04/23編集されました
    豊前、田川の香春(かわら)郷。昔、新羅の神が海を渡ってこの河原に住んだ。郷の北に三峰あり、古く、第三の峰に「豊比命(とよひめ)」が祀られていた。
     採銅所の街区、高巣の森と呼ばれる小山に「香春神社」の元宮とされる「古宮八幡神社」が在る。今はここに豊比命が鎮座する。
     この宮の元は第三の峰の麓の「阿曾隈(あそくま)の社」であり、香春の地主神であるという。
     そして、古宮八幡神社は宇佐八幡宮の「放生会」の出発地とされ、ここで鋳造された銅鏡が八幡神のご正躰として宇佐八幡宮に奉納されたという。香春の神とはこの銅鏡の神、「豊比命」が本体であり、宇佐の「比売大神」に拘わるようであった。

    豊比命は「豊の比神」、豊国の地主神。邪馬台国の「台与(とよ)」をも彷彿とさせ、古代日本の謎を解く鍵ともなる比神。

     その豊比命が何故か「阿曾隈」。阿蘇の神であるという。

     阿蘇の比神といえば「蒲池比(かまちひめ)」。「蒲池比」は神功皇后の妹「豊姫」と習合し、筑後の「水沼君」の氏神となり、天照大神の神勅によって宗像に降り立った三女神の「田心姫命」へと繋がっていた。
     この阿蘇の「蒲池比」が、香春の豊比命に拘わるのであろうか。

     じつは、古宮八幡神社の神紋は「違い鷹の羽」である。「違い鷹の羽」は阿蘇神社群の神紋。ますます阿蘇との関係が気になる。

     田川は「鷹の羽」に由来するという。「彦山縁起」に田川は鷹羽郡とあり、上古、英彦山の神が鷹の化身であったという。鷹巣(鷹栖)山に豊日別大神が降りて、高住神社が「鷹栖宮」であったという。
     宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起では、辛島氏の神、八幡神は香春から宇佐に天降ったあと、宇佐の「鷹居社」に移って鷹となった。そして、古宮八幡神社が鎮座する採銅所の小山が「高巣の森」、字名が「鷹巣山」である。
  • 久留米の「高良(こうら)大社」は仁徳天皇の世に鎮座したと伝えられる古社。高良玉垂宮と呼ばれる名神大社で筑後国一の宮とされ、筑紫の国魂と仰がれる。
     祭神は「高良玉垂命」。そして左右の相殿に八幡大神、住吉大神を祀り、「豊比大神」を合祀するという。

  • 04/23編集されました
    高良の豊比売
    伝承では、高良の神は朝鮮半島から凱旋したのち「本山」の地を開いて「蓮の池」に居を構え、やがて高良の山中に移ったという。豊比命は本山に在って、高良の神は高良山から妻問いに通ったという。高良山の西麓、上津町本山の天満宮の境内社に「豊姫神社」が残る。

    高良山の北、筑後川の洲、大城の日比生にも「豊比神社」。平安期にはたびたび中央からも勅使が遣わされた大社であったと伝える。
     その対岸、北野の塚島に「塚島天満宮」。この宮も古く「豊比神社」であった。ここは豊比命の霊廟であるという。境内に古墳の石室骸があり、豊比命の墳墓であると伝わる。

     これらの神社群の北、北野の中原、赤司に「赤司八幡宮」がある。今は八幡神を祀るこの宮も古くは「豊比神社」であった。
     延喜式神名帳には「筑後国御井郡、名神大、豊比神社」とあり、かつては高良山と並び立つ大社であった。ここの縁起では「水沼君」の末裔、赤司氏は豊比神に仕え「河北惣大宮司」として永く続いたという。
  • 縁起では、神功皇后は三韓征伐後にここ、蚊田行宮に入り、豊比命を「道主貴(ちぬしのむち)」としてこの宮に留めて西海の鎮護としたという。
     また、天照大神の神勅によって宇佐、宇像、道中の三ヶ所に降り立った三女神のうち「道中」というのはここであり、景行天皇が筑後に巡狩した折、この宮に「田心姫命」を道主貴として祀ったとも。「田心姫命」は宗像大社の社伝では沖ノ島の沖津宮に祀られる。
     日本書紀に「即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり。」とある水沼君が祀る「宗像の三女神」とはこの縁起。
  • 宇佐宿禰が、

    三降命--菟狭津彦命--常津彦命--稚屋彦命--押人命--珠敷命    
    [註:菟狭津彦命=神武に一柱騰宮を作り献上した、宇佐国造の祖]

    の系譜を伝えている

    宇佐の神官家として知られる漆島公の系図では、多氏の系譜を下敷きにした憾があり、

    神武天皇--神八井耳命--彦八井耳命--武宇都彦命--武稲富命--武河上命--建久久知命--建男組命--建御阿久良命

    の様に伝えられている
  • 「阿蘇宮由来記」は記紀が伝えた系譜を踏襲し、阿蘇国造の系図を「神武天皇--神八井耳命--健磐龍命--速瓶玉命」のように綴っています(つまり、畿内の多氏と同族だと主張している)。しかし、この一方で『阿蘇家譜六』に含まれる「笹原系譜」は健磐龍を始祖としながらも、

    阿蘇大明神(健磐龍命)--国造大明神(速瓶玉命)--郡浦大明神--甲佐大明神(健男玉命)--健軍大明神(健緒組)--惟人命

    と言う内容で、阿蘇氏と健緒組が「直接的な姻戚(始祖と子孫)」であった可能性を示唆しています。また、阿蘇四社の一つに数えられている甲佐神社(上益城郡、肥後二の宮)では『健磐龍命の子である八井耳玉命』を主祭神とし、宇佐氏一族の麻生氏は「高皇産霊命--天活玉命(一云、伊久玉命)--天三降命--宇佐津彦命}という祖神系譜を伝えています。
  • 07/31編集されました
    肥(火)の君・健緒組と阿蘇氏は「天三降命(天津彦根命)と天日鷲翔矢命(少彦名命)」を祖先に持つ同族であり、宇佐国造家も同様であるという説?

    倭文連  神魂命の子、角凝魂命の男、伊佐布魂命の後なり。  「新撰姓氏録」摂津国神別     [註:伊佐布魂命は高木神と同神と見られる]
      
    天底立命--天背男命--天日鷲翔矢命--天羽雷命(一云う、武羽槌命)   倭文宿禰、美努宿禰、鳥取宿禰らの祖  「斎部宿禰本系帳」
      
    玉祖連     
    天背男命--櫛明玉命--天湯津彦命………飽速玉命
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